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駕洛国記 — 後の記駕洛國記 (後)

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 9 · 漢字 2,378字 · 朗読 9.5分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 紀異 第2 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1文武王が絶えた祭りをよみがえらせる

洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月日有制曰.“朕是伽耶國元君九代孫仇衝王降于當國也,所率來子世宗之子率友公之子庻云匝干之女文明皇后寔生我者.兹故元君於㓜冲人乃爲十五代始祖也.所御國者已曽敗,所葬廟者今尚存,合于宗祧續乃祀事.”…美矣㦲,文武王〔法敏王謚也.〕先奉尊祖,孝乎惟孝.継泯絶之祀復行之也.

新羅の第三十代法敏王の龍朔元年辛酉の年の三月、こういう詔を下した。

「わたしは伽耶国の初代の君の九代の孫である仇衡王がこの国に降ったとき連れて来た子の世宗、その子の率友公の子である庶云匝干の娘、文明皇后がわたしを生まれた。それゆえその初代の君は、幼いわたしにとって十五代の始祖となる。治めていた国はすでに崩れたが、葬られた廟は今も残っているので、宗廟に合わせてその祭りを継がせよ。」

そこで使者を旧跡に遣わし、廟の近くの良い田三十頃を祭りの元手として王位田と名づけ、その郡に属させた。

王の十七代の孫である賡世級干が朝廷の意を受けてその田を預かり、毎年酒を醸し、餅・飯・茶・果物などを整えて、祭りを年ごとに欠かさなかった。その祭日も居登王が定めた一年五日を失わなかった。

居登王が即位した己卯の年に廟を置いてから仇衡王の時まで三百三十年の間、祭りが違えられたことはなかった。しかし仇衡王が位を失い国を去った後、龍朔元年辛酉の年までの六十年の間には、祭りが時に絶えることもあった。

美しいことだ、文武王よ。〔法敏王の諡である。〕まず祖先を奉じたのだから、孝であり、また孝である。絶えた祭りを継いで再び行ったのだ。

夾注 1

法敏王謚也.

法敏王の諡である。

2祭りをみだりに行った者たちが禍を受ける

新羅季末有忠至匝干者,攻取金官髙城而爲城主將軍.爰有英䂓阿干假威於將軍奪廟享而滛祀,當端午而致告祠堂,梁無故折墜因覆壓而死焉.…遂以鮫絹三尺摸出真影安於壁上,旦夕膏炷瞻仰虔至.才三日影之二目流下血淚而貯於地上,㡬一斗矣.…然古人有言.“淫祀無福反受其殃.”前有英䂓後有俊必,父子之謂乎.又有賊徒謂廟中多有金玉将来盗焉.…故知陵園表裏必有神物護之.…由是觀之,辛替否曰“自古迄今豈有不亡之國不破之墳”,唯此駕洛國之昔曽亡則替否之言有徴矣,首露廟之不毀則替否之言未足信也.

新羅の末に忠至匝干という者がいて、金官高城を攻め取って城主将軍となった。

このとき英規阿干が将軍の威を借りて廟の祭りを奪ってみだりに祀ったが、端午の日に祠堂に告げていると、梁が理由もなく折れ落ちて、押し潰されて死んだ。

そこで将軍はみずから言った。「前世の縁が幸いして、おそれながら聖なる君が治めた城の祭りを預かることになったのだから、わたしがその肖像を描き、香と灯で奉じてその恩に報いよう。」

ついに鮫絹三尺に肖像を描いて壁に安んじ、朝夕に灯を点して仰ぎ、心を尽くした。わずか三日で肖像の両の目から血の涙が流れて地に溜まり、ほとんど一斗ほどになった。

将軍は大いに恐れ、その肖像を奉じて廟に行って焼いた。そして王のまことの子孫である圭林を呼んで言った。「昨日、不吉な事があったのに、どうしてこうも重なるのか。これは必ず廟の神霊が、わたしが絵を描いて奉じたことを恭しくないとして怒られたのだ。英規はすでに死に、わたしもひどく怪しみ恐れて肖像を焼いたのだから、必ず密かな罰を受けるだろう。あなたは王のまことの子孫だから、以前のとおりに祭りを行うのがよい。」

