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軻比能

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 三國志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳 · 陳寿、注釈 裴松之 · 3世紀末(注は429年) · 段落 4 · 漢字 792字 · 朗読 3.2分

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 烏丸・鮮卑 中国の人が周りの国を記した最も古い記録。夫余・高句麗・沃沮・邑婁・濊・三韓・倭人がここに初めて現れる。同じ筆が北の烏丸・鮮卑と西の大秦(ローマ)までを一巻に記しており、当時の中国が他者をどのような尺度で分けて見ていたかも併せて明らかになる。

1軻比能が中国を手本とする

軻比能本小種鮮卑,以勇健,斷法平端,不貪財物,衆推以爲大人。部落近塞,自袁紹據河北,中國人多亡叛歸之,教作兵器鎧楯,頗學文字。故其勒御部衆,擬則中國,出入弋獵,建立旌麾,以鼓節爲進退。建安中,因閻柔上貢獻。太祖西征關中,田銀反河間,比能將三千餘騎隨柔擊破銀。後代郡烏丸反,比能復助爲寇害,太祖以鄢陵侯彰爲驍騎將軍,北征,大破之。比能走出塞,後復通貢獻。延康初,比能遣使獻馬,文帝亦立比能爲附義王。黃初二年,比能出諸魏人在鮮卑者五百餘家,還居代郡。明年,比能帥部落大人小子代郡烏丸脩武盧等三千餘騎,驅牛馬七萬餘口交市,遣魏人千餘家居上谷。後與東部鮮卑大人素利及步度根三部爭鬪,更相攻擊。田豫和合,使不得相侵。五年,比能復擊素利,豫帥輕騎徑進掎其後。比能使別小帥瑣奴拒豫,豫進討,破走之,由是懷貳。乃與輔國將軍鮮于輔書曰:「夷狄不識文字,故校尉閻柔保我於天子。

軻比能はもともと小さな族の鮮卑であったが、勇猛で強く、法の裁きが平らかで正しく、財物を貪らなかったので、衆が推して大人とした。

部落が塞に近かったので、袁紹が河北を占めてから後、中国の人が多く逃げ背いて彼のもとへ帰り、武器や鎧や盾の作り方を教え、文字もかなり学んだ。そのため部の衆を率い治めるのに中国を手本とし、出入りして狩るときには旗を立て、鼓の調子で進み退いた。

建安年間、閻柔を通じて貢ぎ物を奉った。太祖が西へ関中を討ったとき、田銀が河間で背いたので、軻比能は三千余騎を率いて閻柔に従い、田銀を討ち破った。のちに代郡の烏丸が背いたとき、軻比能は再び助けて荒らし害をなしたので、太祖は鄢陵侯の曹彰を驍騎将軍として北へ討たせ、大いに破った。軻比能は塞の外へ逃げたが、のちに再び貢ぎ物を通わせた。

延康の初め、軻比能が使者を遣わして馬を献じたので、文帝もまた軻比能を附義王とした。黄初二年、軻比能は鮮卑にいた魏の人五百余家を送り出し、代郡に帰って住まわせた。翌年、部落の大人の若い子と、代郡の烏丸である脩武盧ら三千余騎を率い、牛と馬七万余頭を駆って市を開いて交易し、魏の人千余家を送って上谷に住まわせた。

のちに東部鮮卑の大人である素利と歩度根の三つの部が争って互いに攻め合った。田豫が和解させて互いに侵さないようにした。五年、軻比能が再び素利を討ったので、田豫は軽騎を率いてまっすぐ進み、その後ろを引き止めた。軻比能は別の小帥である瑣奴に田豫を防がせたが、田豫が進み討って破り逃がしたので、これによって二心を抱いた。

そこで輔国将軍の鮮于輔に書を送って言った。「夷狄は文字を知らないので、先に校尉の閻柔が天子のもとで私の身を保証してくれました。

2「牛や馬でも良い水と草を知っている」

我與素利爲讎,往年攻擊之,而田校尉助素利。我臨陣使瑣奴往,聞使君來,即便引軍退。步度根數數鈔盜,又殺我弟,而誣我以鈔盜。我夷狄雖不知禮義,兄弟子孫受天子印綬,牛馬尚知美水草,況我有人心邪!將軍當保明我於天子。」輔得書以聞帝,帝復使豫招納安慰。比能衆遂彊盛,控弦十餘萬騎。每鈔畧得財物,均平分付,一決目前,終無所私,故得衆死力,餘部大人皆敬憚之,然猶未能及檀石槐也。

