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韓

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 三國志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳 · 陳寿、注釈 裴松之 · 3世紀末(注は429年) · 段落 11 · 漢字 2,070字 · 朗読 8.3分

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 東夷 中国の人が周りの国を記した最も古い記録。夫余・高句麗・沃沮・邑婁・濊・三韓・倭人がここに初めて現れる。同じ筆が北の烏丸・鮮卑と西の大秦(ローマ)までを一巻に記しており、当時の中国が他者をどのような尺度で分けて見ていたかも併せて明らかになる。

1馬韓の五十余国

韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。辰韓者,古之辰國也。馬韓在西。其民土著,種植,知蠶桑,作綿布。各有長帥,大者自名爲臣智,其次爲邑借,散在山海間,無城郭。有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、內卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國,凡五十餘國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶。辰王治月支國。臣智,或加優呼。臣雲遣支報,安邪踧支濆。臣離兒不例,狗邪秦支廉之號。其官有魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。

韓は帯方の南にある。東と西は海を限りとし、南は倭と境を接し、四方四千里ほどである。三つの族があり、一つは馬韓、二つは辰韓、三つは弁韓である。辰韓は古の辰国である。

馬韓は西にある。その民は土地に定まって住み、穀物を植え、蚕を飼うことを知って木綿と布を織る。それぞれに長帥がおり、大きな者は自ら臣智と称し、その次は邑借という。山と海のあいだに散らばっていて、城郭はない。

爰襄国・牟水国・桑外国・小石索国・大石索国・優休牟涿国・臣濆沽国・伯済国・速盧不斯国・日華国・古誕者国・古離国・怒藍国・月支国・咨離牟盧国・素謂乾国・古爰国・莫盧国・卑離国・占離卑国・臣釁国・支侵国・狗盧国・卑彌国・監奚卑離国・古蒲国・致利鞠国・冉路国・兒林国・駟盧国・内卑離国・感奚国・萬盧国・辟卑離国・臼斯烏旦国・一離国・不彌国・支半国・狗素国・捷盧国・牟盧卑離国・臣蘇塗国・莫盧国・古臘国・臨素半国・臣雲新国・如來卑離国・楚山塗卑離国・一難国・狗奚国・不雲国・不斯濆邪国・爰池国・乾馬国・楚離国があり、あわせて五十余国である。

大きな国は万余家、小さな国は数千家で、合わせて十余万戸である。辰王は月支国で治める。

臣智には、さらに高めて呼ぶ名を添えることがあり、「臣雲遣支報」「安邪踧支濆」「臣離兒不例」「狗邪秦支廉」の称号がそれである。その官に魏率善・邑君・帰義侯・中郎将・都尉・伯長がある。

2准が衛満に奪われる

侯准既僭號稱王,爲燕亡人衛滿所攻奪,

侯の准が身分を越えて王と称していたが、燕から逃げた人の衛満に攻め奪われ、

3『魏略』 — 箕子の後裔から衛満まで

《魏略》曰:昔箕子之後朝鮮侯,見周衰,燕自尊爲王,欲東略地,朝鮮侯亦自稱爲王,欲興兵逆擊燕以尊周室。其大夫禮諫之,乃止。使禮西說燕,燕止之,不攻。後子孫稍驕虐,燕乃遣將秦開攻其西方,取地二千餘里,至滿番汗爲界,朝鮮遂弱。及秦並天下,使蒙恬築長城,到遼東。時朝鮮王否立,畏秦襲之,略服屬秦,不肯朝會。否死,其子准立。二十餘年而陳、項起,天下亂,燕、齊、趙民愁苦,稍稍亡往准,准乃置之於西方。及漢以盧綰爲燕王,朝鮮與燕界於浿水。及綰反,入匈奴,燕人衛滿亡命,爲胡服,東度浿水,詣准降,說准求居西界,(故)中國亡命爲朝鮮籓屏。准信寵之,拜爲博士,賜以圭,封之百里,令守西邊。滿誘亡黨,衆稍多,乃詐遣人告准,言漢兵十道至,求入宿衛,遂還攻准。准與滿戰,不敵也。