圭林は代を継いで祭りを捧げ、八十八で死に、その子の間元卿が継いで心を込めて祭った。

端午の日に廟に拝する祭りのとき、英規の子の俊必がまた狂って廟に来て、間元卿の供え物を取り払い、自分のものを整えて捧げたが、三献を終えないうちに急な病を得て、家に帰って死んだ。

昔の人の言葉に「みだりに行う祭りには福がなく、かえって災いを受ける」とあるが、前に英規があり後に俊必があるのは、この父子を言うのであろうか。

また盗賊の群れが、廟の中に金と玉が多いと言って盗みに来た。初めて来たときは、甲を着て弓に矢をかけた勇士が一人、廟から出て四方に射て、七、八人を射殺したので、盗賊たちは逃げた。

数日後また来ると、長さが三十尺を越え、目の光が雷のような大蛇が廟の脇から出て、八、九人を噛み殺した。かろうじて命を拾った者たちも、みな倒れながら散った。

それゆえ陵園の内も外も、必ず神なるものが守っていることが分かる。

建安四年己卯の年に初めて建てた後、今の王の在位三十一年、大康二年丙辰の年までおよそ八百七十八年であるが、積み上げた美しい土は崩れず、植えた良い木は枯れも腐りもせず、並べた玉の片も砕けなかった。

これによって見ると、辛替否が「昔から今まで、どうして亡びない国、壊れない墳墓があろうか」と言った言葉は、この駕洛国が昔すでに亡びたのだからその言に証しがあるが、首露王の廟が壊れていないのだから、その言葉をすべて信じることはできない。

3王后を迎えた日をくり返す遊び

此中更有戱樂思慕之事.每以七月二十九日,土人·吏·卒陟乗岾設帷幕酒食歡呼而東西送目,壯徤人夫分類以左右之,自望山島駮蹄駸駸而競湊於陸,鷁首泛泛而相推於水北指古浦而爭趨.盖此昔留天·神鬼等望后之來,急促告君之遺跡也.

この中にまた楽しみ慕う事がある。

毎年七月二十九日に、その土地の人と吏と兵卒が乗岾に登って帷幕を張り、酒と食べ物を整えて歓呼し、東西に目を送る。壮健な男たちを分けて左右に分け、望山島から馬の蹄を走らせて陸に競って集まり、舟の舳先を浮かべて水の上で互いに押しながら、北の古い浦を目指して争って走る。

これはおおかた、昔、留天干と神鬼干らが王后が来るのを望み見て、急いで君に告げた跡である。

4国が亡びた後、名が何度も変わる

國亡之後,代代稱號不一.新羅第三十一政明王即位開耀元年辛巳,號爲金官京置太守.後二百五十九年屬我大祖統合之後,代代爲臨海縣,置排岸使四十八年也,次爲臨海郡或爲金海府,置都護府二十七年也,又置防禦使六十四年也.

国が亡びた後、代ごとに呼ぶ名は一つではなかった。

新羅の第三十一代政明王が即位した開耀元年辛巳の年に、金官京といって太守を置いた。

その後二百五十九年、わが太祖が統合された後は、代々臨海県となって排岸使を置いたのが四十八年、次に臨海郡あるいは金海府となって都護府を置いたのが二十七年、また防禦使を置いたのが六十四年であった。

5陵墓の田を減らそうとした者が死ぬ

淳化二年金海府量田使中大夫趙文善申省状稱.“首露陵王廟屬田結數多也,宜以十五結仍舊貫,其餘分折於府之役丁.”…時廟朝宣㫖曰.“天所降卵化爲聖君,居位而延齡則一百五十八年也.自彼三皇而下鮮克比肩者歟.崩後自先代俾屬廟之壠畒而今減除良堪疑懼.”而不允.…㡬臨事畢而甚勞倦,忽一夕夢見七八介鬼神,執縲紲握刀劒而至云.“你有大憝故加斬戮.”…其病不間渡關而死.是故量田都帳不著印也.

