賞譽 (ほめて認める)世説新語 賞譽第八
1周子居のような人は、まことに国を治める器だ
陳仲舉嘗嘆曰:「若周子居者,真治國之器!譬諸寶劍,則世之干將。」
陳仲挙はかつて感嘆して言った。「周子居のような人は、まことに国を治める器だ。名剣にたとえれば、当代の干将である。」
夾注 2
汝南先賢傳曰:「周乘字子居,汝南安城人。天姿聰朗,高峙嶽立,非陳仲舉、黃叔度之儔則不交也。仲舉嘗歎曰:『周子居者,真治國之器也。』為太山太守,甚有惠政。」
『汝南先賢伝』に言う、「周乗は字は子居、汝南安城の人である。天与の資質は聡明で明朗、高く聳えて山岳のように立ち、陳仲挙や黄叔度の類でなければ交わらなかった。仲挙はかつて感嘆して言った、『周子居という人は、まことに国を治める器だ』。太山太守となり、たいそう恵み深い政治をした」。
吳越春秋曰:「吳王闔閭請干將作劍。干將者,吳人,其妻曰莫邪。干將采五山之精,六金之英,候天地,伺陰陽,百神臨視,而金鐵之精未流。夫妻乃翦髮及爪而投之鑪中,金鐵乃濡,遂成二劍。陽曰『干將』,而作龜文,陰曰『莫邪』,而作漫理。干將匿其陽,出其陰以獻闔閭,闔閭甚寶重之。」
『呉越春秋』に言う、「呉王の闔閭が干将に剣を作るよう請うた。干将は呉の人で、その妻は莫邪といった。干将は五つの山の精と六つの金の英を採り、天地を窺い、陰陽を伺い、百神が降りて見守ったが、金鉄の精はまだ流れなかった。夫妻はそこで髪と爪を切って炉の中に投じると、金鉄はようやく溶け、ついに二つの剣ができた。陽の剣を『干将』と呼んで亀の文を施し、陰の剣を『莫邪』と呼んで漫理の文を施した。干将はその陽の剣を隠し、陰の剣を出して闔閭に献じ、闔閭はこれをたいそう宝として重んじた」。
2さやさやと、強い松の下を吹く風のようだ
世目李元禮:「謖謖如勁松下風。」
世間は李元礼を評した。「さやさやと、強い松の下を吹く風のようだ。」
夾注 1
李氏家傳曰:「膺嶽峙淵清,峻貌貴重。華夏稱曰:『潁川李府君,頵頵如玉山。汝南陳仲舉,軒軒若千里馬。南陽朱公叔,飂飂如行松柏之下。』」
『李氏家伝』に言う、「膺は山のように聳え淵のように清く、峻厳な姿で貴く重々しかった。中華の人は称えて言った、『潁川の李府君は堂々として玉の山のようだ。汝南の陳仲挙は勢いよく千里の馬のようだ。南陽の朱公叔は涼やかで、松や柏の下を歩くようだ』」。
3平輿の淵には二匹の竜がいる
謝子微見許子將兄弟曰:「平輿之淵,有二龍焉。」見許子政弱冠之時,嘆曰:「若許子政者,有榦國之器。正色忠謇,則陳仲舉之匹;伐惡退不肖,范孟博之風。」
謝子微は許子将の兄弟を見て言った。「平輿の淵には二匹の竜がいる。」
許子政の二十歳のころを見て、感嘆して言った。「許子政のような人には、国の幹となる器がある。顔色を正して忠実に直言するところは陳仲挙と肩を並べ、悪を討ち不肖の者を退けるところは范孟博の風格だ。」
夾注 2
汝南先賢傳曰:「謝甄字子微,汝南邵陵人。明識人倫,雖郭林宗不及甄之鑒也。見許子將兄弟弱冠時,則曰:『平輿之淵有二龍。』仕為豫章從事。許虔字子政,平輿人。體尚高潔,雅正寬亮,謝子微見虔兄弟歎曰:『若許子政者,榦國之器也。』虔弟劭,聲未發時,時人以謂不如虔。虔恆撫髀稱劭,自以為不及也。釋褐為郡功曹,黜姦廢惡,一郡肅然。年三十五卒。」海內先賢傳曰:「許劭字子將,虔弟也。山峙淵停,行應規表。邵陵謝子微高才遠識,見劭十歲時,歎曰:『此乃希世之偉人也。』初,劭拔樊子昭於市肆,出虞承賢於客舍,召李叔才於無聞,擢郭子瑜於小吏。廣陵徐孟本來臨汝南,聞劭高名,召功曹。時袁紹以公族為濮陽長,棄官還,副車從騎,將入郡界,乃歎曰:『許子將秉持清格,豈可以吾輿服見之邪?』遂單馬而歸。辟公府掾,敦辟皆不就。避地江南,卒於豫章也。」
『汝南先賢伝』に言う、「謝甄は字は子微、汝南邵陵の人である。人の品を明らかに見分け、郭林宗でも甄の鑑識には及ばなかった。許子将の兄弟の二十歳のころを見て、すぐに『平輿の淵には二匹の竜がいる』と言った。仕えて豫章の従事となった。許虔は字は子政、平輿の人である。身の処し方は高潔を尚び、雅正で寛大・明朗であった。謝子微は虔の兄弟を見て感嘆し、『許子政のような人は、国の幹となる器だ』と言った。虔の弟の劭は、まだ名の出ないころ、当時の人は虔に及ばないと思っていた。虔はいつも腿を叩いて劭を称え、自分は及ばないと言った。劭は褐衣を脱いで郡の功曹となり、姦を退け悪を廃したので、郡中が粛然とした。三十五歳で没した」。『海内先賢伝』に言う、「許劭は字は子将、虔の弟である。山のように聳え淵のように静まり、行いは規矩に適っていた。邵陵の謝子微は高い才と遠い識見で、劭の十歳のころを見て感嘆し、『これこそ世に稀な偉人だ』と言った。初め、劭は樊子昭を市の店先から抜き、虞承賢を旅宿から引き出し、李叔才を無名のうちから招き、郭子瑜を小吏から擢いた。広陵の徐孟本が汝南に臨むと、劭の高い名を聞いて功曹に召した。そのころ袁紹は公族として濮陽の長であったが、官を捨てて帰る途中、副車と従騎を連れて郡境に入ろうとして、こう感嘆した、『許子将は清い格を守っている。どうして私のこの車や衣装で会えようか』。そして単騎で帰った。公府の掾に辟され、手厚く招かれたが、いずれも就かなかった。江南に難を避け、豫章で没した」。
張璠漢紀曰:「范滂字孟博,汝南伊陽人。為功曹,辟公府掾。升車攬轡,有澄清天下之志。百城聞滂高名,皆解印綬去。為黨事見誅。」
張璠の『漢紀』に言う、「范滂は字は孟博、汝南伊陽の人である。功曹となり、公府の掾に辟された。車に昇って手綱を取ると、天下を澄み清めようという志があった。百の城は滂の高い名を聞いて、みな印綬を解いて去った。党の事件で誅された」。
4雲中の白鶴は、燕や雀を捕る網で捕らえられるものではない
公孫度目邴原:所謂雲中白鶴,非燕雀之網所能羅也。
公孫度は邴原を評して、いわゆる雲中の白鶴であり、燕や雀を捕る網で捕らえられるものではないと言った。
夾注 1
魏書曰:「度字叔濟,襄平人。累遷冀州刺史、遼東太守。」邴原別傳曰:「原字根矩,東管朱虛人。少孤,數歲時過書舍而泣。師問曰:『童子何泣也?』原曰:『凡得學者,有親也。一則願其不孤,二則羡其得學,中心感傷,故泣耳。』師惻然曰:『苟欲學,不須資也。』於是就業。長則博覽洽聞,金玉其行。知世將亂,避地遼東。公孫度厚禮之。中國既寧,欲還鄉里,為度禁絕。原密自治嚴,謂部落曰:『移比近郡,以觀其意。』皆曰:『樂移。』原舊有捕魚大船,請村落,皆令熟醉,因夜去之。數日,度乃覺,吏欲追之。度曰:『邴君所謂雲中白鶴,非鶉鷃之網所能羅也。』魏王辟祭酒,累遷五官中郎長史。」
『魏書』に言う、「度は字は叔済、襄平の人である。官を重ねて冀州刺史・遼東太守に至った」。『邴原別伝』に言う、「原は字は根矩、東管朱虚の人である。幼くして父を失い、数歳のころ、書舎の前を通って泣いた。師が尋ねた、『童子よ、どうして泣くのか』。原は言った、『およそ学べる者には親があります。一つにはその子が孤児でないことを願い、二つにはその子が学べることを羨み、心が痛んだので泣いただけです』。師は痛ましく思って言った、『本当に学びたいのなら、月謝はいらない』。そこで学業に就いた。成長すると広く読み多く聞き、その行いは金玉のようであった。世が乱れようとしているのを知り、遼東に難を避けた。公孫度は彼を厚く礼遇した。中原が安らぐと郷里に帰ろうとしたが、度に止められた。原はひそかに自分で支度を整え、村里に言った、『近くの郡へ移って、彼の意を見よう』。みな『移るのはよい』と言った。原には以前から漁の大船があったので、村里を招いてみな酔いつぶれさせ、その夜に去った。数日して度は気づき、吏は追おうとした。度は言った、『邴君はいわゆる雲中の白鶴だ。鶉を捕る網で捕らえられるものではない』。魏王は祭酒に辟し、官を重ねて五官中郎長史に至った」。
5裴楷は清通、王戎は簡要である
鍾士季目王安豐:阿戎了了解人意。謂裴公之談,經日不竭。吏部郎闕,文帝問其人於鍾會。會曰:「裴楷清通,王戎簡要,皆其選也。」於是用裴。
鍾士季は王安豊を評して、阿戎は明晰で人の意をよく解すると言った。裴公の談は、日を経ても尽きないと言った。
吏部郎の席が空き、文帝は鍾会にその人を尋ねた。
鍾会は言った。「裴楷は清通、王戎は簡要です。いずれもその人選に当たります。」
そこで裴楷を用いた。
夾注 3
王隱晉書曰:「戎少清明曉悟。」
王隠の『晋書』に言う、「戎は若くして清く明らかで、よく悟った」。
裴頠已見。
裴頠はすでに見えている。
按諸書皆云:鍾會薦裴楷、王戎於晉文王,文王辟以為掾,不聞為吏部郎。
按ずるに、諸書はみな、鍾会が裴楷と王戎を晋の文王に薦め、文王は彼らを辟して掾としたと言い、吏部郎になったとは聞かない。
6二十年の後、この二人の賢者はきっと吏部尚書になるだろう
王濬沖、裴叔則二人,總角詣鍾士季。須臾去後,客問鍾曰:「向二童何如?」鍾曰:「裴楷清通,王戎簡要。後二十年,此二賢當為吏部尚書,冀爾時天下無滯才。」
王濬沖と裴叔則の二人が、総角の少年のころ鍾士季を訪ねた。
しばらくして帰った後、客が鍾に尋ねた。「さきほどの二人の子はどうですか。」
鍾は言った。「裴楷は清通、王戎は簡要だ。二十年の後、この二人の賢者はきっと吏部尚書になるだろう。そのときには天下に埋もれた才がないことを願う。」
夾注 1
晉陽秋曰:「戎為兒童,鍾會異之。」
『晋陽秋』に言う、「戎が子どものころ、鍾会は彼を異とした」。
7後から来る者の領袖は裴秀だ
諺曰:「後來領袖有裴秀。」
諺に言う、「後から来る者の領袖は裴秀だ」。
夾注 1
虞預晉書曰:「秀字季彥,河東聞喜人。父潛,魏太常。秀有風操,八歲能著文。叔父徽,有聲名。秀年十餘歲,有賓客詣徽,出則過秀。時人為之語曰:『後進領袖有裴秀。』大將軍辟為掾。父終,推財與兄。年二十五,遷黃門侍郎。晉受禪,封鉅鹿公。後累遷左光祿、司空。四十八薨,謚元公,配食宗廟。」
虞預の『晋書』に言う、「秀は字は季彦、河東聞喜の人である。父の潜は魏の太常である。秀は風格と節操があり、八歳で文を書けた。叔父の徽は声名があった。秀が十余歳のころ、賓客が徽を訪ねると、帰りがけに秀のところへ寄った。当時の人はこれを『後進の領袖は裴秀だ』と言った。大将軍が辟して掾とした。父が亡くなると、財を譲って兄に与えた。二十五歳で黄門侍郎に遷った。晋が禅を受けると、鉅鹿公に封じられた。後に官を重ねて左光禄・司空に至った。四十八歳で薨じ、諡は元公、宗廟に配食された」。
8山巨源に会うと、山に登って下を見下ろすようで、ひそやかに深く遠い
裴令公目夏侯太初:「肅肅如入廊廟中,不脩敬而人自敬。」一曰:「如入宗廟,琅琅但見禮樂器。見鍾士季,如觀武庫,但覩矛戟。見傅蘭碩,江廧靡所不有。見山巨源,如登山臨下,幽然深遠。」
裴令公は夏侯太初を評して言った。「粛然として朝廟の中に入ったようで、敬いを作らなくとも人が自然と敬う。」
別の伝えでは、「宗廟に入ったようで、朗々として礼楽の器ばかりが目に入る。鍾士季に会うと、武器庫を見るようで、矛と戟ばかりが目に入る。傅蘭碩に会うと、川沿いの垣のように、ないものがない。山巨源に会うと、山に登って下を見下ろすようで、ひそやかに深く遠い」と言う。
夾注 2
禮記曰:「周豐謂魯哀公曰:『宗廟社稷之中,未施敬而民自敬。』」
『礼記』に言う、「周豊は魯の哀公に言った、『宗廟社稷の中では、敬いを施さなくとも民が自然と敬います』」。
玄、會、嘏、濤,並已見上。
玄・会・嘏・濤は、いずれもすでに上に見えている。
9羊叔子がどうして顔子に劣るものか
羊公還洛,郭奕為野王令。羊至界,遣人要之。郭便自往。既見,嘆曰:「羊叔子何必減郭太業!」復往羊許,小悉還,又嘆曰:「羊叔子去人遠矣!」羊既去,郭送之彌日,一舉數百里,遂以出境免官。復嘆曰:「羊叔子何必減顏子!」
羊公が洛陽へ帰るとき、郭奕は野王令であった。
羊公が境に着いて人を遣わして彼を招くと、郭奕はすぐ自分で出向いた。
会ってみて、感嘆した。「羊叔子がどうして郭太業に劣るものか。」
また羊公のもとへ行き、少し分かって帰ると、また感嘆した。「羊叔子は人よりはるかに先を行っている。」
羊公が去ると、郭奕は一日かけて送り、一息に数百里を行き、ついに境を出たとして官を免じられた。
また感嘆した。「羊叔子がどうして顔子に劣るものか。」
夾注 1
晉諸公贊曰:「奕字泰業,太原陽曲人。累世舊族。奕有才望,歷雍州刺史、尚書。
『晋諸公賛』に言う、「奕は字は泰業、太原陽曲の人である。代々の旧家であった。奕は才と評判があり、雍州刺史・尚書を歴任した」。
10璞玉や渾金のようで、誰もがその宝を敬うが、その器に名を付けられない
王戎目山巨源:「如璞玉渾金,人皆欽其寶,莫知名其器。」
王戎は山巨源を評して言った。「璞玉や渾金のようで、人はみなその宝を敬うが、その器に名を付けられない。」
夾注 1
顧愷之畫贊曰:「濤無所標明,淳深淵默,人莫見其際,而其器亦入道。故見者莫能稱謂,而服其偉量。」
顧愷之の『画賛』に言う、「濤は表立って明らかにするところがなく、淳く深く淵のように黙し、人はその際を見られなかったが、その器もまた道に入っていた。だから見る者は呼び名を付けられず、それでもその偉大な度量に服した」。
11従兄は亡くなっていない
羊長和父繇,與太傅祜同堂相善,仕至車騎掾。蚤卒。長和兄弟五人,幼孤。祜來哭,見長和哀容舉止,宛若成人,迺嘆曰:「從兄不亡矣!」
羊長和の父の繇は、太傅の祜と従兄弟で仲が良く、官は車騎掾に至ったが、早く没した。
長和の兄弟五人は、幼くして父を失った。祜が来て哭したが、長和の哀しむ様子も振る舞いも、まるで大人のようであるのを見て、こう感嘆した。「従兄は亡くなっていない。」
夾注 1
羊氏譜曰:「繇字堪甫,太山人。祖續,漢太尉,不拜。父祕,京兆太守。繇歷車騎掾,娶樂國禎女,生五子:乘、洽、式、亮、悅也。」
『羊氏譜』に言う、「繇は字は堪甫、太山の人である。祖父の続は漢の太尉であったが、任を受けなかった。父の祕は京兆太守である。繇は車騎掾を歴任し、楽国禎の娘を娶って五子、乗・洽・式・亮・悦を生んだ」。
12清らかで真率、欲が少なく、万物も彼を動かせない
山公舉阮咸為吏部郎,目曰:「清真寡欲,萬物不能移也。」
山公は阮咸を吏部郎に推挙し、評して言った。「清らかで真率、欲が少なく、万物も彼を動かせない。」
夾注 1
名士傳曰:「咸字仲容,陳留人,籍兄子也。任達不拘,當世皆怪其所為。及與之處,少嗜欲,哀樂至到,過絕於人,然後皆忘其向議。為散騎侍郎。山濤舉為吏部,武帝不用。太原郭奕見之心醉,不覺歎服。解音,好酒以卒。」山濤啟事曰:「吏部郎史曜出處缺,當選。濤薦咸曰:『真素寡欲,深識清濁,萬物不能移也。若在官人之職,必妙絕於時。』詔用陸亮。」晉陽秋曰:「咸行已多違禮度。濤舉以為吏部郎,世祖不許。」竹林七賢論曰:「山濤之舉阮咸,固知上不能用,蓋惜曠世之俊,莫識其真故耳。夫以咸之所犯,方外之意,稱其清真寡欲,則跡外之意自見耳。」
『名士伝』に言う、「咸は字は仲容、陳留の人で、籍の兄の子である。任意に振るまって拘らず、当世はみなその行いを怪しんだ。ところが共に暮らしてみると、嗜欲が少なく、哀しみも楽しみも極まって人を越えており、その後はみな以前の評を忘れた。散騎侍郎となった。山濤が吏部に推挙したが、武帝は用いなかった。太原の郭奕は彼に会って心を奪われ、思わず感嘆して服した。音律を解し、酒を好んで没した」。『山公啓事』に言う、「吏部郎の史曜が出て席が空き、選ぶべきことになった。濤は咸を薦めて言った、『真率で素朴、欲が少なく、清濁を深く見分け、万物も彼を動かせません。もし人を司る職に在れば、必ず当代に妙絶するでしょう』。詔して陸亮を用いた」。『晋陽秋』に言う、「咸は行いに礼の度を違えることが多かった。濤は挙げて吏部郎にしようとしたが、世祖は許さなかった」。『竹林七賢論』に言う、「山濤が阮咸を挙げたのは、もとより上が用いられないと知りながら、世に稀な俊才をその真を知る者がないのを惜しんだからにすぎない。咸の犯したところから見れば方外の意であるのに、その清らかで真率、欲が少ないことを称えたのだから、跡の外の意がおのずと表れている」。
13漢の元帝以来、このような人はいなかった
王戎目阮文業:「清倫有鑒識,漢元以來,未有此人。」
王戎は阮文業を評して言った。「清らかな品位と鑑識があり、漢の元帝以来、このような人はいなかった。」
夾注 1