『魏略』にいう。昔、箕子の後裔である朝鮮侯は、周が衰え、燕が自ら高めて王と称して東へ土地を攻め取ろうとするのを見て、朝鮮侯もまた自ら王と称し、兵を起こして燕を迎え討ち、周の王室を高めようとした。その大夫の礼が諫めたので、そこでやめた。礼を西へ遣わして燕を説かせたので、燕はやめて攻めなかった。

のちに子孫が次第に驕り残酷になったので、燕は将の秦開を遣わしてその西方を攻め、土地二千余里を取り、滿番汗に至って境とした。朝鮮はついに弱くなった。

秦が天下を併せると、蒙恬に長城を築かせ、遼東にまで至らせた。そのころ朝鮮王の否が立っていたが、秦が襲うことを恐れて、ひととおり秦に服属したものの、朝会には出ようとしなかった。否が死んで、その子の准が立った。

二十余年して陳勝と項羽が起こり天下が乱れると、燕・齊・趙の民が憂え苦しんで、少しずつ准のもとへ逃げて来たので、准はそこで彼らを西方に置いた。

漢が盧綰を燕王としたとき、朝鮮と燕は浿水を境とした。盧綰が背いて匈奴に入ると、燕の人の衛満が亡命し、夷の服を着て東へ浿水を渡り、准のもとへ出て降って、准を説いて西の境に住むことを求め、中国から亡命した者たちで朝鮮の垣となろうと言った。

准は信じて厚く遇し、博士として圭を賜り、百里を封じて西の辺りを守らせた。衛満は逃げて来た者たちを誘って人が次第に多くなると、そこで偽って人を遣わして准に告げ、漢の兵が十の道から至るので入って宿衛することを求めると言い、ついに引き返して准を攻めた。准は衛満と戦ったが、敵わなかった。

4准が海へ逃れて韓王となる

將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。其後絕滅,今韓人猶有奉其祭祀者。漢時屬樂浪郡,四時朝謁。

その左右の宮人を率いて海へ逃げ、韓の地に住んで、自ら韓王と称した。その後は絶えて滅びたが、いま韓の人のうちにはなおその祭祀を奉る者がいる。漢の時には楽浪郡に属し、四季ごとに出て参謁した。

夾注 1

《魏略》曰:其子及親留在國者,因冒姓韓氏。准王海中,不與朝鮮相往來。

『魏略』にいう。その子や親族で国に残っていた者は、これによって韓氏を姓とした。准は海の中で王となり、朝鮮と互いに行き来しなかった。

5『魏略』 — 廉斯の人である鑡が漢の人千五百を取り戻す

《魏略》曰:初,右渠未破時,朝鮮相曆谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戶,亦與朝鮮貢蕃不相往來。至王莽地皇時,廉斯鑡爲辰韓右渠帥,聞樂浪土地美,人民饒樂,亡欲來降。出其邑落,見田中驅雀男子一人,其語非韓人。問之,男子曰:「我等漢人,名戶來,我等輩千五百人伐材木,爲韓所擊得,皆斷髮爲奴,積三年矣。」鑡曰:「我當降漢樂浪,汝欲去不?」戶來曰:「可。」(辰)鑡因將戶來(來)出詣含資縣,縣言郡,郡即以鑡爲譯,從芩中乘大船入辰韓,逆取戶來。降伴輩尚得千人,其五百人已死。鑡時曉謂辰韓:「汝還五百人。若不者,樂浪當遣萬兵乘船來擊汝。」辰韓曰:「五百人已死,我當出贖直耳。」乃出辰韓萬五千人,弁韓布萬五千匹,鑡收取直還。郡表鑡功義,賜冠幘、田宅,子孫數世,至安帝延光四年時,故受復除。

