鮮卑
1鮮卑
鮮卑
鮮卑。
2『魏書』に記された鮮卑 — 東胡の残りの衆
《魏書》曰:鮮卑亦東胡之餘也,別保鮮卑山,因號焉。其言語習俗與烏丸同。其地東接遼水,西當西城。常以季春大會,作樂水上,嫁女娶婦,髠頭飲宴。其獸異於中國者,野馬、羱羊、端牛。端牛角爲弓,世謂之角端者也。又有貂、豽、鼲子,皮毛柔蠕,故天下以爲名裘。鮮卑自爲冒頓所破,遠竄遼東塞外,不與餘國爭衡,未有名通於漢,而自與烏丸相接。至光武時,南北單于更相攻伐,匈奴損耗,而鮮卑遂盛。建武三十年,鮮卑大人於仇賁率種人詣闕朝貢,封於仇賁爲王。永平中,祭肜爲遼東太守,誘賂鮮卑,使斬叛烏丸欽志賁等首,於是鮮卑自燉煌、酒泉以東邑落大人,皆詣遼東受賞賜,青、徐二州給錢,歲二億七千萬以爲常。和帝時,鮮卑大都護校尉廆帥部衆從烏丸校尉任常擊叛者,封校尉廆爲率衆王。殤帝延平中,鮮卑乃東入塞,殺漁陽太守張顯。安帝時,鮮卑大人燕荔陽入朝,漢賜鮮卑王印綬,赤車參駕,止烏丸校尉所治寗下。
『魏書』にいう。鮮卑もまた東胡の残りである。別に鮮卑山に拠ったので、これを名とした。その言葉と風俗は烏丸と同じである。その地は東は遼水に接し、西は西城に向かい合う。
つねに晩春に大きく集まり、水辺で楽を奏し、娘を嫁がせ嫁を迎え、髪を剃って飲み宴する。その獣で中国と異なるものは、野馬・羱羊・端牛である。端牛の角で弓を作るので、世に角端と呼ばれるものである。また貂・豽・鼲子がおり、皮も毛も柔らかいので、天下はこれを名高い毛皮の衣とする。
鮮卑は冒頓に破られてから後、遼東の塞の外へ遠く逃げ隠れ、他の国と力を競うことなく、漢に名が通じたこともなく、ただ烏丸と境を接していた。光武帝の時に至って、南単于と北単于が互いに攻め討ち合って匈奴が損なわれ、鮮卑はついに盛んになった。
建武三十年、鮮卑の大人である於仇賁が自らの族を率いて朝廷に参内し朝貢したので、於仇賁を王に封じた。
永平年間、祭肜が遼東太守となり、鮮卑を誘って賄い、背いた烏丸の欽志賁らの首を斬らせた。そこで鮮卑のうち燉煌・酒泉から東にある邑落の大人は皆遼東へ出て賞賜を受けたが、青州と徐州の二州が銭を出し、年に二億七千万を納めるのが常となった。
和帝の時、鮮卑の大都護校尉である廆が部の衆を率いて烏丸校尉の任常に従い、背いた者を討ったので、校尉の廆を率衆王に封じた。殤帝の延平年間、鮮卑は東から塞に入り、漁陽太守の張顕を殺した。安帝の時、鮮卑の大人である燕荔陽が朝廷に参内したので、漢は鮮卑王の印綬と、赤い車と三頭立ての軛を賜り、烏丸校尉が治める寗城の下に留めた。
3雹を飲んで生まれた子
通胡市,築南北兩部質宮,受邑落質者二十部。是後或反或降,或與匈奴、烏丸相攻擊。安帝末,發緣邊步騎二萬餘人,屯列衝要。後鮮卑八九千騎穿代郡及馬城塞入害長吏,漢遣度遼將軍鄧遵、中郎將馬續出塞追破之。鮮卑大人烏倫、其至鞬等七千餘人詣遵降,封烏倫爲王,其至鞬爲侯,賜采帛。遵去後,其至鞬復反,圍烏丸校尉於馬城,度遼將軍耿夔及幽州刺史救解之。其至鞬遂盛,控弦數萬騎,數道入塞,趣五原寧貊,攻匈奴南單于,殺左奧鞬日逐王。順帝時,復入塞,殺代郡太守。漢遣黎陽營兵屯中山,緣邊郡兵屯塞下,調五營弩帥令教戰射,南單于將步騎萬餘人助漢擊却之。後烏丸校尉耿曄將率衆王出塞擊鮮卑,多斬首虜,於是鮮卑三萬餘落詣遼東降。匈奴及北單于遁逃後,餘種十餘萬落詣遼東雜處,皆自號鮮卑兵。投鹿侯從匈奴軍三年,其妻在家,有子。
胡市を通じさせ、南北の二部に質宮を築いて、邑落の人質を受けたのは二十部であった。この後、あるいは背き、あるいは降り、あるいは匈奴や烏丸と互いに攻め合った。
