関東楓岳鉢淵藪の石に刻んだ記關東楓岳鉢淵藪石記
1米一合は鼠に与えて
關東楓岳鉢淵藪石記〔此記乃寺主瑩岑所撰,承安四年己未立石.〕真表律師全州碧骨郡都那山村大井里人也.年至十二志求出家父許之.師徃金山藪順濟法師䖏零染.濟授沙弥戒法,傳教供飬次第秘法一卷·占察善惡業報經二卷曰,“汝持此戒法於彌勒·地藏两聖前懇求懴悔,親受戒法流傳於世.”師奉教辞退遍歴名山,年已二十七歲.於上元元年庚子蒸二十斗米乃乾爲粮,詣保安縣入邉山不思議房,以五合米爲一日費除一合米飬鼠.
関東楓岳鉢淵藪の石に刻んだ記。〔この記は寺主瑩岑が撰したもので、承安四年己未の年に石を立てた。〕
真表律師は全州碧骨郡都那山村大井里の人である。
年十二で出家を志すと、父が許した。
法師は金山寺の順済法師のもとに行って髪を落とした。
順済は沙弥の戒法と『伝教供養次第秘法』一巻、『占察善悪業報経』二巻を授けて言った。
「お前はこの戒法を持って、弥勒と地蔵の二聖の前で懇ろに懺悔を求め、親しく戒法を受けて世に伝えよ。」
法師は教えを奉じて辞し退き、名高い山をあまねく巡ったので、年はすでに二十七であった。
上元元年庚子の年に米二十斗を蒸して乾かして糧とし、保安県に至って辺山の不思議房に入った。
米五合を一日の費えとしたが、一合を除いて鼠を養った。
夾注 1
此記乃寺主瑩岑所撰, 承安四年己未立石.
この記は寺主瑩岑が撰したもので、承安四年己未の年に石を立てた。
2腕が落ち、また元に戻る
師勤求戒法於弥勒像前三年而未淂授記.發憤捨身嵓下,忽有青衣童手捧而置石上.師更發志願約三七日,日夜勤修扣石懴悔.至三日手臂折落,至七日夜地藏菩薩手揺金錫来爲加持,手臂如舊.菩薩遂與袈裟及鉢,師感其霊應倍加精進.滿三七日,即淂天眼見兠率天衆来儀之相.於是地藏·慈氏現前,慈氏磨師頂曰.“善㦲,大丈夫.求戒如是不惜身命懇求懴悔.”地藏授與戒本,慈氏復與二栍,一題曰九者,一題八者.告師曰.“此二簡子者是吾手指骨,此喻始夲二覺.又九者法尒,八者新熏成佛種子,以此當知果報.汝捨此身受大國王身後生於兠率.”如是語已两聖即隠.時壬寅四月二十七日也.
法師が弥勒像の前で戒法を勤めて求めること三年になっても、記を授からなかった。
発憤して岩の下に身を捨てると、ふと青い衣の童子が手で捧げて石の上に置いた。
法師は再び志願を発して三七日を約し、日夜勤めて修め、石に打ちつけて懺悔した。
三日目に至って腕が折れて落ちた。
七日目の夜に至って地蔵菩薩が手に金の錫を揺らして来て加持したので、腕は元のようになった。
菩薩はついに袈裟と鉢を与え、法師はその霊応に感じて精進を倍に加えた。
三七日が満ちると、すぐに天眼を得て兜率天の衆が来て儀を正す相を見た。
そこで地蔵と慈氏が前に現れた。
慈氏は法師の頂を撫でて言った。「善いことよ、大丈夫。戒を求めることこのようにして、身命を惜しまず懇ろに懺悔を求めたのだ。」
地蔵は戒本を授け、慈氏はさらに栍を二つ与えたが、一つには「九」と題し、一つには「八」と題してあった。
法師に告げた。「この二つの簡子は私の指の骨であり、これは始覚と本覚、二つの覚を喩える。
また「九」は法そのままであり、「八」は新たに熏じて仏を成す種子であるから、これによって果報を知るべきである。
お前はこの身を捨てて大国の王の身を受けた後、兜率に生まれるであろう。」
こう言い終えると、二聖はすぐに隠れた。時は壬寅の四月二十七日であった。
3龍王が玉の袈裟を献ずる
師受教法已,欲創金山寺下山而来.至大淵津,忽有龍王出献玉袈裟,将八萬眷屬侍徃金山藪.四方子来不日成之.復感慈氏従兠率駕雲而下與師受戒法,師勸檀縁鑄成弥勒丈六像.復畫下䧏受戒威儀之相於金堂南壁□.於甲辰六月九日鑄成丙午五月一日安置金堂,是嵗大暦元年也.
