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倭人

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 三國志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳 · 陳寿、注釈 裴松之 · 3世紀末(注は429年) · 段落 7 · 漢字 1,985字 · 朗読 7.9分

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 東夷 中国の人が周りの国を記した最も古い記録。夫余・高句麗・沃沮・邑婁・濊・三韓・倭人がここに初めて現れる。同じ筆が北の烏丸・鮮卑と西の大秦(ローマ)までを一巻に記しており、当時の中国が他者をどのような尺度で分けて見ていたかも併せて明らかになる。

1帯方から倭に至る海路

倭人在帶方東南大海之中,依山島爲國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始渡一海,千餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絶島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戶,無良田,食海物自活,乘船南北市糴。又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離,方可三百里。多竹木叢林,有三千許家。差有田地,耕田猶不足食,亦南北市糴。又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘戶,濵山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沉没取之。東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘户,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。東南至奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘户。東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。

倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山や島に寄って国や邑をなしている。かつては百余国であり、漢の時に朝廷に参って拝謁した者があったが、いま使者と通訳が通じる所は三十国である。

郡から倭に至るには、海岸に沿って水路を行き、韓国を経て、しばらく南へ行きしばらく東へ行って、その北の岸の狗邪韓国に至るが、七千余里である。

初めて一つの海を渡って千余里行くと対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。住む所は離れ島で、四方四百余里ほど、土地は山が険しく深い林が多く、道は鳥や鹿の通う小道のようである。千余戸があり、良い田がないので海の産物を食べて自ら暮らし、船に乗って南北へ行き来して穀物を買い入れる。

また南へ一つの海を千余里渡るが、これを瀚海という。一大国に至るが、官もまた卑狗といい、副を卑奴母離といい、四方三百里ほどである。竹や木や茂った林が多く、三千ほどの家がある。田が少しあるが、田を耕してもなお食うには足りないので、やはり南北へ行き来して穀物を買い入れる。

また一つの海を渡って千余里行くと末盧国に至る。四千余戸があり、山と海に臨んで住み、草木が茂っているので、道を行くとき前の人が見えない。魚や鮑を捕ることを好み、水の深さ浅さを問わず、皆潜ってこれを捕る。

東南へ陸路を五百里行くと伊都国に至る。官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。千余戸があり、代々王がいるが、皆女王国にまとめて属している。郡の使者が行き来するときつねに留まる所である。

東南へ奴国に至るまで百里である。官を兕馬觚といい、副を卑奴母離といい、二万余戸がある。東へ行って不弥国に至るまで百里である。官を多模といい、副を卑奴母離といい、千余家がある。

2邪馬壹国 — 女王が都を置く所

南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘户。南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶。自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有爲吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國,男子爲王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。自郡至女王國,萬二千餘里。男子無大小皆黥面文身。

南へ投馬国に至るが、水路で二十日である。官を弥弥といい、副を弥弥那利といい、五万余戸ほどである。

南へ邪馬壹国に至るが、女王が都を置く所である。水路で十日、陸路で一月である。官に伊支馬があり、次を弥馬升、次を弥馬獲支、次を奴佳鞮といい、七万余戸ほどである。

女王国から北は、その戸数や道の里程をおおよそ記すことができるが、そのほかの傍らの国は遠く隔たっていて、詳しくすることができない。

次に斯馬国・已百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国があり、ここが女王の境の尽きる所である。

その南に狗奴国があって男子が王となっており、その官に狗古智卑狗があり、女王には属していない。

郡から女王国まで一万二千余里である。男子は大小の区別なく皆顔に入れ墨をし、体に文様を入れる。

3入れ墨と衣と市

自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。夏后少康之子,封於會稽,斷髮文身,以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽,後稍以爲飾。諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。計其道里,當在會稽、東治之東。其風俗不淫,男子皆露紒,以木緜招頭。其衣横幅,但結束相連,略無縫。婦人被髮屈紒,作衣如單被,穿其中央,貫頭衣之。種禾稻、紵麻,蠶桑、緝績,出細紵、縑緜。其地無牛、馬、虎、豹、羊、鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃,所有無與儋耳、朱崖同。倭地温暖,冬夏食生菜,皆徒跣。有屋室,父母兄弟卧息異處,以朱丹塗其身體,如中國用粉也。食飲用籩豆,手食。其死,有棺無槨,封土作冢。始死,停喪十餘日,當時不食肉,喪主哭泣,他人就歌舞飲酒。已葬,舉家詣水中澡浴,以如練沐。其行來渡海詣中國,恒使一人,不梳頭,不去蟣蝨。衣服垢汚,不食肉,不近婦人。

古くからその使者が中国に至れば、皆自ら大夫と称した。夏后少康の子が会稽に封じられ、髪を切り体に文様を入れて蛟龍の害を避けた。いま倭の水に入る人が潜って魚や蛤を捕ることを好むが、体に文様を入れたのも大きな魚や水鳥を退けようとしたのであって、のちに次第に飾りとなった。諸々の国の入れ墨はそれぞれ異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さくして、尊卑に差がある。その道の里程を計れば、まさに会稽・東治の東にあたるはずである。