杜篤新書曰:「阮武字文業,陳留尉氏人。父諶,侍中。武闊達博通,淵雅之士。」陳留志曰:「武,魏末河清太守。族子籍,年總角未知名,武見而偉之,以為勝己。知人多此類。著書十八篇,謂之阮子,終於家。」郭泰友人宋子俊稱泰:「自漢元以來,未有林宗之匹。」
杜篤の『新書』に言う、「阮武は字は文業、陳留尉氏の人である。父の諶は侍中である。武は闊達で博く通じ、淵雅な士であった」。『陳留志』に言う、「武は魏の末の河清太守である。族子の籍が総角の年でまだ名を知られていないころ、武は見て偉として、自分より勝ると考えた。人を見抜くことが多くこの類であった。書十八篇を著して『阮子』といい、家で没した」。郭泰の友人の宋子俊は泰を称えて、「漢の元帝以来、林宗に匹敵する者はいない」と言った。
14王戎は簡約を尚び、裴楷は清通である
武元夏目裴、王曰:「戎尚約,楷清通。」
武元夏は裴と王を評して言った。「王戎は簡約を尚び、裴楷は清通である。」
夾注 1
虞預晉書曰:「武陔字元夏,沛國竹邑人。父周,魏光祿大夫。陔及二弟歆、茂皆總角見稱,並有品望,鄉人諸父,未能覺其多少。時同郡劉公榮名知人,嘗造周,周見其三子。公榮曰:『君三子皆國士。元夏器量最優,有輔佐之風,力仕宦,可為亞公。叔夏、季夏不減常伯納言也。』陔至左僕射。」
虞預の『晋書』に言う、「武陔は字は元夏、沛国竹邑の人である。父の周は魏の光禄大夫である。陔と二人の弟の歆・茂はみな総角のころから称えられ、そろって品位と評判があったが、郷里の人や父老たちはその優劣を見分けられなかった。そのころ同郡の劉公栄が人を見抜くことで名があり、かつて周を訪ねると、周はその三人の子を見せた。公栄は言った、『あなたの三人の子はみな国士です。元夏は器量が最も優れ、輔佐の風格があります。励んで仕官すれば、公に次ぐ者となれましょう。叔夏と季夏も常伯や納言に劣りません』。陔は左僕射に至った」。
15大きな建物に使えば、棟や梁としての用がある
庾子嵩目和嶠:「森森如千丈松,雖磊砢有節目,施之大廈,有棟梁之用。」
庾子嵩は和嶠を評して言った。「森々として千丈の松のようだ。でこぼこと節や瘤はあるが、大きな建物に使えば、棟や梁としての用がある。」
夾注 1
晉諸公贊曰:「嶠常慕其舅夏侯玄為人,故於朝士中峨然不群,時類憚其風節。」
『晋諸公賛』に言う、「嶠はいつもその母方の叔父の夏侯玄の人柄を慕っていたので、朝廷の士の中で高く聳えて群を抜き、当時の人々はその風格と節操を憚った」。
16おのずと風塵の外の存在である
王戎云:「太尉神姿高徹,如瑤林瓊樹,自然是風塵外物。」
王戎は言った。「太尉は神姿が高く澄み、瑶の林、瓊の樹のようだ。おのずと風塵の外の存在である。」
夾注 1
名士傳曰:「夷甫天形奇特,明秀若神。」八王故事曰:「石勒見夷甫,謂長史孔萇曰:『吾行天下多矣!未嘗見如此人,當可活不?』萇曰:『彼晉三公,不為我用。』勒曰:『雖然,要不可加以鋒刃也。』夜使推牆殺之。」
『名士伝』に言う、「夷甫は天与の姿が奇特で、明らかに秀でて神のようであった」。『八王故事』に言う、「石勒は夷甫に会い、長史の孔萇に言った、『私は天下を多く歩いてきたが、まだこのような人を見たことがない。生かしておけるだろうか』。萇は『あれは晋の三公です。我々には用いられません』と言った。勒は『そうであっても、要するに刃を加えてはならない』と言い、夜に塀を押し倒して彼を殺させた」。
17家に名士がいたのに、三十年のあいだ知らなかった
王汝南既除所生服,遂停墓所。兄子濟每來拜墓,略不過叔,叔亦不候。濟脫時過,止寒溫而已。後聊試問近事,答對甚有音辭,出濟意外,濟極惋愕。仍與語,轉造精微。濟先略無子姪之敬,既聞其言,不覺懍然,心形俱肅。遂留共語,彌日累夜。濟雖雋爽,自視缺然,乃喟然嘆曰:「家有名士,三十年而不知!」濟去,叔送至門。濟從騎有一馬,絕難乘,少能騎者。濟聊問叔:「好騎乘不?」曰:「亦好爾。」濟又使騎難乘馬,叔姿形既妙,回策如縈,名騎無以過之。濟益嘆其難測,非復一事。既還,渾問濟:「何以暫行累日?」濟曰:「始得一叔。」渾問其故?濟具嘆述如此。渾曰:「何如我?」濟曰:「濟以上人。」武帝每見濟,輒以湛調之曰:「卿家痴叔死未?」濟常無以答。既而得叔,後武帝又問如前,濟曰:「臣叔不痴。」稱其實美。帝曰:「誰比?」濟曰:「山濤以下,魏舒以上。」於是顯名。年二十八,始宦。
王汝南は実の親の喪服を脱ぐと、そのまま墓所に留まった。
兄の子の済は墓に参りに来るたび、ほとんど叔父のもとへ寄らず、叔父もまた見舞わなかった。
済がたまに寄っても、挨拶を交わすだけであった。
後に試しに近ごろの事を尋ねてみると、その答えには実に音調も言葉もあり、済の思いの外であったので、済はひどく驚き呆れた。
そのまま語り合うと、話はいよいよ精微なところへ進んだ。済は初めはほとんど甥としての敬いがなかったが、その言葉を聞いてからは、思わず畏れを覚え、心も体もともに引き締まった。
そこで留まって語り合い、一日をかけ、幾夜も重ねた。
済は俊秀で爽やかであったが、自分を見れば足らぬと感じ、こう深く嘆いた。「家に名士がいたのに、三十年のあいだ知らなかった。」
済が去るとき、叔父は門まで送った。済の従騎に一頭の馬がいて、きわめて乗りにくく、乗れる者は少なかった。
済は試しに叔父に尋ねた。「馬に乗るのはお好きですか。」
言った。「それも好きだ。」
済はそこで乗りにくい馬に乗らせたところ、叔父の姿も形もすでに見事で、鞭を返すさまは糸を巻くようで、名騎手でもこれに勝てなかった。
済はますますその測りがたさに感嘆したが、それは一つの事にとどまらなかった。
帰ると、渾は済に尋ねた。「ちょっと行くと言って、どうして何日もかかったのか。」
済は言った。「はじめて叔父を一人得ました。」
渾がその理由を尋ねると、済は細かに感嘆して、このように述べた。
渾は言った。「私と比べてどうだ。」
済は言った。「私より上の人です。」
武帝は済を見るたびに、湛を持ち出してからかって言った。「君の家の痴れた叔父はもう死んだか。」
済はいつも答えようがなかった。しかし叔父を得た後、武帝がまた前のように尋ねると、済は言った。「臣の叔父は痴れてはおりません。」
その真の美点を称えた。
帝は言った。「誰に比べられる。」
済は言った。「山濤より下、魏舒より上です。」
こうして名が現れた。二十八歳で初めて仕官した。
夾注 2
鄧粲晉紀曰:「王湛字處沖,太原人。隱德,人莫之知,雖兄弟宗族,亦以為癡,唯父昶異焉。昶喪,居墓次,兄子濟往省湛,見床頭有周易,謂湛曰:『叔父用此何為?頗曾看不?』湛笑曰:『體中佳時,脫復看耳。今日當與汝言。』因共談易。剖析入微,妙言奇趣,濟所未聞,歎不能測。濟性好馬,而所乘馬駿駛,意甚愛之。湛曰:『此雖小駛,然力薄不堪苦。近見督郵馬,當勝此,但養不至耳。』濟取督郵馬穀食十數日,與湛試之。湛未嘗乘馬,卒然便馳騁,步驟不異於濟,而馬不相勝。湛曰:『今直行車路,何以別馬勝不?唯當就蟻封耳!』於是就蟻封盤馬,果倒踣,其俊識天才乃爾。」
鄧粲の『晋紀』に言う、「王湛は字は処沖、太原の人である。徳を隠していたので人は彼を知らず、兄弟や一族でさえ痴れ者だと思い、ただ父の昶だけが彼を異としていた。昶の喪に墓の傍らに住んでいたが、兄の子の済が湛を見舞いに行き、床の頭に『周易』があるのを見て、湛に言った、『叔父上はこれを何にお使いですか。少しはお読みになったことがあるのですか』。湛は笑って言った、『体の調子の良いときに、ふと取り出して読むだけだ。今日はお前と話そう』。そこで共に『易』を語った。剖き分けて微妙に入り、妙なる言葉と奇なる趣は済の聞いたことのないもので、感嘆して測りきれなかった。済は性質として馬を好み、乗っていた馬は駿足で、心からこれを愛していた。湛は言った、『これは少し速いが、力が薄くて苦に堪えない。近ごろ督郵の馬を見たが、これに勝るはずだ。ただ養いが行き届いていないだけだ』。済は督郵の馬を取って十数日穀物を食わせ、湛とこれを試した。湛はかつて馬に乗ったことがなかったのに、急に馳せさせても、歩みも駆けも済と変わらず、馬も互いに勝らなかった。湛は言った、『いま真っすぐ車道を行っているのだから、何で馬の優劣を見分けよう。ただ蟻塚のところへ行くしかない』。そこで蟻塚のところで馬を旋回させると、果たして倒れ伏した。その優れた識見と天与の才はこのようであった」。
晉陽秋曰:「濟有人倫鑒識,其雅俗是非,少有優潤。見湛,歎服其德宇。時人謂湛:『上方山濤不足,下比魏舒有餘。』湛聞之曰:『欲以我處季孟之間乎?』」王隱晉書曰:「魏舒字陽元,任城人。幼孤,為外氏甯家所養。甯氏起宅,相者曰:『當出貴甥。』外祖母意以盛氏甥小而惠,謂應相也。舒曰:『當為外氏成此宅相。』少名遲鈍。叔父衡使守水碓,每言:『舒堪八百戶長,我願畢矣。』舒不以介意。身長八尺二寸,不修常人近事。少工射,箸韋衣入山澤,每獵大獲。為後將軍鍾毓長史,毓與參佐射戲,舒常為坐畫籌。後值朋人少,以舒充數,於是發無不中,加博措閑雅,殆盡其妙。毓歎謝之曰:『吾之不足,盡卿如此射矣!』轉相國參軍。晉王每朝罷,目送之曰:『魏舒堂堂,人之領袖!』累遷侍中、司徒。」
『晋陽秋』に言う、「済は人の品を見分ける眼があり、その雅俗や是非については寛大に過ごすことが少なかった。湛に会って、その徳の器量に感嘆し服した。当時の人は湛を『上は山濤に比べれば足らず、下は魏舒に比べれば余りがある』と言った。湛はそれを聞いて『私を季と孟の間に置こうというのか』と言った」。王隠の『晋書』に言う、「魏舒は字は陽元、任城の人である。幼くして父を失い、母方の甯家に養われた。甯氏が家を建てるとき、人相見が『貴い甥が出るはずだ』と言った。外祖母は心の中で、盛氏の甥が年若く賢いので、その相に当たるのだろうと思った。舒は『私が母方のために、この家の相を成し遂げましょう』と言った。若いころは鈍いと言われた。叔父の衡が水碓を守らせ、いつも『舒は八百戸の長が務まる。私の願いは足りた』と言ったが、舒は気にしなかった。身の丈は八尺二寸で、常人の身近な事には構わなかった。若くして弓が巧みで、革の衣を着て山や沢に入れば、狩りのたびに多く獲た。後将軍の鍾毓の長史となり、毓が参佐と射の遊びをするとき、舒はいつも座って籌を記していた。後に組の人数が足りないときに当たり、舒で数を満たしたところ、放った矢はことごとく当たり、その上に身ごなしも落ち着いて優雅で、ほとんどその妙を尽くしていた。毓は感嘆して彼に謝った、『私が足らず、君がこれほど射られるのを知り尽くしていなかった』。相国参軍に移った。晋王は朝が終わるたびに彼を目で送り、『魏舒は堂々として、人の領袖だ』と言った。官を重ねて侍中・司徒に至った」。
18裴僕射は、当時の人に言談の林藪と言われた
裴僕射時人謂為言談之林藪。
裴僕射は、当時の人に言談の林藪と言われた。
夾注 1
惠帝起居注曰:「頠理甚淵博,贍於論難。」
『恵帝起居注』に言う、「頠の論理はきわめて淵博で、論難に豊かであった」。
19公はまだ、鳴かず躍らぬ者をご覧になっていないだけです
張華見褚陶,語陸平原曰:「君兄弟龍躍雲津,顧彥先鳳鳴朝陽。謂東南之寶已盡,不意復見褚生。」陸曰:「公未覩不鳴不躍者耳!」
張華は褚陶に会い、陸平原に言った。「君の兄弟は竜が雲の津に躍り、顧彦先は鳳が朝陽に鳴くようだ。東南の宝はもう尽きたと思っていたが、思いがけずまた褚生に会った。」
陸は言った。「公はまだ、鳴かず躍らぬ者をご覧になっていないだけです。」
夾注 1
褚氏家傳曰:「陶字季雅,吳郡錢塘人,褚先生後也。陶聰惠絕倫,年三十,作鷗鳥、水磑二賦。宛陵嚴仲弼見而奇之曰:『褚先生復出矣!』弱不好弄,清談閑默,以墳、典自娛。語所親曰:『聖賢備在黃卷中,舍此何求?』州郡辟不就。吳歸命世祖,補臺郎、建忠校尉。司空張華與陶書曰:『二陸龍躍於江、漢,彥先鳳鳴於朝陽,自此以來,常恐南金已盡,而復得之於吾子!故知延州之德不孤,淵、岱之寶不匱。』仕至中尉。」
『褚氏家伝』に言う、「陶は字は季雅、呉郡銭塘の人で、褚先生の後裔である。陶は聡明と賢さが人に抜きんで、三十歳で「鷗鳥」「水磑」の二つの賦を作った。宛陵の厳仲弼はそれを見て奇とし、『褚先生がまた出てきた』と言った。幼いころから遊びを好まず、清談と静かな沈黙をもって、墳典を自ら楽しんだ。親しい者に言った、『聖賢はみな黄ばんだ巻物の中に備わっている。これを捨てて何を求めよう』。州や郡が辟しても就かなかった。呉が世祖に命を帰すと、台郎・建忠校尉に補された。司空の張華は陶に書を送って言った、『二人の陸は江と漢に竜のように躍り、彦先は朝陽に鳳のように鳴いた。それからこのかた、南の金はもう尽きたのではないかと常に恐れていたが、また我が君において得られた。だから延州の徳が孤立せず、淵と岱の宝が尽きないことを知った』。官は中尉に至った」。
20呉の旧家はどうですか
有問秀才:「吳舊姓何如?」答曰:「吳府君聖王之老成,明時之雋乂。朱永長理物之至德,清選之高望。嚴仲弼九皋之鳴鶴,空谷之白駒。顧彥先八音之琴瑟,五色之龍章。張威伯歲寒之茂松,幽夜之逸光。陸士衡、士龍鴻鵠之裴回,懸鼓之待槌。凡此諸君:以洪筆為鉏耒,以紙札為良田。以玄默為稼穡,以義理為豐年。以談論為英華,以忠恕為珍寶。著文章為錦繡,蘊五經為繒帛。坐謙虛為席薦,張義讓為帷幙。行仁義為室宇,修道德為廣宅。」
ある人が秀才に尋ねた。「呉の旧家はどうですか。」
答えた。「呉府君は聖王の老成であり、明らかな時代の俊才だ。朱永長は物を治める至高の徳であり、清い人選における高い評判だ。厳仲弼は九皋に鳴く鶴であり、空谷の白駒だ。顧彦先は八音の琴と瑟であり、五色の竜章だ。張威伯は歳寒の茂った松であり、幽夜の逸れた光だ。陸士衡と士竜は鴻鵠が旋回するさまであり、懸けた鼓が槌を待つさまだ。
およそこの方々は、大きな筆を鋤と犂とし、紙と札を良田とし、玄妙な沈黙を種蒔きと刈り入れとし、義と理を豊年とし、談論を花とし、忠と恕を珍宝とし、文章を著すことを錦繡とし、五経を蓄えることを絹布とし、謙虚に座ることを敷物とし、義と譲を張ることを帷幕とし、仁義を行うことを家屋とし、道徳を修めることを広い邸宅としている。」
夾注 2
秀才,蔡洪也。集載洪與刺史周俊書曰:「一日侍坐,言及吳士,詢于芻蕘,遂見下問。造次承顏,載辭不舉,敕令條列名狀,退輒思之。今稱疏所知:吳展字士季,下邳人。忠足矯非,清足厲俗,信可結神,才堪榦世。仕吳為廣州刺史、吳郡太守。吳平,還下邳,閉門自守,不交賓客。誠聖王之老成,明時之俊乂也。朱誕字永長,吳郡人。體履清和,黃中通理。吳朝舉賢良,累遷議郎,今歸在家。誠理物之至德,清選之高望也。嚴隱字仲弼,吳郡人。稟氣清純,思度淵偉。吳朝舉賢良,宛陵令。吳平,去職。九皋之鳴鶴,空谷之白駒也。張暢字威伯,吳郡人。稟性堅明,志行清朗,居磨涅之中,無淄磷之損。歲寒之松柏,幽夜之逸光也。」陸雲別傳曰:「雲字士龍,吳大司馬抗之第五子,機同母之弟也。儒雅有俊才,容貌瑰偉,口敏能談,博聞彊記。善著述,六歲便能賦詩,時人以為項託、揚烏之儔也。年十八,刺史周俊命為主簿。俊常歎曰:『陸士龍當今之顏淵也!』累遷太子舍人、清河內史。為成都王所害。」
秀才は蔡洪である。文集に蔡洪が刺史の周俊に送った書が載っており、こう言う、「ある日お側に侍っていたとき、話が呉の士に及び、草刈りや木こりにまで尋ねられ、ついに下の者にまでお下問がありました。とっさにお顔を仰いで、言葉を持ち上げることができず、名と状を条ごとに並べよとお命じになったので、退いてすぐこれを考えました。いま知るところを粗く申し述べます。呉展は字は士季、下邳の人です。忠は非を正すに足り、清は俗を磨くに足り、信は神を結ぶに値し、才は世を幹するに堪えます。呉に仕えて広州刺史・呉郡太守となりました。呉が平定されると下邳に帰り、門を閉じて自ら守り、賓客と交わりません。まことに聖王の老成であり、明らかな時代の俊才です。朱誕は字は永長、呉郡の人です。身の処し方は清く和やかで、黄中に理が通じています。呉の朝廷に賢良として挙げられ、官を重ねて議郎に至り、いまは帰って家にいます。まことに物を治める至高の徳であり、清い人選における高い評判です。厳隠は字は仲弼、呉郡の人です。受けた気は清く純粋で、思いの度量は深く偉大です。呉の朝廷に賢良として挙げられ、宛陵令となり、呉が平定されると職を去りました。九皋に鳴く鶴であり、空谷の白駒です。張暢は字は威伯、呉郡の人です。受けた性は堅く明らかで、志も行いも清く朗らかで、磨かれ染められる中にあっても、黒ずみ薄くなる損がありません。歳寒の松柏であり、幽夜の逸れた光です」。『陸雲別伝』に言う、「雲は字は士竜、呉の大司馬の抗の第五子で、機と母を同じくする弟である。儒雅で俊才があり、容貌は立派で大きく、口が達者で談ずることができ、博く聞いて強く記した。著述がうまく、六歳でもう詩を作れたので、当時の人は項託や揚烏の類だと思った。十八歳で、刺史の周俊が命じて主簿とした。俊はいつも感嘆して『陸士竜は当今の顔淵だ』と言った。官を重ねて太子舎人・清河内史に至った。成都王に害された」。