私と素利は仇どうしで、昨年これを攻めましたが、田校尉が素利を助けました。私は陣に臨んで瑣奴を遣わしましたが、使君が来ると聞いてすぐに軍を引いて退きました。歩度根はたびたび荒らし盗み、また私の弟を殺しておきながら、かえって私が荒らし盗んだと偽り訴えています。

我ら夷狄は礼儀を知らぬとはいえ、兄弟も子孫も天子の印綬を受けております。牛や馬でも良い水と草を知っているのに、ましてこの私に人の心があることを疑われましょうか。将軍はどうか天子のもとで私の身を保証し、明らかにしてください。」

鮮于輔はこの書を得て帝に申し上げたので、帝は再び田豫に命じて招き入れ、安んじ慰めさせた。

軻比能の衆はついに強盛になり、弓を引く騎兵が十余万となった。荒らし奪って財物を得るたびに平らかに分け与え、目の前で一度に裁いて、最後まで私することがなかったので、衆の死力を得た。他の部の大人も皆これを敬い憚った。しかしなお檀石槐には及ばなかった。

3刺客に殺される

太和二年,豫遣譯夏舍詣比能女壻鬱築鞬部,舍爲鞬所殺。其秋,豫將西部鮮卑蒲頭、泄歸泥出塞討鬱築鞬,大破之。還至馬城,比能自將三萬騎圍豫七日。上谷太守閻志,柔之弟也,素爲鮮卑所信。志往解喻,即解圍去。後幽州刺史王雄并領校尉,撫以恩信。比能數款塞,詣州奉貢獻。至青龍元年,比能誘納步度根,使叛并州,與結和親,自勒萬騎迎其累重於陘北。并州刺史畢軌遣將軍蘇尚、董弼等擊之,比能遣子將騎與尚等會戰於樓煩,臨陣害尚、弼。至三年中,雄遣勇士韓龍刺殺比能,更立其弟。

太和二年、田豫は通訳の夏舍を軻比能の娘婿である鬱築鞬の部へ遣わしたが、夏舍は鬱築鞬に殺された。その秋、田豫は西部鮮卑の蒲頭と泄歸泥を率いて塞を出て鬱築鞬を討ち、大いに破った。

帰って馬城に至ると、軻比能が自ら三万騎を率いて田豫を七日のあいだ囲んだ。上谷太守の閻志は閻柔の弟で、もとより鮮卑から信を寄せられていた。閻志が行って説き諭すと、すぐに囲みを解いて去った。

のちに幽州刺史の王雄が校尉を兼ね、恩と信とで鎮めたので、軻比能はたびたび塞を叩いて州へ出て貢ぎ物を奉った。

青龍元年に至って、軻比能は歩度根を誘い入れて并州に背かせ、ともに和親を結び、自ら万騎を率いて陘北でその家財と家族を迎えた。并州刺史の畢軌が将軍の蘇尚・董弼らを遣わして討たせたので、軻比能は子を遣わして騎兵を率いさせ、蘇尚らと樓煩で会戦し、陣の前で蘇尚と董弼を殺した。

三年のうちに至って、王雄は勇士の韓龍を遣わして軻比能を刺し殺させ、改めてその弟を立てた。

4素利・彌加・厥機

素利、彌加、厥機皆爲大人,在遼西、右北平、漁陽塞外,道遠初不爲邊患,然其種衆多於比能。建安中,因閻柔上貢獻,通市,太祖皆表寵以爲王。厥機死,又立其子沙末汗爲親漢王。延康初,又各遣使獻馬。文帝立素利、彌加爲歸義王。素利與比能更相攻擊。太和二年,素利死。子小,以弟成律歸爲王,代攝其衆。

素利と彌加と厥機は皆大人となって、遼西・右北平・漁陽の塞の外にいた。道が遠かったので初めは辺境の憂いとならなかったが、その族の衆は軻比能より多かった。

建安年間、閻柔を通じて貢ぎ物を奉り市を通わせたので、太祖は皆について表を上げて厚く遇し、王とした。厥機が死ぬと、またその子の沙末汗を親漢王として立てた。延康の初め、またそれぞれ使者を遣わして馬を献じた。文帝は素利と彌加を帰義王として立てた。

素利は軻比能と互いに攻め合った。太和二年、素利が死んだが、子が幼かったので、弟の成律歸を王として、その衆を代わりに率いさせた。