紕漏世説新語 紕漏第三十四
1婢たちは皆、口を覆って彼を笑わないではいられなかった
王敦初尚主,如廁,見漆箱盛乾棗,本以塞鼻,王謂廁上亦下果,食遂至盡。既還,婢擎金澡盤盛水,瑠璃盌盛澡豆;因倒箸水中而飲之,謂是乾飯。群婢莫不掩口而笑之。
王敦が初めて公主を妻に迎えたころ、厠に行って、漆塗りの箱に乾した棗が盛られているのを見た。
もともと鼻をふさぐためのものだったのだが、王敦は厠にも果物を置くのかと思って、食べてすっかり平らげてしまった。
戻ってくると、婢が金の盥に水を入れ、瑠璃の碗に洗い用の豆の粉を入れて捧げ持っていた。
そこで王敦はそれを水の中にあけて飲み、これは乾飯だと思った。
婢たちは皆、口を覆って彼を笑わないではいられなかった。
夾注 1
敦尚武帝女舞陽公主,字脩褘。
王敦は武帝の娘の舞陽公主を妻としたが、その字は脩禕である。
2臣の父は無道の世に遭い、傷は大きく痛みは深うございます
元皇初見賀司空,言及吳時事,問:「孫皓燒鋸截一賀頭,是誰?」司空未得言,元皇自憶曰:「是賀劭。」司空流涕曰:「臣父遭遇無道,創巨痛深,無以仰答明詔。」元皇愧慙,三日不出。
元皇帝が初めて賀司空に会い、話が呉のころの事に及んで尋ねた。「孫皓が鋸を焼いて賀氏の一人の首を切ったというが、それは誰か」
司空がまだ口を開かぬうちに、元皇帝は自分で思い出して言った。「あれは賀劭だ」
司空は涙を流して言った。「臣の父は無道の世に遭い、傷は大きく痛みは深うございます。明らかな御下問に、お答え申し上げるすべもございません」
元皇帝は恥じ入って、三日のあいだ外に出なかった。
夾注 2
邵即循父也。皓凶暴驕矜,邵上書切諫,皓深恨之。親近憚邵貞正,譖云謗毀國事。被詰責。後還復職。邵中惡風,口不能言語,皓疑邵託疾,收付酒藏,考掠千數,卒無一言。鋸殺之。
賀劭は賀循の父である。孫皓は凶暴で驕り高ぶっていたので、賀劭が上書して切に諫めると、孫皓は深くこれを恨んだ。近臣たちは賀劭の正直さを憚って、国事を誹り毀していると讒言したので、問い詰めとがめを受けた。のちに復職した。賀劭は中風にかかって口がきけなくなったが、孫皓は賀劭が病気にかこつけているのではないかと疑い、捕らえて酒蔵に押し込め、千を数えるほど打ち責めて調べたが、ついに一言も発しなかった。鋸でこれを殺した。
《禮記》:「創巨者其日久,痛深者其愈遲。」
『礼記』に「傷の大きい者はその日数が長くかかり、痛みの深い者はその癒えが遅い」とある。
3あなたは『爾雅』を読み込んでいないので、学問を勧める文のために死ぬところでしたな
蔡司徒渡江,見彭蜞,大喜曰:「蟹有八足,加以二螯。」令烹之。既食,吐下委頓,方知非蟹。後向謝仁祖說此事,謝曰:「卿讀爾雅不熟,幾為勸學死。」
蔡司徒が江を渡って来て、彭蜞を見て大いに喜んで言った。「蟹には八つの足があり、それに二つの鋏が加わるというな」
そして煮させた。
食べてから吐き下しして弱りきり、それでやっと蟹でないと知った。
のちに謝仁祖にこの話をすると、謝氏は言った。「あなたは『爾雅』を読み込んでいないので、学問を勧める文のために死ぬところでしたな」
夾注 1
《大戴禮·勸學篇》曰:「蟹二螯八足,非蛇蟺之穴無所寄託者,用心躁也。」故蔡邕為勸學章取義焉。《爾雅》曰:「螖蠌小者勞,即彭蜞也,似蟹而小。」今彭蜞小於蟹,而大於彭螖,即《爾雅》所謂螖蠌也。然此三物,皆八足二螯,而狀甚相類。蔡謨不精其小大,食而致弊,故謂讀《爾雅》不熟也。