淳化二年、金海府の量田使である中大夫の趙文善が朝廷に申し上げた。「首露王の陵廟に属する田の結数が多いので、十五結だけを以前のとおりに残し、残りは府の役丁に分け与えるべきです。」

担当の官庁がこの文を奏すると、そのとき朝廷からこういう旨が下された。

「天が降した卵が変わって聖なる君となり、位にあって齢を延べたことは百五十八年であった。あの三皇より以来、これに肩を並べる者はまれである。世を去られた後、先の代から廟に属させた田であるのに、今これを減らすのは、まことに恐れ多いことだ。」

そうして許さなかった。使者が重ねて申し上げると、朝廷もそうと認め、半分は陵廟にそのまま残し、半分は府の人々の役の分として分け与えさせた。

節使が〔量田使を言う。〕朝廷の旨を受けて、半分は陵園に属させ、半分は府の役の戸に分け与えた。

事がほぼ終わるころにひどく疲れていたが、ある日の夕べの夢に、鬼神が七、八人、縄を手にし刀を持って来て言った。「お前には大きな罪があるので、首を斬る。」

その使者は刑を受けてひどく痛いと思いながら驚いて目を覚ました。そのまま病になり、人に知らせずに夜に逃げたが、病が癒えず、関を越えるところで死んだ。それゆえ量田の帳簿に印を押せなかった。

後の人が命を受けて来てその田を調べると、わずかに一結十二負九束だけで、足りないものが三結八十七負一束であった。そこで誤って入った所を調べ、内外の官庁に知らせ、命を下して補わせた。

これもまた、昔も今も嘆くに足る事である。

夾注 1

量田使稚也.

量田使を言う。

6王后寺が建ち、壊される

元君八代孫金銍王克勤爲政又切崇真,爲世祖母許皇后奉資冥福.以元嘉二十九年壬辰,於元君與皇后合婚之地創寺額曰王后寺,遣使審量近側平田十結以爲供億三寳之費.自有是寺五百後置長遊寺,所納田柴并三百結.於是右寺三剛以王后寺在寺柴地東南標内,罷寺爲荘,作秋收冬藏之場·秣馬飬牛之厩,悲夫.

初代の君の八代の孫である金銍王は政に勤め、またまことを深く崇めて、世祖母である許皇后の冥福を祈ろうとした。

元嘉二十九年壬辰の年、初代の君と皇后が婚を合わせた地に寺を建て、額を王后寺とした。人を遣わして近くの平らな田十結を量らせ、三宝に供える費えとさせた。

この寺ができて五百年の後に長遊寺を置いたが、納めた田と薪の地はあわせて三百結であった。

そこで長遊寺の三人の住持が、王后寺が寺の薪の地の東南の境の内にあるとして、寺を壊して荘とし、秋に収めて冬に蔵う場、馬に秣をやり牛を飼う厩にした。

悲しいことだ。

7銘 — 駕洛国を讃える歌

世祖已下九代孫暦數委録于下,銘曰.元胎肇啓,利眼初明.人倫雖誕,君位未成.中朝累世,東國分京.雞林先定,駕洛後營.自無銓宰,誰察民氓.遂兹玄造,顧彼蒼生.用授符命,特遣精靈.山中降卵,霧裏藏刑.内猶漠漠,外亦冥冥.望如無象,聞乃有聲.羣歌而奏,衆舞而呈.七日而後,一時所寧.風吹雲卷,空碧天青.下六圎卵,垂一紫纓.殊方異土,比屋連甍.觀者如堵,覩者如羹.五歸各邑,一在兹城.同時同迹,如弟如兄.實天生徳,爲世作程.寳位初陟,寰區欲清.華構徴古,土階尚平.万機始勉,庻政施行.無偏無儻,惟一惟精.行者譲路,農者讓耕.四方奠枕,萬姓迓衡.俄晞薤露,靡保椿㱓.乾坤変氣,朝野痛情.金相其躅,玉振其聲.來苖不絶,薦藻惟馨.日月雖逝,䂓儀不傾.

