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婢の郁面が念仏して西に昇る郁面婢念佛西昇

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 3 · 漢字 650字 · 朗読 2.6分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 感通 第7 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1両の手のひらを貫いて杙に繋ぐ

郁面婢念佛西昇景徳王代康州〔今晋州.一作剛州,則今順安.〕善士数十人志求西方於州境創彌陁寺約万日爲契.時有阿干貴珎家一婢名郁面.随其主歸寺立中庭随僧念佛.主憎其不職,每給穀二碩一夕舂之.婢一更㫪畢歸寺念佛〔俚言已事之忙大家之㫪促盖出乎此〕日夕微怠.庭之左右竪立長橛以繩穿貫两掌繋於橛上,合掌左右逰之激勵焉.時有天唱於空,“郁面娘入堂念佛.”寺衆聞之勸婢入堂随例精進.未㡬天樂従西来,婢湧透屋樑而出.西行至郊外捐骸,變現真身㘴蓮䑓放大光明緩緩而逝,樂聲不徹空中.其堂至仐有透穴䖏云.〔已上郷傳.〕

婢の郁面が念仏して西に昇る。

景徳王の代、康州〔今の晋州である。剛州と書いたものもあり、それなら今の順安である。〕の善い士数十人が、西方の浄土を求める志で州の境に弥陀寺を建て、万日を期して契を結んだ。

そのとき阿干の貴珍の家に一人の婢がいて、名は郁面であった。

主に従って寺に行き、庭の中に立って僧に従って念仏した。

主は自分の仕事をしないのを憎んで、いつも穀物二碩を与えて一晩で搗かせた。

婢は初更に搗き終えて寺に行って念仏することを〔「わが事が忙しいのに主人の家の搗き物を急ぐ」という諺は、おおかたここから出た。〕昼も夜も少しも怠らなかった。

庭の左右に長い杙を立て、縄で両の手のひらを貫いて杙の上に繋ぎ、手を合わせて左右に動かしながら、みずからを励ました。

そのとき天から空に呼ぶ声があった。「郁面娘は法堂に入って念仏せよ。」

寺の衆は聞いて婢に勧め、法堂に入って例に従って精進させた。

いくらもたたないうちに天の楽が西から来て、婢は躍り上がって屋の梁を貫いて出て行った。

西に行って郊外に至って体を捨て、真身に変じて現れ、蓮の座に座って大きな光を放ちながら、ゆるやかに去った。楽の声は空の中で絶えなかった。

その法堂には今も貫けた穴がある所があるという。〔ここまでが土地の伝えである。〕

夾注 3

今晋州. 一作剛州, 則今順安.

今の晋州である。剛州と書いたものもあり、それなら今の順安である。

俚言已事之忙大家之㫪促盖出乎此

「わが事が忙しいのに主人の家の搗き物を急ぐ」という諺は、おおかたここから出た。

已上郷傳.

ここまでが土地の伝えである。

2『僧伝』は違うように伝える

按僧傳,“棟梁八珎者觀音應現也.結徒有一千,分明爲二一勞力,一精修.彼勞力中知事者不獲戒墮畜生道爲浮石寺牛.甞䭾経而行頼經力轉爲阿干貴珎家婢名郁面.因事至下柯山感夢遂發道心.阿干家距惠宿法師所創彌陁寺不逺,阿干每至其寺念佛,婢隨徃在庭念佛云云.”

『僧伝』を調べると、こう言う。

「棟梁の八珍は観音が応じて現れた者である。

衆を結ぶと千人がいたが、分けて二つとし、一方は力仕事をし、一方は精しく修めた。

あの力仕事をする者たちの中で事を預かった者が戒を得られず、畜生の道に落ちて浮石寺の牛となった。

かつて経を載せて行った徳によって経の力を受け、阿干の貴珍の家の婢に生まれ変わり、名は郁面であった。

事があって下柯山に至り、夢に感じて、ついに道を求める心を発した。

阿干の家は恵宿法師が建てた弥陀寺から遠くなかったので、阿干がいつもその寺に行って念仏すると、婢も従って行って庭で念仏したという。」

3二つの記録が食い違うので、両方を残す

如是九年嵗,在乙未正月二十一日禮佛撥屋梁而去,至小伯山墮一隻履就其地爲菩提寺,至山下弃其身即其地爲二菩提寺,榜其殿曰勗面登天之殿.屋脊穴成十許圍,雖暴雨宻雪不霑濕.後有好事者範金塔一座直其穴安承塵上,以誌其異,今榜塔尚存.勗面去後,貴珎亦以其家異人托生之地捨爲寺曰法王納田民.乆後廢爲丘墟,有大師懐鏡與承宣劉碩·小卿李元長同願重營之.鏡躬事圡木,始輸材夢老父遺麻葛屨各一.又就古神杜諭以佛理,斫出祠側材木九五載告畢.又加臧獲蔚爲東南名藍,人以鏡爲貴珎後身.議曰.按郷中古傳,郁面乃景徳王代事也,㨿徴〔徴字疑作珎,下亦同.〕夲傳,則元和三年戊子哀荘王時也.景徳後歴惠恭·宣徳·元聖·昭聖·哀荘等五代共六十餘年也.徴先面後與郷傳乖違.然两存之闕疑.讃曰.西隣古寺佛燈明,㫪罷歸来夜二更,自許一聲成一佛,掌穿繩子直㤀形.

このようにして九年を過ごした。

乙未の年の正月二十一日に仏に礼して、屋の梁を貫いて去った。

小伯山に至って履の片方を落としたので、その地に菩提寺を建て、山の下に至ってその身を捨てたので、その地に二つめの菩提寺を建てた。

その殿に額を掲げて「勗面登天之殿」とした。

屋根の棟の穴は十抱えほどであったが、激しい雨や密な雪にも濡れなかった。

後に事を好む者が金の塔一基を模して、その穴の真下の天井の上に置いて、その不思議を記した。今も額と塔が残っている。

郁面が去った後、貴珍もまたその家が並でない人が生まれた地であるとして、施して寺とし、法王寺といって田と民を納めた。

長い後に廃れて丘となったが、大師の懐鏡が承宣の劉碩、小卿の李元長とともに願を発して建て直した。

懐鏡はみずから土と木の仕事をした。初めて材を運ぶとき、夢に老父が麻の履と葛の履を一足ずつ与えた。

また古い神祠に行って仏法の理をもって諭し、祠のそばの材木を切り出して、五年で終えた。

また奴婢を加えて、東南の名高い寺となったので、人々は懐鏡を貴珍の後の身だとした。

論じて言う。

土地に伝わる古い記録を調べると、郁面は景徳王の代の事である。ところが貴珍の〔「徴」の字はおそらく「珍」と書くべきであろう。以下も同じ。〕本伝によれば、元和三年戊子の年、哀荘王のときである。

景徳王の後、恵恭・宣徳・元聖・昭聖・哀荘など五代を経て、あわせて六十年あまりである。

貴珍が先で郁面が後となって、土地の伝えと食い違う。しかし両方を残して、疑わしいところは空けておく。

讃えて言う。

西の隣の古い寺に仏の灯が明るいのに 搗き物を終えて帰ってくると夜は二更である。 みずから、一声に一仏を成そうと誓って 手のひらを縄で貫き、ただちに身を忘れた。

夾注 1

徴字疑作珎, 下亦同.

「徴」の字はおそらく「珍」と書くべきであろう。以下も同じ。