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栄辱榮辱篇

荀子(荀況の書) 荀子 · 荀況 · 紀元前3世紀 · 段落 7 · 漢字 2,649字 · 朗読 10.6分

荀子(荀況の書) 榮辱篇 孟子が性善を説いたところに、荀子は性悪を置いた。人の性は生まれながらに利を好み、妬み憎むので、そのままにしておけば争い奪って乱れる — だから師と法によってあるべき姿にし、礼と義で導いてはじめて治まるというのである。善は生まれつきのものではなく、積み重ねてできるものだと言った。 第一篇「勧学」が「青い染料は藍から出るが、藍より青い」で開き、「天論」は天を人の事から切り離して「天を大きなものとして慕うより、物として養い裁ち用いよ」と言う。「礼論」は礼がどこから来たのかを欲と物の争いから解き、「楽論」は音楽を否とした墨子に打ち返す。「正名」は名が天の定めたものではなく人びとが結んだ約束であることを明らかにし、「成相」の一篇は労働歌の調子に治まりと乱れを載せた歌である。 「君は舟であり衆人は水である、水は舟を浮かべもし、水は舟を覆しもする」が「王制」にある。李斯と韓非がその門下から出た。

憍泄者,人之殃也。恭儉者,偋五兵也。雖有戈矛之刺,不如恭儉之利也。故與人善言,煖於布帛;傷人之言,深於矛戟。故薄薄之地,不得履之,非地不安也,危足無所履者,凡在言也。巨涂則讓,小涂則殆,雖欲不謹,若云不使。

傲り放埒であることは人の災いであり、恭しく倹しいことは五つの武器を退けることである。矛や戈の刺す力があっても、恭しく倹しいことの鋭さには及ばない。

だから人に善い言葉を与えることは布や絹より暖かく、人を傷つける言葉は矛や戟より深い。

だから広々とした地なのに踏むことができないのは、地が安らかでないからではない。足が危うくて踏むところがないのは、すべて言葉にある。大きな道では譲り、狭い道では危うい。たとえ慎むまいとしても、そうはいかない。

快快而亡者,怒也;察察而殘者,忮也;博而窮者,訾也;清之而俞濁者,口也;豢之而俞瘠者,交也;辯而不說者,争也;直立而不見知者,勝也;廉而不見貴者,劌也;勇而不見憚者,貪也;信而不見敬者,好剸行也;此小人之所務而君子之所不爲也。

さっぱりしていながら滅びるのは怒りであり、細かく見ていながら損なわれるのは妬みであり、広くありながら行きづまるのはそしりであり、清くしようとしていよいよ濁るのは口であり、養っていよいよ痩せるのは交わりであり、言葉が明らかなのに喜ばれないのは争いであり、まっすぐ立っているのに認められないのは勝とうとすることであり、角があるのに貴ばれないのは人を切ることであり、勇ましいのに恐れられないのは貪りであり、信があるのに敬われないのは勝手に振る舞うことを好むからである。これは小人が努めることであり、君子がしないことである。

鬬者,忘其身者也,忘其親者也,忘其君者也。行其少頃之怒而喪終身之軀,然且爲之,是忘其身也;家室立殘,親戚不免乎刑戮,然且爲之,是忘其親也;君上之所惡也,刑法之所大禁也,然且爲之,是忘其君也。憂忘其身,內忘其親,上忘其君,是刑法之所不舍也,聖王之所不畜也。乳彘觸虎,乳㺃不遠遊,不忘其親也。人也,憂忘其身,內忘其親,上忘其君,則是人也而曾㺃彘之不若也。凡鬬者,必自以爲是而以人爲非也。己誠是也,人誠非也,則是己君子而人小人也,以君子與小人相賊害也。憂以忘其身,內以忘其親,上以忘其君,豈不過甚矣哉!是人也,所謂「以狐父之戈钃牛矢」也。將以爲智邪?則愚莫大焉。將以爲利邪?則害莫大焉。將以爲榮邪?則辱莫大焉。將以爲安邪?則危莫大焉。人之有鬬,何哉?我欲屬之狂惑疾病邪,則不可,聖王又誅之。我欲屬之鳥鼠禽獸邪,則又不可,其形體又人,而好惡多同。人之有鬬,何哉?我甚醜之!