按蔡所論士十六人,無陸機兄弟,又無「凡此諸君」以下,疑益之。
按ずるに、蔡が論じた士十六人に陸機の兄弟はなく、また「およそこの方々は」以下もないので、後から足したものではないかと思われる。
21『老子』『荘子』を読まないのに、その旨と合っていた
人問王夷甫:「山巨源義理何如?是誰輩?」王曰:「此人初不肯以談自居,然不讀老、莊,時聞其詠,往往與其旨合。」
ある人が王夷甫に尋ねた。「山巨源の義理はどうか。誰の類か。」
王は言った。「この人は初めから談論によって自らを立てようとはしなかった。しかし『老子』『荘子』を読まないのに、ときおりその吟ずるところを聞くと、しばしばその旨と合っている。」
夾注 1
顧愷之畫贊曰:「濤有而不恃,皆此類也。」
顧愷之の『画賛』に言う、「濤は持っていながら恃まなかった。みなこの類である」。
22洛中の雅やかな三人の嘏と、錚々たる馮恵卿
洛中雅雅有三嘏:劉粹字純嘏,宏字終嘏,漠字沖嘏,是親兄弟。王安豐甥,並是王安豐女壻。宏,真長祖也。洛中錚錚馮惠卿,名蓀,是播子。蓀與邢喬俱司徒李胤外孫,及胤子順並知名。時稱:「馮才清,李才明,純粹邢。」
洛中に雅やかな三人の嘏がいた。劉粹は字は純嘏、宏は終嘏、漠は沖嘏で、実の兄弟であった。
王安豊の甥であり、そろって王安豊の娘婿でもあった。宏は真長の祖父である。
洛中で錚々たる者としては馮恵卿がいた。名は蓀、播の子である。蓀と邢喬はともに司徒の李胤の外孫で、胤の子の順とあわせてみな名を知られた。
当時こう言われた、「馮は才が清く、李は才が明らかで、純粋なのは邢だ」。
夾注 3
晉諸公贊曰:「粹,沛國人。歷侍中、南中郎將。宏,歷秘書監、光祿大夫。」晉後略曰:「漠少以清識為名,與王夷甫友善,並好以人倫為意,故世人許以才智之名。自相國右長史出為襄州刺史。以貴簡稱。」按劉氏譜:劉邠妻,武周女,生粹、宏、漠。非王氏甥。
『晋諸公賛』に言う、「粹は沛国の人である。侍中・南中郎将を歴任した。宏は秘書監・光禄大夫を歴任した」。『晋後略』に言う、「漠は若くして清い識見で名があり、王夷甫と親しく、ともに人の品定めを心がけるのを好んだので、世人は才智の名を認めた。相国右長史から襄州刺史として出た。貴く簡素なことで称された」。按ずるに『劉氏譜』では、劉邠の妻は武周の娘で、粹・宏・漠を生んだとあり、王氏の甥ではない。
晉後略曰:「播字友聲,長樂人。位至大宗正,生蓀。」八王故事曰:「蓀少以才悟,識當世之宜。蚤歷清職,仕至侍中。為長沙王所害。」
『晋後略』に言う、「播は字は友声、長楽の人である。位は大宗正に至り、蓀を生んだ」。『八王故事』に言う、「蓀は若くして才と悟りによって当世の宜しきを知った。早くから清い職を歴任し、官は侍中に至った。長沙王に害された」。
晉諸公贊曰:「喬字曾伯,河間人。有才學,仕至司隸校尉。順字曼長,仕至太僕卿。」
『晋諸公賛』に言う、「喬は字は曾伯、河間の人である。才学があり、官は司隷校尉に至った。順は字は曼長、官は太僕卿に至った」。
23この人は人の水鏡だ。会えば雲霧を払って青天を見るようだ
衛伯玉為尚書令,見樂廣與中朝名士談議,奇之曰:「自昔諸人沒已來,常恐微言將絕。今乃復聞斯言於君矣!」命子弟造之曰:「此人,人之水鏡也,見之若披雲霧覩青天。」
衛伯玉が尚書令となり、楽広が中朝の名士たちと談じ議するのを見て、奇として言った。「昔の人々が没して以来、いつも微言が絶えてしまうのではないかと恐れていた。いまこうしてまた、この言葉を君から聞いた。」
子弟に彼を訪ねるよう命じて言った。「この人は人の水鏡だ。会えば雲霧を払って青天を見るようだ。」
夾注 1
晉陽秋曰:「尚書令衛瓘見廣曰:『昔何平叔諸人沒,常謂清言盡矣,今復聞之於君!』」王隱晉書曰:「衛瓘有名理,及與何晏、鄧颺等數共談講,見廣奇之曰:『每見此人,則瑩然猶廓雲霧而睹青天。』」
『晋陽秋』に言う、「尚書令の衛瓘は広に会って言った、『昔、何平叔ら諸人が没して、いつも清言は尽きたと思っていたが、いままた君から聞いた』」。王隠の『晋書』に言う、「衛瓘は名理に通じ、何晏・鄧颺らとしばしば共に談じ講じていたが、広を見て奇として『この人を見るたびに、瑩然として雲霧を払って青天を見るようだ』と言った」。
24死者を起こせるものなら、ぜひ彼とともに帰りたい
王太尉曰:「見裴令公精明朗然,籠蓋人上,非凡識也。若死而可作,當與之同歸。」或云王戎語。
王太尉は言った。「裴令公に会うと、精明で朗らかで、人の上に覆いかぶさるようだ。並の識見ではない。死者を起こせるものなら、ぜひ彼とともに帰りたい。」
ある人は王戎の言葉だとする。
夾注 1
禮記曰:「趙文子與叔譽觀于九原,文子曰:『死者如可作也,吾誰與歸?』」鄭玄曰:「作,起也。」
『礼記』に言う、「趙文子が叔譽とともに九原を見渡し、文子は『死者を起こせるものなら、私は誰とともに帰ろうか』と言った」。鄭玄は言う、「作は起こすことである」。
25楽令と談ずると、自分の言葉が煩わしいと感じないことがない
王夷甫自嘆:「我與樂令談,未嘗不覺我言為煩。」
王夷甫は自ら感嘆した。「私が楽令と談ずると、自分の言葉が煩わしいと感じないことがない。」
夾注 1
晉陽秋曰:「樂廣善以約言厭人心,其所不知,默如也。太尉王夷甫、光祿大夫裴叔則能清言,常曰:『與樂君言,覺其簡至,吾等皆煩。』」
『晋陽秋』に言う、「楽広は約やかな言葉で人の心を満たすのが上手で、知らないことには黙っていた。太尉の王夷甫と光禄大夫の裴叔則は清言ができたが、いつも『楽君と話すと、その簡にして至るのを感じる。我々はみな煩わしい』と言った」。
26郭子玄がどうして庾子嵩に劣るものか
郭子玄有雋才,能言老、莊。庾敳嘗稱之,每曰:「郭子玄何必減庾子嵩!」
郭子玄は俊才があり、『老子』『荘子』を談ずることができた。
庾敳はかつて彼を称え、いつも言った。「郭子玄がどうして庾子嵩に劣るものか。」
夾注 1
名士傳曰:「郭象字子玄,自黃門郎為太傅主簿,任事用勢,傾動一府。敳謂象曰:『卿自是當世大才,我疇昔之意,都已盡矣!』其伏理推心,皆此類也。」
『名士伝』に言う、「郭象は字は子玄、黄門郎から太傅主簿となり、事を任されて勢いを用い、一府を傾け動かした。敳は象に言った、『君はおのずと当世の大才だ。私の昔の志は、すべてもう尽きた』。その理に伏して心を推し開くさまは、みなこの類である」。
27たしかに君の落落として穆穆たるのには及ばない
王平子目太尉:「阿兄形似道,而神鋒太雋。」太尉答曰:「誠不如卿落落穆穆。」
王平子は太尉を評して言った。「兄上は姿は道に似ているが、神の鋒先が鋭すぎる。」
太尉は答えた。「たしかに君の落落として穆穆たるのには及ばない。」
夾注 1
王隱晉書曰:「澄通朗好人倫,情無所繫。」
王隠の『晋書』に言う、「澄は通じて朗らかで人の品定めを好み、情に繋がれるところがなかった」。
28太傅の府には三つの才があった
太傅府有三才:劉慶孫長才,潘陽仲大才,裴景聲清才。
太傅の府には三つの才があった。劉慶孫は長才、潘陽仲は大才、裴景声は清才である。
夾注 2
晉陽秋曰:「太傅將召劉輿,或曰:『輿猶膩也,近將汙人。』太傅疑而禦之。輿乃密視天下兵簿諸屯戎及倉庫處所,人穀多少,牛馬器械,水陸地形,皆默識之。是時軍國多事,每會議事,自潘滔以下皆不知所對。輿便屈指籌計,所發兵仗處所,糧廩運轉,事無凝滯。於是太傅遂委仗之。」
『晋陽秋』に言う、「太傅が劉輿を召そうとすると、ある人が『輿は脂のようなもので、近づけば人を汚します』と言った。太傅は疑って退けた。輿はそこでひそかに天下の兵の名簿や諸々の屯営と倉庫の所在、人と穀物の多少、牛馬や器械、水陸の地形を調べ、すべて黙って覚えた。このころ軍と国の事が多く、会して事を議するたびに、潘滔以下はみな何と答えるべきか分からなかった。輿はすぐ指を折って計算し、兵と武具を出す所、糧の輸送について、事に滞りがなかった。そこで太傅はついに彼に委ね頼った」。
八王故事曰:「劉輿才長綜覈,潘滔以博學為名,裴邈彊力方正,皆為東海王所暱,俱顯一府。故時人稱曰:輿長才,滔大才,邈清才也。」
『八王故事』に言う、「劉輿は才が総べ検めることに長け、潘滔は博学で名があり、裴邈は力強く方正で、みな東海王に親しまれ、ともに一府に顕れた。だから当時の人はこう称えた、輿は長才、滔は大才、邈は清才である」。
29林下の諸賢には、それぞれ俊才の子がいた
林下諸賢,各有雋才子。籍子渾,器量弘曠。康子紹,清遠雅正。濤子簡,疏通高素。咸子瞻,虛夷有遠志。瞻弟孚,爽朗多所遺。秀子純、悌,並令淑有清流。戎子萬子,有大成之風,苗而不秀。唯伶子無聞。凡此諸子,唯瞻為冠,紹、簡亦見重當世。
林下の諸賢には、それぞれ俊才の子がいた。
籍の子の渾は器量が広く闊達で、康の子の紹は清く遠く雅正で、濤の子の簡は疎通して高く素朴で、咸の子の瞻は虚ろかで平らかで遠い志があり、瞻の弟の孚は爽やかで朗らかで捨て置くところが多く、秀の子の純と悌はともに善良で清い流れがあり、戎の子の万子は大成する風格があったが、苗のまま穂を出さなかった。ただ伶の子だけは聞こえるところがなかった。
およそこの子らの中では瞻だけが第一で、紹と簡もまた当世に重んじられた。
夾注 6
世語曰:「渾字長成,清虛寡欲,位至太子中庶子。」
『世語』に言う、「渾は字は長成、清虚で欲が少なく、位は太子中庶子に至った」。
已見。
すでに見えている。
虞預晉書曰:「簡字季倫,平雅有父風。與嵇紹、劉漠等齊名。遷尚書,出為征南將軍。」
虞預の『晋書』に言う、「簡は字は季倫、平雅で父の風格があった。嵇紹・劉漠らと名を並べた。尚書に遷り、征南将軍として出た」。
名士傳曰:「瞻字千里,夷任而少嗜欲,不修名行,自得於懷。讀書不甚研求,而識其要。仕至太子舍人。年三十卒。」中興書曰:「孚風韻踈誕,少有門風。初為安東參軍,蓬髮飲酒,不以王務嬰心。」
『名士伝』に言う、「瞻は字は千里、平らかに任せて嗜欲が少なく、名や行いを修めず、胸のうちに自得していた。読書をさほど研め求めないのに、その要を知った。官は太子舎人に至った。三十歳で没した」。『中興書』に言う、「孚は風韻が疎かで放縦であったが、若いころは家の風格があった。初め安東参軍となり、髪を乱して酒を飲み、王の務めに心を繋げなかった」。
竹林七賢論曰:「純字長悌,位至侍中。悌字叔遜,位至御史中丞。」晉諸公贊曰:「洛陽敗,純、悌出奔,為賊所害。」
『竹林七賢論』に言う、「純は字は長悌、位は侍中に至った。悌は字は叔遜、位は御史中丞に至った」。『晋諸公賛』に言う、「洛陽が陥ちると、純と悌は逃げ出し、賊に害された」。
晉諸公贊曰:「王綏字萬子,辟太尉掾,不就。年十九卒。」晉書曰:「戎子萬,有美號而太肥,戎令食糠,而肥愈甚也。」
『晋諸公賛』に言う、「王綏は字は万子、太尉の掾に辟されたが就かなかった。十九歳で没した」。『晋書』に言う、「戎の子の万は美しい評判があったが太りすぎていたので、戎は糠を食べさせたが、太りはいよいよひどくなった」。
30城西の公府
庾子躬有廢疾,甚知名。家在城西,號曰城西公府。
庾子躬には廃疾があったが、たいそう名を知られていた。家は城の西にあり、城西の公府と呼ばれた。
夾注 1
虞預晉書曰:「琮字子躬,潁川人,太常峻第二子,仕至太尉掾。」
虞預の『晋書』に言う、「琮は字は子躬、潁川の人で、太常の峻の第二子、官は太尉掾に至った」。
31名士は多くないのだから、やはり平子に見極めさせるべきだ
王夷甫語樂令:「名士無多人,故當容平子知。」
王夷甫は楽令に言った。「名士は多い人数ではない。やはり平子に見極めさせるべきだ。」
夾注 1
王澄別傳曰:「澄風韻邁達,志氣不群。從兄戎、兄夷甫,名冠當年。四海人士,一為澄所題目,則二兄不復措意,云『已經平子』,其見重如此。是以名聞益盛,天下知與不知,莫不傾注。澄後事跡不逮,朝野失望。及舊遊識見者,猶曰:『當今名士也。』」
『王澄別伝』に言う、「澄は風韻が抜きんでて自在で、志気は群を抜いていた。従兄の戎と兄の夷甫は、名がその年の第一であった。四海の人士は、いったん澄に品題されると、二人の兄はもう意を置かず、『すでに平子を経た』と言った。重んじられることはこのようであった。このため名声はいよいよ盛んで、天下は知る者も知らぬ者も、心を傾けない者がなかった。後に澄の事跡がそれに及ばなくなると、朝廷も民間も失望した。それでも旧知の者たちは、なお『当今の名士だ』と言った」。
32郭子玄の語りと議論は、懸かった川の水を注ぐようで、注いでも尽きない
王太尉云:「郭子玄語議如懸河寫水,注而不竭。」
王太尉は言った。「郭子玄の語りと議論は、懸かった川の水を注ぐようで、注いでも尽きない。」
夾注 1
名士傳曰:「子玄有俊才,能言莊、老。」
『名士伝』に言う、「子玄は俊才があり、『荘子』『老子』を談ずることができた」。
33庾子嵩がその中にいると、いつもおのずと神気が盛んになった
司馬太傅府多名士,一時雋異。庾文康云:「見子嵩在其中,常自神王。」
司馬太傅の府には名士が多く、一時に俊でて並びなかった。
庾文康は言った。「子嵩がその中にいるのを見ると、いつもおのずと神気が盛んになった。」
夾注 1
晉陽秋曰:「敳為太傅從事中郎。」
『晋陽秋』に言う、「敳は太傅従事中郎となった」。
34王参軍は人の品の手本だ。お前は彼を師とせよ
太傅東海王鎮許昌,以王安期為記室參軍,雅相知重。敕世子毗曰:「夫學之所益者淺,體之所安者深。閑習禮度,不如式瞻儀形。諷味遺言,不如親承音旨。王參軍人倫之表,汝其師之!」或曰:「王、趙、鄧三參軍,人倫之表,汝其師之!」謂安期、鄧伯道、趙穆也。袁宏作名士傳直云王參軍。或云,趙家先猶有此本。
太傅の東海王が許昌を鎮めたとき、王安期を記室参軍とし、雅やかに互いに認め重んじた。
世子の毗に命じた。「学ぶことで加わるものは浅く、身に染むものは深い。礼の度を静かに習うよりは、その儀容と姿を仰ぎ見るのがよい。遺された言葉を口にして味わうよりは、直にその声と意を受けるのがよい。王参軍は人の品の手本だ。お前は彼を師とせよ。」
ある人はこう言う。「王・趙・鄧の三参軍は人の品の手本だ。お前は彼らを師とせよ。」
安期・鄧伯道・趙穆を指す。袁宏の作った『名士伝』にはただ王参軍とある。ある人は、趙氏の家に先からこの本があったという。
夾注 1
趙吳郡行狀曰:「穆字季子,汲郡人。貞淑平粹,才識清通。歷尚書郎、太傅參軍。後太傅越與穆及王承、阮瞻、鄧攸書曰:『禮:八歲出就外傅,十年曰幼學,明可以漸先王之教也。然學之所受者淺,體之所安者深。是以閑習禮度,不如式瞻軌儀。諷味遺言,不如親承辭旨。小兒毗既無令淑之資,未聞道德之風,欲屈諸君,時以閑豫,周旋燕誨也。』穆歷晉明帝師、冠軍將軍、吳郡太守。封南鄉侯。」
「趙呉郡行状」に言う、「穆は字は季子、汲郡の人である。貞淑で平らかに純粋、才と識見は清く通じていた。尚書郎・太傅参軍を歴任した。後に太傅の越は穆と王承・阮瞻・鄧攸に書を送って言った、『礼では、八歳で外の師に就き、十歳を幼学という。先王の教えに次第に染まれることは明らかだ。しかし学んで受けるものは浅く、身に染むものは深い。だから礼の度を静かに習うよりは、その軌範と儀容を仰ぎ見るのがよく、遺された言葉を口にして味わうよりは、直にその辞と意を受けるのがよい。小児の毗はもとより善く淑やかな資質がなく、まだ道徳の風を聞いていない。諸君に身を屈めていただき、折々の閑暇に、連れ歩き、宴し、教えてくださることを願う』。穆は晋の明帝の師・冠軍将軍・呉郡太守を歴任し、南郷侯に封じられた」。
35その軒の下に庇われると、人は寒さも暑さも忘れた
庾太尉少為王眉子所知。庾過江,嘆王曰:「庇其宇下,使人忘寒暑。」
庾太尉は若いころ王眉子に認められた。
庾太尉は江を渡ってから、王を思って感嘆した。「その軒の下に庇われると、人は寒さも暑さも忘れた。」
夾注 1
晉諸公贊曰:「玄少希慕簡曠。」八王故事曰:「玄為陳留太守。或勸玄過江投琅邪王,玄曰:『王處仲得志於彼,家叔猶不免害,豈能容我?』謂其器宇不容於敦也。」