安帝の末、辺境沿いの歩兵と騎兵二万余人を出して、要所に並べ屯させた。のちに鮮卑の八、九千騎が代郡と馬城の塞を破って入り、長吏を害したので、漢は度遼将軍の鄧遵と中郎将の馬続を遣わし、塞を出て追い破らせた。鮮卑の大人である烏倫と其至鞬ら七千余人が鄧遵のもとへ出て降ったので、烏倫を王に、其至鞬を侯に封じ、彩りの絹を賜った。
鄧遵が去った後、其至鞬は再び背いて馬城で烏丸校尉を囲んだので、度遼将軍の耿夔と幽州刺史が救い出して解いた。其至鞬はついに盛んになり、弓を引く騎兵数万で諸方の道から塞に入り、五原の寧貊へ向かって匈奴の南単于を攻め、左奥鞬日逐王を殺した。
順帝の時、再び塞に入って代郡太守を殺した。漢は黎陽営の兵を遣わして中山に屯させ、辺境沿いの郡の兵を塞の下に屯させ、五営の弩の将を選んで戦いと弓射を教えさせたので、南単于が歩兵と騎兵万余人を率いて漢を助け、これを討ち退けた。
のちに烏丸校尉の耿曄が率衆王を率いて塞を出て鮮卑を討ち、斬った首と捕らえた者が多かったので、鮮卑の三万余落が遼東へ出て降った。匈奴と北単于が逃げ去った後、残った族の十余万落が遼東へ出て入り混じって住み、皆自ら鮮卑の兵と称した。
投鹿侯が匈奴の軍に従って三年いたが、その妻は家にいて子を産んだ。
4檀石槐が匈奴の旧地をすべて手に入れる
投鹿侯歸,怪欲殺之。妻言:「嘗晝行聞雷震,仰天視而雹入其口,因吞之,遂姙身,十月而產,此子必有奇異,且長之。」投鹿侯固不信。妻乃語家,令收養焉,號檀石槐,長大勇健,智畧絕衆。年十四五,異部大人卜賁邑鈔取其外家牛羊,檀石槐策騎追擊,所向無前,悉還得所亡。由是部落畏服,施法禁,平曲直,莫敢犯者,遂推以爲大人。檀石槐旣立,乃爲庭於高柳北三百餘里彈汗山啜仇水上,東西部大人皆歸焉。兵馬甚盛,南鈔漢邊,北拒丁令,東却夫餘,西擊烏孫,盡據匈奴故地,東西萬二千餘里,南北七千餘里,罔羅山川、水澤、鹽池甚廣。漢患之,桓帝時使匈奴中郎將張奐征之,不克。乃更遣使者齎印綬,即封檀石槐爲王,欲與和親。檀石槐拒不肯受,寇鈔滋甚。乃分其地爲中東西三部。從右北平以東至遼,東接夫餘、濊貊爲東部,二十餘邑,其大人曰彌加、闕機、素利、槐頭。從右北平以西至上谷爲中部,十餘邑,其大人曰柯最、闕居、慕容等,爲大帥。
投鹿侯が帰ってきて怪しみ、殺そうとした。妻が言った。「かつて昼に道を行って雷の音を聞き、天を仰いで見ていたら雹が口に入ったので飲み込みました。するとついに子を孕み、十月で産んだのです。この子にはきっと奇しいところがありましょう。まずは育ててください。」
投鹿侯はどうしても信じなかった。妻はそこで実家に話して引き取って育てさせ、檀石槐と名づけた。育つと勇猛で強く、知と策が衆に抜きんでていた。
十四、五歳のとき、別の部の大人である卜賁邑がその母の実家の牛や羊を奪って行ったので、檀石槐は馬を駆って追い討ち、向かう所に前を遮る者なく、失ったものをすべて取り返した。これによって部落は恐れて服した。法と禁を立て、曲と直を平らかに裁いたので、あえて背く者がなく、ついに推されて大人となった。
檀石槐が立ってから、高柳の北三百余里の彈汗山、啜仇水のほとりに庭を置いたので、東部と西部の大人が皆帰り附いた。兵も馬もはなはだ盛んで、南では漢の辺境を荒らし、北では丁令を防ぎ、東では夫餘を退け、西では烏孫を討って、匈奴の旧地をすべて占めた。東西一万二千余里、南北七千余里、山川や沼沢や塩池を網のように抱え込んで、はなはだ広かった。