争う者は自分の身を忘れた者であり、自分の親を忘れた者であり、自分の君を忘れた者である。

わずかの間の怒りを行って生涯の身を失うのに、それでもそれをする。これは自分の身を忘れたのである。家はたちまち崩れ、親族が刑罰を免れないのに、それでもそれをする。これは自分の親を忘れたのである。君上が憎むところであり刑法が大きく禁じるところなのに、それでもそれをする。これは自分の君を忘れたのである。

外では自分の身を忘れ、内では自分の親を忘れ、上では自分の君を忘れる。これは刑法が放っておかないところであり、聖王が養わないところである。

乳を与える豚も虎に突きかかり、乳を与える犬も遠くへ遊びに行かない。自分の子を忘れないのである。人でありながら外では自分の身を忘れ、内では自分の親を忘れ、上では自分の君を忘れるなら、これは人でありながら犬や豚にも及ばないのである。

およそ争う者は必ず自分を正しいとし人を誤りとする。自分が本当に正しく人が本当に誤りなら、それは自分が君子で人が小人なのであって、君子として小人と互いに害し合うことである。外では自分の身を忘れ、内では自分の親を忘れ、上では自分の君を忘れる。どうして行き過ぎが甚だしくないことがあろうか。

こういう人は、いわゆる「狐父の戈で牛の糞を切る」というものである。

知があるとしようか。愚かさにこれより大きいものはない。利があるとしようか。害にこれより大きいものはない。栄誉があるとしようか。恥辱にこれより大きいものはない。安らかだとしようか。危うさにこれより大きいものはない。

人が争うのはなぜか。私はこれを狂いと惑いの病に入れようとしたが、それはできない。聖王がまたこれを罰する。私はこれを鳥や鼠や鳥獣に入れようとしたが、それもできない。その体はやはり人であり、好み憎むところも多く同じである。人が争うのはなぜか。私はそれを甚だ醜いと思う。

有㺃彘之勇者,有賈盜之勇者,有小人之勇者,有士君子之勇者:争飲食,無廉恥,不知是非,不辟死傷,不畏衆彊,恈恈然唯利飲食之見,是㺃彘之勇也。爲事利,争貨財,無辭讓,果敢而振,猛貪而戾,恈恈然唯利之見,是賈盜之勇也。輕死而曓,是小人之勇也。義之所在,不傾於權,不顧其利,舉國而與之不爲改視,重死持義而不橈,是士君子之勇也。

犬や豚の勇があり、商人や盗人の勇があり、小人の勇があり、士や君子の勇がある。

飲み食いを争い、廉恥がなく、是非を知らず、死や傷を避けず、多勢の強さを畏れず、がつがつとただ利と飲み食いだけを見る。これは犬や豚の勇である。

事を利にしようと財貨を争い、辞譲がなく、果敢に振る舞い、猛々しく貪ってそむき、がつがつとただ利だけを見る。これは商人や盗人の勇である。

死を軽んじて荒い。これは小人の勇である。

義のあるところで権勢に傾かず、その利を顧みず、国をあげて与えられても見る目を改めず、死を重く見ながら義を保って曲げない。これは士や君子の勇である。

鯈䱁者,浮陽之魚也,胠於沙而思水,則無逮矣。挂於患而思謹,則無益矣。自知者不怨人,知命者不怨天,怨人者窮,怨天者無志。失之己,反之人,豈不迂乎哉!

ハヤやカマツカは日なたに浮かぶ魚である。砂に乗り上げてから水を思っても、もう間に合わない。災いに掛かってから慎みを思っても、何の役にも立たない。

自分を知る者は人を恨まず、命を知る者は天を恨まない。人を恨む者は行きづまり、天を恨む者は志がない。自分のところで失って人に向ける。どうして回り道でないことがあろうか。