『晋諸公賛』に言う、「玄は若くして簡素で闊達なものを慕った」。『八王故事』に言う、「玄は陳留太守となった。ある人が玄に江を渡って琅邪王に投ずるよう勧めると、玄は『王処仲はあちらで志を得ており、家の叔父でさえ害を免れていない。どうして私を容れられよう』と言った」。その器量が敦に容れられないことを言ったのである。
36王眉子は清通で簡やかに伸びやかだ
謝幼輿曰:「友人王眉子清通簡暢,嵇延祖弘雅劭長,董仲道卓犖有致度。」
謝幼輿は言った。「友人の王眉子は清通で簡やかに伸びやかであり、嵇延祖は弘雅で美しく育ち、董仲道は卓越して至り着いた度量がある。」
夾注 1
王隱晉書曰:「董養字仲道,太始初,到洛下,干祿求榮。永嘉中,洛城東北角步廣里中地陷,中有二鵝,蒼者飛去,白者不能飛。問之博識者,不能知。養聞,歎曰:『昔周時所盟會狄泉,此地也。卒有二鵝,蒼者胡象,後明當入洛,白者不能飛,此國諱也。』」謝鯤元化論序曰:「陳留董仲道於元康中見惠帝廢楊悼后,升太學堂歎曰:『建此堂也,將何為乎?每見國家赦書,謀反逆皆赦,孫殺王父母,子殺父母不赦,以為王法所不容也。奈何公卿處議,文飾禮典以至此乎?天人之理既滅,大亂斯起。』顧謂謝鯤、阮孚曰:『易稱:知幾其神乎!君等可深藏矣!』乃與妻荷擔入蜀,莫知其所終。」
王隠の『晋書』に言う、「董養は字は仲道、太始の初めに洛陽へ下り、禄を求め栄を求めた。永嘉年間、洛城の東北の角、歩広里の中で地が陥ち、その中に二羽の鵝がいた。蒼いものは飛び去り、白いものは飛べなかった。博識の者に尋ねたが、分からなかった。養は聞いて感嘆した、『昔、周の時に狄泉で盟会した所がここだ。そこに二羽の鵝がいて、蒼いものは胡の象で、後に明らかに洛陽に入るだろう。白いものが飛べないのは、これは国の忌むべきことだ』」。謝鯤の「元化論」の序に言う、「陳留の董仲道は元康年間、恵帝が楊悼后を廃するのを見て、太学の堂に上がって感嘆した、『この堂を建てたのは、何をしようというのか。国の赦書を見るたびに、謀反や逆を企てた者はみな赦されるのに、孫が祖父母を殺し、子が父母を殺した者は赦されない。王法の容れないところだと考えたからだ。それがどうして、公卿が議を処し、礼の典を文飾して、ここまで来てしまったのか。天と人の理がすでに滅びたのだから、大乱がここから起こるだろう』。そして謝鯤と阮孚を顧みて言った、『「易」に「幾を知るは神なるか」とある。君たちは深く身を隠すがよい』。そこで妻とともに荷を担いで蜀に入り、その終わるところを知る者はない」。
37巌々として清らかに聳え、千仞の壁のように立っている
王公目太尉:「巖巖清峙,壁立千仞。」
王公は太尉を評して言った。「巌々として清らかに聳え、千仞の壁のように立っている。」
夾注 1
顧愷之夷甫畫贊曰:「夷甫天形瑰特,識者以為巖巖秀峙,壁立千仞。」
顧愷之の「夷甫画賛」に言う、「夷甫は天与の姿が瑰特で、識る者は、巌々として秀でて聳え、千仞の壁のように立っていると言った」。
38庾公はのちまで劉と裴の俊でた才を覚えていた
庾太尉在洛下,問訊中郎。中郎留之云:「諸人當來。」尋溫元甫、劉王喬、裴叔則俱至,酬酢終日。庾公猶憶劉、裴之才雋,元甫之清中。
庾太尉が洛陽にいたとき、中郎のもとへ挨拶に行った。
中郎は彼を留めて言った。「ほかの人たちも来るはずだ。」
やがて温元甫・劉王喬・裴叔則がそろって着き、一日中酒を酌み交わした。
庾公はのちまで、劉と裴の才の俊でたこと、元甫の清らかで程よいことを覚えていた。
夾注 4
庾敳。
庾敳である。
晉諸公贊曰:「溫幾字元甫,太原人。才性清婉。歷司徒右長史、湘州刺史,卒官。」
『晋諸公賛』に言う、「温幾は字は元甫、太原の人である。才と性は清く婉やかであった。司徒右長史・湘州刺史を歴任し、官に在って没した」。
曹嘉之晉紀曰:「劉疇字王喬,彭城人。父訥,司隸校尉。疇善談名理。曾避亂塢壁,有胡數百欲害之。疇無懼色,援笳而吹之,為出塞入塞之聲,以動其遊客之思。於是群胡皆泣而去之。位至司徒左長史。」
曹嘉之の『晋紀』に言う、「劉疇は字は王喬、彭城の人である。父の訥は司隷校尉である。疇は名理を談ずるのが上手かった。かつて砦に難を避けたとき、胡が数百人、彼を害そうとした。疇は恐れる色もなく、笳を取って吹き、塞を出て塞に入る曲を奏して、彼らの旅人の思いを動かした。そこで胡の群れはみな泣いて去った。位は司徒左長史に至った」。
中,一作平。
中は、一本に平とある。
39陸士竜は文が優しく愛すべきで、陸士衡は声が鐘の音のようだった
蔡司徒在洛,見陸機兄弟住參佐廨中,三間瓦屋,士龍住東頭,士衡住西頭。士龍為人,文弱可愛。士衡長七尺餘,聲作鍾聲,言多忼慨。
蔡司徒が洛陽にいたとき、陸機の兄弟が参佐の官舎に住んでいるのを見た。三間の瓦屋で、士竜は東の端に住み、士衡は西の端に住んでいた。
士竜は人柄として文が優しく、愛すべきであった。士衡は身の丈七尺余り、声は鐘の音のようで、言葉には慷慨が多かった。
夾注 1
文士傳曰:「雲性弘靜,怡怡然為士友所宗。機清厲有風格,為鄉黨所憚。」
『文士伝』に言う、「雲は性が弘く静かで、怡々として士の友の宗とされた。機は清く厳しく風格があり、郷党に憚られた」。
40理に入ることが深い。私より上の人だ
王長史是庾子躬外孫,丞相目子躬云:「入理泓然,我已上人。」
王長史は庾子躬の外孫である。
丞相は子躬を評して言った。「理に入ることが深い。私より上の人だ。」
夾注 2
王氏譜曰:「濛父訥,娶潁州庾琮之女,字三壽也。」
『王氏譜』に言う、「濛の父の訥は、潁州の庾琮の娘を娶った。字は三寿である」。
子躬,子嵩兄也。
子躬は子嵩の兄である。
41一門の従兄弟の中で談論のできる者
庾太尉目庾中郎:家從談談之許。
庾太尉は庾中郎を評して、一門の従兄弟の中で談論のできる者だと言った。
夾注 1
名士傳曰:「敳不為辨析之談,而舉其旨要。太尉王夷甫雅重之也」。一作「家從談之祖。」從,一作誦。許,一作辭。
『名士伝』に言う、「敳は弁析の談をせず、その旨の要を挙げた。太尉の王夷甫は雅やかに彼を重んじた」。一本には「一門の従兄弟の中で談論の祖」とある。従は、一本に誦とある。許は、一本に辞とある。
42神気が融け散って、まあまあ上の部に入る
庾公目中郎:「神氣融散,差如得上。」
庾公は中郎を評して言った。「神気が融け散って、まあまあ上の部に入る。」
夾注 1
晉陽秋曰:「敳頹然淵放,莫有動其聽者。」
『晋陽秋』に言う、「敳は頽れるように淵く放たれ、その聴くところを動かせる者はなかった」。
43劉琨は祖車騎を朗詣だと称えた
劉琨稱祖車騎為朗詣,曰:「少為王敦所嘆。」
劉琨は祖車騎を朗詣だと称え、言った。「若いころ王敦に感嘆された。」
夾注 1
虞預晉書曰:「逖字士稚,范陽遒人。豁蕩不修儀檢,輕財好施。」晉陽秋曰:「逖與司空劉琨俱以雄豪著名。年二十四,與琨同辟司州主簿,情好綢繆,共被而寢。中夜聞雞鳴,俱起曰:『此非惡聲也。』每語世事,則中宵起坐,相謂曰:『若四海鼎沸,豪傑共起,吾與足下相避中原耳!』為汝南太守,值京師傾覆,率流民數百家南度,行達泗口,安東板為徐州刺史。逖既有豪才,常慷慨以中原為己任,乃說中宗雪復神州之計,拜為豫州刺史,使自招募。逖遂率部曲百餘家,北度江,誓曰:『祖逖若不清中原而復濟此者,有如大江!』攻城略地,招懷義士,屢摧石虎,虎不敢復闚河南,石勒為逖母墓置守吏。劉琨與親舊書曰:『吾枕戈待旦,志梟逆虜,常恐祖生先吾箸鞭耳!』會其病卒。先有妖星見豫州分,逖曰:『此必為我也!天未欲滅寇故耳!』贈車騎將軍。」
虞預の『晋書』に言う、「逖は字は士稚、范陽遒の人である。闊達で儀容や検束を修めず、財を軽んじ施しを好んだ」。『晋陽秋』に言う、「逖は司空の劉琨とともに雄豪で名を知られた。二十四歳のとき、琨と同時に司州主簿に辟され、情も好みも深く結ばれ、同じ布団で寝た。夜半に鶏の鳴くのを聞いてともに起き、『これは悪い声ではない』と言った。世の事を語るたびに、夜半に起き座って互いに言った、『もし四海が鼎のように沸き、豪傑がともに起こったら、君と私は中原で互いを避けることになるだろう』。汝南太守となり、都が傾覆するときに当たって、流民数百家を率いて南へ渡り、泗口に達すると、安東が板をもって徐州刺史とした。逖はもともと豪才があり、常に慷慨して中原を自らの任としていたので、中宗に神州を雪いで取り戻す計を説き、豫州刺史に任じられ、自ら募兵することを許された。そこで逖は部曲百余家を率いて北へ江を渡り、誓って言った、『祖逖がもし中原を清めずしてこの江を再び渡るなら、この大江に懸けて誓う』。城を攻め地を略し、義士を招き懐け、たびたび石虎を砕いたので、虎は再び河南を窺うことができず、石勒は逖の母の墓に守りの吏を置いた。劉琨は親しい旧友に書を送って言った、『私は戈を枕にして夜明けを待ち、逆虜を梟すことを志しているが、常に祖生が私より先に鞭を着けるのではないかと恐れている』。たまたま彼は病で没した。先に妖星が豫州の分野に現れ、逖は『これは必ず私のためだ。天がまだ寇を滅ぼそうとしていないからにすぎない』と言った。車騎将軍を贈られた」。
44大に託するのが上手で、自らを隠すのに長けている
時人目庾中郎:「善於託大,長於自藏。」
当時の人は庾中郎を評して言った。「大に託するのが上手で、自らを隠すのに長けている。」
夾注 1
名士傳曰:「敳雖居職任,未嘗以事自嬰,從容博暢,寄通而已。是時天下多故,機事屢起,有為者拔奇吐異,而禍福繼之。敳常默然,故憂喜不至也。」
『名士伝』に言う、「敳は職任にあったが、かつて事で自らを縛らず、ゆるやかに博く伸びやかで、通ずるところに寄せただけであった。このころ天下に事が多く、機微の事がたびたび起こり、事を為す者は奇を抜き異を吐いて、禍福がそれに続いた。敳は常に黙っていたので、憂いも喜びも至らなかった」。
45衛玠の言葉を聞くたびに、感嘆して倒れ込んだ
王平子邁世有雋才,少所推服。每聞衛玠言,輒嘆息絕倒。
王平子は世を超える俊才があり、推して服するところが少なかった。
衛玠の言葉を聞くたびに、そのつど感嘆して倒れ込んだ。
夾注 1
玠別傳曰:「玠少有名理,善通莊、老。琅邪王平子高氣不群,邁世獨傲,每聞玠之語議,至於理會之間,要妙之際,輒絕倒於坐。前後三聞,為之三倒。時人遂曰:『衛君談道,平子三倒。』」
『玠別伝』に言う、「玠は若くして名理に通じ、『荘子』『老子』をよく読み通した。琅邪の王平子は高い気が群を抜き、世を超えて独り傲っていたが、玠の語りと議論を聞くたびに、理の会するあたり、要妙の際に至ると、そのつど座で倒れ込んだ。前後三度聞いて、そのために三度倒れた。当時の人はついに『衛君が道を談ずれば、平子は三たび倒れる』と言った」。
46人はただ、人を知ることが過ぎることを憂えるだけだ
王大將軍與元皇表云:「舒風概簡正,允作雅人,自多於邃。最是臣少所知拔。中間夷甫、澄見語:『卿知處明、茂弘。茂弘已有令名,真副卿清論;處明親疎無知之者,吾常以卿言為意,殊未有得,恐已悔之?』臣慨然曰:『君以此試,頃來始乃有稱之者。』言常人正自患知之使過,不知使負實。」
王大将軍は元皇帝に表を上げて言った。「舒は風格と気概が簡素で正しく、まことに雅人といえます。おのずと邃より勝ります。何より臣が若いころに見出した者です。
その間に、夷甫と澄が私に言いました、『君は処明と茂弘を知っている。茂弘はもう良い名があって、まことに君の清論にかなっているが、処明は親疎のうちに彼を知る者がいない。私はいつも君の言葉を心に置いてきたが、まったく得るところがない。もう悔いているのではないか』。
臣は慷慨して言いました。『あなたはこれで試してみてください。近ごろようやく彼を称える者が出てきました。』
常の人はただ、人を知ることが過ぎることを憂えるだけで、知らなければその実を裏切ることになる、と言ったのです。」
夾注 2
王舒已見。王邃別傳曰:「邃字處重,琅邪人,舒弟也。意局剛清,以政事稱。累遷中領軍、尚書左僕射。」舒、邃並敦從弟。
王舒はすでに見えている。『王邃別伝』に言う、「邃は字は処重、琅邪の人で、舒の弟である。意と器局は剛く清らかで、政事で称された。官を重ねて中領軍・尚書左僕射に至った」。舒と邃はともに敦の従弟である。
使,一作便。
使は、一本に便とある。
47雅な流れの大きな器を、どうして捨てておけるだろう
周侯於荊州敗績,還,未得用。王丞相與人書曰:「雅流弘器,何可得遺?」
周侯は荊州で敗れて帰ったが、まだ用いられなかった。
王丞相は人に書を送って言った。「雅な流れの大きな器を、どうして捨てておけるだろう。」
夾注 1
鄧粲晉紀曰:「顗為荊州,始至,而建平民傅密等叛迎蜀賊。顗狼狽失據,陶侃救之,得免。顗至武昌投王敦,敦更選侃代顗。顗還建康,未即得用也。」
鄧粲の『晋紀』に言う、「顗が荊州となって着いたばかりのとき、建平の民の傅密らが叛いて蜀の賊を迎えた。顗は狼狽して拠るところを失い、陶侃が救って免れた。顗は武昌に至って王敦に投じたが、敦は改めて侃を選んで顗に代えた。顗は建康に帰ったが、すぐには用いられなかった」。
48卓朗と言えるだろう
時人欲題目高坐而未能。桓廷尉以問周侯,周侯曰:「可謂卓朗。」桓公曰:「精神淵箸。」
当時の人は高坐に品題を付けようとしたが、できなかった。
桓廷尉が周侯に尋ねると、周侯は言った。「卓朗と言えるだろう。」
桓公は言った。「精神が淵く顕れている。」
夾注 1
高坐傳曰:「庾亮、周顗、桓彝一代名士,一見和尚,披衿致契。曾為和尚作目,久之未得。有云:『尸利密可稱卓朗。』於是桓始咨嗟,以為標之極似。宣武嘗云:『少見和尚,稱其精神淵箸,當年出倫。』其為名士所歎如此。」
『高坐伝』に言う、「庾亮・周顗・桓彝は一代の名士であったが、一度和尚に会って、襟を開いて意気投合した。かつて和尚のために品題を作ろうとしたが、長らく得られなかった。ある人が『尸利密は卓朗と称せる』と言い、そこで桓はようやく感嘆して、その評は実に似ていると考えた。宣武はかつて言った、『若いころ和尚にお目にかかり、その精神が淵く顕れ、当年に群を抜いていることを称えた』。彼が名士に感嘆されることはこのようであった」。
49その神気のきざしは、まずまずよいようだ
王大將軍稱其兒云:「其神候似欲可。」
王大将軍はその子を称えて言った。「その神気のきざしは、まずまずよいようだ。」
夾注 1
王應也。
王応である。
50朗々として百間の家のようだ
卞令目叔向:「朗朗如百間屋。」
卞令は叔向を評して言った。「朗々として百間の家のようだ。」
夾注 1
春秋左氏傳曰:「叔向,羊舌肹也。晉大夫。」
『春秋左氏伝』に言う、「叔向は羊舌肹で、晋の大夫である」。
51永嘉の世に、また正始の音を聞こうとは思わなかった
王敦為大將軍,鎮豫章。衛玠避亂,從洛投敦,相見欣然,談話彌日。于時謝鯤為長史,敦謂鯤曰:「不意永嘉之中,復聞正始之音。阿平若在,當復絕倒。」
王敦は大将軍となり、豫章を鎮めた。
衛玠は乱を避けて洛陽から敦のもとへ行き、互いに会って喜び、一日中語り合った。
そのころ謝鯤が長史であり、敦は鯤に言った。「永嘉の世に、また正始の音を聞こうとは思わなかった。阿平がもしいたら、きっとまた倒れ込んだだろう。」
夾注 1
玠別傳曰:「玠至武昌見王敦,敦與之談論,彌日信宿。敦顧謂僚屬曰:『昔王輔嗣吐金聲於中朝,此子今復玉振於江表,微言之緒,絕而復續。不悟永嘉之中,復聞正始之音。阿平若在,當復絕倒。』」
『玠別伝』に言う、「玠は武昌に至って王敦に会い、敦は彼と談論して、一日中、二晩泊まらせた。敦は僚属を顧みて言った、『昔、王輔嗣が中朝で金の声を吐いたが、この人がいま再び江表で玉を振るわせた。微言の緒は絶えて再び続いた。永嘉の世に、また正始の音を聞こうとは思いもしなかった。阿平がもしいたら、きっとまた倒れ込んだだろう』」。
52風気が日ごとに上がって、人の胸のつかえを散らすに十分だ
王平子與人書,稱其兒:「風氣日上,足散人懷。」
王平子は人に書を送ってその子を称えた。「風気が日ごとに上がって、人の胸のつかえを散らすに十分だ。」
夾注 1
永嘉流人名曰:「澄弟四子微。」澄別傳曰:「微邁上有父風。」
『永嘉流人名』に言う、「澄の第四子は微である」。『澄別伝』に言う、「微は抜きんでて上り、父の風格があった」。
53佳い言葉を鋸屑のように吐き出し、後進の領袖であった
胡毋彥國吐佳言如屑,後進領袖。
胡毋彦国は佳い言葉を鋸屑のように吐き出し、後進の領袖であった。
夾注 1
言談之流,靡靡如解木出屑也。
言談の流れが滑らかで、木を挽けば鋸屑が出てくるようであったことを言ったのである。
