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真表が簡子を伝える眞表傳簡

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 7 · 漢字 1,084字 · 朗読 4.3分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 義解 第5 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1万頃県の人

真表傳簡釋真表完山州〔今全州牧.〕萬頃縣人.〔或作豆乃山縣,或作那山縣今萬頃,古名亘乃山縣也.貫寕傳釋□之郷里云金山縣人,以寺名及縣名混之也.〕父曰真乃末,母吉寳娘姓井氏.

真表が簡子を伝える。

僧侶真表は完山州〔今の全州牧である。〕万頃県の人である。〔豆乃山県と書くこともあり、那山県と書くこともあるが、今の万頃で、古い名は亘乃山県である。『貫寧伝』に彼の郷里を金山県の人としたのは、寺の名と県の名を混ぜたものである。〕

父は真乃末で、母は吉宝娘、姓は井氏である。

夾注 2

今全州牧.

今の全州牧である。

或作豆乃山縣, 或作那山縣今萬頃, 古名亘乃山縣也. 貫寕傳釋□之郷里云金山縣人, 以寺名及縣名混之也.

豆乃山県と書くこともあり、那山県と書くこともあるが、今の万頃で、古い名は亘乃山県である。『貫寧伝』に彼の郷里を金山県の人としたのは、寺の名と県の名を混ぜたものである。

2身を投げて膝と腕が砕ける

年至十二嵗投金山寺崇濟法師講下落彩請業.其師嘗謂曰,“吾曽入唐受業於善道三藏,然後入五臺感文殊菩薩現受五戒.”表啓曰,“勤修㡬何得戒耶.”濟曰,“精至則不過一年.”表聞師之言遍逰名岳止錫仙溪山不思議菴,該鍊三業以亡身懴□□□.初以七宵爲期,五輪撲石膝腕俱碎雨血嵒崖若無聖應,决志捐捨更期七日.二七日終見地藏菩薩現受浄戒.即開元二十八年庚辰三月十五日辰時也,時齡二十餘三矣.

年十二で金山寺の崇済法師の講席に赴き、髪を落として学びを請うた。

その師がかつて言った。「私はかつて唐に入って善道三蔵に学び、その後に五台山に入って文殊菩薩が現れる感応を受け、五戒を授かった。」

真表が問うた。「勤めて修めれば、どれほどで戒を得られますか。」

崇済が言った。「誠が至れば一年を越えない。」

真表は師の言葉を聞いて名高い山をあまねく巡り、仙渓山の不思議庵に錫を止めた。

三業を具えて錬ったが、身を忘れる懺悔によってした。

初めは七夜を期として、五輪で石に身を打ちつけたので、膝と腕がともに砕け、岩の崖に血が雨のように降った。

聖なる応えがないようだったので、身を捨てる志を決め、さらに七日を期した。

二たびの七日の終わりに地蔵菩薩が現れるのを見て、浄らかな戒を授かった。

すなわち開元二十八年庚辰の三月十五日辰の時であり、その時の年は二十三あまりであった。

3簡子百八十九枚

然志存慈氏故不敢中止,乃移霊山寺〔一名邉山又楞伽山.〕又懃勇如初.果感弥力現授占察経兩卷〔此經乃陳·隋間外國所譯,非今始出也.慈氏以経搜之耳.〕并證果簡子一百八十九介,謂曰“於中第八簡子喻新得妙戒,第九簡子喻增得具戒.斯二簡子是我手指骨,餘皆沉檀木造喻諸煩惱.汝以此傳法於世作濟人津筏.”

しかし志は慈氏にあったので、あえて中途でやめなかった。

そこで霊山寺に〔辺山または楞伽山ともいう。〕移り、また初めのように勤め勇んだ。

はたして弥勒が現れる感応を受け、『占察経』二巻を〔この経は陳と隋の間に外国で訳されたもので、今初めて出たものではない。弥勒がその経をもって渡してくれただけである。〕あわせて果を証する簡子百八十九枚を授かった。

弥勒が言った。「この中の第八の簡子は新たに得た妙なる戒を喩え、第九の簡子はさらに得た具足戒を喩える。

この二つの簡子は私の指の骨である。残りはみな沈香と檀の木で造ったもので、諸々の煩悩を喩える。

お前はこれをもって世に法を伝え、人を済う津の筏となせ。」

夾注 2

一名邉山又楞伽山.

