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文武王法敏

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 7 · 漢字 1,737字 · 朗読 6.9分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 紀異 第2 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1高句麗を滅ぼす

文虎王法敏王初即位龍朔辛酉,泗泚南海中有死女尸,身長七十三尺,足長六尺,隂長三尺.或云身長十八尺,在封乹二年丁卯.緫章戊辰,王統兵與仁問·欽純等至平壤,㑹唐兵滅麗.唐帥李勣獲髙臧王還國.〔王之姓髙故云髙臧.… 而郷古記云, 唐遣陸路将軍孔恭·水路将軍有相, 興新羅金庾信等滅之, 而此云仁問·欽純等, 無庾信未詳.〕

文武王法敏。

王がはじめて位に就いた竜朔辛酉に、泗泚の南の海の中に死んだ女の屍があった。身の丈は七十三尺、足の長さは六尺、陰の長さは三尺であった。あるいは身の丈は十八尺といい、封乾二年丁卯の事ともいう。

総章戊辰に、王が兵を率いて仁問・欽純らとともに平壌に至り、唐の兵と会って高句麗を滅ぼした。

唐の将の李勣が高蔵王を捕らえて国に帰った。

〔王の姓が高氏なので高蔵という。わが『古記』には、唐が陸路の将軍の孔恭と水路の将軍の有相を遣わし、新羅の金庾信らとともに滅ぼしたとあるのに、ここでは仁問・欽純らといって、庾信がないので詳らかでない。〕

夾注 1

王之姓髙故云髙臧. … 而郷古記云, 唐遣陸路将軍孔恭·水路将軍有相, 興新羅金庾信等滅之, 而此云仁問·欽純等, 無庾信未詳.

王の姓が高氏なので高蔵という。『唐書』と『古記』を調べると、顕慶五年から総章元年まで何度も兵を出した事が順に記されている。ところがわが『古記』には、唐が陸路の将軍の孔恭と水路の将軍の有相を遣わし、新羅の金庾信らとともに滅ぼしたとあるのに、ここでは仁問・欽純らといって、庾信がないので詳らかでない。

2絹で寺を組み、文豆婁の法を行う

時唐之游兵諸将兵有留鎮而将謀襲我者王覺之發兵之.明年髙宗使召仁問等讓之曰,“爾請我兵以滅麗害之何耶.”乃下圎扉,錬兵五十万以薛邦爲帥欲伐新羅.時義相師西學入唐來見仁問,仁問以事諭之.相乃東還上聞,王甚憚之,㑹群臣問防禦䇿.角干金天尊奏曰“近有明朗法師入龍宫傳秘法以來,請詔問之.”朗奏曰“狼山之南有神逰林,創四天王寺於其地,開設道塲則可矣.”時有貞州使走報曰,“唐兵無數至我境迴槧海上.”王召明朗曰“事已逼至如何.”朗曰“以彩帛假搆冝矣,”乃以彩帛營寺,草搆五方神像,以瑜珈明僧十二貟明朗爲上首,作文豆婁秘密之法,時唐羅兵未交接風濤怒起,唐舡皆没於水.後攺刱寺名四天王寺,至今不墜壇席.〔國史大攺刱在調露元年己卯.〕後年辛未唐更遣趙憲爲帥,亦以五万兵來征,又作其法舡没如前.

