礼論禮論篇
禮起於何也?曰:人生而有欲,欲而不得,則不能無求。求而無度量分界,則不能不爭;爭則亂,亂則窮。先王惡其亂也,故制禮義以分之,以養人之欲,給人之求。使欲必不窮於物,物必不屈於欲。兩者相持而長,是禮之所起也。
礼はどこから起こったのか。言う、人は生まれつき欲があり、欲しても得られなければ求めずにいられず、求めても度量と分の境がなければ争わずにいられない。争えば乱れ、乱れれば行きづまる。
先王はその乱れを憎んだので、礼と義を定めて分け、人の欲を養い人の求めに応えた。欲が必ず物に行きづまらないようにし、物が必ず欲に屈しないようにして、二つが互いに支え合って伸びるようにした。これが礼の起こったところである。
故禮者養也。芻豢稻梁,五味調香,所以養口也;椒蘭芬苾,所以養鼻也;雕琢刻鏤,黼黻文章,所以養目也;鐘鼓管磬,琴瑟竽笙,所以養耳也;疏房檖貌,越席床笫几筵,所以養體也。故禮者養也。
だから礼とは養いである。穀物で養った肉と米と黍の飯、五味の調った香りは口を養うものであり、山椒と蘭の芳香は鼻を養うものであり、彫り刻み象った文様と刺繍は目を養うものであり、鐘と鼓と管と磬、琴と瑟と竽と笙は耳を養うものであり、開けた部屋と奥深い堂、蒲の席と寝台と竹の床と机と筵は体を養うものである。だから礼とは養いである。
君子既得其養,又好其別。曷謂別?曰:貴賤有等,長幼有差,貧富輕重皆有稱者也。故天子大路越席,所以養體也;側載睪芷,所以養鼻也;前有錯衡,所以養目也;和鸞之聲,步中武象,趨中韶護,所以養耳也;龍旗九斿,所以養信也;寢兕持虎,蛟韅、絲末、彌龍,所以養威也;故大路之馬必信至,教順,然後乘之,所以養安也。孰知夫出死要節之所以養生也!孰知夫出費用之所以養財也!孰知夫恭敬辭讓之所以養安也!孰知夫禮義文理之所以養情也!故人苟生之為見,若者必死;苟利之為見,若者必害;苟怠惰偷懦之為安,若者必危;苟情說之為樂,若者必滅。故人一之於禮義,則兩得之矣;一之於情性,則兩喪之矣。故儒者將使人兩得之者也,墨者將使人兩喪之者也,是儒墨之分也。
君子はすでにその養いを得て、さらにその区別を好む。
区別とは何か。言う、貴賤に等級があり、長幼に差があり、貧富と軽重にみな釣り合いがあることである。
だから天子の大きな路の車に蒲の席を敷くのは体を養うものであり、側に香草を載せるのは鼻を養うものであり、前に文様の衡があるのは目を養うものであり、鈴の音が、歩めば「武」と「象」に合い、駆ければ「韶」と「護」に合うのは耳を養うものであり、竜の旗に九つの吹き流しがあるのは信を養うものであり、兕の革を敷き虎の皮をかけ、蛟の文様の腹帯と糸織りの縁と竜を象った衡は威を養うものである。だから大きな路の車の馬は必ず信が至り教え馴らしてから乗る。安らぎを養うものである。
誰がおよそ死に赴いて節を守ることが生を養うものであると知ろうか。誰がおよそ費えを出すことが財を養うものであると知ろうか。誰がおよそ恭しく敬い辞譲することが安らぎを養うものであると知ろうか。誰がおよそ礼と義と文と理が情を養うものであると知ろうか。
だから人がかりそめに生きることだけを見れば、そういう者は必ず死に、かりそめに利だけを見れば、そういう者は必ず害を受け、かりそめに怠りと弱さを安らぎとすれば、そういう者は必ず危うく、かりそめに情の喜びを楽しみとすれば、そういう者は必ず滅びる。
だから人が礼と義に一つであれば二つながら得、情と性に一つであれば二つながら失う。だから儒者は人に二つながら得させる者であり、墨者は人に二つながら失わせる者である。これが儒と墨の分かれ目である。
禮有三本:天地者,生之本也;先祖者,類之本也;君師者,治之本也。無天地,惡生?無先祖,惡出?無君師,惡治?三者偏亡,焉無安人。故禮、上事天,下事地,尊先祖,而隆君師。是禮之三本也。
礼に三つの根本がある。天地は生の根本であり、先祖は族の根本であり、君と師は治の根本である。天地がなければどこから生まれ、先祖がなければどこから出て、君と師がなければどうして治まろうか。三つのうち一つでも欠ければ安らかな人がない。だから礼は上では天に仕え、下では地に仕え、先祖を尊び、君と師を高く仰ぐ。これが礼の三つの根本である。