辺山または楞伽山ともいう。

此經乃陳·隋間外國所譯, 非今始出也. 慈氏以経搜之耳.

この経は陳と隋の間に外国で訳されたもので、今初めて出たものではない。弥勒がその経をもって渡してくれただけである。

4魚と鼈が橋をかける

表旣受聖莂来住金山.每歲開壇阪張法施,壇席精嚴末季未之有也.風化旣周逰渉到阿瑟羅州.島嶼間魚鼇成橋迎入水中,講法受戒.即天寳十一載壬辰二月望日也.或夲云元和六年,誤矣.元和在憲徳王代.〔去聖徳㡬七十年矣.〕景徳王聞之迎入宮闥,受菩薩戒嚫租七萬七千石,椒庭列岳皆受戒品,施絹五百端·黄金五十两.皆容受之分施諸山廣興佛事.其骨石今在鉢淵寺,即爲海族演戒之地.

真表は聖なる記を受けて来て金山寺に住んだ。

年ごとに壇を開いて法の施しを広く張ったが、壇の席が精しく厳しく、末の世にはなかったことであった。

教化があまねく及ぶと、巡り歩いて阿瑟羅州に至った。

島の間で魚と鼈が橋を成して迎え入れ、水の中に入って法を講じ戒を授けた。

すなわち天宝十一年壬辰の二月十五日である。

ある本には元和六年とあるが誤りである。元和は憲徳王の代にある。〔聖徳王の時とはほぼ七十年隔たる。〕

景徳王が聞いて宮闕に迎え入れ、菩薩戒を受けて租七万七千石を施した。王妃と宮中の人々もみな戒品を受け、絹五百端と黄金五十両を施した。

すべて受け取って諸々の山に分け施し、広く仏事を興した。

その骨と石は今、鉢淵寺にあり、すなわち海の族に戒を演べた地である。

夾注 1

去聖徳㡬七十年矣.

聖徳王の時とはほぼ七十年隔たる。

5簡子を受け継いだ人々

得法之䄂領曰永深·寳宗·信芳·体珎·珎海·真善·釋忠䓁,皆爲山門祖.深則真表簡子住俗離山爲克家子,作壇之法與占察六輪稍異,修如山中所傳夲䂓.

法を得た袖領は永深・宝宗・信芳・体珍・珍海・真善・釈忠らで、みな山門の祖となった。

永深は真表の簡子を受けて俗離山に住み、家をよく継いだ子となった。

壇を作る法は占察の六輪と少し異なるが、山中に伝わるもとの規例のとおりに修めた。

6麻を担いで金を捨てる — 一然が弁じる

按唐僧傳云.“開皇十三年廣州有僧行懴法,以皮作帖子二枚書善惡两字,令人擲之得善者吉.又行自撲懴法以爲滅罪.而男女合匝妄承宻行,青州接響同行.官司撿察謂是妖妄,彼云‘此搭懴法依占察経,撲懴法依諸経中’,五體投地如大山崩.時以奏聞,乃勑內史侍郎李元撰就大興寺問諸大徳.有大沙門法経·彦琮等對曰,‘占察経見有两卷,首題菩提登在外國譯文似近代所出.亦有冩而傳者,撿勘群録並無正名譯人時䖏,搭懴與衆経復異不可依行.’因勑禁之.”今試論之.青州居士等搭懴䓁事如大儒以詩書發塚,可謂畫虎不成類狗者矣.佛所預防正爲此爾.若曰占察経無譯人時䖏爲可疑也,是亦擔麻棄金也.何則詳彼経文,乃悉壇深宻洗滌穢瑕激昂懶夫者莫如兹典.故亦名大乗懴,又云出六根聚中.開元·貞元二釋敎録中編入正藏.雖外乎性宗,其相敎大乗殆亦優矣.豈與搭·撲二懴同日而語㦲.