榮辱之大分,安危利害之常體:先義而後利者榮,先利而後義者辱;榮者常通,辱者常窮;通者常制人,窮者常制於人:是榮辱之大分也。材慤者常安利,蕩悍者常危害;安利者常樂易,危害者常憂險,樂易者常壽長,憂險者常夭折:是安危利害之常體也。夫天生蒸民,有所以取之。志意致修,德行致厚,智慮致明,是天子之所以取天下也。政令法,舉措時,聽斷公,上則能順天子之命,下則能保百姓,是諸侯之所以取國家也。志行修,臨官治,上則能順上,下則能保其職,是士大夫之所以取田邑也。循法則、度量、刑辟、圖籍,不知其義,謹守其數,慎不敢損益也,父子相傳,以持王公,是故三代雖亡,治法猶存,是官人百吏之所以取禄職也。孝弟原慤,軥録疾力,以敦比其事業而不敢怠傲,是庶人之所以取煖衣飽食,長生久視,以免於刑戮也。飾邪說,文姦言,爲倚事,陶誕、突盜,惕、悍、憍、曓,以偷生反側於亂世之閒,是姦人之所以取危辱死刑也。其慮之不深,其擇之不謹,其定取舍楛僈,是其所以危也。材性知能,君子小人一也。好榮惡辱,好利惡害,是君子小人之所同也,若其所以求之之道則異矣。小人也者,疾爲誕而欲人之信己也,疾爲詐而欲人之親己也,禽獸之行而欲人之善己也。慮之難知也,行之難安也,持之難立也,成則必不得其所好,必遇其所惡焉。故君子者,信矣,而亦欲人之信己也;忠矣,而亦欲人之親己也;修正治辨矣,而亦欲人之善己也。慮之易知也,行之易安也,持之易立也,成則必得其所好,必不遇其所惡焉。是故窮則不隱,通則大明,身死而名彌白。小人莫不延頸舉踵而願曰:「知慮材性,固有以賢人矣。」夫不知其與己無以異也,則君子注錯之當,而小人注錯之過也。故孰察小人之知能,足以知其有餘,可以爲君子之所爲也。譬之越人安越,楚人安楚,君子安雅,是非知能材性然也,是注錯習俗之節異也。仁義德行,常安之術也,然而未必不危也;汙僈、突盜,常危之術也,然而未必不安也。故君子道其常而小人道其怪。凡人有所一同:飢而欲食,寒而欲煖,勞而欲息,好利而惡害,是人之所生而有也,是無待而然者也,是禹、桀之所同也。目辨白黑美惡,耳辨聲音清濁,口辨酸鹹甘苦,鼻辨芬芳腥臊,骨體膚理辨寒暑疾養,是又人之所常生而有也,是無待而然者也,是禹、桀之所同也。可以爲堯、禹,可以爲桀、跖,可以爲工匠,可以爲農賈,在埶注錯習俗之所積耳。是又人之所生而有也,是無待而然者也,是禹、桀之所同也。爲堯、禹則常安榮,爲桀、跖則常危辱;爲堯、禹則常愉佚,爲工匠農賈則常煩勞。然而人力爲此而寡爲彼,何也?曰:陋也。堯、禹者,非生而具者也,夫起於變故,成乎修爲,待盡而後備者也。人之生固小人,無師無法則唯利之見耳。人之生固小人,又以遇亂世,得亂俗,是以小重小也,以亂得亂也。君子非得埶以臨之,則無由得開內焉。今是人之口腹,安知禮義?安知辭讓?安知廉恥隅積?亦呥呥而噍,鄉鄉而飽已矣。人無師無法,則其心正其口腹也。今使人生而未嘗睹芻豢稻粱也,惟菽藿糟糠之爲睹,則以至足爲在此也。俄而粲然有秉芻豢稻梁而至者,則瞲然視之曰:「此何怪也?」彼臭之而嗛於鼻,嘗之而甘於口,食之而安於體,則莫不弃此而取彼矣。今以夫先王之道,仁義之統,以相羣居,以相持養,以相藩飾,以相安固邪?以夫桀、跖之道,是其爲相縣也,幾直夫芻豢稻梁之縣糟糠爾哉!然而人力爲此而寡爲彼,何也?曰:陋也。陋也者,天下之公患也,人之大殃大害也。故曰:仁者好告示人。告之示之,靡之儇之,鈆之重之,則夫塞者俄且通也,陋者俄且僩也,愚者俄且知也。是若不行,則湯、武在上曷益?桀、紂在上曷損?湯、武存則天下從而治,桀、紂存則天下從而亂。如是者,豈非人之情固可與如此,可與如彼也哉!

