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林邑国林邑國

宋書 夷蛮伝(宋書に記された夷と蛮の記録) 宋書 夷蠻傳 · 沈約 · 488年(南斉・永明6年) · 段落 6 · 漢字 998字 · 朗読 4.0分

宋書 夷蛮伝(宋書に記された夷と蛮の記録) 全一巻 南朝の宋が見た海の向こうの隣人たち。長寿王高璉の朝貢と馮弘の事件、百済の遼西経略の記事、倭の五王(讃・珍・済・興・武)の表文、そして南海の諸国が仏心から奉った表と慧琳の均善論まで — 5世紀の海路の記録である。

1林邑の侵略

高祖永初二年,林邑王范陽邁遣使貢獻,即加除授。太祖元嘉初,侵暴日南、九德諸郡,交州刺史杜弘文建牙聚眾欲討之,聞有代,乃止。七年,陽邁遣使自陳與交州不睦,求蒙恕宥。八年,又遣樓船百餘寇九德,入四會浦口,交州刺史阮彌之遣隊主相道生三千人赴討,攻區粟城不剋,引還。林邑欲伐交州,借兵於扶南王,扶南不從。十年,陽邁遣使上表獻方物,求領交州,詔答以道遠,不許。十二、十五、十六、十八年,頻遣貢獻,而寇盜不已,所貢亦陋薄。

高祖の永初二年、林邑王の范陽邁が使者を遣わして貢ぎ物を献じたので、ただちに官位を加え授けた。太祖の元嘉の初め、日南・九徳の諸郡を侵し荒らしたので、交州刺史の杜弘文が牙旗を立て兵を集めてこれを討とうとしたが、交代の者が来ると聞いて取りやめた。七年、陽邁は使者を遣わして、交州と仲が悪かったことを自ら申し述べ、許しを乞うた。八年、また楼船百余隻で九徳を侵し、四会の浦口に入ったので、交州刺史の阮弥之は隊主の相道生に三千人を与えて討たせたが、区粟城を攻めて勝てず、引き返した。林邑は交州を討とうとして扶南王に兵を借りようとしたが、扶南は従わなかった。十年、陽邁は使者を遣わして上表し方物を献じ、交州を治めさせてほしいと求めたが、詔して道が遠いことを理由に許さなかった。十二年・十五年・十六年・十八年と、しきりに使者を遣わして貢いだが、略奪はやまず、貢ぐ品もまた粗末で薄かった。

2檀和之の征伐

太祖忿其違慠,二十三年,使龍驤將軍、交州刺史檀和之伐之,遣太尉府振武將軍宗慤受和之節度。和之遣府司馬蕭景憲為前鋒,慤仍領景憲軍副。陽邁聞將見討,遣使上表,求還所略日南民戶,奉獻國珍。太祖詔和之:「陽邁果有款誠,許其歸順。」其年二月,軍至朱梧戍,遣府戶曹參軍日南太守姜仲基、前部賊曹參軍蟜弘民隨傳詔畢願、高精奴等宣揚恩旨,陽邁執仲基、精奴等二十八人,遣弘民反命,外言歸款,猜防愈嚴。景憲等乃進軍向區粟城,陽邁遣大帥范扶龍大戍區粟,又遣水步軍徑至。景憲破其外救,盡銳攻城,五月,剋之,斬扶龍大首,獲金銀雜物不可勝計。乘勝追討,即剋林邑,陽邁父子並挺身奔逃,所獲珍異,皆是未名之寶。上嘉將帥之功,詔曰:「林邑介恃遐險,久稽王誅。龍驤將軍、交州刺史檀和之忠果到列,思略經濟,禀命攻討,萬里推鋒,法命肅齊,文武畢力,潔己奉公,以身率下,故能立勳海外,震服殊俗。

太祖はその背き傲ることに憤り、二十三年、龍驤将軍・交州刺史の檀和之にこれを討たせ、太尉府振武将軍の宗慤を遣わして和之の指揮を受けさせた。和之は府司馬の蕭景憲を先鋒とし、慤はそのまま景憲の軍副を兼ねて率いた。陽邁は討たれようとしていると聞き、使者を遣わして上表し、略奪した日南の民戸を返し、国の珍宝を献じたいと求めた。太祖は和之に詔した。「陽邁に果たして誠があるなら、その帰順を許せ。」その年の二月、軍は朱梧の戍に至り、府戸曹参軍・日南太守の姜仲基と、前部賊曹参軍の蟜弘民を、伝詔の畢願・高精奴らに従わせて遣わし、恩旨を宣べさせた。ところが陽邁は仲基・精奴ら二十八人を捕らえ、弘民だけを返して復命させ、表向きは帰順を言いながら、疑いと備えはいよいよ厳しくなった。景憲らはそこで進軍して区粟城に向かった。陽邁は大帥の范扶龍大を遣わして区粟を大いに守らせ、また水軍と歩軍をまっすぐ差し向けた。景憲はその外からの救援を破り、精鋭を尽くして城を攻め、五月にこれを落とし、扶龍大の首を斬り、金銀や雑多な物を数えきれぬほど獲た。勝ちに乗じて追い討ち、ついに林邑を落としたので、陽邁父子はともに身一つで逃げ去った。獲た珍奇な品は、いずれも名も知れぬ宝であった。帝は将帥の功をよみして詔した。「林邑は遠く険しいことを頼みにして、久しく王者の誅を引き延ばしてきた。龍驤将軍・交州刺史の檀和之は、忠と果断がきわだち、思慮と計略は世を治めることに及び、命を受けて攻め討ち、万里に刃を推し進め、法と命令は厳かに整い、文武ともに力を尽くし、身を潔くして公に奉じ、みずから下の者を率いた。だからこそ海の外に勲功を立て、異なる風俗の者を威によって服させることができたのである。