そのとき唐の遊軍や諸将の兵で、留まり守りながらこれからわたしたちを襲おうと謀る者があったので、王は気づいて兵を出して攻めた。

翌年、高宗は仁問らを呼んで責めた。「お前たちはわが兵を請うて高句麗を滅ぼしておきながら、わたしたちを害するとはどうしたことか。」

そうして獄に入れ、兵五十万を訓練して薛邦を将として新羅を討とうとした。

そのころ義相法師が西へ学びに唐に入っていて仁問に会うと、仁問が事情を告げた。

義相はそこで東へ帰って申し上げると、王はたいへん恐れ、臣下たちを集めて防ぐ計を問うた。

角干の金天尊が申し上げた。「近ごろ明朗法師が竜宮に入って秘法を伝えて来ましたので、詔でお問いください。」

明朗が申し上げた。「狼山の南に神遊林がありますから、その地に四天王寺を建てて道場を開けばよろしいでしょう。」

そのとき貞州の使いが走って来て告げた。「唐の兵が数えきれないほどわが境に至って、海の上をめぐっています。」

王は明朗を呼んだ。「事がもう迫っている。どうしようか。」

明朗は言った。「色のある絹で仮に組むのが当たっています。」

そこで絹で寺を営み、草で五方の神像を組み、密教の法に明るい僧十二人に明朗を首として、文豆婁の秘密の法を行った。

そのとき唐と新羅の兵はまだぶつかっていなかったのに、風と波が怒って起こり、唐の船はみな水に沈んだ。

のちに寺を改めて建てて名を四天王寺としたので、今まで壇の席が絶えない。〔『国史』には大きく改めて建てたのは調露元年己卯という。〕

その後、辛未に唐はまた趙憲を将として遣わし、やはり五万の兵で討ちに来たが、また同じ法を行って船は前のように沈んだ。

夾注 1

國史大攺刱在調露元年己卯.

『国史』には大きく改めて建てたのは調露元年己卯という。

3望徳寺という名が生まれる

是時翰林郎朴文俊随仁問在獄中,髙宗召文俊曰,“汝國有何密法再發大兵無生還者.”文俊奏曰,“陪臣等來於上國一十餘年,不知本國之事.但遥聞一事爾,厚荷上國之恩一統三國,欲報之徳,新刱天王寺於狼山之南,祝皇壽万年長開法席而已.”髙宗聞之大恱,乃遣禮部侍郎樂鵬龜使於羅審其寺.王先聞唐使将至,不冝見兹寺,乃别刱新寺於其南待之.使至曰“必先行香扵皇帝祝壽之所天王寺.”乃引見新寺,其使立扵門前曰,“不是四天王寺乃望徳遥山之寺”終不入,國人以金一千两贈之.其使乃還奏曰“新羅刱天王寺祝皇壽扵新寺而已.”因唐使之言因名望徳寺.〔或系孝昭王代,誤矣.〕王聞文俊善奏帝有寬赦之意,乃命強首先生作請放仁問表,以舎人逺禹奏扵唐.帝見表流涕赦仁問慰送之.仁問在獄時,國人爲刱寺名仁容寺,開設觀音道塲,及仁問來還死扵海上,攺爲彌陁道塲,至今猶存.

このとき翰林郎の朴文俊が仁問に従って獄にいたが、高宗は文俊を呼んで言った。

「お前たちの国にどんな秘密の法があって、二度も大軍を出したのに生きて帰った者がないのか。」

文俊は申し上げた。「わたしたちは上国に来てから十数年になりますので、本国の事を知りません。

ただ遠くから一つの事を聞いただけです。上国の恩を厚く受けて三国を一つにしたので、その徳に報いようと、狼山の南に天王寺を新しく建て、皇帝の寿が万年であるよう祈って、長く法席を開いているだけです。」

高宗は聞いてたいへん喜び、礼部侍郎の楽鵬亀を新羅へ使者として遣わし、その寺を調べさせた。

王は唐の使者が来ると先に聞いて、この寺を見せてはならないと思い、別に新しい寺をその南に建てて待った。

使者が至って言った。「必ずまず皇帝の寿を祈る所である天王寺に香を供えよう。」

そこで新しい寺へ案内して見せると、使者は門の前に立って言った。

「これは四天王寺ではなく、徳を望み山を望む寺である。」

ついに入らなかったので、国の人が金千両を贈った。

使者はそこで帰って申し上げた。「新羅は天王寺を建てて、皇帝の寿を新しい寺で祈っているだけです。」

唐の使者の言葉によって、これにより望徳寺と名づけた。〔ある所では孝昭王の代の事としているが誤りである。〕

王は文俊がうまく申し上げて皇帝に寛く許す意があると聞き、そこで強首先生に命じて仁問を放してほしいという表を作らせ、舎人の遠禹に唐へ申し上げさせた。

皇帝は表を見て涙を流し、仁問を放して慰めて送った。

仁問が獄にいたとき、国の人が彼のために寺を建てて仁容寺といい、観音道場を開いたが、仁問が帰る途中で海で死ぬと、弥陀道場に改めたので今もある。

夾注 1

或系孝昭王代, 誤矣.