54刁玄亮の察察、戴若思の巌々、卞望之の峰のような立ちはだかり
王丞相云:「刁玄亮之察察,戴若思之巖巖,卞望之之峯距。」
王丞相は言った。「刁玄亮の察察たること、戴若思の巌々たること、卞望之の峰のように立ちはだかること。」
夾注 2
虞預書曰:「戴儼字若思,廣陵人。才義辯濟,有風標鋒穎。累遷征西將軍,為王敦所害。贈左光祿大夫,儀同三司。」
虞預の書に言う、「戴儼は字は若思、広陵の人である。才と義と弁舌が事を済まし、風格の標と鋭い切っ先があった。官を重ねて征西将軍に至り、王敦に害された。左光禄大夫・儀同三司を贈られた」。
卞壼別傳曰:「壼字望之,濟陰冤句人。父粹,太常卿。壼少以貴正見稱,累遷御史中丞,權門屏跡,轉領軍尚書令。蘇峻作亂,率眾距戰,父子二人俱死王難。」鄧粲晉紀曰:「初,咸和中,貴遊子弟能談嘲者,慕王平子、謝幼輿等為達。壼厲色於朝曰:『悖禮傷教,罪莫斯甚!中朝傾覆,實由於此!』欲奏治之。王導、庾亮不從,乃止。其後皆折節為名士。」語林曰:「孔坦為侍中,密啟成帝,不宜往拜曹夫人。丞相聞之曰:『王茂弘駑痾耳!若卞望之之巖巖,刁玄亮之察察,戴若思之峰距,當敢爾不?』」此言殊有由緒,故聊載之耳。
『卞壼別伝』に言う、「壼は字は望之、済陰冤句の人である。父の粹は太常卿である。壼は若くして貴く正しいことで称され、官を重ねて御史中丞に至ると、権門は跡を隠した。領軍尚書令に転じた。蘇峻が乱を起こすと、衆を率いて防ぎ戦い、父子二人がともに王の難に死んだ」。鄧粲の『晋紀』に言う、「初め、咸和年間、貴遊の子弟で談じ嘲ることのできる者は、王平子や謝幼輿らを慕って達者ぶっていた。壼は朝廷で厳しい顔つきをして言った、『礼に背き教えを傷つけること、これより甚しい罪はない。中朝が傾覆したのは、実にこれによるのだ』。そして奏して処罰しようとしたが、王導と庾亮が従わなかったので、やめた。その後、彼らはみな節を折って名士となった」。『語林』に言う、「孔坦が侍中となり、成帝にひそかに啓して、曹夫人のもとへ行って拝するのは適当でないと言った。丞相はそれを聞いて言った、『王茂弘は鈍い駄馬の病にすぎない。もし卞望之の巌々、刁玄亮の察察、戴若思の峰のような立ちはだかりであったら、よくもそんなことをするだろうか』」。この言葉はかなり由緒があるので、とりあえず載せておく。
55お前は私の良い子弟だ。きっと阮主簿に劣るまい
大將軍語右軍:「汝是我佳子弟,當不減阮主簿。」
大将軍は右軍に言った。「お前は私の良い子弟だ。きっと阮主簿に劣るまい。」
夾注 2
按王氏譜:「羲之是敦從父兄子。」
按ずるに『王氏譜』には「羲之は敦の従父兄の子である」とある。
中興書曰:「阮裕少有德行,王敦聞其名,召為主簿,知敦有不臣之心,縱酒昏酣,不綜其事。」
『中興書』に言う、「阮裕は若くして徳行があり、王敦はその名を聞いて召して主簿としたが、敦に臣たらぬ心のあることを知り、酒を思うままに飲んで酔いつぶれ、その務めを取り仕切らなかった」。
56嶷然として切り立った山のようだ
世目周侯:嶷如斷山。
世間は周侯を評して、嶷然として切り立った山のようだと言った。
夾注 1
晉陽秋曰:「顗正情嶷然,雖一時儕類,皆無敢媟近。」
『晋陽秋』に言う、「顗は正しい情が嶷然としていて、一時の同輩でさえ、みな馴れ馴れしく近づく者がなかった」。
57昨夜は士少と話していて、おのずと疲れを忘れさせられた
王丞相招祖約夜語,至曉不眠。明旦有客,公頭鬢未理,亦小倦。客曰:「公昨如是,似失眠。」公曰:「昨與士少語,遂使人忘疲。」
王丞相は祖約を招いて夜に語り合い、明け方まで眠らなかった。
翌朝、客があったが、公は髪も鬢も整えておらず、少し疲れてもいた。
客は言った。「公は昨夜あのようでしたから、眠りを失われたようです。」
公は言った。「昨夜は士少と話していて、おのずと疲れを忘れさせられた。」
58位も評判もかなり遅れているが、君も彼と交わるに足る
王大將軍與丞相書,稱楊朗曰:「世彥識器理致,才隱明斷,既為國器,且是楊侯淮之子。位望殊為陵遲,卿亦足與之處。」
王大将軍は丞相に書を送って楊朗を称えた。「世彦は識見と器量、理と趣があり、才は隠れているが明らかに断ずる。すでに国の器であり、その上、楊侯淮の子だ。位も評判もかなり遅れているが、君もまた彼と交わるに足る。」
夾注 1
世語曰:「淮字始立,弘農華陰人。曾祖彪、祖脩,有名前世。父囂,典軍校尉。淮元康末為冀州刺史。」荀綽冀州記曰:「淮見王綱不振,遂縱酒不以官事規意,消搖卒歲而已。成都王知淮不治,猶以其名士,惜而不遣,召為軍咨議祭酒,府散停家。關東諸侯欲以淮補三事,以示懷賢尚德之事,未施行而卒。時年二十有七。」
『世語』に言う、「淮は字は始立、弘農華陰の人である。曾祖父の彪と祖父の脩は前の世に名があった。父の囂は典軍校尉である。淮は元康の末に冀州刺史となった」。荀綽の『冀州記』に言う、「淮は王の綱が振るわないのを見て、ついに酒を思うままに飲み、官の事に意を向けず、ぶらぶらと年を送るだけであった。成都王は淮が治めないのを知っていたが、それでも名士であるので惜しんで去らせず、召して軍咨議祭酒としたが、府が散って家に留まった。関東の諸侯は淮を三事に充てて、賢を懐い徳を尚ぶ事を示そうとしたが、実施される前に没した。そのとき二十七歳であった」。
59来なさい、来なさい。ここが君の席だ
何次道往丞相許,丞相以麈尾指坐呼何共坐曰:「來!來!此是君坐。」
何次道が丞相のもとへ行くと、丞相は麈尾で席を指し、何を呼んで一緒に座らせた。「来なさい、来なさい。ここが君の席だ。」
夾注 1
何充已見。
何充はすでに見えている。
60私はまさに次道のためにこれを整えているのだ
丞相治楊州廨舍,按行而言曰:「我正為次道治此爾!」何少為王公所重,故屢發此嘆。
丞相が揚州の官舎を整え、見て回りながら言った。「私はまさに次道のためにこれを整えているのだ。」
何次道は若いころから王公に重んじられていたので、たびたびこうした感嘆を発した。
夾注 1
晉陽秋曰:「充,導妻姊之子,明穆皇后之妹夫也。思韻淹濟,有文義才情,導深器之。由是少有美譽,遂歷顯位。導有副貳已使繼相意,故屢顯此指於上下。」
『晋陽秋』に言う、「充は導の妻の姉の子で、明穆皇后の妹の夫である。思いと気韻が広く事を済まし、文義と才情があったので、導は深く彼を器として重んじた。これによって若くして美しい評判があり、ついに顕職を歴任した。導には副を立てて相を継がせる意があったので、たびたびこの意を上下に示した」。
61劉王喬がもし江を渡っていたら、私が一人で公に任じられることはなかっただろう
王丞相拜司徒而嘆曰:「劉王喬若過江,我不獨拜公。」
王丞相は司徒に任じられると感嘆した。「劉王喬がもし江を渡っていたら、私が一人で公に任じられることはなかっただろう。」
夾注 1
曹嘉之晉紀曰:「疇有重名,永嘉中為閻鼎所害。司徒蔡謨每歎曰:『若使劉王喬得南渡,司徒公之美選也。』」
曹嘉之の『晋紀』に言う、「疇には重い名があったが、永嘉年間に閻鼎に害された。司徒の蔡謨はいつも感嘆して言った、『もし劉王喬が南へ渡れていたら、司徒公の美しい人選であったのに』」。
62主人は堯でも舜でもありません。どうして事ごとにすべて正しいのでしょうか
王藍田為人晚成,時人乃謂之痴;王丞相以其東海子,辟為掾。常集聚,王公每發言,衆人競讚之。述於末坐曰:「主非堯、舜,何得事事皆是?」丞相甚相歎賞。
王藍田は人柄として大成が遅く、当時の人は彼を痴れ者だと言った。
王丞相は彼が東海の子であるからと、召して掾とした。
いつも人が集まったとき、王公が言葉を発するたびに、人々は争ってそれを讃えた。
述は末席から言った。「主人は堯でも舜でもありません。どうして事ごとにすべて正しいのでしょうか。」
丞相はたいそう彼に感嘆し褒めた。
夾注 2
晉陽秋曰:「述體道清粹,簡貴靜正,怡然自足,不交非類。雖群英紛紛,俊乂交馳,述獨蔑然,曾不慕羨。由是名譽久蘊。」
『晋陽秋』に言う、「述は道を身に体して清く純粋、簡素で貴く、静かで正しく、怡然として自ら足り、同類でない者とは交わらなかった。群英が紛々と群れ、俊才が行き交っても、述だけは独り意に介さず、かつて慕い羨むことがなかった。これによって名誉は長く蓄えられた」。
言非聖人,不能無過。意譏讚述之徒。
聖人でなければ過ちがないわけにはいかない、という意味である。その意は、述を讃えた者たちを譏ったのである。
63中朝が乱れなかったら、楊氏が公を出すのはまだ終わっていなかっただろう
世目楊朗:「沈審經斷。」蔡司徒云:「若使中朝不亂,楊氏作公方未已。」謝公云:「朗是大才。」
世間は楊朗を評した。「深く沈んで審らかに見、事を治めて断ずる。」
蔡司徒は言った。「もし中朝が乱れなかったら、楊氏が公を出すのはまだ終わっていなかっただろう。」
謝公は言った。「朗は大才だ。」
夾注 1
八王故事曰:「楊淮有六子,曰:喬、髦、朗、琳、俊、仲,皆得美名。論者以謂悉有台輔之望。文康庾公每追歎曰:『中朝不亂,諸楊作公未已也。』」
『八王故事』に言う、「楊淮には六人の子があり、喬・髦・朗・琳・俊・仲といい、みな美しい名を得た。論ずる者は、いずれも台輔の望みがあると考えた。文康の庾公は追想して感嘆するたびに言った、『中朝が乱れなかったら、諸々の楊が公を出すのはまだ終わっていなかっただろう』」。
64千人の中でも目に入り、百人の中でも目に入る
劉萬安即道真從子。庾公所謂「灼然玉舉」。又云:「千人亦見,百人亦見。」
劉万安は道真の甥である。
庾公がいわゆる「灼然として玉のように挙がる」と言った人である。また「千人の中でも目に入り、百人の中でも目に入る」と言った。
夾注 2
琮字子躬。
琮は字は子躬である。
劉氏譜曰:「綏字萬安,高平人。祖奧,太祝令。父斌,著作郎。綏歷驃騎長史。」
『劉氏譜』に言う、「綏は字は万安、高平の人である。祖父の奥は太祝令、父の斌は著作郎である。綏は驃騎長史を歴任した」。
65まことに海と岱の清士だ
庾公為護軍,屬桓廷尉覓一佳吏,乃經年。桓後遇見徐寧而知之,遂致於庾公曰:「人所應有,其不必有;人所應無,己不必無。真海岱清士。」
庾公が護軍となり、桓廷尉に良い吏を一人探してくれと頼んだが、一年が経った。
桓は後に徐寧に出会って彼を見抜き、そこで庾公に伝えた。「人が持っていてよいものを、彼は必ずしも持っていません。人が持たなくてよいものを、彼は必ずしも欠いていません。まことに海と岱の清士です。」
夾注 1
徐江州本事曰:「徐寧字安期,東海郯人。通朗有德素,少知名。初為輿縣令。譙國桓彝有人倫鑒識,嘗去職無事,至廣陵尋親舊,遇風,停浦中累日,在船憂邑,上岸消搖,見一空宇,有似廨署,彝訪之。云:『輿縣廨也,令姓徐名寧。』彝既獨行,思逢悟賞,聊造之。寧清惠愽涉,相遇怡然。遂停宿,因留數夕,與寧結交而別。至都,謂庾亮曰:『吾為卿得一佳吏部郎。』亮問所在,彝即敘之。累遷吏部郎、左將軍、江州刺史。」
「徐江州本事」に言う、「徐寧は字は安期、東海郯の人である。通じて朗らかで徳と素朴さがあり、若くして名を知られた。初めは輿県令となった。譙国の桓彝は人の品を見分ける眼があったが、かつて職を離れて用のないころ、広陵へ親しい旧友を訪ねに行き、風に遭って浦の中に幾日も留まった。船の中で憂えていたので、岸に上がってぶらぶら歩き、空いた建物があって官署のようなのを見て、彝は尋ねた。『輿県の庁舎です。令は姓は徐、名は寧です』と言った。彝はひとり旅をしながら、分かってくれて賞してくれる人に逢いたいと思っていたので、とりあえず訪ねてみた。寧は清く賢く博く渉り、会ってみて互いに打ち解けた。そこで泊まり、さらに幾晩も留まって、寧と交わりを結んで別れた。都に着くと庾亮に言った、『私は君のために良い吏部郎を一人得た』。亮が所在を尋ねると、彝はすぐそれを述べた。官を重ねて吏部郎・左将軍・江州刺史に至った」。
66褚季野は皮の内の陽秋だ
桓茂倫云:「褚季野皮裡陽秋。」謂其裁中也。
桓茂倫は言った。「褚季野は皮の内の陽秋だ。」
その裁断が内にあることを言ったのである。
夾注 1
晉陽秋曰:「裒簡穆有器識。」故為彝所目也。
『晋陽秋』に言う、「裒は簡素で穆やかで器量と識見があった」。だから彝に品題されたのである。
67この人が死ななければ、ついに諸侯の上客となるだろう
何次道嘗送東人,瞻望見賈寧在後輪中,曰:「此人不死,終為諸侯上客。」
何次道はかつて東の人を送っていたとき、賈寧が後ろの車の中にいるのを望み見て言った。「この人が死ななければ、ついに諸侯の上客となるだろう。」
夾注 1
晉陽秋曰:「寧字建寧,長樂人,賈氏孼子也。初自結於王應、諸葛瑤。應敗,浮遊吳會,吳人咸侮辱之。聞京師亂,馳出投蘇峻,峻甚暱之,以為謀主。及峻聞義軍起,自姑孰屯于石頭,是寧之計。峻敗,先降。仕至新安太守。」
『晋陽秋』に言う、「寧は字は建寧、長楽の人で、賈氏の庶子である。初めは自ら王応・諸葛瑶に取り入った。応が敗れると、呉会を流れ歩き、呉の人はみな彼を侮辱した。都が乱れたと聞いて、駆け出して蘇峻に投じ、峻はたいそう彼を近づけて謀の主とした。峻が義軍が起こったと聞いて、姑孰から石頭に屯したのは、寧の計である。峻が敗れると、先に降った。官は新安太守に至った」。
68弘治はひどく痩せ衰えているので、哀しみを尽くせない
杜弘治墓崩,哀容不稱。庾公顧謂諸客曰:「弘治至羸,不可以致哀。」又曰:「弘治哭不可哀。」
杜弘治は墓が崩れたが、哀しむ様子がそれに釣り合っていなかった。
庾公は客たちを顧みて言った。「弘治はひどく痩せ衰えているので、哀しみを尽くせないのだ。」
また言った。「弘治の哭は哀しみようがない。」
夾注 1
晉陽秋曰:「杜乂字弘治,京兆人。祖預、父錫,有譽前朝。乂少有令名,仕丹陽丞,蚤卒。成帝納乂女為后。」
『晋陽秋』に言う、「杜乂は字は弘治、京兆の人である。祖父の預と父の錫は前朝に誉れがあった。乂は若くして良い名があり、丹陽丞に仕え、早く没した。成帝は乂の娘を納れて后とした」。
69庾文康は豊年の玉、稺恭は荒年の穀だ
世稱「庾文康為豐年玉,稺恭為荒年穀」。庾家論云是文康稱「恭為荒年穀,庾長仁為豐年玉。」
世間はこう称えた、「庾文康は豊年の玉、稺恭は荒年の穀だ」。
庾家の論では、これは文康が「恭は荒年の穀、庾長仁は豊年の玉だ」と称えたのだという。
夾注 1
謂亮有廊廟之器,翼有臣世之才,各有用也。
亮には廊廟の器があり、翼には世に臣として仕える才があって、それぞれ用があることを言ったのである。
70杜弘治は際立って鮮やかで、季野は穆やかで静かだ
世目「杜弘治標鮮,季野穆少」。
世間はこう評した。「杜弘治は際立って鮮やかで、季野は穆やかで静かだ。」
夾注 1
江左名士傳曰:「乂,清標令上也。」
『江左名士伝』に言う、「乂は清く際立って、良く上であった」。
71盛徳の風であり、喜んで詠むに値する
有人目杜弘治:「標鮮清令,盛德之風,可樂詠也。」
ある人が杜弘治を評して言った。「際立って鮮やかで清く良く、盛徳の風であり、喜んで詠むに値する。」
夾注 1
語林曰:「有人目杜弘治,標鮮甚清令,初若熙怡,容無韻,盛德之風,可樂詠也。」
『語林』に言う、「ある人が杜弘治を評して言った、『際立って鮮やかでたいそう清く良く、初めは和やかに見え、容に韻はないが、盛徳の風であり、喜んで詠むに値する』」。
72逸少は国が挙げる人だ
庾公云:「逸少國舉。」故庾倪為碑文云:「拔萃國舉。」
庾公は言った。「逸少は国が挙げる人だ。」
だから庾倪は碑文を作って「萃を抜きんで、国が挙げる人」と書いた。
夾注 1
倪,庾倩小字也。徐廣晉紀曰:「倩字少彥,司空冰子,皇后兄也。有才具,仕至太宰長史。桓溫以其宗彊,使下邳王晃誣與謀反而誅之。」
倪は庾倩の幼名である。徐広の『晋紀』に言う、「倩は字は少彦、司空の冰の子で、皇后の兄である。才と器量があり、官は太宰長史に至った。桓温はその一族が強いことから、下邳王の晃に謀反を共謀したと誣告させて彼を誅した」。
73この人を君に推す。ともに難を済すべき人だ
庾稚恭與桓溫書,稱「劉道生日夕在事,大小殊快。義懷通樂,既佳,且足作友,正實良器,推此與君,同濟艱不者也。」
庾稺恭は桓温に書を送って称えた。「劉道生は日夜事に当たり、大小ともにたいそう手早い。義を懐き通じて楽しく、すでに佳いうえに、友とするにも足り、まさに実に良い器だ。この人を君に推す。ともに難を済すべき人だ。」
夾注 1
宋明帝文章志曰:「劉恢字道生,沛國人。識局明濟,有文武才。王濛每稱其思理淹通,蕃屏之高選,為車騎司馬。年三十六卒,贈前將軍。」