法師は教えの法を受けてから、金山寺を建てようとして山を下りて来た。
大淵津に至ると、ふと龍王が出て玉の袈裟を献じ、八万の眷属を率いて侍り、金山寺へ向かった。
四方から人が来たので、幾日もかからずに成った。
さらに慈氏が兜率から雲に駕して下り、法師に戒法を授ける感応があった。
法師は檀の縁を勧めて、弥勒の丈六像を鋳て成した。
また弥勒が下り降って戒を授ける威儀の相を金堂の南の壁に画いた。
甲辰の六月九日に鋳て成し、丙午の五月一日に金堂に安置したが、この年が大暦元年である。
4牛が膝を折って泣く
師出金山向俗離山,路逢駕牛乗車者.其牛䓁向師前跪膝而泣.乗車人下問,“何故此牛䓁見和尚泣耶.和尚従何而来.”師曰,“我是金山藪真表僧,予曽入邉山不思議房於弥勒·地藏两聖前親受戒法真栍,欲覔創寺鎮長修道之䖏故来爾.此牛䓁外愚内明,知我受戒法爲重法,故跪膝而泣.”其人聞已乃曰,“畜生尚有如是信心,况我爲人豈無心乎.”即以手執鎌自断頭髮.師以悲心爲祝髮受戒.行至俗離山洞裏見吉祥草所生䖏而識之.還向溟州海邉徐行次,有魚鼈黿鼉䓁類出海向師前綴身如陸,師踏而入海唱念戒法遝出.行至高城郡入皆骨山始創鉢淵藪,開占察法㑹.住七年,時溟州界年糓不登人民飢饉,師爲說戒,法人人奉持致敬三寳.俄於髙城海邉有無数魚類自死而出,人民賣此爲食得免死.
法師が金山寺を出て俗離山に向かう途中、道で牛に車を引かせて乗る者に出会った。
その牛たちは法師の前に向かって膝を折って泣いた。
車に乗っていた人が下りて問うた。「どういうわけでこの牛たちは和尚を見て泣くのですか。和尚はどこから来られたのですか。」
法師が言った。「私は金山寺の真表という僧です。私はかつて辺山の不思議房に入り、弥勒と地蔵の二聖の前で親しく戒法と真の栍を受けました。寺を建てて長く道を修める所を探しに来る途中です。
この牛たちは外は愚かだが内は明るく、私が受けた戒法が重い法であると知っているので、膝を折って泣くのです。」
その人は聞いて言った。「畜生でさえこのような信心があるのに、まして私は人である、どうして心がないことがあろう。」
すぐに手に鎌を取って自ら頭髪を断った。
法師は悲しみの心から髪を剃ってやって戒を授けた。
歩いて俗離山の洞の中に至り、吉祥草が生えている所を見てそれを記しておいた。
また溟州の海辺に向かってゆっくり行くと、魚や鼈、黿や鼉などの類が海から出て法師の前に身を綴って陸のようにした。
法師は踏んで海に入り、戒法を唱え念じてまた出て来た。
歩いて高城郡に至り、皆骨山に入って初めて鉢淵藪を建て、占察法会を開いた。
七年住んだ。
その時、溟州の境で穀が実らず民が飢えた。法師が彼らのために戒を説くと、人ごとに奉じ持って三宝に敬いを致した。
やがて高城の海辺に数えきれぬ魚の類がおのずから死んで出たので、民はこれを売って食を得、死を免れた。
5桃の木から身を投げる
師出鉢淵復到不思議房,然後徃詣家邑謁父,或到真門大徳房居住.時俗離山大徳永深與大徳融宗·佛陁等同詣律師所伸請曰.“我等不逺千里來求戒法.願授法門.”師默然不荅.三人者乗桃樹上倒墮於地勇猛懴悔.師乃傳教灌頂,遂與袈裟及鉢·供飬次第秘法一卷·日察善惡業報経二卷·一百八十九栍.復與弥勒真栍九者八者,誡曰.“九者法尒,八者新熏成佛種子.我已付囑汝等,持此還歸俗離山.山有吉祥草生處於此創立精舎,依此教法廣度人天,流布後世.”永深等奉教直徃俗離,尋吉祥草生處創寺名曰吉祥.永深於此始設占察法㑹.