『魏略』にいう。初め、右渠がまだ破られていなかったとき、朝鮮の相である曆谿卿が右渠に諫めたが用いられなかったので、東へ辰国へ行った。そのとき民で従って出て住んだ者は二千余戸であったが、これもまた朝鮮へ貢ぎを納める者たちとは互いに行き来しなかった。

王莽の地皇年間に至って、廉斯の人である鑡が辰韓の右渠帥となったが、楽浪の土地が良く、民が豊かで楽しんでいると聞いて、逃げて降りに来ようとした。

その邑落を出たところ、田で雀を追う男が一人いたが、その言葉は韓の人のものではなかった。問うと、男が言った。「私たちは漢の人で、名は戶來です。私たちの仲間千五百人が材木を伐っていたところ、韓に捕らえられ、皆髪を切られて奴とされて、三年になります。」

鑡が言った。「私は漢の楽浪に降ろうとしているが、お前も行くか。」戶來が言った。「よろしい。」

鑡はそこで戶來を連れて出て含資県に至り、県が郡に知らせたので、郡はすぐに鑡を通訳として、芩中から大きな船に乗って辰韓に入り、戶來の仲間を迎え取らせた。降った仲間のうちまだ千人を得たが、その五百人はすでに死んでいた。

鑡はそのとき辰韓に説いて言った。「お前たちは五百人を返せ。そうしなければ、楽浪は万の兵を船に乗せて遣わし、お前たちを討つであろう。」

辰韓が言った。「五百人はすでに死んだのだから、我々はその償いを出すまでだ。」

そこで辰韓の人一万五千と弁韓の布一万五千匹を出したので、鑡はその償いを収めて帰った。郡は鑡の功と義を表に上げて、冠と頭巾と田と家を賜り、子孫は数代にわたり、安帝の延光四年の時に至るまで、賦役の免除を受けた。

6崎離営の戦い

桓、靈之末,韓濊強盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。

桓帝と霊帝の末、韓と濊が強盛で郡や県が抑えられなくなったので、民が韓国へ多く流れ込んだ。建安年間、公孫康が屯有県の南の荒れた土地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣わして残った民を収め集め、兵を起こして韓と濊を討ったので、古くからの民が次第に出て来た。この後、倭と韓はついに帯方に属した。

景初年間、明帝は密かに帯方太守の劉昕と楽浪太守の鮮于嗣を遣わして海を越えて二つの郡を定めさせ、諸々の韓国の臣智には邑君の印綬を加えて賜り、その次の者には邑長を与えた。その風俗は衣と頭巾を好むので、下戸が郡へ出て参謁するときは皆衣と頭巾を借り、自ら印綬と衣と頭巾を備えた者が千余人あった。

部従事の吳林は、楽浪がもともと韓国を統べていたとして、辰韓の八国を分けて楽浪に与えたが、役人と通訳が取り次いで伝えるあいだに食い違いが生じた。臣智は韓を煽って憤らせ、帯方郡の崎離営を攻めた。そのとき太守の弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を起こして討ったが、弓遵は戦死し、二つの郡はついに韓を滅ぼした。

7蘇塗と天君

其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制禦。無跪拜之禮。居處作草屋土室,形如塚,其戶在上,舉家共在中,無長幼男女之別。其葬有槨無棺,不知乘牛馬,牛馬盡於送死。以瓔珠爲財寶,或以綴衣爲飾,或以縣頸垂耳,不以金銀錦繡爲珍。其人性強勇,魁頭露紒,如炅兵,衣布袍,足履革蹻蹋。其國中有所爲及官家使築城郭,諸年少勇健者,皆鑿脊皮,以大繩貫之,又以丈許木鍤之,通日嚾呼作力,不以爲痛,既以勸作,且以爲健。常以五月下種訖,祭鬼神,群聚歌舞,飲酒晝夜無休。其舞,數十人俱起相隨,踏地低昂,手足相應,節奏有似鐸舞。十月農功畢,亦復如之。信鬼神,國邑各立一人主祭天神,名之天君。又諸國各有別邑。名之爲蘇塗。立大木,縣鈴鼓,事鬼神。諸亡逃至其中,皆不還之,好作賊。其立蘇塗之義,有似浮屠,而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗,其遠處直如囚徒奴婢相聚。

