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弓裔

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 17 · 漢字 1,987字 · 朗読 7.9分

三国史記(三国時代の正史) 列伝 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1弓裔が捨てられる

弓裔,新羅人,姓金氏。考第四十七憲安王誼靖,母憲安王嬪御,失其姓名。或云四十八景文王膺廉之子。以五月五日,生於外家。其時屋上有素光,若長虹,上屬天。日官奏曰:「此兒以重午日生,生而有齒,且光焰異常,恐將來不利於國家,宜勿養之。」王勑中使抵其家殺之。使者取於襁褓中,投之樓下。乳婢竊捧之,誤以手觸,眇其一目。抱而逃竄,劬勞養育。年十餘歲,遊戱不止。其婢告之曰:「子之生也,見棄於國,予不忍,竊養,以至今日。而子之狂如此,必為人所知,則予與子俱不免,為之奈何?」弓裔泣曰:「若然,則吾逝矣,無為母憂。」便去世達寺,今之興教寺是也。祝髮為僧,自號善宗。及壯,不拘檢僧律軒輊,有膽氣。甞赴齋,行次有烏鳥銜物,落所持鉢中,視之牙籤,書「王」字,則秘而不言,頗自負。

弓裔は新羅の人で、姓は金氏である。父は四十七代目の憲安王の誼靖で、母は憲安王の後宮であるが、その姓と名は失われている。四十八代目の景文王の膺廉の子だともいう。

五月五日に母の家で生まれた。そのとき屋根の上に白い光があって、長い虹のようなものが上って天につながった。日官が申し上げた。「この子は重五の日に生まれ、生まれつき歯があり、また光と炎が尋常でありません。先々、国に利がないのではないかと恐れます。育てないのがよろしいでしょう。」

王は宮中の使いに勅して、その家に行って殺させた。使いは産着の中から取り出して、楼の下に投げた。乳母が密かに受けたが、誤って手が触れて、その一つの目を潰した。抱いて逃げて隠れ、苦労して育てた。

年が十いくつになっても遊びをやめなかったので、その乳母が告げた。「お前が生まれたとき国に捨てられたが、私は忍びなくて密かに育てて今日に至った。それなのにお前の狂った振る舞いがこのようでは、必ず人に知られる。そうなれば私もお前も共に免れられない。どうしたものか。」

弓裔は泣いて言った。「それならば、私が去って、母さんの憂いにならないようにします。」

すぐ世達寺に行った。今の興教寺がこれである。髪を剃って僧となり、自ら善宗と名づけた。

成長すると僧の戒律に縛られず、高いも低いも顧みず、胆気があった。あるとき斎に出かけたが、行く道で烏が物をくわえていて、持っていた鉢の中に落とした。見ると象牙の籌に「王」の字が書かれていた。すぐ隠して言わなかったが、ひそかに自ら誇りに思った。

2箕萱に身を投じる

見新羅衰季,政荒民散,王畿外州縣叛附相半,逺近羣盜蜂起蟻聚,善宗謂乗亂聚衆可以得志,以真聖王即位五年,大順二年辛亥,投竹州賊魁箕萱。箕萱侮慢,不禮善宗,鬱悒不自安,潜結箕萱麾下元會、申煊等為友。

新羅が衰えて末になり、政が荒れて民が散り、王畿の外の州と県は叛く者と付く者が半々で、遠近で多くの盗賊が蜂のように起こり蟻のように集まるのを見た。善宗は乱に乗じて衆を集めれば志を得られると思い、真聖王が位に即いて五年目の大順二年辛亥に、竹州の賊の頭の箕萱に身を投じた。

箕萱は侮り傲って善宗を礼で遇さなかったので、ふさいで自ら安んじられず、密かに箕萱の下にいた元会・申煊らと結んで友とした。

3梁吉のもとへ行く

景福元年壬子,投北原賊梁吉。吉善遇之,委任以事,遂分兵,使東略地。於是出宿雉岳山石南寺。行襲酒泉、奈城、鬱烏、御珍等縣,皆降之。

景福元年壬子、北原の賊の梁吉に身を投じた。梁吉はよく遇して事を任せ、ついに兵を分けて東の地を攻めさせた。

そこで出て雉岳山の石南寺に宿り、酒泉・奈城・鬱烏・御珍などの県を回って襲い、みな降らせた。

4自ら将軍となる

乾寧元年,入溟州,有衆三千五百人,分為十四隊,金大、黔毛、盺長、貴平、張一等為舍上。與士卒同甘苦勞逸,至於予奪,公而不私,是以衆心畏愛,推為將軍。於是擊破猪足、狌川、夫若、金城、鐵圓等城,軍聲甚盛。現浿西賊寇來降者衆多,善宗自以為衆大,可以開國稱君,始設內外官職。我太祖自松岳郡來投,便授鐵圓郡太守。