宋の明帝の『文章志』に言う、「劉恢は字は道生、沛国の人である。識見と器局が明らかで事を済まし、文武の才があった。王濛はいつもその思いと理が深く通じていることを称え、藩屏の高い人選だとした。車騎司馬となった。三十六歳で没し、前将軍を贈られた」。
74家の内で忌む名は外には出さず、そのほかに忌むものはない
王藍田拜揚州,主簿請諱,教云:「亡祖先君,名播海內,遠近所知。內諱不出於外,餘無所諱。」
王藍田が揚州に任じられると、主簿が忌む名を尋ねたので、こう教えた。「亡き祖父と亡き父は、名が海内に広まり、遠近の知るところだ。家の内で忌む名は外には出さず、そのほかに忌むものはない。」
夾注 1
禮記曰:「婦人之諱不出門。」
『礼記』に言う、「婦人の忌む名は門を出ない」。
75蕭祖周がすぐに三公になれるかは分からない
蕭中郎,孫丞公婦父。劉尹在撫軍坐,時擬為太常,劉尹云:「蕭祖周不知便可作三公不?自此以還,無所不堪。」
蕭中郎は孫丞公の妻の父である。
劉尹が撫軍の席にいたとき、彼を太常にしようと考えていたので、劉尹は言った。「蕭祖周がすぐに三公になれるかは分からない。それより下なら、堪えられないものはない。」
夾注 1
晉百官名曰:「蕭輪字祖周,樂安人。」劉謙之晉紀曰:「輪有才學,善三禮,歷常侍、國子博士。」
『晋百官名』に言う、「蕭輪は字は祖周、楽安の人である」。劉謙之の『晋紀』に言う、「輪は才学があり、三礼に通じ、常侍・国子博士を歴任した」。
76さきほどの客は、たゆまず進んで、人を迫ってきた
謝太傅未冠,始出西,詣王長史,清言良久。去後,苟子問曰:「向客何如尊?」長史曰:「向客亹亹,為來逼人。」
謝太傅はまだ冠をしていないころ、初めて西へ出て王長史を訪ね、長いあいだ清言を交わした。
去った後、苟子が尋ねた。「さきほどの客は、父上と比べてどうですか。」
長史は言った。「さきほどの客は、たゆまず進んで、人を迫ってきた。」
夾注 1
王濛、子修並已見。
王濛と子の修は、いずれもすでに見えている。
77もし安石が東山の志を立てるなら、天下とともに彼を推そう
王右軍語劉尹:「故當共推安石。」劉尹曰:「若安石東山志立,當與天下共推之。」
王右軍は劉尹に言った。「やはりともに安石を推すべきだ。」
劉尹は言った。「もし安石が東山の志を立てるなら、天下とともに彼を推そう。」
夾注 1
續晉陽秋曰:「初,安家於會稽上虞縣,優遊山林,六七年間,徵召不至,雖彈奏相屬,繼以禁錮,而晏然不屑也。」
『続晋陽秋』に言う、「初め、安は会稽上虞県に家を構え、山林に悠々と遊び、六、七年のあいだ、召されても出てこなかった。弾奏が次々と続き、さらに禁錮されても、平然として意に介さなかった」。
78皮を剥いでも、すべて真だ
謝公稱藍田:「掇皮皆真。」
謝公は藍田を称えた。「皮を剥いでも、すべて真だ。」
夾注 1
徐廣晉紀曰:「述貞審,真意不顯。」
徐広の『晋紀』に言う、「述は貞しく審らかで、真の意を顕さなかった」。
79使える男だ、使える男だ
桓溫行經王敦墓邊過,望之云:「可兒!可兒!」
桓温は道中、王敦の墓の傍を通り、それを望んで言った。「使える男だ、使える男だ。」
夾注 1
孫綽與庾亮牋曰:「王敦可人之目,數十年間也。」
孫綽が庾亮に送った牋に言う、「王敦が可人だという品題は、数十年のあいだのことだ」。
80逸少は清貴な人で、当代に後れるところがない
殷中軍道王右軍云:「逸少清貴人。吾於之甚至,一時無所後。」
殷中軍は王右軍を語った。「逸少は清貴な人だ。私は彼に対してはきわめて深く、当代に後れるところがない。」
夾注 1
文章志曰:「羲之高爽有風氣,不類常流也。」
『文章志』に言う、「羲之は高く爽やかで風気があり、常の流れとは似ていなかった」。
81長所で人に勝るだけでなく、その長所の扱い方でも人に勝る
王仲祖稱殷淵源:「非以長勝人,處長亦勝人。」
王仲祖は殷淵源を称えた。「長所で人に勝るだけでなく、その長所の扱い方でも人に勝る。」
夾注 1
晉陽秋曰:「浩善以通和接物也。」
『晋陽秋』に言う、「浩は通じて和やかに物に接するのが上手だった」。
82殷の陣の構えは浩々として広く、その多くの源は測りようがない
王司州與殷中軍語,嘆云:「己之府奧,蚤已傾寫而見,殷陳勢浩汗,眾源未可得測。」
王司州は殷中軍と語って感嘆した。「自分の蔵の奥は、早くからもう傾け出して見せてしまった。殷の陣の構えは浩々として広く、その多くの源は測りようがない。」
夾注 1
徐廣晉紀曰:「浩清言妙辯玄致,當時名流,皆為其美譽。」
徐広の『晋紀』に言う、「浩の清言と妙弁は玄なるところに至り、当時の名流はみな彼を美しく称えた」。
83真長は金玉が堂に満ちているといえる
王長史謂林公:「真長可謂金玉滿堂。」林公曰:「金玉滿堂,復何為簡選?」王曰:「非為簡選,直致言處自寡耳。」
王長史は林公に言った。「真長は金玉が堂に満ちているといえる。」
林公は言った。「金玉が堂に満ちているのに、何をまた選り分けるのか。」
王長史は言った。「選り分けているのではない。ただ、直截な言葉の出るところがおのずと少ないだけだ。」
夾注 1
謂吉人之辭寡,非擇言而出也。
吉い人の言葉は少ないのであって、言葉を択んで出しているのではないことを言ったのである。
84人が持っていてよいものを、彼は必ずしも持っていない
王長史道江道羣:「人可應有,乃不必有;人可應無,己必無。」
王長史は江道群を語った。「人が持っていてよいものを、彼は必ずしも持っていない。人が持たなくてよいものは、彼には必ずない。」
夾注 1
中興書曰:「江灌字道群,陳留人,僕射虨從弟也。有才器,與從兄道名相亞。〔一〕仕尚書、中護軍。」
『中興書』に言う、「江灌は字は道群、陳留の人で、僕射の虨の従弟である。才と器量があり、従兄と道の名が互いに並んだ。尚書・中護軍に仕えた」。
85会稽の五人は四族の俊才であり、当時の傑物だった
會稽孔沈、魏顗、虞球、虞存、謝奉,並是四族之雋,于時之傑。孫興公目之曰:「沈為孔家金,顗為魏家玉,虞為長、琳宗,謝為弘道伏。」
会稽の孔沈・魏顗・虞球・虞存・謝奉は、いずれも四族の俊才であり、当時の傑物であった。
孫興公は彼らを評して言った。「沈は孔家の金、顗は魏家の玉、虞氏は長と琳を宗とし、謝氏は弘道に伏す。」
夾注 2
沈、存、顗、奉並別見。虞氏譜曰:「球字和琳,會稽餘姚人。祖授,吳廣州刺史。父基、右軍司馬。球仕至黃門侍郎。」
沈・存・顗・奉はいずれも別に見える。『虞氏譜』に言う、「球は字は和琳、会稽余姚の人である。祖父の授は呉の広州刺史、父の基は右軍司馬である。球は官が黄門侍郎に至った」。
長、琳,即存及球字也。弘道,謝奉字也。言虞氏宗長、琳之才,謝氏伏弘道之美也。
長と琳は、すなわち虞存と虞球の字である。弘道は謝奉の字である。虞氏は長と琳の才を宗とし、謝氏は弘道の美に伏すことを言ったのである。
86君はまさにその雲霧の中に落ちたのだ
王仲祖、劉真長造殷中軍談,談竟,俱載去。劉謂王曰:「淵源真可。」王曰:「卿故墮其雲霧中。」
王仲祖と劉真長が殷中軍を訪ねて談じ、談が終わると、ともに車に乗って去った。
劉は王に言った。「淵源はまことに良い。」
王は言った。「君はまさにその雲霧の中に落ちたのだ。」
夾注 1
中興書曰:「浩能言理,談論精微,長於老、易,故風流者皆宗歸之。」
『中興書』に言う、「浩は理を語ることができ、談論は精微で、『老子』と『易』に長けていたので、風流の者はみな彼を宗として帰した」。
87性質はきわめて開けていて、それでもおのずと節度がある
劉尹每稱王長史云:「性至通,而自然有節。」
劉尹は王長史を称えるたびに言った。「性質はきわめて開けていて、それでもおのずと節度がある。」
夾注 1
濛別傳曰:「濛之交物,虛己納善,恕而後行,希見其喜慍之色。凡與一面,莫不敬而愛之。然少孤,事諸母甚謹,篤義穆族,不修小潔,以清貧見稱。」
『濛別伝』に言う、「濛が物に接するときは、自らを虚しくして善を受け入れ、恕してから行ったので、その喜びや怒りの色を見ることは稀であった。およそ一度顔を合わせれば、敬い愛さない者はなかった。しかし幼くして父を失い、諸母に仕えることはたいそう謹み深く、義に篤く一族と睦み、小さな潔癖を修めず、清貧で称された」。
88雲のような枝を掲げながら、繁く広がらない
王右軍道謝萬石「在林澤中,為自遒上」。嘆林公「器朗神雋」。道祖士少「風領毛骨,恐沒世不復見如此人」。道劉真長「標雲柯而不扶疎」。
王右軍は謝万石を評して「林や沢の中にいれば、おのずと強く高い」と言った。
林公を感嘆して「器が朗らかで神が俊でている」と言った。
祖士少を評して「風格も身のこなしも、毛も骨も、世を終えるまで二度とこのような人を見られないのではないかと恐れる」と言った。
劉真長を評して「雲のような枝を掲げながら、繁く広がらない」と言った。
夾注 2
支遁別傳曰:「遁任心獨往,風期高亮。」
『支遁別伝』に言う、「遁は心に任せて独り往き、風格と気概が高く明るかった」。
劉尹別傳曰:「惔既令望,姻婭帝室,故屢居達官。然性不偶俗,心淡榮利。雖身登顯列,而每挹降,閑靜自守而已。」
『劉尹別伝』に言う、「惔はすでに良い評判があり、帝室と姻戚だったので、たびたび高官に居た。しかし性質は俗と合わず、心は栄利に淡かった。身は顕職の列に上ったが、いつも謙り下り、閑かに静かに自ら守るだけであった」。
89庾赤玉の胸中には古びたものがない
簡文目庾赤玉:「省率治除。」謝仁祖云:「庾赤玉胷中無宿物。」
簡文は庾赤玉を評して言った。「省みて率直で、整えて余を除く。」
謝仁祖は言った。「庾赤玉の胸中には古びたものがない。」
夾注 1
赤玉,庾統小字。中興書曰:「統字長仁,潁川人,衛將軍擇子也。少有令名,仕至尋陽太守。」
赤玉は庾統の幼名である。『中興書』に言う、「統は字は長仁、潁川の人で、衛将軍の択の子である。若くして良い名があり、官は尋陽太守に至った」。
90言葉を発し辞を遣わすところには、しばしば情趣がある
殷中軍道韓太常曰:「康伯少自標置,居然是出羣器。及其發言遣辭,往往有情致。」
殷中軍は韓太常を語って言った。「康伯は若いころから自ら身を立て置き、見るからに群を抜く器だ。その言葉を発し辞を遣わすところに至っては、しばしば情趣がある。」
夾注 1
續晉陽秋曰:「康伯清和有思理,幼為舅殷浩所稱。」
『続晋陽秋』に言う、「康伯は清く和やかで思いと理があり、幼くして舅の殷浩に称えられた」。
91ただ真率さが少しあるだけで、人の多くの美点に向き合うに足る
簡文道王懷祖:「才既不長,於榮利又不淡;直以真率少許,便足對人多多許。」
簡文は王懐祖を語った。「才はもともと長くなく、栄利にも淡くはない。ただ真率さが少しあるだけで、それが人の多くの美点に向き合うに足る。」
夾注 1
晉陽秋曰:「述少貧約,簞瓢陋巷,不求聞達,由是為有識所重。」
『晋陽秋』に言う、「述は若くして貧しく倹しく、簞と瓢で陋巷に住み、名の聞こえを求めなかった。これによって識見ある者に重んじられた」。
92長史はもともと人を追い詰めようとしないのだ
林公謂王右軍云:「長史作數百語,無非德音,如恨不苦。」王曰:「長史自不欲苦物。」
林公は王右軍に言った。「長史は何百語も話すが、徳のある言葉でないものはない。ただ、追い詰めないのが残念なようだ。」
王右軍は言った。「長史はもともと人を追い詰めようとしないのだ。」
夾注 1
苦謂窮人以辭。
追い詰めるとは、言葉で人を窮させることを言う。
93文も理もいよいよ強くなった。そうなるのは容易ではない
殷中軍與人書,道謝萬「文理轉遒,成殊不易」。
殷中軍は人に書を送って謝万を語った。「文も理もいよいよ強くなった。そうなるのはなかなか容易ではない。」
夾注 1
中興書曰:「萬才器俊秀,善自衒曜,故致有時譽。兼善屬文,能談論,時人稱之。」
『中興書』に言う、「万は才器が俊秀で、自らを誇り輝かせるのが上手だったので、当時の誉れを得た。あわせて文を作るのがうまく、談論もできたので、当時の人は彼を称えた」。
94江思悛が通じたところは、儒の領域だけではない
王長史云:「江思悛思懷所通,不翅儒域。」
王長史は言った。「江思悛が思いと心で通じたところは、儒の領域だけではない。」
夾注 1
徐廣晉紀曰:「江惇字思悛,陳留人,僕射虨弟也。性篤學,手不釋書,博覽墳典,儒道兼綜。徵聘無所就,年四十九而卒。」
徐広の『晋紀』に言う、「江惇は字は思悛、陳留の人で、僕射の虨の弟である。性は学に篤く、手から書を離さず、墳典を博く読んで、儒と道を兼ね綜べた。徴され招かれても就くところがなく、四十九歳で没した」。
95才情は聞いていた以上だ
許玄度送母,始出都,人問劉尹:「玄度定稱所聞不?」劉曰:「才情過於所聞。」
許玄度が母を送って初めて都に出てくると、ある人が劉尹に尋ねた。「玄度は本当に聞いていたとおりですか。」
劉は言った。「才情は聞いていた以上だ。」
夾注 1
許氏譜曰:「玄度母,華軼女也。」按詢集,詢出都迎姊,於路賦詩,續晉陽秋亦然。而此言送母,疑繆矣。
『許氏譜』に言う、「玄度の母は華軼の娘である」。按ずるに許詢の集では、詢は都に出て姉を迎え、路上で詩を賦したとあり、『続晋陽秋』も同様である。ところがここでは母を送ったとあり、誤りではないかと思われる。
96王家には三人の若者がいる
阮光祿云:「王家有三年少:右軍、安期、長豫。」
阮光禄は言った。「王家には三人の若者がいる。右軍・安期・長豫だ。」
夾注 1
阮裕、王悅、安期、王應並已見。
阮裕・王悦・安期・王応はいずれもすでに見えている。
97もし七賢に出会っていたら、必ず自ら腕を取って林に入っただろう
謝公道豫章:「若遇七賢,必自把臂入林。」
謝公は豫章を語った。「もし七賢に出会っていたら、必ず自ら腕を取って林に入っただろう。」
夾注 1
江左名士傳曰:「鯤通簡有識,不修威儀。好跡逸而心整,形濁而言清。居身若穢,動不累高。鄰家有女,嘗往挑之。女方織,以梭投折其兩齒。既歸,傲然長嘯曰:『猶不廢我嘯歌』,其不事形骸如此。」
『江左名士伝』に言う、「鯤は通じて簡素で識見があり、威儀を修めなかった。跡は放れていながら心は整い、形は濁っていながら言葉は清いのを好んだ。身の処し方は汚れたようでありながら、動きは高さを損なわなかった。隣家に娘がいて、かつて行って誘った。娘はちょうど機を織っていて、梭を投げて彼の歯を二本折った。帰ってから、傲然と長く嘯いて『それでも私の嘯歌はやめさせられない』と言った。彼が形骸を事としないさまはこのようであった」。
98微を尋ねる功は王輔嗣に劣らない
王長史嘆林公:「尋微之功,不減輔嗣。」
王長史は林公を感嘆した。「微を尋ねる功は輔嗣に劣らない。」
夾注 1
支遁別傳曰:「遁神心警悟,清識玄遠,嘗至京師,王仲祖稱其造微之功,不異王弼。」
『支遁別伝』に言う、「遁は神と心が鋭く悟り、清い識見が玄遠であった。かつて京師に至ると、王仲祖はその微に造る功が王弼と異ならないと称えた」。
99起つか起たないかで、江左の興亡を占った
殷淵源在墓所幾十年。于時朝野以擬管、葛,起不起,以卜江左興亡。
殷淵源は墓所にほぼ十年いた。
そのころ朝廷も民間も彼を管仲と諸葛亮になぞらえ、起つか起たないかで、江左の興亡を占った。
夾注 1
續晉陽秋曰:「時穆帝幼沖,母后臨朝,簡文親賢民望,任登宰輔。桓溫有平蜀、洛之勳,擅彊西陝。帝自料文弱,無以抗之。陳郡殷浩,素有盛名,時論比之管、葛。故徵浩為揚州,溫知意在抗己,甚忿焉。」
『続晋陽秋』に言う、「そのころ穆帝は幼く、母后が朝に臨み、簡文は賢に親しく民の望みもあって、任は宰輔に登った。桓温には蜀と洛を平らげた勲があり、西の陝を強さで擅にしていた。帝は自ら文弱で彼に抗せないと考えた。陳郡の殷浩はもとより盛名があり、当時の論は彼を管仲・諸葛亮になぞらえた。そこで浩を徴して揚州としたが、温はその意が自分に抗することにあると知り、たいそう憤った」。
100清い鑑識が貴く要を得ている
殷中軍道右軍:「清鑒貴要。」
殷中軍は右軍を語った。「清い鑑識が貴く要を得ている。」
夾注 1
晉安帝紀曰:「羲之風骨清舉也。」
『晋安帝紀』に言う、「羲之は風骨が清らかに挙がっていた」。
101これまでこんな人を見たことがあるか
謝太傅為桓公司馬,桓詣謝,值謝梳頭,遽取衣幘,桓公云:「何煩此。」因下共語至暝。既去,謂左右曰:「頗曾見如此人不?」
謝太傅が桓公の司馬であったとき、桓が謝を訪ねると、ちょうど謝は髪を梳いていて、あわてて衣と頭巾を取り寄せた。