故王者天太祖,諸侯不敢壞,大夫士有常宗,所以別貴始;貴始得之本也。郊止乎天子,而社止於諸侯,道及士大夫,所以別尊者事尊,卑者事卑,宜大者巨,宜小者小也。故有天下者事七世,有一國者事五世,有五乘之地者事三世,有三乘之地者事二世,持手而食者不得立宗廟,所以別積厚,積厚者流澤廣,積薄者流澤狹也。
だから王たる者が太祖を天に配し、諸侯が敢えて壊さず、大夫と士に常の宗家があるのは、始まりを貴ぶことを分けるものである。始まりを貴ぶことが徳の根本である。
郊の祭りは天子にとどまり、社の祭りは諸侯にとどまり、道の祭りは士大夫に及ぶ。尊い者が尊いものに仕え、卑しい者が卑しいものに仕え、大きいのが適切なものは大きくし、小さいのが適切なものは小さくすることを分けるものである。
だから天下を持つ者は七世に仕え、一国を持つ者は五世に仕え、車五乗の地を持つ者は三世に仕え、車三乗の地を持つ者は二世に仕え、手で稼いで食べる者は宗廟を立てられない。積み重ねが厚いか薄いかを分けるものであって、積み重ねが厚ければ流れる恵みが広く、積み重ねが薄ければ流れる恵みが狭い。
大饗,尚玄尊,俎生魚,先大羹,貴食飲之本也。饗,尚玄尊而用酒醴,先黍稷而飯稻粱。祭,齊大羹而飽庶羞,貴本而親用也。貴本之謂文,親用之謂理,兩者合而成文,以歸大一,夫是之謂大隆。故尊之尚玄酒也,俎之尚生魚也,豆之先大羹也,一也。利爵之不醮也,成事之俎不嘗也,三臭之不食也,一也。大昏之未發齊也,太廟之未入尸也,始卒之未小斂也,一也。大路之素未集也,郊之麻絻也,喪服之先散麻也,一也。三年之喪,哭之不反也,清廟之歌,一唱而三歎也,縣一鐘,尚拊膈,朱絃而通越也,一也。
大きな饗では黒い樽を高く置き、俎に生の魚を載せ、素の羹を先に置く。飲食の根本を貴ぶのである。饗では黒い樽を高く置きながら酒と醴を用い、黍と稷を先に置きながら米と黍の飯を食べる。祭りでは素の羹を斉えて置きながら諸々の料理で満腹にする。根本を貴びながら用を親しむのである。
根本を貴ぶことを文といい、用を親しむことを理という。二つが合わさって文を成し、大いなる一つに帰する。これをおよそ大いなる高みという。
だから樽に黒い酒を高く置くこと、俎に生の魚を高く置くこと、豆に素の羹を先に置くことは一つである。杯を飲み干さないこと、事を終えた俎のものを味わわないこと、三たび香りを嗅ぐだけで食べないことは一つである。大きな婚礼でまだ斉戒を始めないとき、太廟にまだ尸が入らないとき、亡くなったばかりでまだ小斂しないときは一つである。大きな路の車の白い素地にまだ飾りを集めないこと、郊の祭りの麻の冠、喪服で散らした麻を先にすることは一つである。三年の喪で哭して返さないこと、清廟の歌で一人が唱え三人が和すること、鐘を一つ掛けて拊と膈を高く置き、朱の弦に穴を通すことは一つである。
凡禮,始乎梲,成乎文,終乎悅校。故至備,情文俱盡;其次,情文代勝;其下復情以歸大一也。天地以合,日月以明,四時以序,星辰以行,江河以流,萬物以昌,好惡以節,喜怒以當,以為下則順,以為上則明,萬變不亂,貳之則喪也。禮豈不至矣哉!立隆以為極,而天下莫之能損益也。本末相順,終始相應,至文以有別,至察以有說,天下從之者治,不從者亂,從之者安,不從者危,從之者存,不從者亡,小人不能測也。
およそ礼は粗さに始まり、文に成り、喜びに終わる。だから至って備わればと情と文がともに尽き、その次は情と文が交互に勝ち、その下は情に返って大いなる一つに帰する。
天と地がこれで合わさり、日と月がこれで明らかになり、四季がこれで順序づけられ、星がこれで巡り、大河がこれで流れ、万物がこれで栄え、好み憎むことがこれで節せられ、喜び怒ることがこれで適切になる。下となれば順い、上となれば明らかで、万に変わっても乱れないが、二心を持てば失われる。
礼がどうして至れるものでないことがあろうか。高みを立てて極みとすれば、天下が誰も減らしも加えもできない。根本と末が互いに順い、終わりと始めが互いに応じ、至れる文で区別があり、至れる察しで説くことがある。天下がこれに従えば治まり、従わなければ乱れ、従えば安らぎ、従わなければ危うく、従えば残り、従わなければ滅びる。小人はこれを測れない。