乾寧元年、溟州に入ると衆は三千五百人であった。分けて十四の隊とし、金大・黔毛・盺長・貴平・張一らを舎上とした。

士卒と甘いも苦いも、苦労も安楽も同じにし、与え奪うことにおいては公で私しなかった。これによって衆の心は畏れ愛して、推して将軍とした。

そこで猪足・狌川・夫若・金城・鉄圓などの城を攻め破ったので、軍の声はたいそう盛んであった。浿西の賊の群れで来て降る者がとても多かった。善宗は自ら衆が大きいと思い、国を開いて君と称するに足ると考えて、初めて内外の官職を設けた。

高麗の太祖が松岳郡から来て身を投じたので、すぐ鉄圓郡の太守を授けた。

夾注 1

舍上謂部長也。

舎上は部長をいう。

5松岳に都を定める

三年丙辰,攻取僧嶺、臨江兩縣。四年丁巳,仁物縣降。善宗謂松岳郡,漢北名郡,山水竒秀,遂定以為都。擊破孔巖、黔浦、穴口等城。時梁吉猶在北原,取國原等三十餘城有之。聞善宗地廣民衆,大怒,欲以三十餘城勁兵襲之。善宗潜認先擊,大敗之。

三年丙辰、僧嶺と臨江の二つの県を攻め取った。四年丁巳、仁物県が降った。

善宗は、松岳郡は漢水の北の名高い郡で、山と水が奇しく秀でているとして、ついに定めて都とした。孔巖・黔浦・穴口などの城を攻め破った。

そのとき梁吉はまだ北原にいて、国原など三十余城を取って持っていた。善宗の地が広く民が多いと聞いて大いに怒り、三十余城の強い兵で襲おうとした。善宗は密かに知って先に撃ち、大いに破った。

6八関会を初めて開く

光化元年戊午春二月,葺松岳城。以我太祖為精騎大監,伐楊州、見州。冬十一月,始作八關會。

光化元年戊午、春二月に松岳城を修めた。太祖を精騎大監として、楊州と見州を討った。冬十一月、初めて八関会を開いた。

7太祖に阿飡を与える

三年庚申,又命太祖伐廣州、忠州、唐城、青州、槐壤等,皆平之。以功授太祖阿飡之職。

三年庚申、また太祖に命じて広州・忠州・唐城・青州・槐壤などを討たせ、みな平らげた。功によって太祖に阿飡の職を授けた。

夾注 1

或云青川。

青州は、青川ともいう。

8自ら王と称する

天復元年辛酉,善宗自稱王,謂人曰:「徃者新羅請兵於唐,以破高勾麗,故平壤舊都,鞠為茂草。吾必報其讎。」蓋怨生時見棄,故有此言。甞南巡至興州浮石寺,見壁畫新羅王像,發劒擊之,其刃迹猶在。

天復元年辛酉、善宗は自ら王と称して、人々に言った。「昔、新羅は唐に兵を請うて高句麗を破ったので、平壌の旧都は茂った草の地となった。私は必ずその仇を報いる。」おそらく生まれたときに捨てられたのを恨んだので、この言葉があったのである。

かつて南を巡って興州の浮石寺に至り、壁に描かれた新羅王の像を見て、剣を抜いて撃った。その刃の跡が今もある。

9国号を摩震とする

天祐元年甲子,立國號為摩震,年號為武泰。始置廣評省,備員匡治奈、徐事、外書。又置兵部、大龍部、壽春部、奉賔部、義刑臺、納貨府、調位府、內奉省、禁書省、南廂壇、水壇、元鳳省、飛龍省、物藏省。又置史臺、植貨府、障繕府、珠淘省。又設正匡、元輔、大相、元尹、佐尹、正朝、甫尹、軍尹、中尹等品職。秋七月,移青州人戶一千入鐵圓城為京。伐取尙州等三十餘州縣,公州將軍弘竒來降。