法師は鉢淵藪を出て再び不思議房に至り、その後に故郷の邑に行って父に謁し、時には真門大徳の房に至って住んだ。
その時、俗離山の大徳永深が大徳融宗・仏陀らと共に律師のいる所に至って請うた。
「私どもは千里を遠いとせず来て戒法を求めます。願わくは法門を授けてください。」
法師は黙って答えなかった。
三人は桃の木の上に登り、逆さまに地に落ちて勇猛に懺悔した。
法師はそこで教えを伝えて頂に水を灌いだ。
ついに袈裟と鉢、『供養次第秘法』一巻、『占察善悪業報経』二巻、栍百八十九枚を与えた。
さらに弥勒の真の栍である「九」と「八」を与えて誡めた。
「「九」は法そのままであり、「八」は新たに熏じて仏を成す種子である。私はすでにお前たちに付嘱したから、これを持って俗離山に帰れ。
山に吉祥草が生えている所があるので、そこに精舎を建て、この教法に依って人天を広く度し、後の世に流布せよ。」
永深らは教えを奉じて直ちに俗離山に行き、吉祥草が生えている所を尋ねて寺を建て、吉祥寺と名づけた。
永深はここで初めて占察法会を設けた。
夾注 1
底本は「日察」だが「占察」の誤りと見る。 ― 訳者
6二本の木の下で骨を探す — 無極が記す
律師與父復到鉢淵,同修道業而終孝之.師遷化時登於寺東大巖上示滅,弟子等不動真体而供飬,至于骸骨散落於是以圡覆藏乃爲幽宫.有青松即出嵗月久逺而枯,復生一樹,後更生一樹,其根一也.至今雙樹存焉.凢有致敬者松下覔骨,或得或不得.子恐聖骨堙滅,丁巳九月特詣松下拾骨盛筒有三合許.於大嵓上雙樹下立石安骨焉云云.此録所載真表事跡與鉢淵石記互有不同,故刪取瑩岑所記而載之,後賢冝考之.無極記.
律師は父と共に再び鉢淵に至り、共に道業を修めて孝を終えた。
法師が遷化する時は、寺の東の大きな巌の上に登って滅を示した。
弟子たちは真体を動かさずに供養したが、骸骨が散り落ちるに至ると、そこで土で覆い隠して幽宮とした。
青い松がすぐに生えたが、歳月が久しく遠くなって枯れ、また一本の木が生え、後にさらに一本が生えたが、その根は一つである。
今まで二本の木が残っている。
およそ敬いを致す者が松の下で骨を探すと、得ることもあり得ないこともある。
私は聖なる骨が堙れ滅びるのを恐れ、丁巳の九月に特に松の下に行って骨を拾い、筒に盛ると三合ほどであった。
大きな巌の上、二本の木の下に石を立てて骨を安置した。
この録に載せた真表の事跡は「鉢淵石記」と互いに同じでない所がある。だから瑩岑が記したものを刪り取って載せたので、後の賢者が考えるべきである。
無極が記す。