禮之理誠深矣,「堅白」「同異」之察入焉而溺;其理誠大矣,擅作典制辟陋之說入焉而喪;其理誠高矣,暴慢恣孳輕俗以為高之屬入焉而隊。故繩墨誠陳矣,則不可欺以曲直;衡誠縣矣,則不可欺以輕重;規矩誠設矣,則不可欺以方圓;君子審於禮,則不可欺以詐偽。故繩者,直之至;衡者,平之至;規矩者,方圓之至;禮者,人道之極也。然而不法禮,不足禮,謂之無方之民;法禮,足禮,謂之有方之士。禮之中焉能思索,謂之能慮;禮之中焉能勿易,謂之能固。能慮、能固,加好者焉,斯聖人矣。故天者,高之極也;地者,下之極也;無窮者,廣之極也;聖人者,人道之極也。故學者,固學為聖人也,非特學無方之民也。
礼の理はまことに深く、堅白や同異を論じる者が入れば溺れる。その理はまことに大きく、勝手に典と制を作って狭く偏った説をなす者が入れば失われる。その理はまことに高く、荒く怠り勝手に振る舞い世俗を軽んじて高ぶる者たちが入れば落ちる。
だから墨縄がまことに張られれば曲直で欺けず、秤がまことに掛けられれば軽重で欺けず、コンパスと矩がまことに据えられれば方円で欺けない。君子が礼に審らかであれば、欺きと偽りで欺けない。
だから墨縄はまっすぐさの至りであり、秤は平らさの至りであり、コンパスと矩は方円の至りであり、礼は人の道の極みである。
そうであるのに礼を法とせず礼を十分にしない者を、方角のない民という。礼を法とし礼を十分にする者を、方角のある士という。礼の中でよく思索できることを、よく考えるという。礼の中でよく変えないことを、よく固いという。よく考えよく固く、そこに好むことを加えれば、これが聖人である。
だから天は高さの極みであり、地は低さの極みであり、尽きないものは広さの極みであり、聖人は人の道の極みである。だから学ぶ者はもとより聖人となることを学ぶのであって、ただ方角のない民となることを学ぶのではない。
禮者,以財物為用,以貴賤為文,以多少為異,以隆殺為要。文理繁,情用省,是禮之隆也。文理省,情用繁,是禮之殺也。文理情用相為內外表墨,並行而雜,是禮之中流也。故君子上致其隆,下盡其殺,而中處其中。步驟馳騁厲鶩不外是矣。是君子之壇宇宮廷也。人有是,士君子也;外是,民也;於是其中焉,方皇周挾,曲得其次序,是聖人也。故厚者,禮之積也;大者,禮之廣也;高者,禮之隆也;明者,禮之盡也。詩曰:「禮儀卒度,笑語卒獲。」此之謂也。
礼とは、財物を用とし、貴賤を文とし、多少を差異とし、高めることと減らすことを要とする。
文と理が繁く、情と用が省かれるのは礼の高まりである。文と理が省かれ、情と用が繁いのは礼の減らしである。文と理と情と用が互いに内外と表裏となって並び行われ混じるのは、礼の中流である。
だから君子は上ではその高まりを尽くし、下ではその減らしを尽くし、中ではその中にとどまる。歩み、駆け、走り、馳せても、ここの外に出ない。これが君子の庭であり宮廷である。人がここにあれば士君子であり、ここの外にあれば民であり、ここの中で広く巡って曲がりなりにもその順序を得れば聖人である。
だから厚さは礼が積まれたことであり、大きさは礼が広いことであり、高さは礼が高められたことであり、明らかさは礼が尽くされたことである。『詩』に「礼と儀はすべて法度にかない、笑いと語らいはすべて適っている」とある。これを言うのである。
禮者,謹於治生死者也。生、人之始也,死、人之終也,終始俱善,人道畢矣。故君子敬始而慎終,終始如一,是君子之道,禮義之文也。夫厚其生而薄其死,是敬其有知,而慢其無知也,是姦人之道而倍叛之心也。君子以倍叛之心接臧穀,猶且羞之,而況以事其所隆親乎!故死之為道也,一而不可得再復也,臣之所以致重其君,子之所以致重其親,於是盡矣。故事生不忠厚,不敬文,謂之野;送死不忠厚,不敬文,謂之瘠。君子賤野而羞瘠,故天子棺槨七重,諸侯五重,大夫三重,士再重。然後皆有衣衾多少厚薄之數,皆有翣菨文章之等,以敬飾之,使生死終始若一;一足以為人願,是先王之道,忠臣孝子之極也。天子之喪動四海,屬諸侯;諸侯之喪動通國,屬大夫;大夫之喪動一國,屬脩士;脩士之喪動一鄉,屬朋友;庶人之喪合族黨,動州里;刑餘罪人之喪,不得合族黨,獨屬妻子,棺槨三寸,衣衾三領,不得飾棺,不得晝行,以昏殣,凡緣而往埋之,反無哭泣之節,無衰麻之服,無親疏月數之等,各反其平,各復其始,已葬埋,若無喪者而止,夫是之謂至辱。
礼とは生と死を治めるのに慎むものである。生は人の始めであり、死は人の終わりであって、終わりと始めがともに善ければ人の道が終わる。だから君子は始めを敬い終わりを慎み、終わりと始めを一つのようにする。これが君子の道であり、礼と義の文である。