世祖以下、九代の子孫の年数を下に詳しく記し、銘にこう言う。

天地が初めて開かれ 日と月がようやく明るくなった 人の倫は生まれたが 君の位は成らなかった

中国は幾代も重ねたが 東の国は都が分かれ 鶏林が先に定まり 駕洛が後に営まれた

みずから治める者がなく 誰が民を察するだろうか そこで天が深く計り あの民を顧みて

符命を授け 特に神霊を遣わした 山の中に卵が降り 霧の中に姿を隠した

内はなお漠として 外もまた暗かった 望めば形がなく 聞けば声があった

群れが歌って申し上げ 人々が舞って捧げた 七日の後に ひととき安らかになった

風が吹いて雲が巻き上がり 空は碧く天は青かった 丸い卵六つが降り 紫の紐が一つ垂れた

見知らぬ地、異なる里に 家が並び甍が連なった 見る者は垣のようで 集まる者は市のようであった

五人はそれぞれの邑に帰り 一人はこの城に留まった 時を同じくし跡を同じくして 弟のようで兄のようであった

まことに天が生んだ徳であり 世の法となった 宝の位に初めて登ると 天下が清まろうとした

華やかな構えは古きに倣い 土の階はなお平らであった 万機に励み始めると 諸々の政が行われた

偏りもなく党もなく ただ一つに、ただ精しく 道を行く者は道を譲り 田を耕す者は田を譲った

四方は枕を安んじ 万民は太平を迎えた にわかに薤の葉の露が乾き 長い齢を保たれなかった

天と地の気が変わり 朝廷も野も心を痛めた その跡は金のようで その声は玉のようであった

来る苗は絶えず 供える藻はただ香しい 日も月も去っても その法度は傾かないだろう

8歴代の九人の王

居登王父首露王, 母許王后.

首露王と許王后の後を継いだ九人の君主である。

1. 居登王

居登王父首露王,母許王后.立安四年己卯三月十三日即位.治三十九年,嘉平五年癸酉九月十七日崩.王妃泉府卿申輔女慕貞,生太子麻品.開皇暦云“姓金氏,盖國世祖從金卵而生,故以金爲姓厼.”

居登王は父が首露王、母が許王后である。建安四年己卯の年三月十三日に即位して三十九年を治め、嘉平五年癸酉の年九月十七日に世を去った。王妃は泉府卿申輔の娘の慕貞であり、太子の麻品を生んだ。

『開皇暦』に「姓は金氏である。おおよそ国の世祖が金の卵から生まれたので、金を姓とした」と言っている。

2. 麻品王

麻品王一云馬品,金氏.嘉平五年癸酉即位.治三十九年,永平元年辛亥一月二十九日崩.王妃宗正監趙匡孫女好仇,生太子居叱弥.

麻品王は馬品ともいい、金氏である。嘉平五年癸酉の年に即位して三十九年を治め、永平元年辛亥の年正月二十九日に世を去った。王妃は宗正監趙匡の孫娘の好仇であり、太子の居叱彌を生んだ。

3. 居叱彌王

居叱弥王一云今勿,金氏.永平元年即位.治五十六年,永和二年丙午七月八日崩.王妃阿躬阿干孫女阿志,生王子伊品.

居叱彌王は今勿ともいい、金氏である。永平元年に即位して五十六年を治め、永和二年丙午の年七月八日に世を去った。王妃は阿躬阿干の孫娘の阿志であり、王子の伊品を生んだ。

4. 伊尸品王

伊尸品王金氏,永和二年即位.治六十二年,義熈三年丁未四月十日崩.王妃司農卿克忠女貞信,生王子坐知.

伊尸品王は金氏である。永和二年に即位して六十二年を治め、義熙三年丁未の年四月十日に世を去った。王妃は司農卿克忠の娘の貞信であり、王子の坐知を生んだ。

5. 坐知王 — 諫めを聞いて立ち返る

坐知王一云金叱.義熈三年即位.娶傭女,以女黨爲官,國內擾乱.雞林國以謀欲伐,有一臣名朴元道諌曰,“遺草閱閱亦含羽况乃人乎.天亡地䧟人保何基.又卜士筮得解卦,其辭曰‘解而悔朋至斯孚’,君鑒易卦乎.”王謝曰“可.”擯傭女貶於荷山島,攺行其政長御安民也.治十五年,永初二年辛酉五月十二日崩.王妃道寧大阿干女福壽,生子吹希.