その風俗には規範や秩序が少なく、国や邑に主帥がいても、邑落が入り混じって住んでいるので、互いにうまく抑え治めることができない。跪いて拝する礼はない。住む所は草で屋根を葺いた土の家を作るが、形は塚のようで、戸が上にある。一家が皆その中にいて、老いと幼い、男と女の区別がない。

葬りには槨はあるが棺はない。牛や馬に乗ることを知らず、牛や馬はすべて死者を送るのに使う。珠を財宝として、あるいは衣に綴って飾りとし、あるいは首に掛け耳に垂らす。金や銀や錦や縫い取りを珍しいものとは思わない。

その人々は性が強く勇ましく、頭をあらわにして髷を結ったさまは光る武器のようである。布の袍を着て、足には革の履物を履く。

国の中ですることがあるときや、官家が城郭を築かせるとき、若くて勇ましく強い者は皆背の皮を突き通して大きな縄を貫き、さらに一丈ほどの木を差して、一日中声を上げて力を出すが、痛いとは思わない。これによって働くことを勧めもし、また強いことのしるしともする。

つねに五月に種を播き終えると鬼神を祭り、群れ集まって歌い舞い、昼も夜も休まず酒を飲む。その舞は数十人がともに立ち上がって互いに従い、地を踏んで体を低くし高くし、手と足が互いに合うので、その調子は鐸舞と似たところがある。十月に農事が終われば、またこのようにする。

鬼神を信じ、国や邑ごとにそれぞれ一人を立てて天の神を祭らせるので、これを天君という。また諸々の国にそれぞれ別の邑があり、これを蘇塗という。大きな木を立て、鈴と鼓を掛けて鬼神に仕える。逃げた者がその中へ至れば、皆これを返さないので、盗みをすることを好むようになった。蘇塗を立てた意味は浮屠と似たところがあるが、行うことの善悪には異なるところがある。

その北方で郡に近い諸々の国は礼と風俗をかなり知っているが、遠い所はただ囚人や奴婢が寄り集まっているのと変わらない。

8梨ほどの栗と州胡

無他珍寶。禽獸草木略與中國同。出大栗,大如梨。又出細尾雞,其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,言語不與韓同,皆髡頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,巿買韓中。

他に珍しい宝はない。鳥や獣や草木はおおむね中国と同じである。大きな栗が出るが、大きさは梨ほどである。また細い尾の鶏が出るが、その尾はどれも長さ五尺あまりである。その男子には、時おり体に文様を入れた者がいる。

また州胡が馬韓の西の海の中の大きな島の上にある。その人は少し背が低く、言葉は韓と同じではなく、皆髪を剃って鮮卑のようであり、ただ革の衣を着て、牛と豚を飼うことを好む。その衣は上はあって下がなく、ほとんど裸の姿である。船に乗って行き来し、韓のうちで売り買いする。

9辰韓 — 楽浪の人を阿残と呼ぶ

辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國爲邦,弓爲弧,賊爲寇,行酒爲行觴。相呼皆爲徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人爲阿殘;東方人名我爲阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之爲秦韓者。始有六國,稍分爲十二國。

辰韓は馬韓の東にある。その老人たちが代々伝えて言うには、自分たちは古に秦の賦役を避けて逃げて来て韓国に至ったので、馬韓がその東の境の地を分けて与えたのだという。城柵がある。