栄誉と恥辱の大きな分かれ目、安危と利害の常のありようはこうである。

義を先にして利を後にする者は栄え、利を先にして義を後にする者は恥をかく。栄える者は常に通じ、恥をかく者は常に行きづまる。通じる者は常に人を制し、行きづまる者は常に人に制される。これが栄誉と恥辱の大きな分かれ目である。

素地が律儀な者は常に安らかで利を得、浮わついて荒い者は常に危うく害を受ける。安らかで利を得る者は常に楽しく気楽であり、危うく害を受ける者は常に憂えて険しい。楽しく気楽な者は常に長生きし、憂えて険しい者は常に若死にする。これが安危と利害の常のありようである。

およそ天が多くの民を生むとき、それを得るための理由がある。

志が極めて修まり、徳と行いが極めて厚く、知と慮が極めて明らかであること、これが天子が天下を得る理由である。

政令が法にかない、事を起こすのが時にかない、聴いて裁くのが公であること、上は天子の命に従うことができ、下は民を保つことができること、これが諸侯が国と家を得る理由である。

志と行いが修まり、官に臨んで治め、上は上に従うことができ、下はその職を保つことができること、これが士大夫が田と邑を得る理由である。

法則・度量・刑罰・図籍に従い、その意味は知らなくてもその数を慎んで守り、あえて減らしも加えもせず、父と子が受け継いで王公を支えること——だから三代が滅びても治める法はなお残った——これが官人や百吏が禄と職を得る理由である。

孝と悌があり律儀で篤く、せっせと力を尽くしてその仕事を篤くし、あえて怠りも傲りもしないこと、これが庶人が暖かい衣と飽きるほどの食を得、長く生きて刑罰を免れる理由である。

邪な説を飾り、邪な言葉を文で飾り、偏った事を行い、偽り欺き、盗み、荒く傲って、乱れた世の間で生きながらえて寝返りを打つこと、これが邪な者が危うさと恥辱と死刑を得る理由である。

その考えが深くなく、その選びが慎重でなく、その取捨を定めるのが粗く怠りがある。これがその危うい理由である。

素地と性と知と能は、君子と小人で同じである。栄誉を好み恥辱を憎み、利を好み害を憎むのは君子と小人が同じところである。ただそれを求める道が異なるだけである。

小人とは、せっせと偽りをなしながら人が自分を信じることを望み、せっせと欺きながら人が自分を親しむことを望み、鳥獣の行いをしながら人が自分を善しとすることを望む者である。その考えは知りにくく、その行いは安らぎにくく、その保ちは立ちにくい。成し遂げても必ずその好むところを得られず、必ずその憎むところに出会う。

だから君子とは、信があってなお人が自分を信じることを望み、忠があってなお人が自分を親しむことを望み、修まり正しく治まり弁えていてなお人が自分を善しとすることを望む者である。その考えは知りやすく、その行いは安らぎやすく、その保ちは立ちやすい。成し遂げれば必ずその好むところを得、必ずその憎むところに出会わない。だから行きづまっても隠れず、通じれば大いに明らかであり、身が死んでも名はいよいよ白くなる。

小人は首を伸ばしかかとを上げて願い、こう言わない者がない。「知と慮と素地と性が、もとより人より賢いところがあるのだ」と。それが自分と異なるところがないことを知らない。君子は置きどころが適切で、小人は置きどころが行き過ぎているのである。

だから小人の知と能をよく観察すれば、十分に余りがあって君子のすることをなしうることが分かる。たとえば越の人が越に安らぎ、楚の人が楚に安らぎ、君子が雅なものに安らぐのと同じである。これは知と能と素地と性がそうなのではなく、置きどころと習わしの節度が異なるのである。

仁と義と徳と行いは常に安らかな術であるが、必ず危うくないわけではない。汚れて怠り、欺き盗むことは常に危うい術であるが、必ず安らかでないわけではない。だから君子はその常を語り、小人はその怪を語る。

およそ人に一つ同じところがある。飢えれば食べたいと思い、寒ければ暖まりたいと思い、疲れれば休みたいと思い、利を好んで害を憎む。これは人が生まれつき持つもので、待つことなくそうなるものであり、禹と桀が同じところである。

