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排調世説新語 排調第二十五

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 65 · 漢字 3,884字 · 朗読 15.5分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1四凶だけではありません丹朱もおりました

諸葛瑾為豫州,遣別駕到臺,語云:「小兒知談,卿可與語。」連往詣恪,恪不與相見。後於張輔吳坐中相遇,別駕喚恪:「咄咄郎君。」恪因嘲之曰:「豫州亂矣,何咄咄之有?」答曰:「君明臣賢,未聞其亂。」恪曰:「昔唐堯在上,四凶在下。」答曰:「非唯四凶,亦有丹朱。」於是一坐大笑。

諸葛瑾が豫州となり、別駕を台に遣わすとき言った。「わが子は談を解するから、卿は語り合えるだろう」

続けて諸葛恪を訪ねたが、諸葛恪は会ってくれなかった。

のちに張輔呉の席で出会うと、別駕は諸葛恪を呼んだ。「やれやれ、若君」

諸葛恪はそれで彼を嘲って言った。「豫州は乱れているな。何をやれやれと言うことがあろう」

答えた。「君は明らかで臣は賢く、まだその乱れを聞いておりません」

諸葛恪は言った。「昔、唐堯が上にあったとき、四凶が下にいた」

答えた。「四凶だけではありません。丹朱もおりました」

これで一座は大笑いした。

夾注 3

瑾已見。

瑾はすでに見える。

江表傳曰:「恪字元遜,瑾長子也。少有才名,發藻岐嶷,辯論應機,莫與為對。孫權見而奇之,謂瑾曰:『藍田生玉,真不虛也!』仕吳至太傅。為孫峻所害。」

『江表伝』に言う。「恪は字は元遜、瑾の長子である。若くして才の名があり、文を発することが抜きん出て高く、弁論は機に応じて、相手になる者がなかった。孫権は見てこれを奇とし、瑾に言った。『藍田に玉を生ずというのは、まことに嘘ではないな』。呉に仕えて太傅に至った。孫峻に害された」

環濟吳紀曰:「張昭字子布,忠正有才義,仕吳,為輔吳將軍。」

環済の『呉紀』に言う。「張昭は字は子布、忠正で才と義があり、呉に仕えて輔呉将軍となった」

2矯然として懿しく実があればどうして必ず群れを同じくいたしましょう

晉文帝與二陳共車,過喚鍾會同載,即駛車委去。比出,已遠。既至,因嘲之曰:「與人期行,何以遲遲?望卿遙遙不至。」會答曰:「矯然懿實,何必同群?」帝復問會:「臯繇何如人?」答曰:「上不及堯、舜,下不逮周、孔,亦一時之懿士。」

晋の文帝が二人の陳氏とともに車に乗って行き、鍾会のところを通りかかって同乗しようと呼びながら、すぐに車を走らせて置いて行った。

鍾会が出てくるころには、もう遠くまで行っていた。

やがて着くと、それで彼を嘲って言った。「人と行くことを約しておいて、どうしてそう遅い遅いのだ。卿を遥か遥かに望んでも来なかったぞ」

鍾会は答えた。「矯然として懿しく実があれば、どうして必ず群れを同じくいたしましょう」

帝はさらに鍾会に問うた。「皋繇はどのような人か」

答えた。「上は堯と舜に及ばず、下は周公と孔子に及びませんが、やはり一時の懿しい士です」

夾注 1

二陳,騫與泰也。會父名繇,故以「遙遙」戲之。騫父矯,宣帝諱懿,泰父群,祖父寔,故以此酬之。

二人の陳氏とは陳騫と陳泰である。会の父の名が繇なので、「遥遥」で彼をからかったのである。騫の父は矯、宣帝の諱は懿、泰の父は群、祖父は寔であるので、これでやり返したのである。

3君子は周して比せず群して党せず

鍾毓為黃門郎,有機警,在景王坐燕飲。時陳群子玄伯、武周子元夏同在坐,共嘲毓。景王曰:「臯繇何如人?」對曰:「古之懿士。」顧謂玄伯、元夏曰:「君子周而不比,群而不黨。」

鍾毓は黄門郎となり、機に明るく素早いところがあったが、景王の席で宴に飲んでいた。

そのとき陳群の子の玄伯と武周の子の元夏がともに席にいて、一緒に鍾毓を嘲った。

景王が言った。「皋繇はどのような人か」

答えた。「古の懿しい士です」

そして玄伯と元夏を顧みて言った。「君子は周して比せず、群して党せず」

夾注 2

魏志曰:「武周字伯南,沛國竹邑人。仕至光祿大夫。」

『魏志』に言う。「武周は字は伯南、沛国竹邑の人である。官は光禄大夫に至った」

孔安國注論語曰:「忠信為周,阿黨為比。黨,助也。君子雖眾,不相私助。」

孔安国が『論語』に注して言う。「忠信が周であり、阿り党するのが比である。党とは助けることである。君子は仲間が多くても、互いに私的に助けあわない」

4卿らの興もまた壊せるようなものなのか

嵇、阮、山、劉在竹林酣飲,王戎後往。步兵曰:「俗物已復來敗人意!」王笑曰:「卿輩意,亦復可敗邪?」

嵇康と阮籍と山濤と劉伶が竹林で心ゆくまで飲んでいるところへ、王戎があとから行った。

歩兵は言った。「俗物がまた来て人の興を壊すな」

王戎は笑って言った。「卿らの興も、また壊せるようなものなのか」

夾注 1

魏氏春秋曰:「時謂王戎未能超俗也。」

『魏氏春秋』に言う。「当時、王戎はまだ俗を超えられていないと言われた」

5おまえに一杯の酒を献じおまえを万の春まで長生きさせよう

晉武帝問孫皓:「聞南人好作爾汝歌,頗能為不?」皓正飲酒,因舉觴勸帝而言曰:「昔與汝為鄰,今與汝為臣。上汝一桮酒,令汝壽萬春。」帝悔之。

晋の武帝が孫皓に問うた。「南の人は「爾汝の歌」を作るのが好きだと聞いたが、かなり作れるのか」

孫皓はちょうど酒を飲んでいたが、それで杯を挙げて帝に勧めながら言った。「昔はおまえと隣であったが、今はおまえの臣となった。おまえに一杯の酒を献じ、おまえを万の春まで長生きさせよう」

帝はこれを悔いた。

夾注 1

吳錄曰:「皓字元宗,一名彭祖,大皇帝孫也。景帝崩,皓嗣位,為晉所滅,封歸命侯。」

『呉録』に言う。「皓は字は元宗、一名は彭祖、大皇帝の孫である。景帝が崩じて皓が位を嗣いだが、晋に滅ぼされ、帰命侯に封ぜられた」

6流れを枕にするのはその耳を洗いたいからだ

孫子荊年少時欲隱,語王武子「當枕石漱流」,誤曰「漱石枕流」。王曰:「流可枕,石可漱乎?」孫曰:「所以枕流,欲洗其耳;所以漱石,欲礪其齒。」

孫子荊が年若いころ隠れようとして、王武子に「石を枕にし流れで口をすすごう」と言おうとして、誤って「石で口をすすぎ流れを枕にしよう」と言った。

王武子が言った。「流れは枕にできるのか、石は口をすすげるのか」

孫子荊は言った。「流れを枕にするのは、その耳を洗いたいからだ。石で口をすすぐのは、その歯を研ぎたいからだ」

夾注 1

逸士傳曰:「許由為堯所讓,其友巢父責之。由乃過清泠水洗耳拭目,曰:『向聞貪言,負吾之友。』」

『逸士伝』に言う。「許由は堯に譲られることになったが、その友の巣父が彼を責めた。由はそこで清らかに冷たい水のところを通って耳を洗い目を拭い、『さきほど貪る言葉を聞いて、わが友に背いた』と言った」

7頭が秦子羽を責めた

頭責秦子羽云:「子曾不如太原溫顒、潁川荀㝢、范陽張華、士卿劉許、義陽鄒湛、河南鄭詡。此數子者,或謇喫無宮商,或尪陋希言語,或淹伊多姿態,或讙譁少智諝,或口如含膠飴,或頭如巾齏杵。而猶以文采可觀,意思詳序,攀龍附鳳,並登天府。」

頭が秦子羽を責めて言った。「おまえは太原の温顒、潁川の荀宇、范陽の張華、士卿の劉許、義陽の鄒湛、河南の鄭詡にも及ばない。この数人は、ある者は言葉がどもって宮も商もなく、ある者は痩せて醜く言葉が少なく、ある者はもたついて姿態ばかり多く、ある者は騒がしく智謀が少なく、ある者は口が膠の飴を含んだようであり、ある者は頭が頭巾に包んだ菜の杵のようである。それでもなお文のあやが見るに堪え、意も思いも詳しく筋道が立っていて、龍に攀り鳳に付いて、ともに天の府に登った」

夾注 6

子羽未詳。

子羽についてははっきりしない。

溫顒已見。荀氏譜曰:「宇字景伯,祖式,太尉。父保,御史中丞。」世語曰:「宇少與裴楷、王戎、杜默俱有名,仕晉,至尚書。」

温顒はすでに見える。『荀氏譜』に言う。「宇は字は景伯、祖父の式は太尉、父の保は御史中丞である」。『世語』に言う。「宇は若くして裴楷・王戎・杜黙とともに名があり、晋に仕えて尚書に至った」

晉百官名曰:「劉許字文生,涿鹿鄀人。父放,魏驃騎將軍。許,惠帝時為宗正卿。」按許與張華同范陽人,故曰士卿,互其辭也。宗正卿,或曰士卿。

『晋百官名』に言う。「劉許は字は文生、涿鹿鄀の人である。父の放は魏の驃騎将軍である。許は恵帝のとき宗正卿となった」。思うに許は張華と同じ范陽の人なので士卿と言ったので、その言葉を互いに入れ替えたのである。宗正卿を、ある場合は士卿という。

晉諸公贊曰:「湛字潤甫,新野人。以文義達,仕至侍中。詡字思淵,滎陽開封人,為衛尉卿。祖泰,揚州刺史。父褒,司空。」

『晋諸公賛』に言う。「湛は字は潤甫、新野の人である。文の義によって世に出て、官は侍中に至った。詡は字は思淵、滎陽開封の人で、衛尉卿となった。祖父の泰は揚州刺史、父の褒は司空である」

文士傳曰:「華為人少威儀,多姿態。」推意此語,則此六句,還以目上六人,而口如含膠飴,則指鄒湛。湛辯麗英博,而有此稱。未詳。

『文士伝』に言う。「華は人柄として威儀が少なく、姿態が多かった」。この言葉の意を推せば、この六句はもどって上の六人を目して言ったものであり、口が膠の飴を含んだようだというのは鄒湛を指す。湛は弁が麗しく英で博いのに、こういう言い方があるので、はっきりしない。