3将帥を表彰する

宜加褒飾,參管近侍,可黃門侍郎,領越騎校尉、行建武將軍。龍驤司馬蕭景憲協贊軍首,勤捷顯著,總勒前驅,剋殄巢穴,必能威服荒夷,撫懷民庶。可持節、督交州廣州之鬱林寧浦二郡諸軍事、建威將軍、交州刺史。」龍驤司馬童林之、九真太守傅蔚祖戰死,並贈給事中。

褒め飾りを加え、近侍の職に参らせるのがふさわしい。黄門侍郎に任じ、越騎校尉を兼ねさせ、行建武将軍とする。龍驤司馬の蕭景憲は軍の長を助け、勤めと働きの速さが際立ち、先鋒を総べ率いて巣穴を討ち滅ぼした。必ずや荒夷を威によって服させ、民を撫でいたわることができよう。持節・督交州広州之鬱林寧浦二郡諸軍事・建威将軍・交州刺史とする。」龍驤司馬の童林之と九真太守の傅蔚祖は戦死したので、ともに給事中を追贈した。

4その後の朝貢

世祖孝建二年,林邑又遣長史范龍跋奉使貢獻,除龍跋揚武將軍。大明二年,林邑王范神成又遣長史范流奉表獻金銀器及香布諸物。太宗泰豫元年,又遣使獻方物。

世祖の孝建二年、林邑はまた長史の范龍跋を使者として遣わし貢ぎ物を献じたので、龍跋に揚武将軍を授けた。大明二年、林邑王の范神成がまた長史の范流を遣わして上表を奉り、金銀の器や香・布などの品を献じた。太宗の泰豫元年、また使者を遣わして方物を献じた。

5檀和之のその後

初,檀和之被徵至豫章,值豫章民胡誕世等反,因討平之,并論林邑功,封雲杜縣子,食邑四百戶。和之,高平金鄉人,檀憑子也。太祖元嘉二十七年,自太子左衞率為世祖鎮軍司馬、輔國將軍、彭城太守。元凶弒立,以為西中郎將、雍州刺史。世祖入討,加輔國將軍,統豫州戍事,因出南奔。世祖即位,以為右衞將軍。孝建二年,除輔國將軍、豫州刺史,不行,復為右衞,加散騎常侍。三年,出為南兗州刺史,坐酣飲黷貨,迎獄中女子入內,免官禁錮。其年卒,追贈左將軍,諡曰襄子。

初め、檀和之が召されて豫章に至ったとき、ちょうど豫章の民の胡誕世らが反乱したので、そのついでに討ち平らげ、林邑の功とあわせて論功され、雲杜県子に封ぜられ、食邑四百戸を受けた。和之は高平金郷の人で、檀憑の子である。太祖の元嘉二十七年、太子左衛率から世祖の鎮軍司馬・輔国将軍・彭城太守となった。元凶が君を殺して位に立つと、西中郎将・雍州刺史とされた。世祖が入って討つとき、輔国将軍を加えられ、豫州の戍の事を統べたが、そのまま南へ走り出た。世祖が即位すると右衛将軍とされた。孝建二年、輔国将軍・豫州刺史に任ぜられたが赴任せず、ふたたび右衛となって散騎常侍を加えられた。三年、南兗州刺史として出たが、酒に溺れ賄賂を貪り、獄中の女を内に迎え入れた罪に問われて、官を免ぜられ禁錮となった。その年に死に、左将軍を追贈され、諡を襄子といった。

夾注 1

以為西中郎將雍州刺史 「雍」各本並作「雅」。張森楷校勘記、孫虨宋書考論並云「雅州當作雍州」。按張、孫二校是,今改正。

「西中郎将・雍州刺史とした」の雍は、各版本ではみな「雅」となっている。張森楷の校勘記と孫虨の宋書考論はともに「雅州は雍州とすべきである」と言い、張・孫の二つの校勘が正しいので、いま改め正した。

6陳檀を殺した遠征

廣州諸山並俚、獠,種類繁熾,前後屢為侵暴,歷世患苦之。世祖大明中,合浦大帥陳檀歸順,拜龍驤將軍。四年,檀表乞官軍征討未附,乃以檀為高興太守,將軍如故。遣前朱提太守費沈、龍驤將軍武期率眾南伐,并通朱崖道,並無功,輒殺檀而反,沈下獄死。

広州の諸山にはいずれも俚と獠がおり、その種族は数多く盛んで、前後たびたび侵し荒らしたので、代々これに苦しめられた。世祖の大明の年間、合浦の大帥の陳檀が帰順したので、龍驤将軍を授けた。四年、檀が上表して、官軍がまだ服属していない者たちを征討してほしいと願ったので、檀を高興太守とし、将軍はもとのままとした。前の朱提太守の費沈と龍驤将軍の武期を遣わして兵を率いて南を伐たせ、あわせて朱崖への道を通じさせたが、いずれも功がなく、あげくに檀を殺して帰ったので、沈は獄に下されて死んだ。