およそその生を厚くしその死を薄くするのは、知のあるものを敬い知のないものを侮ることであり、これは邪な人の道であり、そむき裏切る心である。君子はそむき裏切る心で奴僕に接することさえ恥じるのに、まして高く仰ぎ親しむ者に仕えるにおいてはなおさらである。
だから死が道となるのは一度だけで、二度得ることはできない。臣がその君を至って重くするところ、子がその親を至って重くするところが、ここで尽きる。
だから生きている者に仕えて忠厚でなく敬い飾らなければ粗野といい、死者を送って忠厚でなく敬い飾らなければ痩せているという。君子は粗野を賤しみ、痩せていることを恥じる。
だから天子の棺と槨は七重、諸侯は五重、大夫は三重、士は二重である。そのうえでみな衣と衾の多少と厚薄の数があり、みな扇と文様の等級があって、敬って飾り、生と死、終わりと始めが一つのようであるようにする。一つのようであることが人の願いとなるに足る。これが先王の道であり、忠臣と孝子の極みである。
天子の喪は四海を動かして諸侯を集め、諸侯の喪は国中に通じて大夫を集め、大夫の喪は一国を動かして修まった士を集め、修まった士の喪は一郷を動かして友を集め、庶人の喪は族と里を合わせて州と里を動かす。
刑を受けた罪人の喪は族と里を合わせられず、独り妻子だけを集め、棺と槨は三寸、衣と衾は三枚で、棺を飾れず、昼に行けず、暮れに埋め、ありあわせのものに包んで行って埋め、帰っては哭する節がなく、喪服がなく、親疎の月数の等級がない。それぞれその平常に返り、それぞれその始めに返り、すでに埋めてしまえば喪のない者のようにして止む。これをおよそ至れる恥辱という。
禮者,謹於吉凶不相厭者也。紸纊聽息之時,則夫忠臣孝子亦知其閔矣,然而殯斂之具,未有求也;垂涕恐懼,然而幸生之心未已,持生之事未輟也。卒矣,然後作具之。故雖備家必踰日然後能殯,三日而成服。然後告遠者出矣,備物者作矣。故殯久不過七十日,速不損五十日。是何也?曰:遠者可以至矣,百求可以得矣,百事可以成矣;其忠至矣,其節大矣,其文備矣。然後月朝卜日,月夕卜宅,然後葬也。當是時也,其義止,誰得行之?其義行,誰得止之?故三月之葬,其貌以生設飾死者也,殆非直留死者以安生也,是致隆思慕之義也。
礼とは、吉と凶が互いに覆わないように慎むものである。
綿を鼻に当てて息を窺うときには、あの忠臣と孝子もその憂いを知る。それでも殯と斂の備えをまだ求めない。涙を流し恐れながらも、生きてほしいと願う心がまだ止まらず、生かそうとする働きがまだやまない。亡くなってから初めて備える。
だからたとえ備わった家でも、必ず日を越えてから初めて殯することができ、三日で喪服を整える。そのうえで遠くに知らせる者が出て、物を備える者が働く。
だから殯は長くても七十日を越えず、早くても五十日を減らさない。これはなぜか。言う、遠くにいる者が至ることができ、諸々の求めるものを得ることができ、諸々の事を成すことができる。その忠が至り、その節が大きく、その文が備わる。
そのうえで月の初めに日を占い、月の終わりに墓所を占ってから埋める。このとき、その義が止めよと言えば誰が行えようか。その義が行えと言えば誰が止められようか。
だから三月の葬りは、その姿が生きている者のように飾って死者を送るのであって、死者を留めて生者を安らがせるためではない。これは高め慕う義を尽くすことである。
喪禮之凡,變而飾,動而遠,久而平。故死之為道也,不飾則惡,惡則不哀;尒則翫,翫則厭,厭則忘,忘則不敬。一朝而喪其嚴親,而所以送葬之者,不哀不敬,則嫌於禽獸矣,君子恥之。故變而飾,所以滅惡也;動而遠,所以遂敬也;久而平,所以優生也。
喪礼の大綱は、変われば飾り、移れば遠ざかり、久しくなれば平らかになることである。
だから死が道となるのはこうである。飾らなければ醜くなり、醜くなれば哀しまない。近くに置けば馴れ、馴れれば飽き、飽きれば忘れ、忘れれば敬わない。
一朝にしてその厳かな親を失いながら、葬り送るのに哀しみも敬いもなければ鳥獣に近い。君子はこれを恥じる。
だから変われば飾るのは醜さを滅ぼすためであり、移れば遠ざかるのは敬いを遂げるためであり、久しくなれば平らかになるのは生者をゆたかにするためである。
禮者、斷長續短,損有餘,益不足,達愛敬之文,而滋成行義之美者也。故文飾、麤惡,聲樂、哭泣,恬愉、憂戚;是反也;然而禮兼而用之,時舉而代御。故文飾、聲樂、恬愉,所以持平奉吉也;麤惡、哭泣、憂戚,所以持險奉凶也。故其立文飾也,不至於窕冶;其立麤惡也,不至於瘠棄;其立聲樂、恬愉也,不至於流淫、惰慢;其立哭泣、哀戚也,不至於隘懾傷生,是禮之中流也。