張敏《集》載頭責子羽文曰:「余友有秦生者,雖有姊夫之尊,少而狎焉。同時好暱,有太原溫長仁顒、潁川荀景伯宇、范陽張茂先華、士卿劉文生許、南陽鄒潤甫湛、河南鄭思淵詡。數年之中,繼踵登朝,而此賢身處陋巷,屢沽而無善價,亢志自若,終不衰墮,為之慨然。又怪諸賢既已在位,曾無伐木嚶鳴之聲,甚違王貢彈冠之義,故因秦生容貌之盛,為頭責之文以戲之,并以嘲六子焉。雖似諧謔,實有興也。其文曰:『維泰始元年,頭責子羽曰:「吾託子為頭,萬有餘日矣。大塊稟我以精,造我以形。我為子植髮膚、置鼻耳、安眉須、插牙齒、眸子摛光,雙顴隆起。每至出入之間,遨遊市里,行者辟易,坐者竦跽。或稱君侯,或言將軍,捧手傾側,佇立崎嶇。如此者,故我形之足偉也。子冠冕不戴,金銀不佩,釵以當笄,帢以代幗,旨味弗嘗,食粟茹菜,隈摧園閒,糞壤汗黑,歲莫年過,曾不自悔。子厭我於形容,我賤子乎意態。若此者乎,必子行己之累也。子遇我如讎,我視子如仇,居常不樂,兩者俱憂,何其鄙哉!子欲為人寶也,則當如皋陶、后稷、巫咸、伊陟,保乂王家,永見封殖。子欲為名高也,則當如許由、子威、卞隨、務光,洗耳逃祿,千歲流芳。子欲為遊說也,則當如陳軫、蒯通、陸生、鄧公,轉禍為福,令辭從容。子欲為進趣也,則當如賈生之求試,終軍之請使。砥礪鋒穎,以榦王事。子欲為恬淡也,則當如老聃之守一,莊周之自逸。廓然離欲,志陵雲日。子欲為隱遁也,則當如榮期之帶索,漁父之瀺灂,棲遲神丘,垂餌巨壑。此一介之所以顯身成名者也。今子上不希道德,中不效儒墨,塊然窮賤,守此愚惑。察子之情,觀子之志,退不為於處士,進無望於三事,而徒翫日勞形,習為常人之所喜,不亦過乎!」於是子羽愀然深念而對曰:「凡所教敕,謹聞命矣。以受性拘係,不聞禮義,設以天幸,為子所寄。今欲使吾為忠也,即當如伍胥屈平。欲使吾為信也,則當殺身以成名。欲使吾為介節邪,則當赴水火以全貞。此四者,人之所忌,故吾不敢造意。」頭曰:「子所謂天刑地網,剛德之尤,不登山抱木,則褰裳赴流。吾欲告爾以養性,誨爾以優游,而以蟣蝨同情,不聽我謀,悲哉!俱寓人體,而獨為子頭!且擬人其倫,喻子儕偶。子不如太原溫顒、潁川荀宇、范陽張華、士卿劉許、南陽鄒湛、河南鄭詡。此數子者,或謇喫無宮商,或尪陋希言語,或淹伊多姿態,或讙譁少智諝,或口如含膠飴,或頭如巾兗杵,而猶文采可觀,意思詳序,攀龍附鳳,並登天府。夫舐痔得車,沈淵得珠,豈若夫子徒令脣舌腐爛,手足沾濡哉?居有事之世,而恥為權圖,譬猶鑿池抱甕,難以求富。嗟乎子羽!何異檻中之熊,深阱之虎,石間饑蟹,竇中之鼠。事力雖勤,見功甚苦。宜其拳局翦蹙,至老無所希也。支離其形,猶能不困,非命也夫!豈與夫子同處也。」』」

張敏の『集』に載る「頭責子羽文」に言う。「わが友に秦生という者がいて、姉の夫という尊い立場ではあったが、幼いころから親しく打ち解けていた。同じころ好んで近しくしていた者に、太原の温長仁顒、潁川の荀景伯宇、范陽の張茂先華、士卿の劉文生許、南陽の鄒潤甫湛、河南の鄭思淵詡がいた。数年のうちに踵を継いで朝廷に登ったが、この賢者は身を陋巷に置き、たびたび売り出しても良い値がつかなかった。それでも志を高く保って平然とし、ついに衰え崩れることがなかったので、彼のために感慨を覚えた。また諸賢がすでに位にありながら、木を伐り鳥が鳴き合うような声がまったくなく、王吉と貢禹が冠の塵を払った義にはなはだ背いていることを怪しんだので、秦生の容貌の盛んなことに因んで、頭が責める文を作って彼をからかい、あわせてこれで六人を嘲ったのである。戯れのようではあるが、実は興すところがある。その文に言う。『泰始元年、頭が子羽を責めて言った。「私はおまえに託して頭となって、万日あまりになる。大いなる塊が私に精を稟け、私を形に造った。私はおまえのために髪と皮膚を植え、鼻と耳を置き、眉と鬚を据え、歯を挿したので、瞳は光を放ち、両の頬骨は高く隆起した。出入りのたびに市や里を遊び歩けば、行く者は道を避け、座る者は畏れてかしこまった。ある者は君侯と称し、ある者は将軍と言い、手を捧げて身を傾け、険しいところにも立ち止まった。このようであるのは、まさに私の形が偉いに足るからである。それなのにおまえは冠も冕も戴かず、金も銀も佩びず、釵を笄の代わりとし、帢を幗の代わりとし、旨い味を嘗めず、粟を食べ菜を茹で、園のあいだの崩れたところに寄りかかり、糞土に汚れて黒く、年が暮れ歳が過ぎても、かつて自ら悔いることがない。おまえは私を形や容貌で厭い、私はおまえを意や態度で賤しむ。このようであるのは、必ずおまえが自ら身を行ったことの累である。おまえは私を讎のように遇し、私はおまえを仇のように見て、常に楽しまず、両方ともに憂えている。何と鄙しいことか。おまえが人の宝となろうとするなら、皋陶・后稷・巫咸・伊陟のように王家を保ち治め、永く封ぜられ植えられるのを見るべきである。おまえが名を高くしようとするなら、許由・子威・卞随・務光のように耳を洗って禄を逃れ、千歳に芳しさを流すべきである。おまえが遊説しようとするなら、陳軫・蒯通・陸生・鄧公のように禍を転じて福とし、言葉を従容とさせるべきである。おまえが進み趣こうとするなら、賈生が試されることを求め、終軍が使いを請うたように、鋒先を砥ぎ磨いて王の事を幹すべきである。おまえが恬淡としようとするなら、老聃が一を守り、荘周が自ら逸したように、廓然として欲を離れ、志が雲や日を陵ぐべきである。おまえが隠れ遁れようとするなら、栄啓期が縄を帯とし、漁父が水に沈んだように、神の丘に棲み遊び、巨きな壑に餌を垂れるべきである。これが一介の者が身を顕し名を成す所以である。今おまえは上は道徳を希わず、中は儒や墨を効わず、塊然として窮して賤しく、この愚かさと惑いを守っている。おまえの情を察し、おまえの志を観るに、退いては処士ともならず、進んでは三事に望みもなく、ただ日を翫び形を労して、常人の喜ぶところを習っている。これもまた過ちではないか」。そこで子羽は愀然として深く念じて答えた。「およそ教え敕されたことは、謹んで命として聞いた。受けた性が拘り繋がれていて、礼や義を聞かなかったが、天の幸いによって、おまえの寄るところとなった。今、私を忠にさせようとするなら、伍胥や屈平のようでなければならない。私を信にさせようとするなら、身を殺して名を成さなければならない。私に介節を行わせようとするなら、水火に赴いて貞を全うしなければならない。この四つは人の忌むところであるから、私はあえて意を造さない」。頭が言った。「おまえの言う天の刑、地の網とは、剛き徳の尤めである。山に登って木を抱かなければ、裳を褰げて流れに赴くことになる。私はおまえに性を養うことを告げ、おまえに優游することを誨えようとしているのに、蟣や蝨と情を同じくして、私の謀を聴かない。悲しいことだ。ともに人の体に寓りながら、ひとりおまえの頭となったとは。そこで人をその倫に擬え、おまえを同じ輩に喩えてみよう。おまえは太原の温顒、潁川の荀宇、范陽の張華、士卿の劉許、南陽の鄒湛、河南の鄭詡にも及ばない。この数人は、ある者は言葉がどもって宮も商もなく、ある者は痩せて醜く言葉が少なく、ある者はもたついて姿態ばかり多く、ある者は騒がしく智謀が少なく、ある者は口が膠の飴を含んだようであり、ある者は頭が頭巾に包んだ菜の杵のようである。それでもなお文のあやが見るに堪え、意も思いも詳しく筋道が立っていて、龍に攀り鳳に付いて、ともに天の府に登った。そもそも痔を舐めて車を得、淵に沈んで珠を得るのだ。どうして夫子のように、ただ唇や舌を腐れ爛れさせ、手足を濡らすようなことであろうか。事のある世に居ながら、権を図ることを恥じるのは、たとえば池を鑿りながら甕を抱くようなもので、富を求めるのは難しい。ああ子羽よ。檻の中の熊、深い阱の虎、石の間の飢えた蟹、穴の中の鼠と何が違おう。事も力も勤めてはいるが、功を見ることははなはだ苦しい。さだめてその拳局まり翦み蹙んで、老いるまで希うところがないだろう。その形を支離させてなお困らずにいられたのは、命ではないか。どうして夫子と同じところに居ようか」』」

8もしこの嫁が参軍に配せられていたら生んだ子はきっとこの程度にとどまらなかったでしょう

王渾與婦鍾氏共坐,見武子從庭過,渾欣然謂婦曰:「生兒如此,足慰人意。」婦笑曰:「若使新婦得配參軍,生兒故可不啻如此!」

王渾が妻の鍾氏とともに座っていて、武子が庭を通り過ぎるのを見た。

王渾は喜んで妻に言った。「子を生んでこのようであれば、人の心を慰めるに足る」

妻は笑って言った。「もしこの嫁が参軍に配せられていたら、生んだ子はきっとこの程度にとどまらなかったでしょう」

夾注 1

王氏家譜曰:「倫字太沖,司空穆侯中子,司徒渾弟也。醇粹簡遠,貴老、莊之學,用心淡如也。為老子例略、周紀。年二十餘,舉孝廉,不行。歷大將軍參軍。年二十五卒,大將軍為之流涕。」

『王氏家譜』に言う。「倫は字は太沖、司空穆侯の中の子で、司徒の渾の弟である。純粋で簡素で遠く、老子・荘子の学を貴び、心の用い方は淡々としていた。「老子例略」と「周紀」を作った。年二十あまりで孝廉に挙げられたが、行かなかった。大将軍参軍を歴任した。年二十五で亡くなり、大将軍は彼のために涙を流した」