桓公は言った。「どうしてそんな手間をかけるのか。」
そこで下りてきてともに語り、日暮れに至った。
去った後、桓は左右に言った。「これまでこんな人を見たことがあるか。」
夾注 1
續晉陽秋曰:「初,安優游山水,以敷文析理自娛。桓溫在西蕃,欽其盛名,諷朝廷請為司馬。以世道未夷,志存匡濟。年四十,起家應務也。」
『続晋陽秋』に言う、「初め、安は山水に悠々と遊び、文を敷き理を析いて自ら楽しんだ。桓温は西の藩に在って、その盛名を欽び、朝廷に諷して司馬とするよう請うた。世の道がまだ平らかでなく、志が匡し救うことにあったので、四十歳で家から起って務めに応じた」。
102いま自ら郷里から選んだのに、かえってそれに背けるものか
謝公作宣武司馬,屬門生數十人於田曹中郎趙悅子。悅子以告宣武,宣武云:「且為用半。」趙俄而悉用之,曰:「昔安石在東山,縉紳敦逼,恐不豫人事;況今自鄉選,反違之邪?」
謝公が宣武の司馬となったとき、門生数十人を田曹中郎の趙悦子に託した。
悦子が宣武に告げると、宣武は言った。「まずは半分だけ用いよ。」
趙はやがて全員を用い、こう言った。「昔、安石が東山にいたころ、縉紳が熱心に迫っても、人の事に関わらないのではないかと恐れたものだ。それが今、自ら郷里から選んで寄せたのに、かえってそれに背けるものか。」
夾注 1
伏滔大司馬寮屬名曰:「悅字悅子,下邳人。歷大司馬參軍、左衛將軍。」
伏滔の「大司馬寮属名」に言う、「趙悦は字は悦子、下邳の人である。大司馬参軍・左衛将軍を歴任した」。
103謝尚は神懐が挺でて率直である
桓宣武表云:「謝尚神懷挺率,少致民譽。」
桓宣武は表を上げて言った。「謝尚は神懐が挺でて率直で、若くして民の誉れを得ました。」
夾注 1
溫集載其平洛表曰:「今中州既平,宜時綏定。鎮西將軍豫州刺史尚,神懷挺率,少致人譽,是以入贊百揆,出蕃方司。宜進據洛陽,撫寧黎庶。謂可本官都督司州諸軍事。」
温の集にはその洛陽平定を報じた表が載っており、こう言う、「いま中州はすでに平定されました。時を得て綏め定めるべきです。鎮西将軍・豫州刺史の尚は、神懐が挺でて率直で、若くして人の誉れを得ました。だから入っては百官を助け、出ては地方の任に当たりました。進んで洛陽を押さえ、民を撫めて安んじさせるべきです。本官のまま司州の諸軍事を都督させてよいと存じます」。
104尚はおのずと令く上だ
世目謝尚為令達,阮遙集云:「清暢似達。」或云:「尚自然令上。」
世間は謝尚を令達だとしたが、阮遥集は言った。「清らかで伸びやかで、達に似ている。」
ある人は言った。「尚はおのずと令く上だ。」
夾注 1
晉陽秋曰:「尚率易挺達,超悟令上也。」
『晋陽秋』に言う、「尚は率直で平易、挺でて達し、超えて悟り、令く上であった」。
105わが門中では、長くこのような人を見ていない
桓大司馬病。謝公往省病,從東門入。桓公遙望,嘆曰:「吾門中久不見如此人!」
桓大司馬が病んだ。謝公が病を見舞いに行き、東の門から入った。
桓公は遠くからそれを望んで感嘆した。「わが門中では、長くこのような人を見ていない。」
夾注 1
溫時在姑孰。
温はそのとき姑孰にいた。
106簡文は敬豫を評して朗豫とした
簡文目敬豫為「朗豫」。
簡文は敬豫を評して「朗豫」とした。
夾注 1
王恬已見。文字志曰:「恬識理明貴,為後進冠冕也。」
王恬はすでに見えている。『文字志』に言う、「恬は識見と理が明らかで貴く、後進の冠たる者であった」。
107衛君長の風韻は君たちに及ばないが、心を傾け尽くすところでは遠くはない
孫興公為庾公參軍,共遊白石山。衛君長在坐,孫曰:「此子神情都不關山水,而能作文。」庾公曰:「衛風韻雖不及卿諸人,傾倒處亦不近。」孫遂沐浴此言。
孫興公は庾公の参軍となり、ともに白石山に遊んだ。衛君長も席にいた。
孫は言った。「この人は神情がまるで山水に関わりがないのに、文を作ることができる。」
庾公は言った。「衛の風韻は君たちには及ばないが、心を傾け尽くすところでは、やはり遠くはない。」
孫はついにこの言葉に浸って喜んだ。
夾注 1
衛氏譜曰:「承字君長,成陽人,位至左軍長史。」
『衛氏譜』に言う、「承は字は君長、成陽の人で、位は左軍長史に至った」。
108石を積んだようでありながら、正しい骨がある
王右軍目陳玄伯:「壘塊有正骨。」
王右軍は陳玄伯を評して言った。「石を積んだようでありながら、正しい骨がある。」
夾注 1
陳泰已見。
陳泰はすでに見えている。
109劉尹が私を知ることは、私が自分を知るよりも勝る
王長史云:「劉尹知我,勝我自知。」
王長史は言った。「劉尹が私を知ることは、私が自分を知るよりも勝る。」
夾注 1
濛別傳曰:「濛與沛國劉惔齊名,時人以濛比袁曜卿,惔比荀奉倩,而共交友,甚相知賞也。」
『濛別伝』に言う、「濛は沛国の劉惔と名を並べ、当時の人は濛を袁曜卿に、惔を荀奉倩になぞらえた。そして互いに友として交わり、たいそう知り合い認め合った」。
110これは鉢の後の王弼・何晏だ
王、劉聽林公講,王語劉曰:「向高坐者,故是凶物。」復東聽,王又曰:「自是鉢釪後王,何人也。」
王と劉が林公の講義を聴いていたとき、王は劉に言った。「さきほど高座にいる人は、まさに恐ろしいものだ。」
また東から聴いて、王はまた言った。「これはおのずと鉢の後の王弼・何晏だ。」
夾注 1
高逸沙門傳曰:「王濛恆尋遁,遇祗洹寺中講,正在高坐上,每舉麈尾,常領數百言,而情理俱暢。預坐百餘人,皆結舌注耳。濛云聽講眾僧:『向高坐者,是鉢釪後王、何人也。』」
『高逸沙門伝』に言う、「王濛はいつも遁を尋ねていたが、祗洹寺の中で講じているのに出会った。ちょうど高座の上にいて、麈尾を挙げるたびに、いつも数百語を連ね、情も理もともに伸びやかであった。席に連なる者が百余人、みな舌が固まって耳を傾けた。濛は講を聴く僧たちに言った、『さきほど高座にいた人は、鉢の後の王弼・何晏だ』」。
111至精の者でなければ、これとともに理を析つことはできない
許玄度言:「琴賦所謂『非至精者,不能與之析理』,劉尹其人;『非淵靜者,不能與之閑止』,簡文其人。」
許玄度は言った。「「琴賦」にいわゆる『至精の者でなければ、これとともに理を析つことはできない』とあるのは、劉尹がその人だ。『淵静の者でなければ、これとともに閑かに止まることはできない』とあるのは、簡文がその人だ。」
夾注 1
稽叔夜琴賦也。劉惔真長,丹陽尹。
嵇叔夜の「琴賦」である。劉惔真長は丹陽尹である。
112大宗は衰えたとはいえ、魏氏にはもう人材が出ている
魏隱兄弟,少有學義,總角詣謝奉。奉與語,大說之,曰:「大宗雖衰,魏氏已復有人。」
魏隠の兄弟は若くして学問と義があり、総角の年に謝奉を訪ねた。
奉は彼らと語ってたいそう喜び、こう言った。「大宗は衰えたとはいえ、魏氏にはもう人材が出ている。」
夾注 1
魏氏譜曰:「隱字安時,會稽上虞人。歷義興太守、御史中丞。弟逷,黃門郎。」
『魏氏譜』に言う、「隠は字は安時、会稽上虞の人である。義興太守・御史中丞を歴任した。弟の逷は黄門郎である」。
113淵源の言葉は、超え抜けて簡にして至るというほどではない
簡文云:「淵源語不超詣簡至;然經綸思尋處,故有局陳。」
簡文は言った。「淵源の言葉は、超え抜けて簡にして至るというほどではない。しかし経綸し思い尋ねるところには、やはり構えと陣がある。」
114法汰を得られなければ、車を止めて出かけなかった
初,法汰北來未知名,王領軍供養之。每與周旋,行來往名勝許,輒與俱。不得汰,便停車不行。因此名遂重。
初め、法汰が北から来てまだ名を知られていなかったころ、王領軍が彼を供養した。
ともに行き来するたび、名士たちのもとへ出入りするときには必ず彼を連れて行き、汰を得られなければ、車を止めて出かけなかった。
これによって名はついに重くなった。
夾注 3
車頻秦書曰:「釋道安為慕容晉所掠,欲投襄陽,行至新野,集眾議曰:『今遭凶年,不依國主,則法事難舉。』乃分僧眾,使竺法汰詣揚州,曰:『彼多君子,上勝可投。』法汰遂渡江,至揚土焉。」
車頻の『秦書』に言う、「釈道安は慕容晋に掠われたが、襄陽に投じようとして新野まで来たとき、衆を集めて議して言った、『いま凶年に遭った。国主に依らなければ、法事を挙げるのは難しい』。そこで僧の衆を分け、竺法汰を揚州へ行かせ、『あそこには君子が多い。上って頼るによい』と言った。法汰はついに江を渡り、揚の地に至った」。
中興書曰:「王洽字敬和,丞相導第三子,累遷吳郡內史,為士民所懷。徵拜中領軍,尋加中書令,不拜。年二十六而卒。」
『中興書』に言う、「王洽は字は敬和、丞相の導の第三子である。官を重ねて呉郡内史となり、士民に慕われた。徴されて中領軍に任じられ、やがて中書令を加えられたが、受けなかった。二十六歳で没した」。
名德沙門題目曰:「法汰高亮開達。」孫綽為汰贊曰:「淒風拂林,明泉映壑。爽爽法汰,校德無怍。事外瀟灑,神內恢廓。實從前起,名隨後躍。」泰元起居注曰:「法汰以十二卒。烈宗詔曰:『法汰飾喪逝,哀痛傷懷,可贈錢十萬。』」
『名徳沙門題目』に言う、「法汰は高く明るく、開けて達していた」。孫綽が汰のために作った賛に言う、「淒しい風が林を払い、明るい泉が谷に映る。爽やかな爽やかな法汰は、徳を較べて恥じるところがない。事の外では瀟洒、神の内では恢廓である。実はまず起こり、名は後から躍る」。『泰元起居注』に言う、「法汰は十二月に没した。烈宗は詔して言った、『法汰の喪を飾るにあたり、哀痛して心が傷む。銭十万を贈ってよい』」。
115識見と至り着いたところが落ち着いていて、当代の評判にかなうに十分だ
王長史與大司馬書,道淵源「識致安處,足副時談。」
王長史は大司馬に書を送り、淵源を語った。「識見と至り着いたところが落ち着いていて、当代の評判にかなうに十分だ。」
116劉尹の言葉は審らかで細やかだ
謝公云:「劉尹語審細。」
謝公は言った。「劉尹の言葉は審らかで細やかだ。」
夾注 1
孫綽為惔諫敘曰:「神猶淵鏡,言必珠玉。」
孫綽が惔のために作った諫の序に言う、「神は淵と鏡のようで、言葉は必ず珠玉であった」。
117朝廷がその才に違えて用いただけだ
桓公語嘉賓:「阿源有德有言,向使作令僕,足以儀刑百揆。朝廷用違其才耳。」
桓公は嘉賓に言った。「阿源には徳があり言葉がある。もし尚書令か僕射にしていたら、百官の手本となるに十分だっただろう。朝廷がその才に違えて用いただけだ。」
夾注 1
嘉賓,郗超小字也。阿源,殷浩也。
嘉賓は郗超の幼名である。阿源は殷浩である。
118その言葉を繰り返してみれば、やはり過ちはない
簡文語嘉賓:「劉尹語末後亦小異,回復其言,亦乃無過。」
簡文は嘉賓に言った。「劉尹の言葉は、終わりのほうで少し違ってくるが、その言葉を繰り返してみれば、やはり過ちはない。」
119二人の賢者には、たしかに彼ら自身の才情がある
孫興公、許玄度共在白樓亭,共商略先往名達。林公既非所關,聽訖云:「二賢故自有才情。」
孫興公と許玄度がともに白楼亭にいて、先に世を去った名士・達人たちを一緒に評し量った。
林公はもともと関わるところではなかったが、聞き終えて言った。「二人の賢者には、たしかに彼ら自身の才情がある。」
夾注 1
會稽記曰:「亭在山陰,臨流映壑也。」
『会稽記』に言う、「亭は山陰にあり、流れに臨み谷に映る」。
120わが家の阿林は、文と清らかさがよく表に出ている
王右軍道東陽「我家阿林,章清太出」。
王右軍は東陽を語った。「わが家の阿林は、文と清らかさがよく表に出ている。」
夾注 1
「林」應為「臨」。王氏譜曰:「臨之字仲產,琅邪人,僕射彪之子。仕至東陽太守。」
「林」は「臨」であるべきである。『王氏譜』に言う、「臨之は字は仲産、琅邪の人で、僕射の彪之の子である。官は東陽太守に至った」。
121淵源は事に当たるといつも気楽に構える
王長史與劉尹書,道淵源「觸事長易」。
王長史は劉尹に書を送り、淵源を語った。「事に当たるといつも気楽に構える。」
122王脩載の、楽しんで任せる性質は、家の風から出たものだ
謝中郎云:「王脩載樂託之性,出自門風。」
謝中郎は言った。「王脩載の、楽しんで任せる性質は、家の風から出たものだ。」
夾注 1
王氏譜曰:「耆之字修載,琅邪人,荊州刺史廙第三子。歷中書郎、鄱陽太守、給事中。」
『王氏譜』に言う、「王耆之は字は脩載、琅邪の人で、荊州刺史の廙の第三子である。中書郎・鄱陽太守・給事中を歴任した」。
123王敬仁は超えて悟る人だ
林公云:「王敬仁是超悟人。」
林公は言った。「王敬仁は超えて悟る人だ。」
夾注 1
文字志曰:「脩之少有秀令之稱。」
『文字志』に言う、「脩之は若くして秀で令いという評があった」。
124昔、かつて北面した
劉尹先推謝鎮西,謝後雅重劉曰:「昔嘗北面。」
劉尹が先に謝鎮西を推し、謝は後に雅やかに劉を重んじて言った。「昔、かつて北面した。」
夾注 1
按謝尚年長於惔,神穎夙彰,而曰北面於劉,非可信。
按ずるに、謝尚は惔より年長で、神と才の秀でたことは早くから顕れていたのに、劉に北面したというのは、信じられることではない。
125司州とは林や沢に遊べる
謝太傅稱王脩齡曰:「司州可與林澤遊。」
謝太傅は王脩齢を称えて言った。「司州とは林や沢に遊べる。」
夾注 1
王胡之別傳曰:「胡之常遺世務,以高尚為情,與謝安相善也。」
『王胡之別伝』に言う、「胡之はつねに世務を捨て、高尚を情とし、謝安と親しかった」。
126揚州で独歩する王文度、後から出て人に抜きんでる郗嘉賓
諺曰:「楊州獨步王文度,後來出人郗嘉賓。」
諺に言う、「揚州で独歩する王文度、後から出て人に抜きんでる郗嘉賓」。
夾注 1
續晉陽秋曰:「超少有才氣,越世負俗,不循常檢。時人為一代盛譽者,語曰:『太才槃槃謝家安,江東獨步王文度,盛德日新郄嘉賓。』」其語小異,故詳錄焉。
『続晋陽秋』に言う、「超は若くして才気があり、世を越えて俗に背き、常の検束に従わなかった。当時の人が一代の盛んな誉れとした言葉に、『大才が盤々たるは謝家の安、江東に独歩するは王文度、盛徳が日ごとに新しきは郗嘉賓』とある」。その言葉が少し違うので、詳しく記しておく。
127江氏はみな、それぞれ自分で立っていくに十分だ
人問王長史江虨兄弟羣從,王答曰:「諸江皆復足自生活。」
ある人が王長史に江虨の兄弟や一族のことを尋ねると、王長史は答えた。「江氏はみな、それぞれ自分で立っていくに十分だ。」
夾注 1
虨及弟淳,從灌,並有德行,知名於世。
虨と弟の淳、従弟の灌は、いずれも徳行があり、世に名を知られた。
128戸を出て行ってしまうと、人に恋しく思わせることもない
謝太傅道安北:「見之乃不使人厭,然出戶去,不復使人思。」
謝太傅は安北を語った。「会っていると人を厭きさせないが、戸を出て行ってしまうと、人に恋しく思わせることもない。」
夾注 1
安北,王坦之也。續晉陽秋曰:「謝安初攜幼釋同好,養志海濱,襟情超暢,尤好聲律。然抑之以禮,在哀能至,弟萬之喪,不聽絲竹者將十年。及輔政,而修室第園館,麗車服,雖期功之慘,不廢妓樂。王坦之因苦諫焉。」按謝公蓋以王坦之好直言,故不思爾。
安北は王坦之である。『続晋陽秋』に言う、「謝安は初め、幼い者を連れ、気の合う者とともに、海辺で志を養い、襟懐は超えて伸びやかで、とりわけ声律を好んだ。しかし礼でそれを抑え、哀しみにも至り尽くすことができた。弟の万の喪には、十年近く糸竹を聴かなかった。輔政するようになると、邸宅や庭園・館を修め、車と衣服を麗しくし、期や功の喪の悲しみがあっても、妓や楽をやめなかった。王坦之はそこで苦々しく諫めた」。按ずるに、謝公はおそらく王坦之が直言を好むために、恋しく思わなかっただけである。
129司州は至り着いて勝れ、あまねく決する
謝公云:「司州造勝遍決。」
謝公は言った。「司州は至り着いて勝れ、あまねく決する。」
夾注 1
宋明帝文章志曰:「胡之性簡,好達玄言也。」
宋の明帝の『文章志』に言う、「胡之は性が簡素で、玄言に通じるのを好んだ」。
130何次道が酒を飲むのを見ると、家の酒をみな傾けたくなる
劉尹云:「見何次道飲酒,使人欲傾家釀。」
劉尹は言った。「何次道が酒を飲むのを見ると、家の酒をみな傾けたくなる。」
夾注 1
充飲酒能溫克。
充は酒を飲んでも穏やかに自らを制することができた。
131それもまた名士のうち、高い操を持つ者だ
謝太傅語真長:「阿齡於此事,故欲太厲。」劉曰:「亦名士之高操者。」
謝太傅は真長に言った。「阿齢はこの事については、どうも厳しすぎようとする。」