ある所では孝昭王の代の事としているが誤りである。

4死んで国を守る竜になりたい

大王御國二十一年以永隆二年辛巳崩,遺詔葬於東海中大巖上.王平時常謂智義法師曰,“朕身後願爲護國大龍,崇奉佛法守護邦家.”法師曰“龍爲畜報何.”王曰“我猒世間榮華久矣,若麤報爲畜則雅合朕懷矣.”

大王は国を治めて二十一年、永隆二年辛巳に世を去った。

残した詔によって東海の中の大きな岩の上に葬らせた。

王は平素つねに智義法師に言っていた。「朕は死んだのちに国を守る大きな竜となって仏法を奉じ、国を守りたい。」

法師は言った。「竜は畜生の報いですが、どうなさいますか。」

王は言った。「わたしは世の栄華を厭うてから久しい。もし粗い報いで畜生となるなら、かえって朕の心に合う。」

5政が明らかでなければ長い城があっても

王初即位置南山長倉,長五十歩,廣十五歩,貯米穀兵噐,是爲右倉,天恩寺西北山上是爲左倉.别本云建福八年辛亥築南山城,周二千八百五十歩.則乃真徳王代始築而至此乃重修爾.又始築富山城,三年乃畢,安北河邊築䥫城.又欲築京師城郭旣令真吏.時義相法師聞之致書報云,“王之政教明,則雖草丘盡地而爲城,民不敢踰,可以㓗災進福,政教苟不明,則雖有長城災害未消.”王扵是罷其伇.麟徳三年丙寅三月十日,有人家婢名吉伊一乳生三子.緫章三年庚午正月七,漢歧部一山級干,一作成山何于婢一乳生四子,一女三子.國給糓二百石以賞之.又伐髙麗以其國王孫还國,置之真骨位.

王がはじめて位に就いて南山に長い倉を置いたが、長さは五十歩、幅は十五歩であった。米と穀物と兵器を納めたので、これが右の倉であり、天恩寺の西北の山の上のものが左の倉である。

別の本には、建福八年辛亥に南山城を築き、周りは二千八百五十歩とある。とすれば真徳王の代にはじめて築き、このときに至って手を入れ直しただけである。

また、はじめて富山城を築いて三年で終え、安北の河辺に鉄城を築いた。

また都の城郭を築こうとして、すでに役人に命じていた。

そのとき義相法師が聞いて書を送って告げた。

「王の政と教えが明らかであれば、たとえ草の丘に線を引いて城としても、民はあえて越えず、災いを払って福を招くことができます。

政と教えがまことに明らかでなければ、たとえ長い城があっても災害は消えません。」

王はそこでその工事をやめた。

麟徳三年丙寅の三月十日に、ある家の女の召使いの吉伊が一度の出産で男の子三人を生んだ。

総章三年庚午の正月七日に、漢歧部の一山級干の女の召使いが一度の出産で四人を生んだが、娘一人と男の子三人であった。国は穀物二百石を与えて賞した。

また高句麗を討って、その国の王孫を連れて帰り、真骨の位に置いた。

夾注 2

底本はこの下に「一作成山何于」(成山何于と記すこともある)と書き添えている。 ― 訳者

底本は「真徳」だが、建福八年辛亥(五九一)は真平王の代なので前後が合わない。 ― 訳者

6居士の姿で国を見てまわる

王一日召庻弟車得公曰,“汝爲冡宰均理百官平章四海.”公曰“陛下若以小臣爲宰,則臣願潛行國内,示民問徭役之勞逸·租賦之軽重·官吏之清濁然後就聀.”王聽之.公著緇衣把琵琶爲居士形出京師.経由阿瑟羅州〔今溟州〕·牛首州〔今春州〕·北原京,〔今忠州.〕至扵武珎州〔今海陽〕廵行里閈,州吏安吉見是異人,邀致其家盡情供億.至夜安吉喚妻妾三人曰,“今兹侍宿客居士者終身偕老.”二妻曰“寧不並居何以於人同宿.”其一妻曰“公若許終身並居則承命矣,”從之.詰旦居士欲辭行時曰,“僕京師人也,吾家在皇龍皇聖二寺之間,吾名端午也,〔俗爲端午爲車衣.〕主人若到京師尋訪吾家幸矣.”