『大戴礼・勧学篇』に言う。「蟹は二つの鋏と八つの足があるが、蛇や鱔の穴でなければ身を寄せる所がないのは、心の用い方が落ち着かないからである」だから蔡邕は勧学章を作るのにここから意を取った。『爾雅』に言う。「螖蠌のうち小さいものを労という。すなわち彭蜞で、蟹に似て小さい」いまの彭蜞は蟹より小さく彭螖より大きいので、すなわち『爾雅』にいう螖蠌である。しかしこの三つのものはどれも八足二鋏で、形はたいそうよく似ている。蔡謨はその大小をよく見分けずに食べて害に至ったので、『爾雅』を読み込んでいないと言われたのである。
4これは情のある痴だ
任育長年少時,甚有令名。武帝崩,選百二十挽郎,一時之秀彥,育長亦在其中。王安豐選女壻,從挽郎搜其勝者,且擇取四人,任猶在其中。童少時神明可愛,時人謂育長影亦好。自過江,便失志。王丞相請先度時賢共至石頭迎之,猶作疇日相待,一見便覺有異。坐席竟,下飲,便問人云:「此為茶?為茗?」覺有異色,乃自申明云:「向問飲為熱,為冷耳。」嘗行從棺邸下度,流涕悲哀。王丞相聞之曰:「此是有情癡。」
任育長は年若いころ、たいそうよい評判があった。
武帝が崩じたとき、挽歌を歌う郎百二十人が選ばれたが、いずれも当時の秀でた者たちで、育長もその中にいた。
王安豊が娘の婿を選ぶのに、挽郎の中から優れた者を探し、さらに四人を選び取ったが、任氏はやはりその中にいた。
幼く若いころは聡明さが愛らしく、当時の人は、育長は影までよいと言った。
江を渡ってからは、気力を失ってしまった。
王丞相は先に渡ってきた当時の賢者たちを招き、ともに石頭へ行って彼を迎え、なお昔のようにもてなそうとしたが、一目見てすぐに様子が違うと気づいた。
席に着き終わって飲み物が出されると、すぐに人に尋ねた。「これは茶か、それとも晩茶か」
人々に不審な顔色があるのに気づいて、自分から言い直した。「さきほど尋ねたのは、飲み物が熱いか冷たいかということだ」
あるとき道を行って棺の店の前を通り、涙を流して悲しんだ。
王丞相はこれを聞いて言った。「これは情のある痴だ」
夾注 1
《晉百官名》曰:「任瞻字育長,樂安人。父琨,少府卿。瞻歷謁者、僕射、都尉、天門太守。」
『晋百官名』に言う。「任瞻は字は育長、楽安の人である。父の任琨は少府卿である。任瞻は謁者・僕射・都尉・天門太守を歴任した」
5世の人はこのことで中郎を謗り、私も一緒にやったとも言っているのだ
謝虎子嘗上屋熏鼠。胡兒既無由知父為此事,聞人道「癡人有作此者」。戲笑之。時道此非復一過。太傅既了己之不知,因其言次,語胡兒曰:「世人以此謗中郎,亦言我共作此。」胡兒懊熱,一月日閉齋不出。太傅虛託引己之過,以相開悟,可謂德教。
謝虎子がかつて屋根に上がって鼠を煙で追い出したことがあった。
胡児は父がそんなことをしたとは知るはずもなく、人が「愚かな者でこれをやる者がいる」と言うのを聞いて、からかって笑った。
それを口にしたのは一度だけではなかった。
太傅は彼が知らずにいることを察して、その話の折に胡児に言った。「世の人はこのことで中郎を謗り、私も一緒にやったとも言っているのだ」
胡児は悔やんで身の内が熱くなり、一月のあいだ部屋を閉ざして出てこなかった。
太傅は偽って自分の過ちに引きつけて、それで悟らせたのであるから、徳による教えと言ってよい。
夾注 2
虎子,據小字。據字玄道,尚書褒第二子。年三十三亡。
虎子は謝據の幼名である。謝據は字は玄道、尚書の謝裒の次男である。年三十三で没した。
中郎,據也。章伸反。按世有兄弟三人,則謂第二者為中。今謝昆弟有六,而以據為中郎,未可解。當由有三時,以中為稱,因仍不改也。