9雲の間の陸士龍と日の下の荀鳴鶴

荀鳴鶴、陸士龍二人未相識,俱會張茂先坐。張令共語。以其並有大才,可勿作常語。陸舉手曰:「雲間陸士龍。」荀答曰:「日下荀鳴鶴。」陸曰:「既開青雲覩白雉,何不張爾弓,布爾矢?」荀答曰:「本謂雲龍騤騤,定是山鹿野麋。獸弱弩彊,是以發遲。」張乃撫掌大笑。

荀鳴鶴と陸士龍の二人はまだ互いに知らなかったが、ともに張茂先の席に集まった。

張氏は二人に語り合わせ、どちらも大才があるのだから、並の話をしてはならないと言った。

陸氏が手を挙げて言った。「雲の間の陸士龍です」

荀氏が答えた。「日の下の荀鳴鶴です」

陸氏が言った。「すでに青雲を開いて白い雉を見たのに、どうしてあなたの弓を張り、あなたの矢を布かないのか」

荀氏が答えた。「もとは雲の龍が騤騤として勢いよいと思っていたが、まことに山の鹿、野の麋であったな。獣が弱く弩が強いので、それで射るのが遅いのだ」

張氏はそこで手を打って大笑いした。

夾注 1

晉百官名曰:「荀隱字鳴鶴,潁川人。」荀氏家傳曰:「隱祖昕,樂安太守。父岳,中書郎。隱與陸雲在張華坐語,互相反覆,陸連受屈,隱辭皆美麗,張公稱善云。世有此書,尋之未得。歷太子舍人,延尉平,蚤卒。」

『晋百官名』に言う。「荀隠は字は鳴鶴、潁川の人である」。『荀氏家伝』に言う。「隠の祖父の昕は楽安の太守、父の岳は中書郎である。隠が陸雲と張華の席で語り、互いに言葉を返し合って、陸雲は続けて負け、隠の言葉はどれも美しく麗しく、張公はよしと称えたという。世にこの書があるというが、探しても得られない。太子舎人、廷尉平を歴任し、早く亡くなった」

10民は呉の人ではありますがもう少しで田舎者の幽霊になるところでした

陸太尉詣王丞相,王公食以酪。陸還遂病。明日與王牋云:「昨食酪小過,通夜委頓。民雖吳人,幾為傖鬼。」

陸太尉が王丞相を訪ねると、王公は酪をふるまった。

陸氏は帰ってから病気になった。

翌日、王氏に手紙を送って言った。「昨日、酪を食べたのが少し過ぎて、夜中ずっと打ちのめされておりました。民は呉の人ではありますが、もう少しで田舎者の幽霊になるところでした」

夾注 1

陸玩已見。

陸玩はすでに見える。

11この事をどうして卿に功のあるようにできようか

元帝皇子生,普賜群臣。殷洪喬謝曰:「皇子誕育,普天同慶。臣無勳焉,而猥頒厚賚。」中宗笑曰:「此事豈可使卿有勳邪?」

元帝の皇子が生まれ、広く群臣に下賜があった。

殷洪喬は礼を述べて言った。「皇子がお生まれになりお育ちになり、天下がともに慶びます。臣には功がないのに、みだりに厚い賜りものを頂きました」

中宗は笑って言った。「この事を、どうして卿に功のあるようにできようか」

夾注 1

殷羡已見。

殷羡はすでに見える。

12驢馬と言って馬驢と言わないのだから驢馬が馬より勝るだろうか

諸葛令、王丞相共爭姓族先後,王曰:「何不言葛、王,而云王、葛?」令曰:「譬言驢馬,不言馬驢,驢寧勝馬邪?」

諸葛令と王丞相がともに姓と族の前後を争った。

王氏が言った。「どうして葛・王と言わず、王・葛と言うのか」

令は言った。「驢馬と言って馬驢と言わないのに比べられよう。驢馬が馬より勝るだろうか」

夾注 1

諸葛恢。

諸葛恢である。

13ただ呉の言葉を話されるのを聞いただけだ

劉真長始見王丞相,時盛暑之月,丞相以腹熨彈棊局,曰:「何乃渹?」劉既出,人問:「見王公云何?」劉曰:「未見他異,唯聞作吳語耳!」

劉真長が初めて王丞相に会ったのは盛暑の月であったが、丞相は腹で弾棋の盤を押さえながら言った。「なんとまあ冷えているな」

劉氏が出てくると、人々が問うた。「王公に会って何と言われたか」

劉氏は言った。「他に変わったところは見えず、ただ呉の言葉を話されるのを聞いただけだ」

夾注 2

吳人以冷為渹。

呉の人は冷たいことを渹という。

語林曰:「真長云:『丞相何奇?止能作吳語及細唾也。』」

『語林』に言う。「真長は『丞相の何が奇なのか。ただ呉の言葉と細かな唾を吐くことができるだけだ』と言った」

14この碗は英英と輝きまことに清らかに澄み透るので宝となるのです

王公與朝士共飲酒,舉瑠璃盌謂伯仁曰:「此盌腹殊空,謂之寶器,何邪?」答曰:「此盌英英,誠為清徹,所以為寶耳!」

王公が朝廷の士とともに酒を飲んでいて、瑠璃の碗を挙げて伯仁に言った。「この碗は腹がまるで空なのに、これを宝の器という。どうしてだ」

答えた。「この碗は英英と輝き、まことに清らかに澄み透るので、宝となるのです」

夾注 1

以戲周之無能。

周氏の能のないことをからかったのである。

15枝が青空をかすめても高いとは思わぬ

謝幼輿謂周侯曰:「卿類社樹,遠望之,峨峨拂青天;就而視之,其根則群狐所託,下聚溷而已!」答曰:「枝條拂青天,不以為高;群狐亂其下,不以為濁;聚溷之穢,卿之所保,何足自稱?」

謝幼輿が周侯に言った。「卿は社の木のようだ。遠くから望めば峨々として青空をかすめるが、近づいて見ればその根は狐の群れの住み処で、下は便所が集まっているだけだ」

答えた。「枝が青空をかすめても高いとは思わず、狐の群れがその下で乱れても濁っているとは思わぬ。便所が集まった汚さは卿が保っているものだ。何を自ら称するに足ろうか」

夾注 1

謂顗好媟瀆故。

顗がみだりにし汚すことを好んだことを言ったからである。

16やり取りのあいだに瓜葛のような縁があるようなのに

王長豫幼便和令,丞相愛恣甚篤。每共圍棊,丞相欲舉行,長豫按指不聽。丞相笑曰:「詎得爾?相與似有瓜葛。」

王長豫は幼いころから和やかで素直だったので、丞相の愛し任せることははなはだ篤かった。

ともに囲碁を打つたびに、丞相が打った手を取り消そうとすると、長豫は指を押さえて許さなかった。

丞相は笑って言った。「どうしてそうするのだ。やり取りのあいだに瓜葛のような縁があるようなのに」

夾注 1

蔡邕曰:「瓜葛,疏親也。」

蔡邕が言う。「瓜葛とは、疎い親類である」

17角の巻いた雌牛にくねり回る良さがあるのには及ばない

明帝問周伯仁:「真長何如人?」答曰:「故是千斤犗特。」王公笑其言。伯仁曰:「不如捲角牸,有盤辟之好。」

明帝が周伯仁に問うた。「真長はどのような人か」

答えた。「まさに千斤もある去勢した牛です」

王公はその言葉を笑った。

伯仁は言った。「角の巻いた雌牛に、くねり回る良さがあるのには及ばない」

夾注 1

以戲王也。

これで王氏をからかったのである。

18この中は空洞で何もないがそれでも卿らのような者を数百人は入れられる

王丞相枕周伯仁厀,指其腹曰:「卿此中何所有?」答曰:「此中空洞無物,然容卿輩數百人。」

王丞相が周伯仁の膝を枕にして、その腹を指して言った。「卿のこの中には何があるのか」

答えた。「この中は空洞で何もないが、それでも卿らのような者を数百人は入れられる」

19卿は鬼の董狐と言うべきだな

干寶向劉真長敘其《搜神記》,劉曰:「卿可謂鬼之董狐。」

干宝が劉真長に自分の『捜神記』について述べると、劉氏は言った。「卿は鬼の董狐と言うべきだな」

夾注 3

中興書曰:「寶字令升,新蔡人。祖正,吳奮武將軍。父瑩,丹陽丞。寶少以博學才器著稱,歷散騎常侍。」

『中興書』に言う。「宝は字は令升、新蔡の人である。祖父の正は呉の奮武将軍、父の瑩は丹陽丞である。宝は若くして博学と才器で称えられ、散騎常侍を歴任した」

孔氏志怪曰:「寶父有嬖人,寶母至妒,葬寶父時,因推著藏中。經十年而母喪,開墓,其婢伏棺上,就視猶煖,漸有氣息。輿還家,終日而蘇。說寶父常致飲食,與之接寢,恩情如生。家中吉凶,輒語之,校之悉驗。平復數年後方卒。寶因作搜神記,中云『有所感起』是也。」

『孔氏志怪』に言う。「宝の父に愛する女がいたが、宝の母がきわめて妬んで、宝の父を葬るときに、そのまま押して墓の中に入れた。十年経って母が亡くなり、墓を開けると、その婢が棺の上に伏せていたが、近づいて見るとまだ温かく、次第に息があった。担いで家に帰ると、一日たって蘇った。宝の父がいつも飲み物や食べ物を届け、ともに寝て、恩も情も生きているときのようであったと言った。家の中の吉凶をすぐに彼女に言ったが、照らし合わせてみるとどれも当たっていた。回復して数年後にようやく亡くなった。宝はこれによって「捜神記」を作ったので、その中に『感じて起こったところがある』というのはこれである」

春秋傳曰:「趙穿攻晉靈公於桃園,趙宣子未出境而復。太史書:『趙盾弒其君。』宣子曰:『不然。』對曰:『子為正卿,亡不越境,反不討賊,非子而誰?』孔子曰:『董狐,古之良史也,書法不隱。趙盾,古之賢大夫也,為法受惡。』」

『春秋伝』に言う。「趙穿が桃園で晋の霊公を攻めたとき、趙宣子はまだ境を出ないで帰ってきた。太史が『趙盾がその君を弑した』と書くと、宣子は『そうではない』と言った。答えて『あなたは正卿でありながら、逃げて境を越えず、帰って賊を討たなかった。あなたでなければ誰なのか』と言った。孔子は『董狐は古の良い史官で、書く法に隠すことがなかった。趙盾は古の賢い大夫で、法のために悪名を受けた』と言われた」