目が白黒と美醜を見分け、耳が声の清濁を聞き分け、口が酸い・塩辛い・甘い・苦いを味わい分け、鼻が香りと生臭さを嗅ぎ分け、骨と肌が寒暑と痛み・かゆみを感じ分ける。これもまた人が常に生まれつき持つもので、待つことなくそうなるものであり、禹と桀が同じところである。

堯や禹になることもでき、桀や跖になることもでき、工匠になることもでき、農夫や商人になることもできる。それは勢いと置きどころと習わしの積み重ねにかかっているだけである。これもまた人が生まれつき持つもので、待つことなくそうなるものであり、禹と桀が同じところである。

堯や禹になれば常に安らかで栄え、桀や跖になれば常に危うく恥をかく。堯や禹になれば常に楽で安らかであり、工匠や農夫や商人になれば常に煩わしく苦労する。それなのに人が努めてこちらをし、あちらをする者が少ないのはなぜか。言う、狭いからである。

堯や禹は生まれつき備わっていた者ではない。古いものを変えるところから起こり、修め行うことで成り、尽くしてから初めて備わった者である。

人は生まれつきもとより小人であり、師がなく法がなければただ利を見るだけである。人は生まれつきもとより小人であるのに、さらに乱れた世に出会い乱れた習わしを得る。これは小さいものに小さいものを重ね、乱れによって乱れを得ることである。君子が勢いを得てこれに臨まなければ、開いて入れる手立てがない。

いまこの人の口と腹が、どうして礼と義を知ろうか。どうして辞譲を知ろうか。どうして廉恥や筋目や積み重ねを知ろうか。やはりむしゃむしゃ噛んで、腹いっぱいになるだけである。人に師がなく法がなければ、その心はそのまま口と腹である。

いま人を、生まれてから肉や米や黍の飯を見たことがなく、ただ豆や豆の葉や酒かすや糠だけを見るようにさせれば、至って十分なものはここにあると思うだろう。やがて見事に肉や米や黍の飯を持った者が来れば、驚いて見つめ「これは何と怪しいものか」と言うだろう。しかし匂いを嗅いで鼻に心地よく、味わって口に甘く、食べて体に安らかであれば、これを捨ててあちらを取らない者はいないだろう。

いま、あの先王の道と仁義の綱によって互いに群れ住み、互いに支え養い、互いに囲い飾り、互いに安らかに固めることを、あの桀や跖の道と比べれば、その隔たりはどうして肉や米や黍の飯と酒かすや糠の隔たりほどで済むだろうか。

それなのに人が努めてこちらをし、あちらをする者が少ないのはなぜか。言う、狭いからである。狭さとは天下の公の患いであり、人の大きな災い、大きな害である。

だから言う、仁ある者は人に告げ示すことを好むと。告げ、示し、なじませ、めぐらせ、引き寄せ、重ねれば、塞がっていた者もやがて通じ、狭い者もやがて広くなり、愚かな者もやがて知を得る。

これが行われないなら、湯や武が上にいて何の足しになり、桀や紂が上にいて何の損になろうか。湯や武がいれば天下は従って治まり、桀や紂がいれば天下は従って乱れる。このようであれば、どうして人の情がもとよりこうにもなり、ああにもなりうるのでないことがあろうか。

人之情,食欲有芻豢,衣欲有文繡,行欲有輿馬,又欲夫餘財蓄積之富也,然而窮年累世不知不足,是人之情也。今人之生也,方知畜雞㺃猪彘,又蓄牛羊,然而食不敢有酒肉;餘刀布,有囷窌,然而衣不敢有絲帛;約者有筐篋之藏,然而行不敢有輿馬。是何也?非不欲也,幾不長慮顧後而恐無以繼之故也?於是又節用御欲,收斂蓄藏以繼之也,是於己長慮顧後,幾不甚善矣哉!今夫偷生淺知之屬,曾此而不知也,糧食大侈,不顧其後,俄則屈安窮矣,是其所以不免於凍餓,操瓢囊爲溝壑中瘠者也。況夫先王之道,仁義之統,《詩》、《書》、《禮》、《樂》之分乎!彼固爲天下之大慮也,將爲天下生民之屬長慮顧後而保萬世也,其㳅長矣,其溫厚矣,其功盛姚遠矣,非孰修爲之君子莫之能知也。故曰:短綆不可以汲深井之泉,知不幾者不可與及聖人之言。夫《詩》、《書》、《禮》、《樂》之分,固非庸人之所知也。故曰:一之而可再也,有之而可久也,廣之而可通也,慮之而可安也,反鈆察之而俞可好也。以治情則利,以爲名則榮,以羣則和,以獨則足,樂意者其是邪?夫貴爲天子,富有天下,是人情之所同欲也。然則從人之欲則埶不能容,物不能贍也。故先王案爲之制禮義以分之,使有貴賤之等,長幼之差,知愚能不能之分,皆使人載其事而各得其宜,然後使慤禄多少厚薄之稱,是夫羣居和一之道也。故仁人在上,則農以力盡田,賈以察盡財,百工以巧盡械器,士大夫以上至於公侯,莫不以仁厚知能盡官職,夫是之謂至平。故或禄天下而不自以爲多,或監門、御旅、抱關、擊柝而不自以爲寡。故曰:「斬而齊,枉而順,不同而一。」夫是之謂人倫。《詩》曰:「受小共大共,爲下國駿蒙。」此之謂也。