礼とは、長いものを断ち短いものを継ぎ、余るものを減らし足りないものを加えて、愛と敬の文に至り、行いと義の美しさを育て成すものである。
だから飾ることと粗いこと、声と楽と哭すること、平然と喜ぶことと憂え悲しむことは互いに逆である。それでも礼はこれを併せて用い、時にかなって挙げ交互に司らせる。
だから飾ることと声と楽と平然と喜ぶことは平らかさを保ち吉を奉ずるものであり、粗いことと哭することと憂え悲しむことは険しさを保ち凶を奉ずるものである。
だからその飾りを立てても艶めかしく媚びるところに至らず、その粗さを立てても痩せ衰え捨てるところに至らず、その声と楽と平然と喜ぶことを立てても流れ溢れ怠るところに至らず、その哭することと哀しみ悲しむことを立てても塞がり怯えて生を損なうところに至らない。これが礼の中流である。
故情貌之變,足以別吉凶,明貴賤親疏之節,期止矣。外是,姦也;雖難,君子賤之。故量食而食之,量要而帶之,相高以毀瘠,是姦人之道,非禮義之文也,非孝子之情也,將以有為者也。故說豫、娩澤,憂戚、萃惡,是吉凶憂愉之情發於顏色者也。歌謠、謷笑、哭泣、諦號,是吉凶憂愉之情發於聲音者也。芻豢、稻梁、酒醴,餰鬻、魚肉、菽藿、酒漿,是吉凶憂愉之情發於食飲者也。卑絻、黼黻、文織,資麤、衰絰、菲繐、菅屨,是吉凶憂愉之情發於衣服者也。疏房、檖貌、越席、床笫、几筵,屬茨、倚廬、席薪、枕塊,是吉凶憂愉之情發於居處者也。兩情者,人生固有端焉。若夫斷之繼之,博之淺之,益之損之,類之盡之,盛之美之,使本末終始,莫不順比,足以為萬世則,則是禮也。非順孰脩為之君子,莫之能知也。
だから情と姿の変化は、吉と凶を分け、貴賤と親疎の節を明らかにするに足れば、そこで止まる。これより外は邪である。たとえ難しくても君子はこれを賤しむ。
だから食を量って食べ腰を量って帯を締めながら、痩せることで互いに高ぶるのは、邪な人の道であり、礼と義の文ではなく、孝子の情でもない。何かをしようとする者である。
だから喜んで艶やかなことと、憂えて萎れて醜いことは、吉凶と憂喜の情が顔色に現れたものである。歌と笑いと哭と叫びは、吉凶と憂喜の情が声に現れたものである。穀物で養った肉と米と黍の飯と酒と醴、粥と汁と魚と肉と豆と豆の葉と酒と漿は、吉凶と憂喜の情が飲食に現れたものである。冠と刺繍の文様と文様織りの絹、粗い麻布と喪服と藁の靴と菅の履物は、吉凶と憂喜の情が衣服に現れたものである。開けた部屋と奥深い堂と蒲の席と寝台と机と筵、茅を葺いた廬と寄せかけた小屋と薪の席と土の枕は、吉凶と憂喜の情が住まいに現れたものである。
この二つの情は、人が生まれつきもとよりその端緒を持つものである。およそこれを断ち継ぎ、広め浅くし、加え減らし、類づけ尽くし、盛んにし美しくして、根本と末、終わりと始めが順い並ばないものがなく、万世の法則となるに足るようにするのが礼である。順って熟し修め行った君子でなければ、誰も知ることができない。
故曰:性者、本始材朴也;偽者、文理隆盛也。無性則偽之無所加,無偽則性不能自美。性偽合,然後成聖人之名,一天下之功於是就也。故曰:天地合而萬物生,陰陽接而變化起,性偽合而天下治。天能生物,不能辨物也,地能載人,不能治人也;宇中萬物生人之屬,待聖人然後分也。詩曰:「懷柔百神,及河喬嶽。」此之謂也。
だから言う、性とは根本の始めの材であり荒木であり、偽とは文と理が高く盛んなことである。性がなければ偽が加わるところがなく、偽がなければ性が自ら美しくなれない。性と偽が合わさってから初めて聖人の名が成り、天下を一つにする功がここで遂げられる。
だから言う、天と地が合わさって万物が生まれ、陰と陽が接して変化が起こり、性と偽が合わさって天下が治まると。
天はよく物を生むが物を弁えられず、地はよく人を載せるが人を治められない。宇宙の中の万物と人の者たちは、聖人を待ってから初めて分かれる。『詩』に「諸々の神を懐け和らげ、河と高い岳にまで及ぶ」とある。これを言うのである。