漢はこれを憂え、桓帝の時に匈奴中郎将の張奐に討たせたが、勝てなかった。そこで改めて使者を遣わして印綬を持たせ、そのまま檀石槐を王に封じて和親しようとした。檀石槐は拒んで受けようとせず、荒らし奪うことはいよいよ甚だしくなった。
そこでその地を分けて中・東・西の三部とした。右北平から東は遼水に至り、東は夫餘・濊貊に接するところが東部で、二十余邑あり、その大人を彌加・闕機・素利・槐頭という。右北平から西は上谷に至るところが中部で、十余邑あり、その大人を柯最・闕居・慕容らといい、大帥となった。
5檀石槐が死んだ後
從上谷以西至燉煌,西接烏孫爲西部,二十餘邑,其大人曰置鞬落羅、曰律推演、宴荔游等,皆爲大帥,而制屬檀石槐。至靈帝時,大鈔畧幽、并二州。緣邊諸郡無歲不被其毒。熹平六年,遣護烏丸校尉夏育,破鮮卑中郎將田晏,匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門塞,三道並進,徑二千餘里征之。檀石槐帥部衆逆擊,旻等敗走,兵馬還者什一而己。鮮卑衆日多,田畜射獵,不足給食。後檀石槐乃案行烏侯秦水,廣袤數百里,停不流,中有魚而不能得。聞汗人善捕魚,於是檀石槐東擊汗國,得千餘家,徙置烏侯秦水上,使捕魚以助糧。至于今,烏侯秦水上有汗人數百戶。檀石槐年四十五死,子和連代立。和連材力不及父,而貪淫,斷法不平,衆叛者半。靈帝末年數爲寇鈔,攻北地,北地庶人善弩射者射中和連,和連即死。其子騫曼小,兄子魁頭代立。魁頭旣立後,騫曼長大,與魁頭爭國,衆遂離散。魁頭死,弟步度根代立。自檀石槐死後,諸大人遂世相襲也。
上谷から西は燉煌に至り、西は烏孫に接するところが西部で、二十余邑あり、その大人を置鞬落羅・律推演・宴荔游らといい、皆大帥となって檀石槐に属していた。
霊帝の時に至って幽州・并州の二州を大いに荒らし奪ったので、辺境沿いの諸郡はその害を受けない年がなかった。熹平六年、護烏丸校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、匈奴中郎将の臧旻を遣わし、南単于とともに雁門の塞を出て、三つの道から並び進み、二千余里をまっすぐに行って討たせた。檀石槐が部の衆を率いて迎え討ったので、臧旻らは敗れて逃げ、兵も馬も帰った者は十分の一にすぎなかった。
鮮卑の衆は日ごとに多くなり、田を耕し家畜を飼い弓で狩るだけでは食わせるに足りなかった。のちに檀石槐が烏侯秦水を見て回ると、広さと長さが数百里あり、淀んで流れず、中に魚がいるのに捕れなかった。汗人が魚を捕るのに巧みだと聞いて、そこで東へ汗国を討ち、千余家を得て烏侯秦水のほとりに移し置き、魚を捕らせて食糧を助けさせた。今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人が数百戸ある。
檀石槐は四十五歳で死に、子の和連が代わって立った。和連は才も力も父に及ばないうえに貪り淫し、法の裁きが平らかでなかったので、衆のうち背く者が半ばであった。霊帝の末年にたびたび荒らし奪い、北地を攻めたとき、北地の民で弩を射るのに巧みな者が和連を射当て、和連はすぐに死んだ。
その子の騫曼は幼かったので、兄の子の魁頭が代わって立った。魁頭が立った後、騫曼が成長して魁頭と国を争ったので、衆はついに離れ散った。魁頭が死に、弟の歩度根が代わって立った。檀石槐が死んだ後、諸々の大人はついに代々相次いで継ぐようになった。
6軻比能が会盟の席で扶羅韓を殺す