20卿にはちゃんと出かけ着があるのだな

許文思往顧和許,顧先在帳中眠。許至,便徑就床角枕共語。既而喚顧共行,顧乃命左右取枕上新衣,易己體上所著。許笑曰:「卿乃復有行來衣乎?」

許文思が顧和のところへ行くと、顧和は先に帳の中で眠っていた。

許氏は着くとまっすぐ床に上がり、角のある枕に頭をのせてともに語った。

やがて顧和を呼んでともに出かけようと言うと、顧和はそこで左右の者に枕の上の新しい衣を取らせ、自分の身に着けているものと取り替えた。

許氏は笑って言った。「卿にはちゃんと出かけ着があるのだな」

夾注 1

許琛已見。

許琛はすでに見える。

21山が高くなければ霊ならず淵が深くなければ清らかではありません

康僧淵目深而鼻高,王丞相每調之。僧淵曰:「鼻者面之山,目者面之淵。山不高則不靈,淵不深則不清。」

康僧淵は目が深く鼻が高かったので、王丞相はいつも彼をからかった。

僧淵は言った。「鼻は顔の山であり、目は顔の淵です。山が高くなければ霊ならず、淵が深くなければ清らかではありません」

夾注 1

管輅別傳曰:「鼻者天中之山。」相書曰:「鼻之所在為天中,鼻有山象,故曰山。」

『管輅別伝』に言う。「鼻は天中の山である」。『相書』に言う。「鼻のあるところが天中であり、鼻に山の象があるので、山という」

22私は数千戸の郡を図ってもなお得られないのに卿は仏になることを図っているのか

何次道往瓦官寺禮拜甚勤。阮思曠語之曰:「卿志大宇宙,勇邁終古。」何曰:「卿今日何故忽見推?」阮曰:「我圖數千戶郡,尚不能得;卿迺圖作佛,不亦大乎!」

何次道が瓦官寺に行って礼拝することがはなはだ勤めであった。

阮思曠が彼に言った。「卿は志が宇宙より大きく、勇ましさが遠い昔を越えている」

何氏は言った。「卿は今日どうして急に持ち上げてくれるのか」

阮氏は言った。「私は数千戸の郡を図ってもなお得られないのに、卿は仏になることを図っている。大きくないか」

夾注 4

充崇釋氏,甚加敬也。

充が釈氏を尊んで、はなはだ敬いを加えたのである。

尹子曰:「天地四方曰宇,往古來今曰宙。」

『尹子』に言う。「天地と四方を宇といい、往く古と来る今を宙という」

終古,往古也。楚辭曰:「吾不能忍此終古也。」

終古とは、往き過ぎた昔である。「楚辞」に言う。「私はこの終古を忍ぶことができない」

思曠,裕也。

思曠とは、裕である。

23頂いたものは壊れた物ではあるがそれでも直して使おうと思う

庾征西大舉征胡,既成行,止鎮襄陽。殷豫章與書,送一折角如意以調之。庾答書曰:「得所致,雖是敗物,猶欲理而用之。」

庾征西が大挙して胡を征とうとして、すでに道に出たが、襄陽を鎮めるところで止まった。

殷豫章が手紙を送り、角の折れた如意一つを送って彼をからかった。

庾氏は手紙に答えた。「お送りくださったものを頂いた。壊れた物ではあるが、それでも直して使おうと思う」

夾注 2

晉陽秋曰:「翼率眾入沔,將謀伐狄。既至襄陽,狄尚彊,未可決戰。會康帝崩,兄冰薨,留長子方之守襄陽,自馳還夏。」

『晋陽秋』に言う。「翼は衆を率いて沔に入り、狄を伐つことを謀ろうとした。襄陽に着いてみると狄はなお強く、決戦できなかった。ちょうど康帝が崩じ、兄の冰が薨じたので、長子の方之を残して襄陽を守らせ、自らは馳せて夏口に帰った」

豫章,殷羡。

豫章とは、殷羡である。

24私がもしこれをしなければ卿らもどうして座って話していられようか

桓大司馬乘雪欲獵,先過王、劉諸人許。真長見其裝束單急,問:「老賊欲持此何作?」桓曰:「我若不為此,卿輩亦那得坐談?」

桓大司馬が雪に乗じて狩りをしようとして、先に王氏や劉氏ら数人のところを通った。

真長はその装いが薄くきっちりしているのを見て問うた。「老いた賊はこれを身につけて何をしようというのか」

桓氏は言った。「私がもしこれをしなければ、卿らもどうして座って話していられようか」

夾注 1

語林曰:「宣武征還,劉尹數十里迎之,桓都不語,直云:『垂長衣,談清言,竟是誰功?』劉答曰:『晉德靈長,功豈在爾?』」二人說小異,故詳載之。

『語林』に言う。「宣武が征って帰ってくると、劉尹が数十里出て彼を迎えたが、桓氏はまったく話さず、ずばりと『長い衣を垂らし、清らかな言葉を語っていられるのは、いったい誰の功なのか』と言った。劉氏は答えて『晋の徳が霊くて長いのだ。功がどうしてあなたにあろうか』と言った」。二人の言葉が少し違うので、詳しく載せた。

25古の人は述べて作らずと言ったのにどうして必ず蚕室の中にいなければならないのか

褚季野問孫盛:「卿國史何當成?」孫云:「久應竟,在公無暇,故至今日。」褚曰:「古人『述而不作』,何必在蠶室中?」

褚季野が孫盛に問うた。「卿の国史はいつ出来上がるのか」

孫氏は言った。「ずっと前に終わっているはずだが、公務に暇がなくて今日に至った」

褚氏は言った。「古の人は『述べて作らず』と言った。どうして必ず蚕室の中にいなければならないのか」

夾注 1

漢書曰:「李陵降匈奴,武帝甚怒。太史令司馬遷盛明陵之忠,帝以遷為陵遊說,下遷腐刑。乃述唐、虞以來,至于獲麟,為史記。遷與任安書曰:『李陵既生降,僕又茸之以蠶室。』」蘇林注曰:「腐刑者,作密室蓄火,時如蠶室。舊時平陰有蠶室獄。」

『漢書』に言う。「李陵が匈奴に降り、武帝ははなはだ怒った。太史令の司馬遷が陵の忠を力を尽くして明らかにすると、帝は遷が陵のために遊説していると考え、遷を腐刑に下した。そこで唐・虞以来、麟を獲るに至るまでを述べて「史記」を作った。遷が任安に与えた手紙に言う。『李陵が生きたまま降り、私もまた蚕室に押し込まれました』」。蘇林の注に言う。「腐刑とは、密室を作って火を蓄え、暖かさを蚕室のようにするものである。昔、平陰に蚕室の獄があった」

26今はまた民が卿をどうしたものかな

謝公在東山,朝命屢降而不動。後出為桓宣武司馬,將發新亭,朝士咸出瞻送。高靈時為中丞,亦往相祖。先時,多少飲酒,因倚如醉,戲曰:「卿屢違朝旨,高臥東山,諸人每相與言:『安石不肯出,將如蒼生何?』今亦蒼生將如卿何?」謝笑而不答。

謝公が東山にいて、朝廷の命がたびたび下ったが動かなかった。

のちに出て桓宣武の司馬となり、新亭を出発しようとすると、朝廷の士がみな出て仰ぎ見送った。

高霊はそのとき中丞であったが、やはり行って餞の祀りに加わった。

それより前にいくらか酒を飲んでいて、それで寄りかかって酔ったふりをしながら、からかって言った。「卿はたびたび朝廷の意に背いて東山に高く臥せっていたから、人々が互いに語り合うたびに『安石は出ようとしない。民をどうしたものか』と言っていた。今はまた、民が卿をどうしたものかな」

謝公は笑って答えなかった。

夾注 1

高靈已見。婦人集載桓玄問王凝之妻謝氏曰:「太傅東山二十餘年,遂復不終,其理云何?」謝答曰:「亡叔太傅先正,以無用為心,顯隱為優劣,始末正當動靜之異耳。」

高霊はすでに見える。『婦人集』に載せるところでは、桓玄が王凝之の妻の謝氏に問うて「太傅は東山に二十年あまりおられたのに、ついに最後まで通されなかった。その理はどういうことか」と言うと、謝氏は答えて「亡き叔父の太傅は、無用を心とし、顕れることと隠れることを優劣とされました。初めと終わりは、まさに動と静の違いにすぎません」と言った。

27ただ免れられないだろうと恐れているだけだ

初,謝安在東山居,布衣,時兄弟已有富貴者,翕集家門,傾動人物。劉夫人戲謂安曰:「大丈夫不當如此乎?」謝乃捉鼻曰:「但恐不免耳!」

初め、謝安が東山に住んで布衣であったころ、兄弟のうちにはすでに富み貴くなった者がいて、家の門に集まり群がって、人や物を傾け動かすほどであった。

劉夫人がからかって安に言った。「大丈夫はこうあるべきではありませんか」

謝安はそこで鼻をつまんで言った。「ただ免れられないだろうと恐れているだけだ」

28巣父や許由が山を買って隠れたとは聞いたことがない

支道林因人就深公買印山,深公答曰:「未聞巢、由買山而隱。」

支道林が人を介して深公から印山を買おうとすると、深公は答えた。「巣父や許由が山を買って隠れたとは聞いたことがない」

夾注 1

逸士傳曰:「巢父者,堯時隱人。山居,不營世利,年老以樹為巢,而寢其上,故號巢父。」高逸沙門傳曰:「遁得深公之言,慚恧而已。」

『逸士伝』に言う。「巣父という者は、堯のときの隠者である。山に住んで世の利を営まず、年老いて木を巣とし、その上で寝たので、巣父と号した」。『高逸沙門伝』に言う。「遁は深公の言葉を聞いて、恥じ入るばかりであった」

29夷甫には君らのような客がいなかった

王、劉每不重蔡公。二人嘗詣蔡,語良久,乃問蔡曰:「公自言何如夷甫?」答曰:「身不如夷甫。」王、劉相目而笑曰:「公何處不如?」答曰:「夷甫無君輩客!」

王氏と劉氏はいつも蔡公を重んじなかった。

二人がかつて蔡氏を訪ね、語ってしばらくしてから、蔡氏に問うた。「公はご自分で夷甫と比べてどうだと言われますか」

答えた。「私の身は夷甫に及ばない」

王氏と劉氏は互いに目を合わせて笑って言った。「公はどこが及ばないのですか」

答えた。「夷甫には君らのような客がいなかった」

30まさに君らのような人をこの中から出入りさせるためだ

張吳興年八歲,虧齒,先達知其不常,故戲之曰:「君口中何為開狗竇?」張應聲答曰:「正使君輩從此中出入!」

張呉興が年八歳で、歯が抜けていた。

先輩で世に出ていた人が、彼が並でないことを知って、わざと彼をからかって言った。「君の口の中にどうして犬の穴を開けたのか」

張氏は声に応じて答えた。「まさに君らのような人をこの中から出入りさせるためだ」

夾注 1

玄之已見。

玄之はすでに見える。

31私は書物を日に干しているのだ

郝隆七月七日出日中仰臥。人問其故?答曰:「我曬書。」

郝隆は七月七日に日向に出て仰向けに寝た。

人々がその理由を問うと、答えた。「私は書物を日に干しているのだ」

夾注 1

征西寮屬名曰:「隆字佐治,汲郡人。仕吳至征西參軍。」

『征西寮属名』に言う。「隆は字は佐治、汲郡の人である。呉に仕えて征西参軍に至った」

32籠っていれば遠志となり出てくれば小草となるのです

謝公始有東山之志,後嚴命屢臻,勢不獲已,始就桓公司馬。于時人有餉桓公藥草,中有「遠志」。公取以問謝:「此藥又名『小草』,何一物而有二稱?」謝未即答。時郝隆在坐,應聲答曰:「此甚易解:處則為遠志,出則為小草。」謝甚有愧色。桓公目謝而笑曰:「郝參軍此過乃不惡,亦極有會。」