王はある日、庶弟の車得公を呼んで言った。「お前を宰相として百官を平らかに治め、天下を平定させよう。」

公は言った。「陛下がもし小臣を宰相とされるなら、臣は願わくはひそかに国の中を歩いて民を見、賦役の苦しさと楽さ、租税の重さと軽さ、役人の清さと濁りを尋ねてから、その職に就きたいと思います。」

王は聞き入れた。

公は墨染めの衣を着て琵琶を取り、居士の姿をして都を出た。

阿瑟羅州〔今の溟州である。〕、牛首州〔今の春州である。〕、北原京〔今の忠州である。〕を経て武珍州に〔今の海陽である。〕至り、里をあまねく歩きまわった。

州の吏の安吉はこれが並でない人だと見て、その家に迎え入れ、心を尽くしてもてなした。

夜になると安吉は妻と妾の三人を呼んで言った。「今日この客の居士に侍って寝る者とは、一生ともに老いよう。」

二人の妻は言った。「むしろいっしょに暮らせなくても、どうして他人といっしょに寝られましょう。」

そのうちの一人の妻が言った。「公がもし一生ともに暮らすことを許してくださるなら、お言葉に従います。」

そのとおりにした。

翌朝、居士が去ろうとするとき言った。「わたしは都の人です。わたしの家は皇竜寺と皇聖寺の二つの寺の間にあり、わたしの名は端午です。〔世間では端午を「車衣」という。〕

ご主人がもし都に来られたら、わたしの家を訪ねてくだされば幸いです。」

夾注 5

今溟州

今の溟州である。

今春州

今の春州である。

今忠州.

今の忠州である。

今海陽

今の海陽である。

俗爲端午爲車衣.

世間では端午を「車衣」という。

7二つの寺の間の一つの家は、おそらく宮中であろう

遂行到京師居家宰.國之制每以外州之吏一人上守京中諸曹.注今之其人也.安吉當次上守至京師,問两寺之間端午居士之家,人莫知者.安吉久立道左,有一老翁經過聞其言良久佇思曰,“二寺間一家殆大内也,端午者乃車得令公也,潛行外郡時殆汝有縁契乎.”安吉陳其實老人曰“汝去宫城之西敀正門待宫女出入者告之.”安吉從之告武珎州安吉進扵門矣.公聞而走出携手入宫,喚出公之妃興安吉共宴,具饌至五十味.聞扵上以星浮山〔一作星損乎山.〕下爲武珎州上守繞木田,禁人樵採人不敢近,内外欽羡之.山下有田三十畒下種三石,此田稔歳武珎州亦稔,否則亦否云.

ついに都に帰って宰相の位にあった。

国の制度では毎年、外の州の吏一人を都の諸官庁に上守として上らせて守らせた。今の其人がそれである。

安吉は順番が来て都に至り、二つの寺の間の端午居士の家を尋ねたが、知る者がなかった。

安吉が長く道のかたわらに立っていると、通りかかった老人がその言葉を聞き、しばらく立って考えてから言った。

「二つの寺の間の一つの家は、おそらく宮中であろう。端午とはすなわち車得令公である。外の郡をひそかに歩いていたとき、おそらくあなたと縁があったのだろう。」

安吉が事情を話すと、老人は言った。「あなたは宮城の西の帰正門に行って、宮女が出入りするのを待って告げなさい。」

安吉はそのとおりにして「武珍州の安吉が門に至った」と告げた。

公は聞いて走り出て手を取って宮に入り、公の妃を呼び出して安吉とともに宴を開くと、整えた料理は五十の味に至った。

帝に申し上げて、星浮山〔星損乎山ともいう。〕の下を武珍州の上守の木をめぐらせた田とし、人が木を切ることを禁じると、人々はあえて近づかなかった。内も外もうらやんだ。

山の下に田が三十畝あって種を三石まいたが、この田が実る年は武珍州もよく実り、そうでない年はまたそうでないという。

夾注 1

一作星損乎山.

星損乎山ともいう。