步度根旣立,衆稍衰弱,中兄扶羅韓亦別擁衆數萬爲大人。建安中,太祖定幽州,步度根與軻比能等因烏丸校尉閻柔上貢獻。後代郡烏丸能臣氐等叛,求屬扶羅韓,扶羅韓將萬餘騎迎之。到桑乾,氏等議,以爲扶羅韓部威禁寬緩,恐不見濟,更遣人呼軻比能。比能即將萬餘騎到,當共盟誓。比能便於會上殺扶羅韓,扶羅韓子泄歸泥及部衆悉屬比能。比能自以殺歸泥父,特又善遇之。步度根由是怨比能。
歩度根が立ってから衆は次第に衰え弱まり、真ん中の兄である扶羅韓もまた別に衆数万を抱えて大人となっていた。建安年間、太祖が幽州を平定したので、歩度根と軻比能らは烏丸校尉の閻柔を通じて貢ぎ物を奉った。
のちに代郡の烏丸である能臣氐らが背いて扶羅韓に属することを求めたので、扶羅韓は万余騎を率いて迎えに行った。桑乾に至ったとき、能臣氐らは相談して、扶羅韓の部は威も禁も緩やかで助けを得られないのではないかと恐れ、改めて人を遣わして軻比能を呼んだ。
軻比能はすぐに万余騎を率いて至り、ともに盟いを誓うことになったが、軻比能はその会の席で扶羅韓を殺したので、扶羅韓の子である泄歸泥と部の衆はすべて軻比能に属した。軻比能は自分が泄歸泥の父を殺したからと、とりわけ彼を厚く遇した。歩度根はこれによって軻比能を恨んだ。
7歩度根が軻比能に殺される
文帝踐阼,田豫爲烏丸校尉,持節并護鮮卑,屯昌平。步度根遣使獻馬,帝拜爲王。後數與軻比能更相攻擊,步度根部衆稍寡弱,將其衆萬餘落保太原、鴈門郡。步度根乃使人招呼泄歸泥曰:「汝父爲比能所殺,不念報仇,反屬怨家。今雖厚待汝,是欲殺汝計也。不如還我,我與汝是骨肉至親,豈與仇等?」由是歸泥將其部落逃歸步度根,比能追之弗及。至黃初五年,步度根詣闕貢獻,厚加賞賜,是後一心守邊,不爲寇害,而軻比能衆遂彊盛。明帝即位,務欲綏和戎狄,以息征伐,羈縻兩部而已。至青龍元年,比能誘步度根深結和親,於是步度根將泄歸泥及部衆悉保比能,寇鈔并州,殺略吏民。帝遣驍騎將軍秦朗征之,歸泥叛比能,將其部衆降,拜歸義王,賜幢麾、曲蓋、鼓吹,居并州如故。步度根爲比能所殺。
文帝が位に即くと、田豫を烏丸校尉とし、節を持たせて鮮卑まであわせて守らせ、昌平に屯させた。歩度根が使者を遣わして馬を献じたので、帝は王とした。
のちにたびたび軻比能と互いに攻め合って、歩度根の部は衆が次第に少なく弱くなったので、その衆万余落を率いて太原と雁門郡を守った。
歩度根はそこで人をやって泄歸泥を呼び、こう言った。「お前の父は軻比能に殺されたのに、仇を返すことを思わず、かえって仇の家に属している。いま厚く遇してはいても、それはお前を殺すための計略だ。私のもとへ帰るのがよい。私とお前は血肉の近い親だ、どうして仇と同じであろうか。」
これによって泄歸泥はその部落を率いて逃げ、歩度根のもとへ帰った。軻比能は追ったが及ばなかった。黄初五年に至って、歩度根は朝廷に参内して貢ぎ物を奉り、厚く賞を加えられたので、この後は一心に辺境を守り、荒らして害をなすことはなかった。そして軻比能の衆がついに強盛になった。
明帝が位に即くと、戎狄を鎮め和らげて征伐をやめることに努め、二つの部を手綱で繋ぎ留めておくだけであった。青龍元年に至って、軻比能が歩度根を誘って深く和親を結んだので、歩度根は泄歸泥と部の衆を率いてすべて軻比能に附き、并州を荒らし奪って、役人や民を殺し捕らえた。
帝は驍騎将軍の秦朗を遣わして討たせたので、泄歸泥は軻比能に背き、その部の衆を率いて降った。そこで帰義王とし、幢麾・曲蓋・鼓吹を賜り、以前のとおり并州に住まわせた。歩度根は軻比能に殺された。