天祐元年甲子、国号を立てて摩震とし、年号を武泰とした。

初めて広評省を置き、官員として匡治奈・徐事・外書を備えた。また兵部・大龍部・寿春部・奉賓部・義刑臺・納貨府・調位府・内奉省・禁書省・南廂壇・水壇・元鳳省・飛龍省・物蔵省を置いた。また史臺・植貨府・障繕府・珠淘省を置いた。また正匡・元輔・大相・元尹・佐尹・正朝・甫尹・軍尹・中尹などの品と職を設けた。

秋七月、青州の人千戸を移して鉄圓城に入れ、都とした。尚州など三十余の州県を討ち取ったので、公州の将軍の弘奇が来て降った。

夾注 20

今侍中。

匡治奈は、今の侍中である。

今侍郞。

徐事は、今の侍郎である。

今員外郞。

外書は、今の員外郎である。

今倉部。

大龍部は、今の倉部である。

今禮部。

寿春部は、今の礼部である。

今禮賔省。

奉賓部は、今の礼賓省である。

今刑部。

義刑臺は、今の刑部である。

今大府寺。

納貨府は、今の大府寺である。

今三司。

調位府は、今の三司である。

今都省。

内奉省は、今の都省である。

今秘書省。

禁書省は、今の秘書省である。

今將作監。

南廂壇は、今の将作監である。

今水部。

水壇は、今の水部である。

今翰林院。

元鳳省は、今の翰林院である。

今太僕寺。

飛龍省は、今の太僕寺である。

今少府監。

物蔵省は、今の少府監である。

掌習諸譯語。

史臺は、諸国の言葉を習うことを掌る。

掌栽植菓樹。

植貨府は、果樹を植え育てることを掌る。

掌修理城隍。

障繕府は、城と堀を修理することを掌る。

掌造成器物。

珠淘省は、器物を造ることを掌る。

10新羅を滅都と呼ばせる

天祐二年乙丑,入新京,修葺觀闕、樓臺,窮奢極侈。改武泰為聖冊元年。分定浿西十三鎮。平壤城主將軍黔用降,甑城赤衣、黃衣賊明貴等歸服。善宗以強盛自矜,意欲并呑,令國人呼新羅為滅都,凡自新羅來者,盡誅殺之。

天祐二年乙丑、新しい都に入って宮殿や楼臺を修め整え、奢りはこの上なく極まった。武泰を改めて聖冊元年とした。浿西の十三の鎮を分けて定めた。

平壌の城主の将軍の黔用が降り、甑城の赤い衣・黄色い衣の賊の明貴らが帰順した。

善宗は強く盛んであることを自ら誇り、あわせて呑み込もうという意があって、国の人に新羅を滅都と呼ばせ、およそ新羅から来る者はみな斬り殺した。

11自ら弥勒仏と称する

朱梁乾化元年辛未,改聖冊為水德萬歲元年,改國號為泰封。遣太祖率兵伐錦城等,以錦城為羅州。論功,以太祖為大阿飡、將軍。善宗自稱彌勒佛,頭戴金幘,身被方袍,以長子為青光菩薩,季子為神光菩薩。出則常騎白馬,以綵餙其鬃尾,使童男童女奉幡蓋、香花前導,又命比丘二百餘人梵唄隨後。又自述經二十餘卷,其言妖妄,皆不經之事。時或正坐講說,僧釋聰謂曰:「皆邪說恠談,不可以訓。」善宗聞之怒,以鐵推打殺之。

朱梁の乾化元年辛未、聖冊を改めて水徳万歳元年とし、国号を改めて泰封とした。

太祖を遣わして兵を率いて錦城などを討たせ、錦城を羅州とした。功を論じて太祖を大阿飡・将軍とした。

善宗は自ら弥勒仏と称し、頭に金の幘を着け、身に方袍をまとい、長男を青光菩薩、末子を神光菩薩とした。出かけるときは常に白い馬に乗り、彩りでその鬣と尾を飾り、童男童女に幡と蓋と香と花を奉じて前を導かせ、また比丘二百余人に命じて梵唄を唱えて後に従わせた。

また自ら経を二十余巻述べたが、その言葉は妖しく妄りで、みな理に合わない事であった。ときには正しく坐って講説したので、僧の釈聡が言った。「みな邪な説と怪しい談で、教えとすることはできない。」善宗は聞いて怒り、鉄の槌で打ち殺した。