その風俗は淫らでない。男子は皆髷をあらわにし、木綿で頭を結ぶ。その衣は幅を横にして、ただ結び束ねて互いにつなぐだけで、ほとんど縫った所がない。婦人は髪を解いて曲げて髷を結い、衣は単衣のように作って、その中央を穿ち、頭を通して着る。

稲と苧と麻を植え、蚕を飼って糸を紡ぎ、細い苧布や縑や絹を出す。その地には牛も馬も虎も豹も羊も鵲もいない。武器は矛と盾と木の弓を使う。木の弓は下が短く上が長く、竹の矢には鉄の矢先を使うものも骨の矢先を使うものもある。あるものないものは儋耳・朱崖と同じである。

倭の地は暖かく、冬も夏も生の菜を食べ、皆裸足で歩く。家屋があり、父母と兄弟の寝て休む所が別である。赤い丹を体に塗るが、中国で粉を使うのと同じである。飲み食いするには籩と豆を用い、手で取って食べる。

人が死ぬと棺はあって槨はなく、土を盛って塚を作る。死んだばかりの時は喪を十余日とどめ、そのあいだ肉を食べず、喪主は哭して泣き、他の人は寄って歌い舞い酒を飲む。葬りを終えると、一家が皆水に入って体を洗うが、練沐のようにする。

海を渡って中国へ行き来するときは、つねに一人を定めて、髪を梳かず、虱や卵を取り除かず、衣服を垢で汚れたままにし、肉を食べず、婦人を近づけないようにさせる。

4持衰 — 吉なら褒美、凶なら殺す

如喪人,名之爲「持衰」。若行者吉善,共顧其生口、財物;若有疾病,遭暴害,便欲殺之,謂其持衰不謹。出真珠、靑玉,其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹篠簳、桃支,有薑、橘、椒、蘘荷,不知以爲滋味。有獼猴、黑雉。其俗舉事行來,有所云爲,輙灼骨而卜,以占吉凶。先告所卜,其辭如令龜法,視火坼占兆。

喪に服した人のようにさせるので、これを「持衰」という。もし行く者が吉で良ければ、皆でその者に人や財物を分け与えるが、もし病になったり、ひどい害に遭ったりすれば、すぐにこれを殺そうとし、その持衰が慎まなかったのだという。

真珠と青玉が出て、その山には丹がある。その木には柟・杼・豫樟・楺櫪・投橿・烏號・楓香があり、その竹には篠簳と桃支がある。薑と橘と椒と蘘荷があるが、味付けに使うことを知らない。猿と黒い雉がいる。

その風俗では、事を起こしたり行き来したりするとき、しようとすることがあれば、そのたびに骨を焼いて卜し、吉凶を占う。先に卜うことを告げるが、その言葉は亀に命じる法と同じで、火で裂けた筋を見て兆しを占う。

5女王卑弥呼

其會同坐起,父子男女無别,人性嗜酒。見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八、九十年。其俗,國大人皆四五婦,下户或二三婦。婦人不淫,不妬忌。不盜竊,少諍訟。其犯法,輕者没其妻子,重者滅其門户及宗族尊卑,各有差序,足相臣服。收租賦。有邸閣,國國有市,交易有無,使大倭監之。自女王國以北,特置一大率,檢察諸國,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書、賜遺之物詣女王,不得差錯。下户與大人相逢道路,逡巡入草。傳辭說事,或蹲或跪,兩手據地,爲之恭敬。對應聲曰「噫」,比如「然」「諾」。其國本亦以男子爲王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆。年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自爲王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宫室樓觀,城栅嚴設,常有人持兵守衛。女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里,又有裸國、黑齒國,復在其東南,船行一年可至。參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。

集まって座り立つとき、父と子、男と女の区別がない。人の性は酒を好む。大人を見て敬うときは、ただ手を打って跪いて拝するのに代える。その人々は長生きで、あるいは百年、あるいは八十年、九十年を生きる。

その風俗では、国の大人は皆妻が四、五人、下戸はあるいは二、三人である。婦人は淫らでなく、妬まない。盗みをせず、争い訴えることが少ない。法を犯せば、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその家と宗族を滅ぼす。尊卑にそれぞれ順序があって、互いに臣として服するに足りている。

租税を取り立てる。邸閣があり、国ごとに市があって、あるものないものを交易するが、大倭にこれを監させる。女王国から北には、とくに一大率を置いて諸々の国を検め察するので、諸々の国はこれを恐れ憚る。つねに伊都国で治めるが、国の中で刺史のようなものである。

王が使者を都や帯方郡や諸々の韓国へ遣わすとき、また郡が倭国へ使者を遣わすときは、皆津に臨んで調べ確かめ、文書や賜り物を女王へ伝え送って、間違いがないようにする。

下戸が大人と道で出会えば、後ずさりして草の中に入る。言葉を伝え事を申し上げるときは、あるいはうずくまり、あるいは跪いて両手を地につき、そうして敬う。応える声を「噫」というが、「そうだ」「そのとおりです」に比べられる。