劉は言った。「それもまた名士のうち、高い操を持つ者だ。」
夾注 2
修齡,王胡之小字也。
脩齢は王胡之の幼名である。
胡之別傳曰:「胡之治身清約,以風操自居。」
『胡之別伝』に言う、「胡之は身を治めることが清く倹しく、風格と節操をもって自ら居した」。
132世間は士少を朗だとするが、わが家でもやはり徹朗だとする
王子猷說:「世目士少為朗,我家亦以為徹朗。」
王子猷は言った。「世間は士少を評して朗だとするが、わが家でもやはり徹朗だとする。」
夾注 1
晉諸公贊曰:「祖約少有清稱。」
『晋諸公賛』に言う、「祖約は若くして清い評があった」。
133長史の言葉はさほど多くないが、令い音があるといえる
謝公云:「長史語甚不多,可謂有令音。」
謝公は言った。「長史の言葉はさほど多くないが、令い音があるといえる。」
夾注 1
王濛別傳曰:「濛性和暢,能清言,談道貴理中,簡而有會。商略古賢,顯默之際,辭旨劭令,往往有高致。」
『王濛別伝』に言う、「濛は性が和やかで伸びやかで、清言ができ、道を談じては理の中を貴び、簡にして会するところがあった。古の賢を評し量るとき、顕と黙のあわいで、辞と旨が優れて美しく、しばしば高い趣があった」。
134敬仁の文学は鏃のように鋭く、新しくないものがない
謝鎮西道敬仁「文學鏃鏃,無能不新」。
謝鎮西は敬仁を語った。「文学は鏃のように鋭く、新しくないものがない。」
夾注 1
語林曰:「敬仁有異才,時賢皆重之。王右軍在郡迎敬仁,叔仁輒同車,常惡其遲。後以馬迎敬仁,雖復風雨,亦不以車也。」
『語林』に言う、「敬仁には異才があり、当時の賢者はみな彼を重んじた。王右軍が郡にいて敬仁を迎えるとき、叔仁がすぐ同じ車に乗り、いつもその遅さを嫌った。後には馬で敬仁を迎え、たとえ風雨になっても、やはり車を用いなかった」。
135語ることはできないが、語らないことはできる
劉尹道江道羣「不能言而能不言」。
劉尹は江道群を語った。「語ることはできないが、語らないことはできる。」
夾注 1
江灌已見。
江灌はすでに見えている。
136司州に会うと、鋭さと悟りが次々に至ってくる
林公云:「見司州警悟交至,使人不得住,亦終日忘疲。」
林公は言った。「司州に会うと、鋭さと悟りが次々に至って、人を落ち着かせず、また一日中疲れを忘れさせる。」
夾注 1
王胡之別傳曰:「胡之少有風尚,才器率舉,有秀悟之稱。」
『王胡之別伝』に言う、「胡之は若くして風格と高い志があり、才と器量が率直に挙がって、秀でて悟るという評があった」。
137苟子は秀でて抜きんで、阿興は清く和やかだ
世稱:「苟子秀出,阿興清和。」
世間はこう称えた、「苟子は秀でて抜きんで、阿興は清く和やかだ」。
夾注 1
苟子已見。阿興,王蘊小字。
苟子はすでに見えている。阿興は王蘊の幼名である。
138劉尹は茶の木の幹のように、実のある理がある
簡文云:「劉尹茗柯有實理。」
簡文は言った。「劉尹は茶の木の幹のように、実のある理がある。」
夾注 1
柯,一作打,又作仃,又作打。
柯は、一本に打、また仃、また打とある。
139君の親はその姑、わが父はただ舅
謝胡兒作著作郎,嘗作《王堪傳》。不諳堪是何似人,咨謝公。謝公答曰:「世冑亦被遇。堪,烈之子,阮千里姨兄弟,潘安仁中外。安仁詩所謂『子親伊姑,我父唯舅』。是許允壻。」
謝胡児が著作郎となり、かつて「王堪伝」を書いた。
堪がどのような人か分からなかったので、謝公に尋ねた。
謝公は答えた。「世冑も厚遇された人だ。堪は烈の子で、阮千里とは母方の従兄弟、潘安仁とは内外の縁続きだ。安仁の詩にいわゆる『君の親はその姑、わが父はただ舅』というのがそれだ。許允の婿である。」
夾注 3
晉諸公贊曰:「堪字世冑,東平壽張人,少以高亮義正稱。為尚書左丞,有準繩操。為石勒所害,贈太尉。」
『晋諸公賛』に言う、「堪は字は世冑、東平寿張の人である。若くして高く明るく、義しく正しいことで称された。尚書左丞となり、縄のような節操があった。石勒に害され、太尉を贈られた」。
晉諸公贊曰:「烈字陽秀,蚤知名。魏朝為治書御史。」
『晋諸公賛』に言う、「烈は字は陽秀、早くに名を知られた。魏の朝廷で治書御史となった」。
岳集曰:「堪為成都王軍司馬。岳送至北邙別,作詩曰:『微微髮膚,受之父母。峨峨王侯,中外之首。子親伊姑,我父唯舅。』」
潘岳の集に言う、「堪が成都王の軍司馬となった。岳は北邙まで送って別れるとき、詩を作って言った、『微かな髪と膚は、父母より受けたもの。峨々たる王侯は、内外の首である。君の親はその姑、わが父はただ舅』」。
140天地に知るところがなく、伯道に子をなくさせた
謝太傅重鄧僕射,常言「天地無知,使伯道無兒」。
謝太傅は鄧僕射を重んじ、いつも言った。「天地に知るところがなく、伯道に子をなくさせた。」
夾注 1
晉陽秋曰:「鄧攸既棄子,遂無復繼嗣,為有識傷惜。」
『晋陽秋』に言う、「鄧攸は子を棄ててしまって、ついに後を継ぐ者がなく、識見ある者は心を痛め惜しんだ」。
141敬和は身を寄せ託するところが良く美しい
謝公與王右軍書曰:「敬和棲託好佳。」
謝公は王右軍に書を送って言った。「敬和は身を寄せ託するところが良く美しい。」
夾注 1
中興書曰:「洽於公子中最知名,與潁川荀羡俱有美稱。」
『中興書』に言う、「洽は公子たちの中で最も名を知られ、潁川の荀羡とともに美しい評判があった」。
142張は文、朱は武、陸は忠、顧は厚
吳四姓舊目云:「張文、朱武、陸忠、顧厚。」
呉の四姓について古くからこう言われた、「張は文、朱は武、陸は忠、顧は厚」。
夾注 1
吳錄士林曰:「吳郡有顧、陸、朱、張,為四姓。三國之間,四姓盛焉。」
『呉録士林』に言う、「呉郡には顧・陸・朱・張があり、四姓となった。三国のあいだ、四姓は盛んであった」。
143君の家の藍田は、全身どこにも常人らしいところがない
謝公語王孝伯:「君家藍田,舉體無常人事。」
謝公は王孝伯に言った。「君の家の藍田は、全身どこにも常人らしいところがない。」
夾注 1
按述雖簡,而性不寬裕,投火怒蠅,方之未甚。若非太傅虛相褒飾,則世說謬設斯語也。
按ずるに、述は簡素ではあったが、性は寛裕でなく、火に投げ入れ蠅に怒った類は、これに比べれば甚しいほどでもない。もし太傅が虚しく褒め飾ったのでないなら、『世説』がこの言葉を誤って載せたのである。
144玄度の才情は、やはりそう多くは得がたい
許掾嘗詣簡文,爾夜風恬月朗,乃共作曲室中語。襟情之詠,偏是許之所長。辭寄清婉,有逾平日。簡文雖契素,此遇尤相咨嗟。不覺造厀,共叉手語,達于將旦。既而曰:「玄度才情,故未易多有許。」
許掾がかつて簡文を訪ねたが、その夜は風が穏やかで月が明るく、そこで奥の一室でともに語り合った。
胸に抱くところを詠むのは、とりわけ許の得意とするところであった。言葉も寄せ方も清らかで婉やかで、普段を越えていた。
簡文はもとから意気が合っていたが、この出会いにはいよいよ感嘆した。知らぬうちに膝が触れ、ともに手を取り合って語り、明け方近くまで及んだ。
やがて言った。「玄度の才情は、やはりそう多くは得がたい。」
夾注 1
續晉陽秋曰:「詢能言理,曾出都迎姊,簡文皇帝劉真長說其情旨及襟懷之詠。每造厀賞對,夜以繫日。」
『続晋陽秋』に言う、「詢は理を語ることができた。かつて都に出て姉を迎えたとき、簡文皇帝と劉真長はその情趣と旨、胸に抱くところの詠を語った。膝を突き合わせて賞し合うたびに、夜を昼に継いだ」。
145開美をもって彼を求めてはならない
殷允出西,郗超與袁虎書云:「子思求良朋,託好足下,勿以開美求之。」世目袁為「開美」,故子敬詩曰:「袁生開美度。」
殷允が西へ出るとき、郗超は袁虎に書を送って言った。「子思は良い友を求めて、親しみを足下に託した。開美をもって彼を求めてはならない。」
世間は袁を「開美」と評したので、子敬の詩に「袁生は開美の度」とある。
夾注 1
中興書曰:「允字子思,陳郡人,太常康第六子。恭素謙退,有儒者之風。歷吏部尚書。」
『中興書』に言う、「允は字は子思、陳郡の人で、太常の康の第六子である。恭しく素朴で謙り退き、儒者の風格があった。吏部尚書を歴任した」。
146子敬に会ってさえ、人は心を離せなくなる
謝車騎問謝公:「真長性至峭,何足乃重?」答曰:「是不見耳!阿見子敬,尚使人不能已。」
謝車騎が謝公に尋ねた。「真長は性質がきわめて峻しいのに、どうしてそこまで重んじるに足るのですか。」
答えた。「それは見ていないだけだ。子敬に会ってさえ、人は心を離せなくなるのだから。」
夾注 1
語林曰:「羊驎因酒醉,撫謝左軍謂太傅曰:『此家詎復後鎮西?』太傅曰:『汝阿見子敬,便沐浴為論兄輩。』」推此言意,則安以玄不見真長,故不重耳。見子敬尚重之,況真長乎?
『語林』に言う、「羊驎が酒に酔った勢いで、謝左軍を撫でて太傅に言った、『この家がどうしてまた鎮西に後れましょうか』。太傅は『お前が子敬に会ったら、沐浴して兄のように論ずるだろう』と言った」。この言葉の意を推せば、安は、玄が真長に会っていないから重んじないだけだと言ったのである。子敬に会ってさえ重んじるのに、まして真長であろう。
147さきほど阿瓜に会ったが、やはりそう簡単にはいない人だ
謝公領中書監,王東亭有事應同上省,王後至,坐促,王、謝雖不通,太傅猶斂厀容之。王神意閑暢,謝公傾目。還謂劉夫人曰:「向見阿瓜,故自未易有。雖不相關,正是使人不能已已。」
謝公が中書監を領していたとき、王東亭が用事があって一緒に省へ上がることになったが、王は後から着き、席が詰まっていた。
王と謝は往き来のない仲であったが、太傅はそれでも膝を引いて彼を入れてやった。
王は神も意も閑かで伸びやかだったので、謝公は目を向けた。
帰ってから劉夫人に言った。「さきほど阿瓜に会ったが、やはりそう簡単にはいない人だ。互いに関わりはないが、まさに人が心を離せなくなる人だ。」
夾注 2
王、謝不通事。別見。
王と謝が往き来のなかった事は、別に見える。
按王詢小字法護,而此言阿瓜,未為可解,儻小名有兩耳。
按ずるに、王詢の幼名は法護であるのに、ここで阿瓜と言うのは解しがたい。もしや幼名が二つあったのだろうか。
148私は瀟灑ではない。君が私を評したのが一番当たっている
王子敬語謝公:「公故蕭灑。」謝曰:「身不蕭灑。君道身最得,身正自調暢。」
王子敬が謝公に言った。「公はさすがに瀟灑です。」
謝公は言った。「私は瀟灑ではない。君が私を評したのが一番当たっている。私はただおのずと調い伸びているだけだ。」
夾注 1
續晉陽秋曰:「安弘雅有氣,風神調暢也。」
『続晋陽秋』に言う、「安は弘雅で気があり、風神が調い伸びやかであった」。
149瀟灑に出会ったようでありながら、やはり静かに夜を終える
謝車騎初見王文度曰:「見文度雖蕭灑相遇,其復愔愔竟夕。」
謝車騎は初めて王文度に会って言った。「文度に会ってみると、瀟灑に出会ったようでありながら、やはり静かに夜を終えるのだ。」
150この舅がいなければ、どうしてこの甥がいよう
范豫章謂王荊州:「卿風流雋望,真後來之秀。」王曰:「不有此舅,焉有此甥?」
范豫章が王荊州に言った。「君は風流で俊でた望みがあり、まことに後から来る秀才だ。」
王荊州は言った。「この舅がいなければ、どうしてこの甥がいましょう。」
夾注 1
范甯、王忱並已見。
范甯と王忱はいずれもすでに見えている。
151兄は人と交わることが少ないが、酒に出会えば伸びやかになって帰るのを忘れる
子敬與子猷書,道「兄伯蕭索寡會,遇酒則酣暢忘反,乃自可矜」。
子敬は子猷に書を送って言った。「兄は蕭索として人と交わることが少ないが、酒に出会えば酣い伸びやかになって帰るのを忘れる。そこがおのずと愛でるに足る。」
152張天錫は王弥に会って驚き服した
張天錫世雄涼州,以力弱詣京師,雖遠方殊類,亦邊人之桀也。聞皇京多才,欽羡彌至。猶在渚住,司馬著作往詣之。言容鄙陋,無可觀聽。天錫心甚悔來,以遐外可以自固。王彌有雋才美譽,當時聞而造焉。既至,天錫見其風神清令,言話如流,陳說古今,無不貫悉。又諳人物氏族,中來皆有證據。天錫訝服。
張天錫は代々涼州に雄として拠っていたが、力が弱まって都に来た。遠方の異なる種族とはいえ、やはり辺境の人の中の傑物であった。
皇都に才ある者が多いと聞いて、欽び羨むことはいよいよ深かった。
まだ渚に滞在しているとき、司馬著作が訪ねてきた。言葉も容も鄙しく陋しく、見るべき聴くべきものがなかった。
天錫は心から来たことを悔い、遠い外にいれば自ら固めていられたのに、と思った。
王弥は俊才と美しい評判があり、当時それを聞いて訪ねてきた。
着いてみると、天錫は彼の風神が清く令く、話は流れるようで、古今を述べてことごとく通じ尽くさないものがないのを見た。さらに人物や氏族に通じ、中原以来のことにはみな典拠があった。
天錫は驚いて服した。
夾注 3
天錫已見。
天錫はすでに見えている。
未詳。
詳らかでない。
續晉陽秋曰:「珉風情秀發,才辭富贍。」
『続晋陽秋』に言う、「珉は風情が秀でて発し、才と辞が豊かであった」。
153王大はまさにおのずと濯われたようだ
王恭始與王建武甚有情,後遇袁悅之間,遂致疑隟。然每至興會,故有相思。時恭嘗行散至京口射堂,于時清露晨流,新桐初引,恭目之曰:「王大故自濯濯。」
王恭は初め王建武とたいそう情が通じていたが、後に袁悦の離間に遭い、ついに疑いと隙を生じた。
それでも興の湧く集まりのたびに、やはり互いを思うことがあった。
そのころ恭はかつて散薬のあとを歩いて京口の射堂に至った。このとき清い露が朝に流れ、新しい桐が初めて芽を伸ばしており、恭はそれを見て言った。「王大はまさにおのずと濯われたようだ。」
夾注 1
晉安帝紀曰:「初,忱與族子恭少相善,齊聲見稱。及並登朝,俱為主相所待,內外始有不咸之論。恭獨深憂之,乃告忱曰:『悠悠之論,頗有異同,當由驃騎簡於朝覲故也。將無從容切言之邪?若主相諧睦,吾徒得戮力明時,復何憂哉?』忱以為然,而慮弗見令,乃令袁悅具言之。悅每欲間恭,乃於王坐責讓恭曰:『卿何妄生同異,疑誤朝野?』其言切厲。恭雖惋悵,謂忱為搆己也。忱雖心不負恭,而無以自亮。於是情好大離,而怨隙成矣。」
『晋安帝紀』に言う、「初め、忱は族子の恭と若くして親しく、声を斉しくして称えられた。ともに朝に登り、ともに主と相に待遇されると、内外に初めて和さないという論が起こった。恭ひとりこれを深く憂え、そこで忱に告げた、『悠々の論にはかなり異同がある。おそらく驃騎が朝覲に簡であるためだろう。ゆるやかに切に言ってみてはどうか。もし主と相が睦めば、我らは明るい時に力を尽くせる。何を憂えることがあろう』。忱はそのとおりだと思ったが、取り合ってもらえないかと慮り、袁悦に細かく言わせた。悦はいつも恭を離間しようとしていたので、王の席で恭を責めて言った、『君はどうして妄りに同異を生じ、朝野を疑わせ誤らせるのか』。その言葉は切で厲しかった。恭は惋み悵んだが、忱が自分を構えたと思った。忱は心では恭を裏切っていなかったが、自ら明かすすべがなかった。こうして情好は大きく離れ、怨みと隙ができあがった」。
154孝伯は亭々として真っすぐ上り、阿大は羅々として清く疎らだ
司馬太傅為二王目曰:「孝伯亭亭直上,阿大羅羅清疎。」
司馬太傅は二人の王を評して言った。「孝伯は亭々として真っすぐ上り、阿大は羅々として清く疎らだ。」
夾注 1
恭,正亮沈烈;忱,通朗誕放。
恭は正しく明るく、沈んで烈しかった。忱は通じて朗らかで、大きく放たれていた。
155王恭には清い辞と簡やかな旨があった
王恭有清辭簡旨,能敘說,而讀書少,頗有重出。有人道孝伯常有新意,不覺為煩。
王恭には清い辞と簡やかな旨があり、述べ説くことができたが、読んだ書が少なく、かなり重複があった。
ある人は、孝伯はいつも新しい意があって、煩わしいと感じさせないと言った。
夾注 1
中興書曰:「恭雖才不多,而清辯過人。」
『中興書』に言う、「恭は才は多くなかったが、清い弁は人に勝っていた」。
156一世を休明にすることはできなかったが、九泉を映し徹すには十分だ
殷仲堪喪後,桓玄問仲文:「卿家仲堪,定是何似人?」仲文曰:「雖不能休明一世,足以映徹九泉。」
殷仲堪が没した後、桓玄は仲文に尋ねた。「君の家の仲堪は、本当はどのような人だったのか。」
仲文は言った。「一世を休明にすることはできませんでしたが、九泉を映し徹すには十分です。」
夾注 1
續晉陽秋曰:「仲堪,仲文之從兄也,少有美譽。」
『続晋陽秋』に言う、「仲堪は仲文の従兄で、若くして美しい評判があった」。