謝公は初め東山にいる志があったが、のちに厳しい命がたびたび至り、やむを得ず、はじめて桓公の司馬に就いた。

このとき桓公に薬草を贈った人があり、その中に「遠志」があった。

公はそれを取って謝公に問うた。「この薬はまた「小草」とも名づける。どうして一つの物に二つの呼び名があるのか」

謝公はすぐには答えられなかった。

そのとき郝隆が席にいて、声に応じて答えた。「これはたいへん解きやすいことです。籠っていれば遠志となり、出てくれば小草となるのです」

謝公はひどく恥じる顔色をした。

桓公は謝公を見て笑って言った。「郝参軍のこの一突きは悪くないし、まことによく当たっている」

夾注 1

本草曰:「遠志一名棘宛,其葉名小草。」

『本草』に言う。「遠志は一名を棘宛といい、その葉を小草という」

33庾氏の方々の翼翼たるには及びません

庾園客詣孫監,值行,見齊莊在外,尚幼,而有神意。庾試之曰:「孫安國何在?」即答曰:「庾稚恭家。」庾大笑曰:「諸孫大盛,有兒如此!」又答曰:「未若諸庾之翼翼。」還,語人曰:「我故勝,得重喚奴父名。」

庾園客が孫監を訪ねたところ、ちょうど出かけていて、斉荘が外にいるのを見たが、まだ幼いのに神なる心があった。

庾氏は彼を試して言った。「孫安国はどこにいる」

すぐに答えた。「庾稚恭の家にいます」

庾氏は大笑いして言った。「孫氏の方々は大いに盛んで、こんな子がいるとは」

また答えた。「庾氏の方々の翼翼たるには及びません」

帰って人に言った。「私はやはり勝った。奴めの父の名を重ねて呼べたからな」

夾注 1

孫放別傳曰:「放兄弟並秀異,與庾翼子園客同為學生。園客少有佳稱,因談笑嘲放曰:『諸孫於今為盛。』盛,監君諱也。放即答曰:『未若諸庾之翼翼。』放應機制勝,時人仰焉。司馬景王、陳、鍾諸賢相酬,無以踰也。」

『孫放別伝』に言う。「放の兄弟はともに秀でて並でなく、庾翼の子の園客とともに学生であった。園客は若くして良い評があったが、談笑のついでに放を嘲って『孫氏の方々は今や盛んだな』と言った。盛は監君の諱である。放はすぐに答えて『庾氏の方々の翼翼たるには及びません』と言った。放が機に応じて勝ちを制したので、当時の人は彼を仰いだ。司馬景王や陳氏・鍾氏ら諸賢が互いにやり取りしたのも、これを越えるものはない」

34これは山を抜く力でも助けられるものではない

范玄平在簡文坐,談欲屈,引王長史曰:「卿助我。」王曰:「此非拔山力所能助!」

范玄平が簡文帝の席で談じていて負けそうになったので、王長史を引いて言った。「卿が私を助けてくれ」

王氏は言った。「これは山を抜く力でも助けられるものではない」

夾注 2

范汪別傳曰:「汪字玄平,潁陽人。左將軍略之孫。少有不常之志,通敏多識,博涉經籍,致譽於時。歷吏部尚書、徐兗二州刺史。」

『范汪別伝』に言う。「汪は字は玄平、潁陽の人で、左将軍の略之の孫である。若くして並でない志があり、通じて敏く識ることが多く、経籍を広く渉って、当時に誉れを成した。吏部尚書、徐州・兗州二州の刺史を歴任した」

史記曰:「項羽為漢兵所圍,夜起歌曰:『力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。』」

『史記』に言う。「項羽が漢の兵に囲まれたとき、夜起きて歌った。『力は山を抜き気は世を蓋いしが、時利あらずして騅ゆかず』」

35千里を越えて公のもとに身を投じてやっと蛮の府の参軍になれたのにどうして蛮の言葉で作らずにいられよう

郝隆為桓公南蠻參軍,三月三日會,作詩。不能者,罰酒三升。隆初以不能受罰,既飲,攬筆便作一句云:「娵隅躍清池。」桓問:「娵隅是何物?」答曰:「蠻名魚為娵隅。」桓公曰:「作詩何以作蠻語?」隆曰:「千里投公,始得蠻府參軍,那得不作蠻語也?」

郝隆が桓公の南蛮参軍となったが、三月三日に集まって詩を作らせ、作れない者は罰の酒三升を飲ませることにした。

郝隆は初め作れないと言って罰を受け、やがて飲んでから筆を握ってすぐに一句を作った。「娵隅が清らかな池に躍る」

桓公が問うた。「娵隅とは何の物か」

答えた。「蛮の人は魚を娵隅といいます」

桓公が言った。「詩を作るのに、どうして蛮の言葉で作るのか」

郝隆が言った。「千里を越えて公のもとに身を投じて、やっと蛮の府の参軍になれたのです。どうして蛮の言葉で作らずにいられましょう」

36袁羊は古から残った狂人だ

袁羊嘗詣劉恢,恢在內眠未起。袁因作詩調之曰:「角枕粲文茵,錦衾爛長筵。」劉尚晉明帝女,主見詩,不平曰:「袁羊,古之遺狂!」

袁羊がかつて劉恢を訪ねたが、劉恢は奥で眠っていてまだ起きていなかった。

袁羊はそれで詩を作って彼をからかった。「角の枕は文の敷物に粲き、錦の衾は長い筵に爛く」

劉恢は晋の明帝の娘を妻としていたが、公主が詩を見て気を悪くして言った。「袁羊は、古から残った狂人だ」

夾注 2

唐詩曰:「晉獻公好攻戰,國人多喪,其詩曰:『角枕粲兮,錦衾爛兮;予美亡此,誰與獨旦?』」袁故嘲之。

「唐詩」に言う。「晋の献公が攻め戦うことを好んで国の人に死ぬ者が多かったので、その詩に『角の枕は粲き、錦の衾は爛く。わが美しい人はここにいない。誰とともに独りで夜明けを待とう』とある」。袁氏はわざとこれを嘲ったのである。

晉陽秋曰:「恢尚廬陵長公主,名南弟。」

『晋陽秋』に言う。「恢は廬陵長公主を妻とした、名は南弟である」

37どうして必ずかちゃりと鳴らなければならないのか

殷洪遠答孫興公詩云:「聊復放一曲。」劉真長笑其語拙,問曰:「君欲云那放?」殷曰:「㯓臘亦放,何必其鎗鈴邪?」

殷洪遠が孫興公に答えた詩に「とりあえずまた一曲を放つ」とあった。

劉真長はその言葉が拙いのを笑って問うた。「君はどのように放つと言おうとしたのか」

殷氏は言った。「ことんと落ちるのも放つことだ。どうして必ずかちゃりと鳴らなければならないのか」

夾注 1

殷融已見。

殷融はすでに見える。

38君が前で拝し臣が後ろで立っている例はありません

桓公既廢海西,立簡文,侍中謝公見桓公拜。桓驚笑曰:「安石,卿何事至爾?」謝曰:「未有君拜於前,臣立於後!」

桓公がすでに海西公を廃して簡文帝を立てたとき、侍中の謝公が桓公に会って拝した。

桓氏は驚き笑って言った。「安石、卿は何事でこんなことになったのか」

謝公は言った。「君が前で拝し、臣が後ろで立っている例はありません」

夾注 1

晉陽秋曰:「海西公諱奕,字延齡,成帝子也。興寧中即位。少同閹人之疾,使宮人與左右淫通生子。大司馬溫自廣陵還姑孰,過京都,以皇太后令,廢帝為海西公。」

『晋陽秋』に言う。「海西公は諱は奕、字は延齢、成帝の子である。興寧のころ位に即いた。若くして閹人と同じ疾があり、宮人に左右の者と淫らに通じて子を生ませた。大司馬の温が広陵から姑孰に帰る途中、都を通り、皇太后の令によって帝を廃して海西公とした」

39桓公の徳が衰えたのかそれともやはり後から生まれた者が畏るべきなのかわからない

郗重熙與謝公書,道:「王敬仁聞一年少懷問鼎。不知桓公德衰,為復後生可畏?」

郗重熙が謝公に手紙を送って言った。「王敬仁が、ある若者が鼎を問う志を抱いていると聞いたそうだ。桓公の徳が衰えたのか、それともやはり後から生まれた者が畏るべきなのか、わからない」

夾注 2

郗曇、王脩已見。史記曰:「楚莊王觀兵於周郊,周定王使王孫滿迎勞楚王,王問鼎大小輕重?對曰:『在德不在鼎。』莊王曰:『子無阻九鼎,楚國折鉤之喙,足以為九鼎也。』」

郗曇と王脩はすでに見える。『史記』に言う。「楚の荘王が周の郊で兵を観せたので、周の定王は王孫満を遣わして楚王を迎え労わせた。王が鼎の大小軽重を問うと、答えて『徳にあって鼎にあるのではありません』と言った。荘王は『そなたは九鼎で阻むな。楚国の折れた鉤の嘴でも、九鼎を作るに足る』と言った」

春秋傳曰:「齊桓公伐楚,責苞茅之不貢。」論語曰:「後生可畏,焉知來者之不如今?」孔安國曰:「後生,少年。」

『春秋伝』に言う。「斉の桓公が楚を伐ち、苞茅を貢がないことを責めた」。『論語』に言う。「後から生まれた者は畏るべきだ。どうして来る者が今に及ばないと知ろうか」。孔安国が言う。「後生とは、若い人である」

40お祖父さま子で父をからかうのがよいことでしょうか

張蒼梧是張憑之祖,嘗語憑父曰:「我不如汝。」憑父未解所以。蒼梧曰:「汝有佳兒。」憑時年數歲,歛手曰:「阿翁,詎宜以子戲父?」

張蒼梧は張憑の祖父であるが、かつて憑の父に言った。「私はお前に及ばない」

憑の父はその理由がわからなかった。

蒼梧は言った。「お前には良い子がいる」

憑はそのとき年が数歳であったが、手を収めて言った。「お祖父さま、子で父をからかうのがよいことでしょうか」

夾注 1

張蒼梧碑曰:「君諱鎮,字義遠,吳國吳人。忠恕寬明,簡正貞粹。泰安中,除蒼梧太守。討王含有功,封興道縣侯。」

「張蒼梧碑」に言う。「君は諱は鎮、字は義遠、呉国の呉の人である。忠恕で寛やかに明らかで、簡素で正しく貞しく純粋であった。泰安のころ、蒼梧の太守に任ぜられた。王含を討って功があり、興道県侯に封ぜられた」