喪禮者,以生者飾死者也,大象其生以送其死也。故事死如生,事亡如存,終始一也。始卒,沐浴、鬠體、飯唅,象生執也。不沐則濡櫛三律而止,不浴則濡巾三式而止。充耳而設瑱,飯以生稻,唅以槁骨,反生術矣。設褻衣,襲三稱,縉紳而無鉤帶矣。設掩面儇目,鬠而不冠笄矣。書其名,置於其重,則名不見而柩獨明矣。薦器:則冠有鍪而毋縰,罋廡虛而不實,有簟席而無床笫,木器不成斲,陶器不成物,薄器不成內,笙竽具而不和,琴瑟張而不均,輿藏而馬反,告不用也。具生器以適墓,象徙道也。略而不盡,貌而不功,趨輿而藏之,金革轡靷而不入,明不用也。象徙道,又明不用也,是皆所以重哀也。故生器文而不功,明器貌而不用。凡禮,事生,飾歡也;送死,飾哀也;祭祀,飾敬也;師旅,飾威也。是百王之所同,古今之所一也,未有知其所由來者也。故壙壟、其貌象室屋也;棺槨、其貌象版蓋斯象拂也;無帾絲歶縷翣,其貌以象菲帷幬尉也。抗折,其貌以象槾茨番閼也。故喪禮者,無他焉,明死生之義,送以哀敬,而終周藏也。故葬埋,敬藏其形也;祭祀,敬事其神也;其銘誄繫世,敬傳其名也。事生,飾始也;送死,飾終也;終始具,而孝子之事畢,聖人之道備矣。刻死而附生謂之墨,刻生而附死謂之惑,殺生而送死謂之賊。大象其生以送其死,使死生終始莫不稱宜而好善,是禮義之法式也,儒者是矣。
喪礼とは、生者で死者を飾るものであり、その生を大きく象ってその死を送るものである。だから死者に仕えることを生者に仕えるようにし、亡き者に仕えることを在る者に仕えるようにして、終わりと始めが一つである。
亡くなったばかりのとき、髪を洗わせ体を清め髪を結び口に飯を含ませるのは、生者を扱っていたことを象ったものである。髪を洗わせなければ櫛を濡らして三たび梳いて止め、体を洗わせなければ布を濡らして三たび拭いて止める。耳を塞いで耳当てを置き、飯は生米で、口には乾いた骨を含ませる。生者の法を逆にしたのである。下着を置き三枚を重ね着させ、大帯を締めるが鉤の帯はない。顔を覆い目を隠し、髪を結ぶが冠と簪はしない。その名を書いてその重に置けば、名は見えず柩だけが明らかである。
供える器はこうである。冠には頭巾があるが髪包みがなく、甕は空で満たさず、竹の席はあるが寝台がなく、木の器は削り上げず、陶の器は物として仕上げず、薄い器は内を作らず、笙と竽は備えるが調えず、琴と瑟は弦を張るが調えず、車は埋めるが馬は返す。用いないことを告げるのである。
生者の器を備えて墓に行くのは、移り行く道を象ったものである。粗略にして尽くさず、形だけで役立つようにせず、車を駆って埋めるが、金と革と手綱と引き綱は入れない。用いないことを明らかにするのである。移り行く道を象り、また用いないことを明らかにする。これはみな哀しみを重くするためである。
だから生者の器は飾るが役立つようにせず、明器は形だけで用いない。
およそ礼は、生者に仕えれば喜びを飾り、死者を送れば哀しみを飾り、祭祀すれば敬いを飾り、軍を出せば威を飾る。これは百王が同じくしたところであり、古と今が一つであるところで、その由来を知る者はいない。
だから墓穴と墳は、その姿が部屋と家を象ったものであり、棺と槨は、その姿が板と覆いを象ったものであり、覆いと糸と房と扇は、その姿が簾と帳を象ったものであり、墓穴を覆う木は、その姿が鏝で塗った屋根と囲いを象ったものである。
だから喪礼とは他のことではない。死と生の義を明らかにして哀しみと敬いで送り、ついにあまねく蔵することである。だから埋めることはその形を敬って蔵することであり、祭祀はその神を敬って仕えることであり、その銘と誄と系譜はその名を敬って伝えることである。生者に仕えることは始めを飾ることであり、死者を送ることは終わりを飾ることであって、終わりと始めが備われば孝子の仕事が終わり、聖人の道が備わる。
死者を削って生者に付けることを墨といい、生者を削って死者に付けることを惑いといい、生者を殺して死者を送ることを賊という。その生を大きく象ってその死を送り、死と生、終わりと始めが釣り合い適切で善を好まないものがないようにするのが、礼と義の法式であり、儒者がそれである。
三年之喪,何也?曰:稱情而立文,因以飾群,別親疏貴賤之節,而不可益損也。故曰:無適不易之術也。創巨者其日久,痛甚者其愈遲,三年之喪,稱情而立文,所以為至痛極也。齊衰、苴杖、居廬、食粥、席薪、枕塊,所以為至痛飾也。三年之喪,二十五月而畢,哀痛未盡,思慕未忘,然而禮以是斷之者,豈不以送死有已,復生有節也哉!凡生天地之間者,有血氣之屬必有知,有知之屬莫不愛其類。今夫大鳥獸則失亡其群匹,越月踰時,則必反鉛;過故鄉,則必徘徊焉,鳴號焉,躑躅焉,踟躕焉,然後能去之也。小者是燕爵,猶有啁焦之頃焉,然後能去之。故有血氣之屬莫知於人,故人之於其親也,至死無窮。將由夫愚陋淫邪之人與,則彼朝死而夕忘之;然而縱之,則是曾鳥獸之不若也,彼安能相與群居而無亂乎!將由夫脩飾之君子與,則三年之喪,二十五月而畢,若駟之過隙,然而遂之,則是無窮也。故先王聖人安為之立中制節,一使足以成文理,則舍之矣。