その国もまたもともと男子を王として七、八十年を過ごしたが、倭国が乱れて幾年も互いに攻め討ち合った。そこでともに一人の女子を立てて王としたが、名を卑弥呼という。鬼道に仕え、よく衆を惑わした。年はすでに長けていたが夫がなく、弟がいて国を治めるのを助けた。王となってから後、姿を見た者は少ない。侍女千人を自らに仕えさせ、ただ男子一人がいて飲み食いを供え、言葉を伝えて出入りする。住む所は宮室と楼と物見台で、城柵を厳しく設け、つねに人が武器を持って守っている。

女王国から東へ海を千余里渡ると、また国があるが、皆倭の族である。また侏儒国がその南にあり、人の背の高さが三、四尺で、女王から四千余里離れている。また裸国と黒歯国がさらにその東南にあって、船で一年行けば至ることができる。倭の地を尋ね合わせてみると、海の中の洲や島の上に遠く離れてあって、あるいは切れあるいは連なり、周りはおよそ五千余里ほどである。

6「親魏倭王」の詔書

景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利,奉汝所獻男生口四人,女生口六人,班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守,假授汝。其綏撫種人,勉爲孝順。汝來使難升米、牛利涉遠,道路勤勞,今以難升米爲率善中郎將,牛利爲率善校尉,假銀印靑綬,引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹,絳地縐粟罽十張,蒨絳五十匹,紺靑五十匹,答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹,細班華罽五張,白絹五十匹,金八兩,五尺刀二口,銅鏡百枚,真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。

景初二年六月、倭の女王が大夫の難升米らを郡へ遣わし、天子のもとへ参って朝し献じることを求めたので、太守の劉夏は役人を遣わして都まで送らせた。

その年の十二月、詔書で倭の女王に答えた。

「親魏倭王である卑弥呼に制をもって詔する。帯方太守の劉夏が使者を遣わして、お前の大夫である難升米と副使の都市牛利を送り、お前が献じた男の奴四人、女の奴六人、班布二匹二丈を奉じて至った。お前のいる所はたいそう遠いのに、使者を遣わして貢ぎ物を献じた。これはお前の忠孝であって、私はお前をたいそう憐れに思う。

いまお前を親魏倭王とし、金印と紫綬を貸し与えるので、包み封じて帯方太守に託し、お前に貸し与える。自らの族の者を鎮め撫でて、孝順であるように努めよ。

お前の使者である難升米と牛利は遠い道を越えて来て、道中骨を折った。いま難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉として、銀印と青綬を貸し与え、召し見て労い、賜り物をして帰らせる。

いま赤い地に交龍を織った錦五匹、赤い地の縮みのある毛織物十張、茜色の赤五十匹、紺青五十匹をもって、お前が献じた貢ぎ物の値に答える。またとくにお前に、紺地に句の文様のある錦三匹、細かに斑のある花の毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚、真珠と鉛丹それぞれ五十斤を賜るので、すべて包み封じて難升米と牛利に託す。帰り着いたら記して受け取るようにせよ。すべてお前の国の人に示して、国家がお前を憐れんでいることを知らせよ。それゆえ丁重にお前に良い品を賜るのである。」

7卑弥呼が死に、十三歳の壹与が立つ

」正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,並齎詔賜金帛、錦罽、刀鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪拘等八人,上獻生口、倭錦、絳靑縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年,詔賜倭難升米黄幢,付郡假授。其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡,說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等,因齎詔書、黄幢,拜假難升米爲檄告諭之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三爲王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千孔、靑大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

正始元年、太守の弓遵が建中校尉の梯儁らを遣わし、詔書と印綬を奉じて倭国に至り、倭王として貸し授けさせ、あわせて詔によって賜る金や絹、錦や毛織物、刀や鏡、彩りの品を持って行かせたので、倭王はこれによって使者に表を上げさせ、恩ある詔に礼を述べた。

その四年、倭王は改めて大夫の伊声耆・掖邪狗ら八人を使者として遣わし、奴や倭の錦、赤と青の縑、綿の衣、絹、布、丹木、𤝔、短い弓矢を献じた。掖邪狗らは皆率善中郎将の印綬を受けた。

その六年、詔によって倭の難升米に黄色の幢を賜り、郡に託して貸し授けさせた。

その八年、太守の王頎が任に着いた。倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王である卑弥弓呼は、もとより仲が良くなかったので、倭の載斯・烏越らを郡へ遣わして、互いに攻め合っている様子を述べた。そこで塞曹掾史の張政らを遣わし、あわせて詔書と黄色の幢を持って行かせ、難升米に貸し授けて、檄を作って説き諭させた。

卑弥呼が死ぬと大きな塚を作ったが、径が百余歩で、ともに葬られた奴婢が百余人であった。改めて男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅し殺し合って、そのとき死んだ者が千余人であった。改めて卑弥呼の一族の娘である壹与を立て、十三歳で王となると、国中はついに定まった。

張政らが檄をもって壹与を説き諭したので、壹与は倭の大夫で率善中郎将である掖邪狗ら二十人を遣わして張政らを送って帰らせ、これによって台へ参り、男女の奴三十人を献じ、白い珠五千孔、青い大きな句珠二枚、異なる文様の種々の錦二十匹を貢いだ。