41薄く獫狁を伐ちて太原に至った

習鑿齒、孫興公未相識,同在桓公坐。桓語孫「可與習參軍共語。」孫云:「『蠢爾蠻荊』,敢與大邦為讐?」習云:「『薄伐獫狁』,至于太原。」

習鑿歯と孫興公はまだ互いに知らなかったが、ともに桓公の席にいた。

桓氏は孫氏に「習参軍と語り合ってよい」と言った。

孫氏は言った。「『蠢くあの蛮なる荊が』、どうして大いなる邦と讐になろうか」

習氏は言った。「『薄く獫狁を伐ちて』、太原に至った」

夾注 1

小雅詩也。毛詩注曰:「蠢,動也。荊蠻,荊之蠻也。獫狁,北夷也。」習鑿齒,襄陽人。孫興公,太原人。故因詩以相戲也。

「小雅」の詩である。『毛詩』の注に言う。「蠢とは動くことである。荊蛮とは荊の地の蛮である。獫狁とは北の夷である」。習鑿歯は襄陽の人、孫興公は太原の人であるので、詩に因って互いにからかったのである。

42いつも似ているのではなくときどき似ているだけだ

桓豹奴是王丹陽外生,形似其舅,桓甚諱之。宣武云:「不恆相似,時似耳!恆似是形,時似是神。」桓逾不說。

桓豹奴は王丹陽の甥で、姿がその母方の叔父に似ていたので、桓氏はひどくこれを嫌った。

宣武は言った。「いつも似ているのではなく、ときどき似ているだけだ。いつも似ているのは姿であり、ときどき似ているのは神である」

桓氏はいっそう面白くなかった。

夾注 1

豹奴,桓嗣小字。中興書曰:「嗣字恭祖,車騎將軍沖子也。少有清譽。仕至江州刺史。」王氏譜曰:「混字奉正,中軍將軍恬子。仕至丹陽尹。」

豹奴は桓嗣の幼い名である。『中興書』に言う。「嗣は字は恭祖、車騎将軍の沖の子である。若くして清らかな誉れがあった。官は江州刺史に至った」。『王氏譜』に言う。「混は字は奉正、中軍将軍の恬の子である。官は丹陽尹に至った」

43唇と歯は互いに必要で片方だけ失うことはできないが鬚や髪が神明に何の関わりがあろう

王子猷詣謝萬,林公先在坐,瞻矚甚高。王曰:「若林公鬚髮並全,神情當復勝此不?」謝曰:「脣齒相須,不可以偏亡。鬚髮何關於神明?」林公意甚惡。曰:「七尺之軀,今日委君二賢。」

王子猷が謝万を訪ねたところ、林公が先に席にいて、見上げる目がはなはだ高かった。

王氏は言った。「もし林公の鬚と髪がともに全きであれば、神も情もまたこれより勝るでしょうか」

謝氏は言った。「唇と歯は互いに必要で、片方だけ失うことはできない。だが鬚や髪が神明に何の関わりがあろう」

林公はひどく気を悪くして言った。「七尺の身体を、今日あなたがた二人の賢者に委ねます」

夾注 1

春秋傳曰:「脣亡齒寒。」

『春秋伝』に言う。「唇が亡びれば歯が寒い」

44これは陳寿が作った諸葛亮の評だから人がお前の家を武侯に比べているのに何を言うことがあろう

郗司空拜北府,王黃門詣郗門拜,云:「應變將略,非其所長。」驟詠之不已。郗倉謂嘉賓曰:「公今日拜,子猷言語殊不遜,深不可容!」嘉賓曰:「此是陳壽作諸葛評。人以汝家比武侯,復何所言?」

郗司空が北府に任ぜられると、王黄門が郗氏の門に行って拝し、こう言った。「変に応ずる将の略は、彼の長ずるところではない」

しきりにこれを詠んでやまなかった。

郗倉は嘉賓に言った。「公が今日任ぜられたのに、子猷の言葉はまるで遜しくありません。とても容れられません」

嘉賓は言った。「これは陳寿が作った諸葛亮の評だ。人がお前の家を武侯に比べているのに、それ以上何を言うことがあろう」

夾注 3

南徐州記曰:「舊徐州都督以東為稱。晉氏南遷,徐州刺史王舒加北中郎將。北府之號,自此起也。」

『南徐州記』に言う。「昔の徐州都督は東をもって称とした。晋氏が南に遷ると、徐州刺史の王舒に北中郎将を加えた。北府の号は、ここから起こったのである」

倉,郗融小字也。郗氏譜曰:「融字景山,愔第二子,辟琅邪王文學,不拜而蚤終。」

倉は郗融の幼い名である。『郗氏譜』に言う。「融は字は景山、愔の第二子である。琅邪王文学に召されたが、任ぜられずに早く亡くなった」

《蜀志》陳壽評曰:「亮連年動眾,而無成功,蓋應變將略,非其所長也。」王隱《晉書》曰:「壽字承祚,巴西安漢人。好學,善著述。仕至中庶子。初,壽父為馬謖參軍,諸葛亮誅謖,髡其父頭。亮子瞻又輕壽。故壽撰蜀志,以愛憎為評也。」

『蜀志』の陳寿の評に言う。「亮は年を連ねて衆を動かしたが、成した功がなかった。思うに変に応ずる将の略は、彼の長ずるところではなかったのである」。王隠の『晋書』に言う。「寿は字は承祚、巴西安漢の人である。学を好み、著述が巧みであった。官は中庶子に至った。初め、寿の父が馬謖の参軍であったが、諸葛亮が謖を誅し、その父の頭を髡した。亮の子の瞻もまた寿を軽んじた。だから寿は「蜀志」を撰むのに、愛憎をもって評としたのである」

45昂昂として千里の駒のごとく汎汎として水中の鳧のごとし

王子猷詣謝公,謝曰:「云何七言詩?」子猷承問,答曰:「昂昂若千里之駒,汎汎若水中之鳧。」

王子猷が謝公を訪ねると、謝公は言った。「七言の詩はどうしたものかな」

子猷は問いを受けて答えた。「昂昂として千里の駒のごとく、汎汎として水中の鳧のごとし」

夾注 2

東方朔傳曰:「漢武帝在柏梁臺上,使群臣作七言詩。」七言詩自此始也。

『東方朔伝』に言う。「漢の武帝が柏梁台の上にいて、群臣に七言の詩を作らせた」。七言の詩はここから始まったのである。

出離騷。

「離騒」から出ている。

46簸り揚げれば糠と秕が前にくる

王文度、范榮期俱為簡文所要。范年大而位小,王年小而位大。將前,更相推在前。既移久,王遂在范後。王因謂曰:「簸之揚之,穅秕在前。」范曰:「洮之汰之,沙礫在後。」

王文度と范栄期がともに簡文帝に招かれた。

范氏は年が上だが位は低く、王氏は年が下だが位は高かった。

進み出ようとするとき、互いに相手を前にしようと押し合った。

そうやって長く移り合ったあげく、王氏がついに范氏の後ろになった。

王氏はそれで言った。「簸り、揚げれば、糠と秕が前にくる」

范氏は言った。「洮ぎ、汰げば、砂と礫が後に残る」

夾注 1

王坦之、范啟已見。世說是孫綽、習鑿齒言。

王坦之と范啓はすでに見える。『世説』では孫綽と習鑿歯の言葉だとする。

47だからこれに比べて名づけた

劉遵祖少為殷中軍所知,稱之於庾公。庾公甚忻然,便取為佐。既見,坐之獨榻上與語。劉爾日殊不稱,庾小失望,遂名之為「羊公鶴」。昔羊叔子有鶴善舞,嘗向客稱之。客試使驅來,氃氋而不肯舞。故稱比之。

劉遵祖は若くして殷中軍に知られ、庾公に彼を推した。

庾公はたいへん喜んで、すぐに取って補佐とした。

会ってみると、一人用の榻の上に座らせて語り合った。

劉氏はその日まるで評判に見合わなかったので、庾公は少し望みを失い、ついに彼を名づけて「羊公の鶴」と言った。

昔、羊叔子に舞の上手な鶴がいて、かつて客に向かってこれを褒めた。客が試しに追い立てて来させると、羽をぼさぼさにして舞おうとしなかった。

だからこれに比べて名づけたのである。

夾注 1

徐廣晉紀曰:「劉爰之字遵祖,沛郡人。少有才學,能言理。歷中書郎、宣城太守。」

徐広の『晋紀』に言う。「劉爰之は字は遵祖、沛郡の人である。若くして才と学があり、理を語ることができた。中書郎、宣城の太守を歴任した」

48談ずる者は死文筆を執る者は刑商略する者は罪に当てる

魏長齊雅有體量,而才學非所經。初宦當出,虞存嘲之曰:「與卿約法三章:談者死,文筆者刑,商略抵罪。」魏怡然而笑,無忤於色。

魏長斉は雅かに体も度量もあったが、才と学は経てきたところではなかった。

初めて官に就いて出ていくことになったとき、虞存が彼を嘲って言った。「卿と法三章を約束しよう。談ずる者は死、文筆を執る者は刑、商略する者は罪に当てる」

魏氏は和やかに笑い、顔色に逆らうところがなかった。

夾注 1

魏氏譜曰:「顗字長齊,會稽人。祖胤,處士。父說,大鴻臚卿。顗仕至山陰令。」漢書曰:「沛公入咸陽,召諸父老曰:『天下苦秦苛法久矣,今與父老約法三章耳:殺人者死,傷人及盜抵罪。』」應劭注曰:「抵,至也。但至於罪。」

『魏氏譜』に言う。「顗は字は長斉、会稽の人である。祖父の胤は処士、父の説は大鴻臚卿である。顗は官が山陰令に至った」。『漢書』に言う。「沛公が咸陽に入って諸々の父老を召して言った。『天下が秦の苛い法に苦しんで久しい。今、父老と法三章を約束するだけだ。人を殺した者は死、人を傷つけた者と盗んだ者は罪に当てる』」。応劭の注に言う。「抵とは至ることである。ただ罪に至るのである」