三年の喪はなぜか。言う、情に釣り合わせて文を立て、これで群れを飾り、親疎と貴賤の節を分け、加えも減らしもできないようにしたのである。だから言う、当たるところも改めるところもない術であると。
傷が大きければその日数が長く、痛みが甚だしければその癒えが遅い。三年の喪は情に釣り合わせて文を立て、至れる痛みの極みとしたのである。粗い喪服と麻の杖と廬住まいと粥を食べることと薪の席と土の枕は、至れる痛みを飾るものである。
三年の喪は二十五か月で終わる。哀しみと痛みがまだ尽きず、思い慕う心がまだ忘れられないのに、礼がこれで断つのは、どうして死者を送ることに限りがあり生に返ることに節があるようにするためでないことがあろうか。
およそ天地の間に生まれたもののうち、血気のある者は必ず知があり、知のある者はその類を愛さないものがない。
いまあの大きな鳥獣はその群れと連れを失えば、月を越え季を越えても必ず戻り、古い里を過ぎれば必ずうろつき、鳴き叫び、足を踏み、ためらってから初めて去ることができる。小さなものは燕や雀でも、なお鳴き悲しむ一時があってから初めて去ることができる。
だから血気のある者のうち人より知るものはなく、人がその親に対することは死ぬまで尽きることがない。
あの愚かで狭く溢れ邪な人に従うのか。それならあの者は朝に死ねば夕に忘れる。それでもこれを放っておけば、これは鳥獣にも及ばないのだから、彼らがどうして互いに群れ住んで乱れずにいられようか。
修め飾った君子に従うのか。それなら三年の喪が二十五か月で終わるのは四頭の馬が隙間を過ぎるようであり、そのまま従えば尽きることがない。
だから先王と聖人はここに中を立て節を定め、ひとえに文と理を成すに足るようにして、そこで手放したのである。
然則何以分之?曰:至親以期斷。是何也?曰:天地則已易矣,四時則已無矣,其在宇中者莫不更始矣,故先王案以此象之也。然則三年何也?曰:加隆焉,案使倍之,故再期也。由九月以下何也?曰:案使不及也。故三年以為隆,緦麻、小功以為殺,期、九月以為間。上取象於天,下取象於地,中取則於人,人所以群居和一之理盡矣。故三年之喪,人道之至文者也,夫是之謂至隆。是百王之所同也,古今之所一也。
それでは何で分けるのか。言う、至って親しい者は一年で断つ。これはなぜか。言う、天と地がすでに替わり、四季がすでに尽き、宇宙の中にあるものが改めて始まらないものがない。だから先王はこれで象ったのである。
それでは三年はなぜか。言う、高みを加えて倍にしたので二年である。九か月より下はなぜか。言う、及ばないようにしたのである。
だから三年を高みとし、緦麻と小功を減らしとし、一年と九か月をその間とする。上は天から象を取り、下は地から象を取り、中は人から法を取るのだから、人が群れ住んで和し一つになる理が尽きる。
だから三年の喪は人の道の至れる文であり、これをおよそ至れる高みという。これは百王が同じくしたところであり、古と今が一つであるところである。
君之喪,所以取三年,何也?曰:君者、治辨之主也,文理之原也,情貌之盡也,相率而致隆之,不亦可乎?詩曰:「愷悌君子,民之父母。」彼君子者,固有為民父母之說焉。父能生之,不能養之;母能食之,不能教誨之;君者,已能食之矣,又善教誨之者也。三年畢矣哉!乳母、飲食之者也,而三月;慈母、衣被之者也,而九月;君曲備之者也,三年畢乎哉!得之則治,失之則亂,文之至也。得之則安,失之則危,情之至也。兩至者俱積焉,以三年事之,猶未足也,直無由進之耳。故社,祭社也;稷、祭稷也;郊者,並百王於上天而祭祀之也。
君の喪が三年を取るのはなぜか。言う、君とは治め弁える主であり、文と理の源であり、情と姿の尽きるところである。互いに率いて高みを尽くすことが、またよいことではないか。
『詩』に「喜ばしく和やかな君子は、民の父母である」とある。あの君子とは、もとより民の父母となるという言葉がある。