人の情は、食べるには肉を望み、着るには文様と刺繍を望み、行くには車と馬を望み、さらに余った財を蓄えて富むことを望む。それでいて年を尽くし代を重ねても足りることを知らない。これが人の情である。

いま人が生きていて、ようやく鶏や犬や豚を飼うことを知り、さらに牛や羊を飼っていても、食べるのにあえて酒や肉を置かない。余った銭があり倉があっても、着るのにあえて絹を置かない。節約して蓄えた者が箱に隠したものがあっても、行くのにあえて車や馬を置かない。

これはなぜか。望まないからではなく、長く考えて後を顧み、継ぐものがなくなるのを恐れるからではないか。そこでさらに用いるものを節し欲を抑え、集めて蓄えて継いでいく。これは自分について長く考えて後を顧みたのであって、なんとも善いことではないか。

いま、あの生きながらえるだけの浅い知の者たちは、これさえも知らず、糧を大いに散らしてその後を顧みない。やがて尽きて行きづまる。これがその者が凍えと飢えを免れず、瓢と袋を持って溝の中の痩せた死者となる理由である。

まして、あの先王の道と仁義の綱、『詩』『書』『礼』『楽』の分はなおさらである。あれはもとより天下のための大きな考えであり、天下の民の者たちのために長く考えて後を顧み、万世を保とうとするものである。その流れは長く、その温かさは厚く、その功は盛んで遥かに遠い。よく修め行った君子でなければ、誰もこれを知ることができない。

だから言う、短い縄では深い井戸の泉を汲むことができず、知が及ばない者とは聖人の言葉に至ることはできないと。およそ『詩』『書』『礼』『楽』の分は、もとより凡庸な人の知るところではない。

だから言う、一度すれば二度でき、持てば久しく保ち、広げれば通じ、考えれば安らぎ、繰り返し引き寄せて見ればいよいよ好ましくなると。それで情を治めれば利となり、それで名とすれば栄え、それで群れれば和し、それで独りあれば足りる。意を楽しませるものとはこれではないか。

およそ貴いことでは天子となり、富むことでは天下を持つ。これは人の情が同じく望むところである。しかし人の欲をそのまま従えば、勢いが容れることができず、物が足りることができない。

だから先王はそこで礼と義を定めてこれを分け、貴賤の等級、長幼の差、知と愚、能と不能の区別があるようにし、みな人にその仕事を担わせてそれぞれその適切さを得させ、そのうえで禄の多少と厚薄が釣り合うようにした。これがおよそ群れ住んで和し一つになる道である。

だから仁ある人が上にいれば、農夫は力で田を尽くし、商人は見立てで財を尽くし、諸々の工匠は技で器具を尽くし、士大夫から上は公侯に至るまで、仁と厚さと知と能で官職を尽くさない者がない。これを至れる平らという。

だからある者は天下を禄として受けても自ら多いと思わず、ある者は門番、旅人の世話、関の守り、夜回りの拍子木を打つ者となっても自ら少ないと思わない。

だから「切りそろえて斉しく、曲げて従い、同じでなくて一つになる」という。これをおよそ人倫という。『詩』に「小さな法と大きな法を受けて、下の国の大きな覆いとなる」とある。これを言うのである。