中郎は謝據である。「章伸」の反切である。按ずるに、世間では兄弟が三人いれば、二番目の者を中と呼ぶ。いま謝氏の兄弟は六人なのに謝據を中郎と呼ぶのは、よくわからない。おそらく三人だった時期があって中と称し、そのまま改めなかったことによるのであろう。
6臣は進むも退くも、ただ行き詰まるばかりでございます
殷仲堪父病虛悸,聞床下蟻動,謂是牛鬬。孝武不知是殷公,問仲堪「有一殷,病如此不?」仲堪流涕而起曰:「臣進退唯谷。」
殷仲堪の父は、身が虚して動悸する病にかかり、床の下で蟻が動く音を聞いて、これは牛が闘っているのだと言った。
孝武帝はそれが殷公のことだと知らずに、仲堪に尋ねた。「殷氏の者に一人、こういう病の者がいるというが、そうなのか」
仲堪は涙を流して立ち上がって言った。「臣は進むも退くも、ただ行き詰まるばかりでございます」
夾注 2
《殷氏譜》曰:「殷師字師子。祖識、父融,並有名。師至驃騎咨議,生仲堪。」《續晉陽秋》曰:「仲堪父曾有失心病,仲堪腰不解帶,彌年父卒。」
『殷氏譜』に言う。「殷師は字は師子である。祖父の殷識と父の殷融はともに名があった。殷師は驃騎咨議に至り、仲堪を生んだ」『続晋陽秋』に言う。「仲堪の父はかつて心を失う病があったので、仲堪は腰の帯を解かぬまま年を越し、父が没するまでそうしていた」
《大雅詩》也。毛公注曰:「谷,窮也。」
「大雅」の詩である。毛公の注に言う。「谷は窮まることである」
7天候がまだ暖かいので、䱥の魚や蝦の塩辛はお届けできません
虞嘯父為孝武侍中,帝從容問曰:「卿在門下,初不聞有所獻替。」虞家富春,近海,謂帝望其意氣,對曰:「天時尚煗,䱥魚蝦䱹未可致,尋當有所上獻。」帝撫掌大笑。
虞嘯父が孝武帝の侍中となったとき、帝はくつろいだ折に尋ねた。「あなたが門下にいながら、これまで献じたり替えたりする意見があるとは聞かないな」
虞氏の家は富春で海に近かったので、帝が自分の土地の産物を望んでいるのだと思い、こう答えた。「天候がまだ暖かいので、䱥の魚や蝦の塩辛はお届けできません。やがて献上できるものがございましょう」
帝は手を打って大笑いした。
夾注 1
《中興書》曰:「嘯父,會稽人,光祿潭之孫,右將軍純之子。少歷顯位,與王廞同廢為庶人。義旗初,為會稽內史。」
『中興書』に言う。「虞嘯父は会稽の人で、光禄の虞潭の孫、右将軍の虞純の子である。若くして顕職を歴任したが、王廞とともに廃されて庶人となった。義の旗が挙がった初めに、会稽内史となった」
8あなたはどうして人の事を誤らせるのか
王大喪後,朝論或云「國寶應作荊州」。國寶主簿夜函白事,云:「荊州事已行。」國寶大喜,而夜開閤,喚綱紀話勢,雖不及作荊州,而意色甚恬。曉遣參問,都無此事。即喚主簿數之曰:「卿何以誤人事邪?」
王大が没した後、朝廷の議論に「国宝が荊州になるはずだ」と言う者があった。
国宝の主簿が夜に用件を封じて申し上げ、「荊州の件はもう決まりました」と言った。
国宝は大いに喜んで、夜に部屋の戸を開け、要職の者を呼んで情勢を語ったが、荊州になることには触れなかったものの、気持ちも顔つきもたいそう落ち着いていた。
夜明けに人を遣って問わせると、そんなことはまるでなかった。
すぐに主簿を呼んで責めた。「あなたはどうして人の事を誤らせるのか」
夾注 1
《晉安帝紀》曰:「王忱死,會稽王欲以國寶代之。孝武中,詔用仲堪,乃止。」
『晋安帝紀』に言う。「王忱が死ぬと、会稽王は国宝にその代わりをさせようとした。孝武帝の御代のうちに、詔によって仲堪が用いられたので、それでやめになった」