その言葉は馬韓と同じではなく、国を邦といい、弓を弧といい、賊を寇といい、酒をまわすことを行觴という。互いに呼ぶときは皆徒というので、秦の人と似たところがあり、ただ燕や齊の名や物であるだけではない。

楽浪の人を阿残と呼ぶが、東方の人は自分のことを阿というので、楽浪の人はもともと自分たちの残りの人だという意味である。いまこれを秦韓と呼ぶ者がいる。初めは六つの国があったが、次第に分かれて十二の国となった。

10弁辰 — 鉄が出て韓・濊・倭が皆持って行く

弁辰亦十二國,又有諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,其次有險側,次有樊濊,次有殺奚,次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。弁、辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戶。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。土地肥美,宜種五穀及稻,曉蠶桑,作縑布,乘駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚。國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟,其形似築,彈之亦有音曲。兒生,便以石厭其頭,欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭,亦文身。便步戰,兵仗與馬韓同。其俗,行者相逢,皆住讓路。

弁辰も十二の国であり、また諸々の小さな別の邑があって、それぞれに渠帥がいる。大きな者は臣智といい、その次に險側があり、次に樊濊があり、次に殺奚があり、次に邑借がある。

已柢国・不斯国・弁辰彌離彌凍国・弁辰接塗国・勤耆国・難彌離彌凍国・弁辰古資彌凍国・弁辰古淳是国・冉奚国・弁辰半路国・弁樂奴国・軍彌国・弁辰彌烏邪馬国・如湛国・弁辰甘路国・戶路国・州鮮国・弁辰狗邪国・弁辰走漕馬国・弁辰安邪国・弁辰瀆盧国・斯盧国・優由国がある。

弁韓と辰韓を合わせて二十四国であり、大きな国は四、五千家、小さな国は六、七百家で、合わせて四、五万戸である。そのうち十二の国が辰王に属する。辰王はつねに馬韓の人を用いて立て、代々相次いで継いだ。辰王が自ら立って王となることはできない。

土地は肥えて良く、五穀と稲を植えるのに適し、蚕を飼うことを知って縑布を織り、牛や馬に乗り使う。婚姻の礼と風俗には男女の区別がある。大きな鳥の羽で死者を送るが、その意は死者を飛び上がらせようとするのである。

国から鉄が出るので、韓・濊・倭が皆ここから取って行く。売り買いするときは皆鉄を使い、中国で銭を使うのと同じで、また二つの郡にも供える。

風俗は歌い舞い酒を飲むことを好む。瑟があるが、その形は築に似ており、弾けばやはり調べがある。子が生まれると、すぐに石でその頭を押さえて平たくしようとする。いま辰韓の人は皆頭が平たい。男女は倭に近く、やはり体に文様を入れる。歩いて戦うことに慣れ、武具は馬韓と同じである。その風俗では、道を行く者が互いに出会えば、皆止まって道を譲る。

夾注 4

弁軍彌國

弁軍彌国ともいう。

馬延國

馬延国。

《魏略》曰:明其爲流移之人,故爲馬韓所制。

『魏略』にいう。彼らが流れ移って来た人であることは明らかなので、馬韓に抑えられた。

《魏略》曰:其國作屋,橫累木爲之,有似牢獄也。

『魏略』にいう。その国は家を作るとき木を横に積んで作るので、牢獄と似たところがある。

11瀆盧国は倭と境を接している

弁辰與辰韓雜居,亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似,祠祭鬼神有異,施灶皆在戶西。其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王,其人形皆大。衣服絜清,長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。

弁辰は辰韓と入り混じって住んでおり、やはり城郭がある。衣服と住む所は辰韓と同じである。言葉も法も風俗も互いに似ているが、鬼神を祭ることには異なるところがあって、竈を置くのはどれも戸の西である。

その瀆盧国は倭と境を接している。十二の国にも王がおり、その人々は体が皆大きい。衣服は清らかで、髪が長い。また幅の広い細かな布を織る。法と風俗はとりわけ厳しく峻しい。