父はよく生むが養えず、母はよく食べさせるが教えられないのに、君はすでによく食べさせ、さらによく教える。三年で終わるだろうか。
乳母は食べさせる者なのに三か月、慈母は着せる者なのに九か月なのに、君は曲がりなりにも備える者なのに三年で終わるだろうか。
これを得れば治まり失えば乱れるのだから文の至りであり、これを得れば安らぎ失えば危ういのだから情の至りである。二つの至りがともに積まれているのだから、三年で仕えてもなお足りないが、ただ進める手立てがないだけである。
だから社は土地の神を祭ることであり、稷は穀の神を祭ることであり、郊は百王を天に併せて祭祀することである。
三月之殯,何也?曰:大之也,重之也。所致隆也,所致親也,將舉措之,遷徙之,離宮室而歸丘陵也,先王恐其不文也,是以繇其期,足之日也。故天子七月,諸侯五月,大夫三月,皆使其須足以容事,事足以容成,成足以容文,文足以容備,曲容備物之謂道矣。
三月の殯はなぜか。言う、大きなこととするのであり、重いこととするのである。高みを尽くすところであり、親しみを尽くすところである。やがてこれを挙げ移して宮室を離れ丘陵に帰らせようとするのに、先王はそれが文で飾られないことを恐れたので、その期を延ばして日を十分にしたのである。
だから天子は七か月、諸侯は五か月、大夫は三か月であって、みなその待つ時が事を容れるに足り、事が成ることを容れるに足り、成ることが文を容れるに足り、文が備えを容れるに足るようにしたのである。曲がりなりにも物の備えを容れることを道という。
祭者、志意思慕之情也。愅詭唈僾而不能無時至焉。故人之歡欣和合之時,則夫忠臣孝子亦愅詭而有所至矣。彼其所至者,甚大動也;案屈然已,則其於志意之情者惆然不嗛,其於禮節者闕然不具。故先王案為之立文,尊尊親親之義至矣。故曰:祭者、志意思慕之情也。忠信愛敬之至矣,禮節文貌之盛矣,苟非聖人,莫之能知也。聖人明知之,士君子安行之,官人以為守,百姓以成俗;其在君子以為人道也,其在百姓以為鬼事也。故鐘鼓管磬,琴瑟竽笙,韶夏護武,汋桓箾簡象,是君子之所以為愅詭其所喜樂之文也。齊衰、苴杖、居廬、食粥、席薪、枕塊,是君子之所以為愅詭其所哀痛之文也。師旅有制,刑法有等,莫不稱罪,是君子之所以為愅詭其所敦惡之文也。卜筮視日、齋戒、脩涂、几筵、饋薦、告祝,如或饗之。物取而皆祭之,如或嘗之。毋利舉爵,主人有尊,如或觴之。賓出,主人拜送,反易服,即位而哭,如或去之。哀夫!敬夫!事死如事生,事亡如事存,狀乎無形,影然而成文。
祭りとは志意と思い慕う情である。胸が詰まり咽んで、時として至らずにいられない。だから人が喜び和し合うときには、あの忠臣と孝子もまた胸が詰まって至るところがある。
あの至るところは甚だ大きく動くのに、屈めてやめてしまえば、志意の情において物足りず満たされず、礼と節において欠けて備わらない。だから先王はここに文を立てた。尊い者を尊び親しい者を親しむ義が至っている。
だから言う、祭りとは志意と思い慕う情であると。忠と信と愛と敬が至り、礼と節と文と姿が盛んである。まことに聖人でなければ、誰も知ることができない。聖人は明らかにこれを知り、士君子は安らかにこれを行い、官人はこれを守りとし、民はこれで習わしを成す。君子においては人の道と見なし、民においては鬼神の事と見なす。
だから鐘と鼓と管と磬、琴と瑟と竽と笙、「韶」「夏」「護」「武」「汋」「桓」「箾」「簡」「象」は、君子がその喜び楽しむところを胸詰まる思いで飾るものである。
粗い喪服と麻の杖と廬住まいと粥を食べることと薪の席と土の枕は、君子がその哀しみ痛むところを胸詰まる思いで飾るものである。
軍に制があり刑法に等級があって罪に釣り合わないものがないのは、君子がその憎むところを胸詰まる思いで飾るものである。
卜と筮で日を見、斉戒し、道を整え、机と筵を置き、食べ物を供え、祝文を告げることを、まるで誰かが享けるかのようにする。物を取ってみな供えることを、まるで誰かが味わうかのようにする。杯を挙げる者が飲み干さず、主人が樽を置くことを、まるで誰かが杯を受けるかのようにする。客が出れば主人が拝して送り、帰って服を替え、位に就いて哭することを、まるで誰かが去るかのようにする。
哀しいことだ、敬うべきことだ。死者に仕えることを生者に仕えるようにし、亡き者に仕えることを在る者に仕えるようにして、形のないものを形にし、影のように文を成す。