49常に任ずる風は広めるところがあるべきだ

郗嘉賓書與袁虎,道戴安道、謝居士云:「恆任之風,當有所弘耳。」以袁無恆,故以此激之。

郗嘉賓が袁虎に手紙を送り、戴安道と謝居士について言った。「常に任ずる風は、広めるところがあるべきだ」

袁氏には常なるところがなかったので、これで彼を刺激したのである。

夾注 1

袁、戴、謝並已見。

袁氏と戴氏と謝氏はともにすでに見える。

50全身に残る潤いがないのと全身に真なるものがないのとではどちらがましか

范啟與郗嘉賓書曰:「子敬舉體無饒縱,掇皮無餘潤。」郗答曰:「舉體無餘潤,何如舉體非真者?」范性矜假多煩,故嘲之。

范啓が郗嘉賓に手紙を送って言った。「子敬は全身に余裕も放ちもなく、皮を剥いても残る潤いがない」

郗氏は答えた。「全身に残る潤いがないのと、全身に真なるものがないのとでは、どちらがましか」

范氏は性として誇り偽って煩わしいことが多かったので、彼を嘲ったのである。

51二人の郗氏は道に諂い二人の何氏は仏に佞る

二郗奉道,二何奉佛,皆以財賄。謝中郎云:「二郗諂於道,二何佞於佛。」

二人の郗氏は道を奉じ、二人の何氏は仏を奉じたが、どちらも財を注いでのことであった。

謝中郎は言った。「二人の郗氏は道に諂い、二人の何氏は仏に佞る」

夾注 1

中興書曰:「郗愔及弟曇奉天師道。」晉陽秋曰:「何充性好佛道,崇修佛寺,供給沙門以百數。久在揚州,徵役吏民,功賞萬計,是以為遐邇所譏。充弟準,亦精勤,唯讀佛經,營治寺廟而已矣。」

『中興書』に言う。「郗愔と弟の曇は天師道を奉じた」。『晋陽秋』に言う。「何充は性として仏の道を好み、仏寺を崇め修め、沙門に供給することが百を数えた。長く揚州にいて、吏や民を徴し役して、功への賞は万を数えたので、これによって遠近からそしられるところとなった。充の弟の準もまた精しく勤めて、ただ仏経を読み、寺廟を営み治めるばかりであった」

52法師は今日破れた綿入れを着て茨の中にいるようで触れるところごとに引っかかっているな

王文度在西州,與林法師講,韓、孫諸人並在坐。林公理每欲小屈,孫興公曰:「法師今日如著弊絮在荊棘中,觸地挂閡。」

王文度が西州にいて林法師と講じ合い、韓氏や孫氏ら数人がともに席にいた。

林公の理が少し屈しそうになるたびに、孫興公は言った。「法師は今日、破れた綿入れを着て茨の中にいるようで、触れるところごとに引っかかっているな」

53どうして遊ぶ刃をすべて虚に通さないのか

范榮期見郗超俗情不淡,戲之曰:「夷、齊、巢、許,一詣垂名。何必勞神苦形,支策據梧邪?」郗未答。韓康伯曰:「何不使遊刃皆虛?」

范栄期が郗超の俗な情が淡くないのを見て、彼をからかって言った。「伯夷・叔斉・巣父・許由は、一度至って名を垂れた。どうして必ず神を労し形を苦しめて、策に支えられ梧に拠らなければならないのか」

郗氏はまだ答えなかった。

韓康伯が言った。「どうして遊ぶ刃をすべて虚に通さないのか」

夾注 1

莊子曰:「昭文之鼓琴,師曠之支策,惠子之據梧,三子之智幾矣,皆其盛也,故載之。末年,庖丁為文惠君解牛,三年之後,未嘗見全牛也。用刀十九年矣,所解數千牛,而刀刃若新發於硎。文惠君問之,庖丁曰:『彼節者有閒,而刀刃無厚;以無厚入有閒,恢恢乎其於遊刃必有餘地。』」

『荘子』に言う。「昭文の琴を鼓すること、師曠の策に支えられること、恵子の梧に拠ることは、三子の智がほぼ極まって、どれもその盛りであったので、これを載せた。末年、庖丁が文恵君のために牛を解いたが、三年の後には全きままの牛を見たことがなかった。刀を使って十九年、解いたものは数千の牛であるのに、刀の刃は新しく砥から出たようであった。文恵君がこれを問うと、庖丁は言った。『あの節には間があり、刀の刃には厚みがありません。厚みのないもので間のあるところに入るのですから、広々として、その刃を遊ばせるのに必ず余地があるのです』」

54天下にはおのずから歯の利いた子がいるものだな

簡文在殿上行,右軍與孫興公在後。右軍指簡文語孫曰:「此噉名客!」簡文顧曰:「天下自有利齒兒。」後王光祿作會稽,謝車騎出曲阿祖之。王孝伯罷秘書丞在坐,謝言及此事,因視孝伯曰:「王丞齒似不鈍。」王曰:「不鈍,頗亦驗。」

簡文帝が殿の上を歩いていて、右軍と孫興公が後ろにいた。

右軍は簡文帝を指して孫氏に言った。「これは名を食う客だ」

簡文帝は振り返って言った。「天下にはおのずから歯の利いた子がいるものだな」

のちに王光禄が会稽の任に就くと、謝車騎が曲阿まで出て餞の祀りをした。

王孝伯は秘書丞を辞めて席にいたが、謝氏の話がこの事に及んだので、それで孝伯を見て言った。「王丞の歯は鈍くないようですね」

王氏は言った。「鈍くないことは、かなり試されてもいる」

夾注 1

王蘊、謝玄已見。

王蘊と謝玄はすでに見える。

55お前は前には倨り後には恭しいと言うべきだな

謝遏夏月嘗仰臥,謝公清晨卒來,不暇著衣,跣出屋外,方躡履問訊。公曰:「汝可謂前倨而後恭。」

謝遏が夏の月にかつて仰向けに寝ていたところ、謝公が清らかな早朝に急に来た。

衣を着る暇もなく、裸足で家の外に出てから、ようやく履をつけて挨拶した。

謝公は言った。「お前は前には倨り後には恭しいと言うべきだな」

夾注 1

戰國策曰:「蘇秦說惠王而不見用,黑貂之裘弊,黃金百斤盡,大困而歸。父母不與言,妻不為下機,嫂不為炊。後為從長,行過洛陽,車騎輜重甚眾,秦之昆弟妻嫂側目不敢視。秦笑謂其嫂曰:『何先倨而後恭?』嫂謝曰:『見季子位高而金多。』秦歎曰:『一人之身,富貴則親戚畏懼,貧賤則輕易之,而況於他人哉!』」

『戦国策』に言う。「蘇秦が恵王を説いたが用いられず、黒貂の皮衣は破れ、黄金百斤は尽きて、大いに困って帰った。父母は語りかけず、妻は機を下りず、兄嫁は炊こうとしなかった。のちに従の長となって洛陽を通り過ぎるとき、車や騎や荷がはなはだ多かったので、秦の兄弟や妻や兄嫁は横目に見てあえて見ようとしなかった。秦は笑ってその兄嫁に言った。『どうして先には倨り後には恭しいのですか』。兄嫁は謝って『季子の位が高く金が多いのを見たからです』と言った。秦は嘆いて『同じ一人の身で、富み貴ければ親戚が畏れ懼れ、貧しく賤しければこれを軽んじ侮る。まして他人であればなおさらだ』と言った」

56地の名が破冢(冢を破る)でまことに冢を破って出てまいりました

顧長康作殷荊州佐,請假還東。爾時例不給布颿,顧苦求之,乃得發。至破冢,遭風大敗。作牋與殷云:「地名破冢,真破冢而出。行人安穩,布颿無恙。」

顧長康が殷荊州の補佐となったが、暇を請うて東に帰ることになった。

そのころ例として布の帆は支給されなかったが、顧氏が苦心して求め、それでやっと出発できた。

破冢に着いて風に遭い、大きく難破した。

殷氏に手紙を作って言った。「地の名が破冢(冢を破る)で、まことに冢を破って出てまいりました。行く人は安穏、布の帆は無事です」

夾注 1

周祗隆安記曰:「破冢,洲名,在華容縣。」

周祗の『隆安記』に言う。「破冢は洲の名で、華容県にある」

57謹み厚く識があって使えるほどの者は十万にも至る

符朗初過江,王咨議大好事,問中國人物及風土所生,終無極已。朗大患之。次復問奴婢貴賤,朗云:「謹厚有識,中者,乃至十萬;無意為奴婢,問者,止數千耳。」

符朗が初めて江を渡ってくると、王咨議がひどく物好きで、中国の人物や風土の産するものを問うて、ついに尽きることがなかった。

朗はこれを大いに苦にした。

次にまた奴婢の値が高いか安いかを問うと、朗は言った。「謹み厚く識があって使えるほどの者は、十万にも至る。奴婢になる気もなく、ただ問うばかりの者は、数千で止まるだけだ」

夾注 2

裴景仁秦書曰:「朗字元達,符堅從兄。性宏放,神氣爽悟。堅常曰:『吾家千里駒也。』堅為慕容沖所圍,朗降謝玄,用為員外散騎侍郎。吏部郎王忱與兄國寶命駕詣之。沙門法汰問朗曰:『見王吏部兄弟未?』朗曰:『非一狗面人心,又一人面狗心者是邪?』忱醜而才,國寶美而狠故也。朗常與朝士宴,時賢並用唾壺,朗欲夸之,使小兒跪而張口,唾而含出。又善識味,會稽王道子為設精饌,訖,問:『關中之食,孰若於此?』朗曰:『皆好。唯鹽味小生。』即問宰夫,如其言。或人殺雞以食之,朗曰:『此雞棲,恒半露。』問之,亦驗。又食鵝炙,知白黑之處,咸試而記之,無豪釐之差。著符子數十篇,蓋老、莊之流也。朗矜高忤物,不容於世,後眾讒而殺之。」

裴景仁の『秦書』に言う。「朗は字は元達、符堅の従兄である。性は広く放ち、神も気も爽やかに悟っていた。堅はいつも『わが家の千里の駒だ』と言った。堅が慕容沖に囲まれると、朗は謝玄に降り、員外散騎侍郎として用いられた。吏部郎の王忱が兄の国宝とともに車を命じて彼を訪ねた。沙門の法汰が朗に問うて『王吏部の兄弟に会われたか』と言うと、朗は『一人は犬の面に人の心、もう一人は人の面に犬の心、という者ではないか』と言った。忱は醜いが才があり、国宝は美しいが狠かったからである。朗はいつも朝廷の士と宴をするとき、当時の賢者はみな唾壺を使っていたが、朗はこれを誇ろうとして、小さな子に跪いて口を開けさせ、唾を吐いて含んで出させた。また味をよく識り、会稽王の道子が精しい膳を設けてくれ、終わってから『関中の食は、これと比べてどうか』と問うと、朗は『どれも良い。ただ塩の味が少し生であった』と言った。すぐに料理人に問うと、その言葉のとおりであった。ある人が鶏を殺して食べさせると、朗は『この鶏は塒にいるとき、いつも半ば露れていた』と言った。これを問うと、やはり当たっていた。また鵝の炙り物を食べて、白いところ黒いところを識り、すべて試して記したが、毫釐の差もなかった。「符子」数十篇を著したが、思うに老子・荘子の流れである。朗は誇り高く物に逆らって、世に容れられず、のちに多くの者が讒して彼を殺した」

