靺鞨と渤海靺鞨·渤海
1靺鞨の名を捨てて渤海と称する
靺鞨〔一作勿吉〕渤海通典云“渤海夲栗末靺鞨至其酋祚榮立國自號震旦,先天中〔玄宗王子〕始去靺鞨號專稱渤海.開元七年〔己未〕祚榮死謚爲髙王.世子襲立明皇賜典冊襲王,私攺年號遂爲海東盛國.地有五亰十五府六十二州.後唐天成初契丹攻破之其後爲丹所制.”
靺鞨〔勿吉ともいう。〕と渤海。
『通典』に次のように言う。
「渤海はもともと粟末靺鞨であったが、その首長の祚栄に至って国を立て、自ら震旦と称した。
先天年間に〔玄宗の王子の時である。〕はじめて靺鞨の名を捨て、もっぱら渤海と称した。
開元七年〔己未の年である。〕に祚栄が死に、諡を高王とした。
世子が継いで立つと、明皇が冊封を与えて王位を継がせたが、ひそかに年号を改め、ついに海東盛国となった。
地に五つの京と十五の府と六十二の州があった。
後唐の天成の初めに契丹が攻めて破り、その後は契丹に抑えられた。」
夾注 4
一作勿吉
勿吉ともいう。
玄宗王子
玄宗の王子の時である。
己未
己未の年である。
底本は「王子」だが「壬子」の誤りと見る。 ― 訳者
2高句麗の残った者たちが立てたという話
〔三國史云“儀鳳三年髙宗戊寅髙麗殘孽類聚北依太伯山下國號渤海.開元二十年間明皇遣將討之.又聖徳王三十二年玄宗甲戌渤海靺鞨越海侵唐之登州,玄宗討之.”又新羅古記云“高麗舊將祚榮姓大氏,聚殘兵立國於大伯山南國號渤海.”按上諸文,渤海乃靺鞨之別種,但開合不同而已.按指掌圖,“渤海在長城東北角外.”〕
〔『三国史』に言う。「儀鳳三年、高宗の戊寅の年に高句麗の残った者たちが群れ集まり、北へ行って太伯山の下に拠り、国号を渤海とした。開元二十年のころ、明皇が将を遣わしてこれを討った。
また聖徳王三十二年、玄宗の甲戌の年に渤海と靺鞨が海を越えて唐の登州を侵したので、玄宗がこれを討った。」
また『新羅古記』に言う。「高句麗の旧将の祚栄は姓は大氏で、残った兵を集めて太伯山の南に国を立て、国号を渤海とした。」
上の諸文を考えるに、渤海は靺鞨の別種であり、ただ分かれ方と合わさり方が同じでないだけである。
『指掌図』を考えるに、「渤海は長城の東北の角の外にある」という。〕
3四つの府はいずれも高句麗の旧地である
賈躭郡國志云“渤海國之鴨渌·南海·扶餘·橻城四府並是髙麗舊地也,自新羅泉井郡〔地理志朔州領縣有泉井郡,今湧州.〕至橻城府三十九驛.”又三國史云“百濟末年渤海·靺鞨·新羅分百濟地.”〔拠此則鞨海又分為二國也.〕羅人云“北有靺鞨南有倭人西有百濟,是國之害也.”又“靺鞨地接阿瑟羅州.”
賈耽の『郡国志』に言う。「渤海国の鴨緑・南海・扶余・柵城の四府はいずれも高句麗の旧地である。新羅の泉井郡から〔「地理志」に朔州に属する県として泉井郡があり、今の湧州である。〕柵城府まで三十九の駅である。」
また『三国史』に言う。「百済の末年に渤海と靺鞨と新羅が百済の地を分けた。」〔これによれば、靺鞨と渤海がまた二つの国に分かれたことになる。〕
新羅の人が言う。「北に靺鞨があり、南に倭人があり、西に百済がある。これが国の害である。」
また「靺鞨の地は阿瑟羅州に接する」という。
夾注 2
地理志朔州領縣有泉井郡, 今湧州.
「地理志」に朔州に属する県として泉井郡があり、今の湧州である。
拠此則鞨海又分為二國也.
これによれば、靺鞨と渤海がまた二つの国に分かれたことになる。
4挹婁と勿吉はみな粛慎である
又東明記云“卒夲城地連靺鞨〔或云今東真.〕.”羅第六祗麻王十四年〔乙丑〕,靺鞨兵大入北境襲大嶺柵過泥河.後魏書靺鞨作勿吉.指掌圗云“挹屢與勿吉皆肅慎也.”黒水·沃沮按東坡指掌圗,辰韓之北有南北黒水,按東明帝立十年滅北沃沮,温祚王四十二年南沃沮二十餘家来投新羅.又赫居世五十二年東沃沮来献良馬,則又有東沃沮矣.指掌圗“黑水在長城北,沃沮在長城南.”
また『東明記』に言う。「卒本城は地が靺鞨に連なる〔あるいは今の東真ともいう。〕。」
新羅の第六代祇摩王十四年〔乙丑の年である。〕に、靺鞨の兵が大挙して北の境に入り、大嶺の柵を襲い、泥河を過ぎた。
『後魏書』には靺鞨を勿吉と記す。『指掌図』に言う。「挹婁と勿吉はみな粛慎である。」
黒水と沃沮——東坡の『指掌図』を考えるに、辰韓の北に南北の黒水がある。
東明帝が立って十年目に北沃沮を滅ぼし、温祚王四十二年に南沃沮の二十余りの家が新羅に来て身を寄せた。
また赫居世五十二年に東沃沮が来て良馬を献じたので、東沃沮もまたあるのである。
『指掌図』に「黒水は長城の北にあり、沃沮は長城の南にある」という。
夾注 2
或云今東真.
あるいは今の東真ともいう。
乙丑
乙丑の年である。