12太祖が侍中となる

三年癸酉,以太祖為波珍飡、侍中。

三年癸酉、太祖を波珍飡・侍中とした。

13百船将軍

四年甲戌,改水德萬歲為政開元年。以太祖為百船將軍。

四年甲戌、水徳万歳を改めて政開元年とした。太祖を百船将軍とした。

14妻と二人の子を殺す

貞明元年,夫人康氏以王多行非法,正色諫之。王惡之曰:「汝與他人奸,何耶?」康氏曰:「安有此事?」王曰:「我以神通觀之。」以烈火熱鐵杵撞其陰殺之,及其兩兒。爾後多疑急怒,諸寮佐將吏,下至平民,無辜受戮者,頻頻有之,斧壤、鐵圓之人不勝其毒焉。

貞明元年、夫人の康氏は、王が法に外れた事を多く行うので、顔色を正して諫めた。王は憎んで言った。「お前はほかの人と姦通している。どういうことだ。」

康氏は言った。「どうしてそんな事がありましょう。」

王は言った。「私は神通で見た。」そして烈しい火で熱した鉄の杵でその陰を突いて殺し、その二人の子にまで及んだ。

この後は疑いが多く怒りが急で、諸々の官や将や吏から、下は平民に至るまで、罪なく殺される者がしばしばあったので、斧壤と鉄圓の人はその毒に堪えられなかった。

15鏡に現れた文

先是,有商客王昌瑾自唐來,寓鐵圓市廛。至貞明四年戊寅,於市中見一人,狀貌魁偉,鬢髮盡白,着古衣冠,左手持甆椀,右手持古鏡,謂昌瑾曰:「能買我鏡乎?」昌瑾即以米換之。其人以米俵街巷乞兒,而後不知去處。昌瑾懸其鏡於壁上,日映鏡面,有細字書,讀之若古詩。其畧曰:「上帝降子於辰馬,先操鷄,後搏鴨。於巳年中,二龍見,一則藏身青木中,一則顯形黑金東。」昌瑾初不知有文,及見之,謂非常,遂告于王。王命有司與昌瑾物色,求其鏡主不見,唯於㪍颯寺佛堂有鎮星塑像,如其人焉。王嘆異久之,命文人宋含弘、白卓、許原等解之。含弘等相謂曰:「上帝降子於辰馬者,謂辰韓、馬韓也。二龍見,一藏身青木,一顯形黑金者,青木,松也,松岳郡人以龍為名者之孫,今波珍飡、侍中之謂歟?黑金,鐵也,今所都鐵圓之謂也。

これより先、商人の王昌瑾が唐から来て、鉄圓の市の店に寄り住んでいた。

貞明四年戊寅に至って、市の中で一人の人を見たが、姿かたちが大きく偉く、鬢と髪がみな白く、古い衣と冠を着け、左手に瓷の椀を持ち、右手に古い鏡を持って、昌瑾に言った。「私の鏡を買わないか。」昌瑾はすぐ米で換えた。その人は米を街の乞食の子らに分け与え、その後は行方がわからなかった。

昌瑾がその鏡を壁に掛けておくと、日が鏡の面に映って細かい字が書かれているのが見え、読むと古い詩のようであった。その大略はこうである。「上帝が子を辰馬に降す / 先に鶏を操り、後に鴨を搏つ / 巳の年のうちに二つの竜が現れ / 一つは身を青木の中に蔵し / 一つは形を黒金の東に顕す。」

昌瑾は初めは文があると知らなかったが、見てからは尋常でないと思い、ついに王に告げた。王は役所に命じて昌瑾とともに人相を探らせ、その鏡の主を求めさせたが見つからず、ただ㪍颯寺の仏堂に鎮星の塑像があって、その人のようであった。

王は嘆き怪しむことが久しく、文人の宋含弘・白卓・許原らに命じてこれを解かせた。

含弘らは互いに言った。「上帝が子を辰馬に降すとは、辰韓と馬韓をいう。二つの竜が現れ、一つは身を青木に蔵し、一つは形を黒金に顕すとは、青木は松であり、松岳郡の人で竜を名とした者の孫、つまり今の波珍飡・侍中をいうのか。黒金は鉄であり、今都としている鉄圓をいう。