調べるに、唐の『僧伝』にこう言う。

「開皇十三年に広州のある僧が懺法を行った。皮で帖子を二枚作って善と悪の二字を書き、人に投げさせて善を得れば吉だとした。

また自ら身を打ちつける懺法を行って罪を滅すると言った。

ところが男女が入り交じってみだりに密かな行を承け、青州でも声を接いで同じように行った。

官司が検め調べてこれを妖しく妄りだとすると、彼らは『この搭懺法は『占察経』に依り、撲懺法は諸経の中に依る』と言い、五体を地に投げること、大きな山が崩れるようであった。

その時に奏し聞かせたので、勅して内史侍郎李元撰に大興寺に赴いて諸々の大徳に問わせた。

大沙門法経・彦琮らが答えた。『『占察経』は二巻があり、首に菩提登が外国で訳したと題されていますが、文は近代に出たもののようです。写して伝えるものもありますが、諸々の録を検め勘べても、訳した人の正しい名も時も処もありません。搭懺は衆経とまた異なるので、依って行うことはできません。』

これによって勅して禁じた。」

今、試みに論じてみる。

青州の居士らの搭懺などの事は、大儒が『詩』『書』をもって塚を発くのと同じであり、虎を画いて成らず狗に類したと言えよう。仏が予め防いだのは、まさにこのためである。

もし『占察経』に訳した人も時も処もないから疑わしいと言うなら、それもまた麻を担いで金を捨てることである。

なぜか。あの経の文を詳しく見れば、悉壇が深く密かで、穢れを洗い滌ぎ、懶けた者を激まし昂めるのに、この典に及ぶものはない。

だから大乗懺ともいい、また六根聚の中から出たともいう。開元と貞元の二つの釈教録に正蔵として編入された。

性宗の外にあるとはいえ、その相教の大乗としてはかなり優れている。どうして搭懺・撲懺の二つの懺と同日に語れようか。

7金を攫んで人を見なかった

如舎利佛問経,佛告長者子邠若多羅曰.“汝可七日七夜悔汝先罪皆使清淨.”多羅奉教日夜懇惻,至第五夕於其室中雨種種物,若巾若帊若拂箒若刁錐斧䓁墮其目前.多羅歡喜問於佛,佛言.“是離塵之相.割拂之物也.”㩀此則與占察経擲輪得相之事奚以異哉.乃知表公翹懴得簡聞法見佛可謂不誣.况此経若僞妄,則慈氏何以親授表師.又此経如可禁,舎刹問経亦可禁乎.琮軰可謂攫金不見人,讀者詳焉.讃曰.現身澆季激慵聾,霊岳仙溪感應通.莫謂翹懃傳搭懴.作橋東海化魚龍.

『舎利仏問経』にこうある。

仏が長者の子邠若多羅に言った。「お前は七日七夜、先の罪を悔いてすべて清浄にせよ。」

多羅は教えを奉じて日夜懇ろに惻み、五日目の夕べに至って、その室の中に種々の物が雨のように降った。巾や帊、払子や箒、錐や斧などが目の前に落ちた。

多羅が喜んで仏に問うと、仏は言った。「これは塵を離れた相である。割き払う物である。」

これに拠れば、『占察経』で輪を擲って相を得る事と、何が異なろうか。

ここで知られる。真表公が身を投げて懺悔し、簡子を得、法を聞き、仏を見たことは、誣りではないと言えよう。

まして、この経が偽り妄りであるなら、慈氏がどうして真表師に親しく授けたであろうか。

また、この経を禁じうるなら、『舎利仏問経』も禁じうるであろうか。

彦琮の輩は金を攫んで人を見なかった者と言えよう。読む者は詳らかに見るがよい。

讃えて言う。

澆んだ末の世に身を現し、懶けた者と聾いた者を激まし 霊なる岳と仙渓山に感応が通った。 身を投げた勤めを搭懺を伝えたものと言うな 東海に橋をかけて魚と龍を化したのだ。