坐知王は金叱ともいう。義熙三年に即位した。

傭われ働きの女を妻に迎え、その女の側の者を官に就けたので、国の内が乱れた。雞林国はこれに乗じて伐とうと謀った。

朴元道という臣があって諫めた。「捨てられた草も茂れば宿る鳥を包むのに、まして人でありましょうか。天が崩れ地が陥れば、人は何に拠りましょうか。また占う者が卦を得たところ解卦であり、その辞に『解いて悔いれば朋が至って信じられる』とありました。君は易の卦を鑑みられますか。」

王は謝して言った。「よろしい。」

傭われ働きの女を退けて荷山島に追い、政を改め行って、長く民を安らかに治めた。

十五年を治め、永初二年辛酉の年五月十二日に世を去った。王妃は道寧大阿干の娘の福壽であり、子の吹希を生んだ。

6. 吹希王

吹希王一云叱嘉.金氏,永初二年即位.治三十一年元嘉二十八年辛卯二月三日崩.王妃進思角干女仁徳,生王子銍知.

吹希王は叱嘉ともいい、金氏である。永初二年に即位して三十一年を治め、元嘉二十八年辛卯の年二月三日に世を去った。王妃は進思角干の娘の仁徳であり、王子の銍知を生んだ。

7. 銍知王 — 王后寺を建てる

銍知王一云金銍王.元嘉二十八年即位,明年爲世祖許黄玉王后奉資冥福,於初與世祖合御之地創寺曰王后寺,納田十結充之.治四十二年,永明十年壬申十月四日崩.王妃金相沙干女邦媛,生王子鉗知.

銍知王は金銍王ともいう。元嘉二十八年に即位し、翌年、世祖と許黄玉王后の冥福を祈ろうとして、初めに世祖とともにおられた地に寺を建てて王后寺といい、田十結を納めて充てた。

四十二年を治め、永明十年壬申の年十月四日に世を去った。王妃は金相沙干の娘の邦媛であり、王子の鉗知を生んだ。

8. 鉗知王

鉗知王一云金鉗王.永明十年即位.治三十年正光二年辛丑四月七日崩.王妃出忠角干女淑,生王子仇衡.

鉗知王は金鉗王ともいう。永明十年に即位して三十年を治め、正光二年辛丑の年四月七日に世を去った。王妃は出忠角干の娘の淑であり、王子の仇衡を生んだ。

9. 仇衡王 — 国を譲る

仇衡王金氏·正光二年即位.治四十二年,保定二年壬午九月,新羅第二十四君真興王興兵薄伐,王使親軍卒.彼衆我寡不堪對戰也.仍遣同氣脫知尒叱今留在於國,王子上孫卒支公等降入新羅.王妃分叱水尒叱女桂花,生三子,一世宗角干,二茂刀角干,三茂得角干.開皇録云,“梁中大通四年壬子降于新羅.”

仇衡王は金氏である。正光二年に即位して四十二年を治めた。

保定二年壬午の年九月、新羅第二十四代の真興王が兵を起こして攻め入ったので、王はみずから軍を率いた。しかし彼は多く此は少なく、対して戦うことができなかった。

そこで弟の脫知爾叱今を遣わして国に留まらせ、王子と長孫の卒支公らが新羅に降って入った。

王妃は分叱水爾叱の娘の桂花であり、三人の子を生んだ。第一が世宗角干、第二が茂刀角干、第三が茂得角干である。

『開皇録』には「梁の中大通四年壬子の年に新羅に降った」とある。

9一然が二つの記録を並べて残す

議曰.案三國史,仇衡以梁中大通四年壬子納土投羅.則計自首露初即位東漢䢖武十八年壬寅,至仇衡末壬子得四百九十年矣.若以此記考之,納土在元魏保定二年壬午.則更三十年捴五百二十年矣.今两存之.

論じて言う。

『三国史』を調べると、仇衡王は梁の中大通四年壬子の年に土地を献じて新羅に入った。とすれば、首露王が初めて即位した東漢の建武十八年壬寅の年から仇衡王の末年の壬子の年までを数えると、四百九十年となる。

もしこの記録によって考えれば、土地を献じたのは元魏の保定二年壬午の年であり、さらに三十年を加えて、あわせて五百二十年となる。

いまは二つともを残しておく。