16諸将が太祖を推す

今主上初興於此,終滅於此之驗也。先操鷄,後搏鴨者,波珍飡、侍中先得鷄林,後收鴨綠之意也。」宋含弘等相謂曰:「今主上虐亂如此,吾輩若以實言,不獨吾輩為葅醢,波珍飡亦必遭害。」廼飾辭告之。王凶虐自肆,臣寮震懼,不知所措。夏六月,將軍弘述、白玉、三能山、卜沙貴,此,洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜知謙之少名也,四人密謀,夜詣太祖私第,言曰:「今主上淫刑以逞,殺妻戮子,誅夷臣寮,蒼生塗炭,不自聊生。自古廢昏立明,天下之大義也。請公行湯、武之事。」太祖作色,拒之曰:「吾以忠純自許,今雖暴亂,不敢有二心。夫以臣替君,斯謂革命。予實否德,敢效殷、周之事乎?」諸將曰:「時乎不再來,難遭而易失。天與不取,反受其咎。今政亂國危,民皆疾視其上如仇讐。

今の主上が初めここで興って、ついにここで滅びるという証しである。先に鶏を操り、後に鴨を搏つとは、波珍飡・侍中が先に鶏林を得て、後に鴨緑を収めるという意である。」

宋含弘らは互いに言った。「今の主上の虐さと乱れはこのようだ。我らがもしありのままに言えば、我らが塩辛にされるだけでなく、波珍飡もきっと害に遭う。」そこで言葉を飾って告げた。

王は凶悪と虐さを自ら勝手にしたので、臣や官は震え恐れて、どうすればよいかわからなかった。

夏六月、将軍の弘述・白玉・三能山・卜沙貴 — これは洪儒・裴玄慶・申崇謙・卜知謙の幼い名である — の四人が密かに謀り、夜に太祖の私邸に行って言った。「今の主上は過ぎた刑で思いを満たし、妻を殺し子を殺し、臣や官を斬り滅ぼして、民は塗炭に苦しんで自ら生きていけません。古くから、昏い者を廃して明らかな者を立てるのは、天下の大義です。どうか公は湯王と武王の事を行ってください。」

太祖は顔色を変えて拒んで言った。「私は忠と純で自ら期した。今は暴く乱れていても、敢えて二心を持つことはできない。およそ臣として君に代わるのを革命という。私はまことに徳がない。敢えて殷と周の事に倣おうか。」

諸将は言った。「時は二度来ません。会うのは難しく、失うのは易いのです。天が与えるのに取らなければ、かえってその咎を受けます。今は政が乱れ国が危うく、民はみな上を仇のように憎んで見ています。

17弓裔が滅びる

今之德望,未有居公之右者。況王昌瑾所得鏡文如彼,豈可雌伏,取死獨夫之手乎?」夫人柳氏聞諸將之議,廼謂太祖曰:「以仁伐不仁,自古而然。今聞衆議,妾猶發憤,況大丈夫乎?今羣心忽變,天命有歸矣。」手提甲領,進太祖,諸將扶衛太祖出門,令前唱曰:「王公已舉義旗!」於是前後奔走來隨者不知其幾人。又有先至宮城門皷噪以待者,亦一萬餘人。王聞之,不知所圖,廼微服逃入山林,尋為斧壤民所害。弓裔起自唐大順二年,至朱梁貞明四年,凡二十八年而滅。

今の徳望では、公の右に出る者はありません。まして王昌瑾が得た鏡の文があのようなのですから、どうして雌のように伏して、独り者の手に死を取るのですか。」

夫人の柳氏は諸将の議を聞いて、太祖に言った。「仁で不仁を伐つのは、古くからそうです。今、衆の議を聞いて、私でさえ憤りが起こります。まして大丈夫ならなおさらでしょう。今、人々の心が急に変わり、天命は帰するところがあります。」そして自ら鎧の襟を取って太祖に進めた。

諸将は太祖を扶け守って門を出て、前で唱えさせた。「王公がすでに義の旗を挙げられた。」

そこで前後から走って来て従う者は何人かわからず、また先に宮城の門に至って鼓を打ち喚いて待つ者も、やはり一万余人であった。

王はこれを聞いて図るべきことがわからず、そこで微服で山林に逃げ入ったが、やがて斧壤の民に害された。

弓裔は唐の大順二年に起こり、朱梁の貞明四年に至った。およそ二十八年で滅びた。