王氏譜曰:「肅之字幼恭,右將軍羲之第四子。歷中書郎、驃騎咨議。」

『王氏譜』に言う。「肅之は字は幼恭、右将軍の羲之の第四子である。中書郎、驃騎咨議を歴任した」

58王はまたその家を西戎のようにされたな

東府客館是版屋。謝景重詣太傅,時賓客滿中,初不交言,直仰視云:「王乃復西戎其屋。」

東府の客館は板の家であった。

謝景重が太傅を訪ねると、そのとき客が中に満ちていたが、初めは言葉を交わさず、まっすぐ見上げて言った。「王はまた、その家を西戎のようにされたな」

夾注 1

秦詩敘曰:「襄公備其兵甲,以討西戎,婦人閔其君子,故作詩曰:『在其版屋,亂我心曲。』」毛公注曰:「西戎之版屋也。」

「秦詩叙」に言う。「襄公がその兵と甲を備えて西戎を討ったので、婦人はその夫を憐れんで、詩を作って『その板の家にいて、わが心の曲を乱す』と言った」。毛公の注に言う。「西戎の板の家である」

59次第に佳い境に至るのだ

顧長康噉甘蔗,恆自尾至本。人問所以,云:「漸至佳境。」

顧長康が甘蔗を食べるとき、いつも先の方から根もとへと進んだ。

人々がその理由を問うと、言った。「次第に佳い境に至るのだ」

60卿は禁臠に近づくな

孝武屬王珣求女壻,曰:「王敦、桓溫,磊砢之流,既不可復得,且小如意,亦好豫人家事,酷非所須。正如真長、子敬比,最佳。」珣舉謝混。後袁山松欲擬謝婚,王曰:「卿莫近禁臠。」

孝武帝が王珣に頼んで娘の婿を求め、こう言った。「王敦や桓温のような磊砢とした類は、もう二度と得られない。また少し思い通りにする者は、人の家の事に口を出したがるので、まるで必要なところではない。まさに真長や子敬のような者が、いちばんよい」

珣は謝混を挙げた。

のちに袁山松が謝氏と縁組みしようとすると、王氏は言った。「卿は禁臠に近づくな」

夾注 1

續晉陽秋曰:「山松,陳郡人。祖喬,益州刺史。父方平,義興太守。山松歷秘書監、吳國內史。孫恩作亂,見害。初,帝為晉陵公主訪婿於王珣,珣舉謝混云:『人才不及真長,不減子敬。』帝曰:『如此,便已足矣。』」

『続晋陽秋』に言う。「山松は陳郡の人である。祖父の喬は益州刺史、父の方平は義興の太守である。山松は秘書監、呉国内史を歴任した。孫恩が乱を起こしたとき、害された。初め、帝が晋陵公主のために王珣に婿を訪ねると、珣は謝混を挙げて『人の才は真長には及びませんが、子敬には劣りません』と言った。帝は『そうであれば、もう十分だ』と言った」

61盲人が瞎馬に騎り夜半に深い池に臨む

桓南郡與殷荊州語次,因共作了語。顧愷之曰:「火燒平原無遺燎。」桓曰:「白布纏棺豎旒旐。」殷曰:「投魚深淵放飛鳥。」次復作危語。桓曰:「矛頭淅米劍頭炊。」殷曰:「百歲老翁攀枯枝。」顧曰:「井上轆轤臥嬰兒。」殷有一參軍在坐,云:「盲人騎瞎馬,夜半臨深池。」殷曰:「咄咄逼人!」仲堪眇目故也。

桓南郡が殷荊州と語る順に、それで一緒に「了の語」を作った。

顧愷之が言った。「火が平原を焼いて燎し残りがない」

桓氏が言った。「白い布で棺を纏い旒旐を立てる」

殷氏が言った。「魚を深い淵に投げ、飛ぶ鳥を放つ」

次にまた「危うい語」を作った。

桓氏が言った。「矛の先で米を淅ぎ、剣の先で炊く」

殷氏が言った。「百歳の老翁が枯れ枝に攀る」

顧氏が言った。「井戸の上の轆轤に嬰児が臥す」

殷氏の参軍の一人が席にいて言った。「盲人が瞎馬に騎り、夜半に深い池に臨む」

殷氏が言った。「やれやれ、人に迫るな」

仲堪が片目を眇めていたからである。

夾注 1

中興書曰:「仲堪父嘗疾患經時,仲堪衣不解帶數年。自分劑湯藥,誤以藥手拭淚,遂眇一目。」

『中興書』に言う。「仲堪の父がかつて病を患って時を越えたので、仲堪は衣の帯を解かないことが数年であった。自ら湯薬を分けて調えていて、誤って薬のついた手で涙を拭い、ついに片目を眇めてしまった」

62伯禽の貴さでも撻を免れなかったのにまして卿はどうか

桓玄出射,有一劉參軍與周參軍朋賭,垂成,唯少一破。劉謂周曰:「卿此起不破,我當撻卿。」周曰:「何至受卿撻!」劉曰:「伯禽之貴,尚不免撻,而況於卿?」周殊無忤色。桓語庾伯鸞曰:劉參軍宜停讀書,周參軍且勤學問。」

桓玄が出て弓を射たが、ある劉参軍が周参軍と組を分けて賭けた。

ほとんど仕上がって、ただ一本当てるのが足りなかった。

劉氏が周氏に言った。「卿がこの番に立って当てなければ、私は卿を撻つぞ」

周氏が言った。「どうして卿の撻を受けるようなことになるのか」

劉氏が言った。「伯禽の貴さでも撻を免れなかったのだ。まして卿はどうか」

周氏にはまるで逆らう顔色がなかった。

桓氏が庾伯鸞に言った。「劉参軍は書を読むのをやめたほうがよく、周参軍はまた学問を問うのに勤めたほうがよい」

夾注 2

尚書大傳曰:「伯禽與康叔見周公,三見而三笞。康叔有駭色,謂伯禽曰:『有商子者,賢人也,與子見之。』乃見商子而問焉。商子曰:『南山之陽有木焉,名喬。』二三子往觀之,見喬實高高然而上。反,以告商子。商子曰:『喬者,父道也。南山之陰有木焉,名曰梓。』二三子復往觀焉,見梓實晉晉然而俯。反以告商子。商子曰:『梓者,子道也。』二三子明日見周公,入門而趨,登堂而跪。周公拂其首,勞而食之,曰:『爾安見君子乎?』」禮記曰:「成王有罪,周公則撻伯禽。」亦其義也。

『尚書大伝』に言う。「伯禽と康叔が周公に会ったが、三度会って三度笞たれた。康叔は驚く顔色があって、伯禽に言った。『商子という者がいて、賢人である。あなたとともにこれに会おう』。そこで商子に会って問うと、商子は言った。『南山の陽に木があり、名は喬である』。二三人が行って見ると、喬の木はまことに高々として上に伸びていた。帰って商子に告げると、商子は言った。『喬とは、父の道である。南山の陰に木があり、名は梓という』。二三人がまた行って見ると、梓の木はまことにしなやかに俯いていた。帰って商子に告げると、商子は言った。『梓とは、子の道である』。二三人は翌日周公に会ったが、門に入って小走りし、堂に登って跪いた。周公はその頭を撫で、労って食べさせ、言った。『お前たちはどこで君子に会ったのか』」。『礼記』に言う。「成王に罪があれば、周公は伯禽を撻った」。これもまたその意である。

晉東宮百官名曰:「庾鴻字伯鸞,潁川人。」庾氏譜曰:「鴻祖義,吳國內史。父楷,左衛將軍。鴻仕至輔國內史。」

『晋東宮百官名』に言う。「庾鴻は字は伯鸞、潁川の人である」。『庾氏譜』に言う。「鴻の祖父の義は呉国内史、父の楷は左衛将軍である。鴻は官が輔国内史に至った」

63王思道は大家の子の笑いを作れるな

桓南郡與道曜講老子,王侍中為主簿在坐。桓曰:「王主簿,可顧名思義。」王未答,且大笑。桓曰:「王思道能作大家兒笑。」

桓南郡が道曜と『老子』を講じていたとき、王侍中が主簿として席にいた。

桓氏は言った。「王主簿は、名を顧みて義を思うがよい」

王氏はまだ答えず、ただ大笑いした。

桓氏は言った。「王思道は大家の子の笑いを作れるな」

夾注 1

道曜,未詳。思道,王禎之小字也。老子明道,禎之字思道,故曰「顧名思義」。

道曜についてははっきりしない。思道は王禎之の幼い名である。老子が道を明らかにし、禎之の字が思道であるので、「名を顧みて義を思え」と言ったのである。

64祖参軍は雨漏りの中から出てきたようだな

祖廣行恒縮頭。詣桓南郡,始下車,桓曰:「天甚晴朗,祖參軍如從屋漏中來。」

祖広は歩くときいつも頭を縮めていた。

桓南郡を訪ねて車を降りたばかりのところで、桓氏は言った。「空はたいへん晴れ朗らかなのに、祖参軍は雨漏りの中から出てきたようだな」

夾注 1

祖氏譜曰:「廣字淵度,范陽人。父台之,仕光祿大夫。廣仕至護軍長史。」

『祖氏譜』に言う。「広は字は淵度、范陽の人である。父の台之は光禄大夫に仕えた。広は官が護軍長史に至った」

65籬や壁の間の物さえも得られないのだ

桓玄素輕桓崖,崖在京下有好桃,玄連就求之,遂不得佳者。玄與殷仲文書,以為嗤笑曰:「德之休明,肅慎貢其楛矢;如其不爾,籬壁間物,亦不可得也。」

桓玄はもとから桓崖を軽んじていた。

崖は都によい桃を持っていたが、玄が続けて行ってこれを求めたのに、ついに良いものを得られなかった。

玄は殷仲文に手紙を送り、嗤いの種にして言った。「徳が休く明らかであれば、肅慎がその楛の矢を貢ぐ。もしそうでなければ、籬や壁の間の物さえも得られないのだ」

夾注 2

崖,桓脩小字。續晉陽秋曰:「脩少為玄所侮,於言端常嗤鄙之。」

崖は桓脩の幼い名である。『続晋陽秋』に言う。「脩は若くして玄に侮られ、言葉の端でいつも彼を嗤い鄙しんだ」

國語曰:「仲尼在陳,有隼集陳侯之庭而死,楛矢貫之,石砮尺有咫。問於仲尼。對曰:『隼之來遠矣。此肅慎之矢也。昔武王克商,通道于九夷、百蠻,使各以方賄貢,於是肅慎氏貢楛矢。古者分異姓之職,使不忘服也,故分陳以肅慎之貢;若求之故府,其可得。』使求得之,金櫝如初。」

『国語』に言う。「仲尼が陳にいたとき、隼が陳侯の庭に集まって死んだが、楛の矢がこれを貫き、石の砮が一尺八寸であった。仲尼に問うと、答えて言った。『隼の来たところは遠い。これは肅慎の矢である。昔、武王が商に克って、九夷・百蛮に道を通じ、それぞれその方の賄をもって貢がせたので、そこで肅慎氏が楛の矢を貢いだ。古は異姓の職を分けて、服することを忘れさせないようにしたので、陳に肅慎の貢を分け与えた。もし古い府に求めれば、それは得られるはずだ』。求めさせてこれを得たが、金の櫝は初めのままであった」