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高麗二 — 元宗とクビライ高麗 二

元史 高麗伝(元史に記された高麗の記録) 元史 高麗傳 · 宋濂ほか · 1370年(明・洪武3年) · 段落 14 · 漢字 2,073字 · 朗読 8.3分

元史 高麗伝(元史に記された高麗の記録) 全一巻 モンゴル帝国が見た高麗百年。江東城の契丹討伐から始まり、ダルガチ殺害と江華遷都、クビライと元宗の談判、林衍の廃立、三別抄と耽羅、忠烈王の婚姻と征東行省、そして二度の日本遠征の全容(十万のうち帰った者は三人)まで。

1世子よ、王となれ

:世子其趣裝命駕,歸國知政,解仇釋憾,布德施恩。緬惟瘡痍之民,正在撫綏之日,出彼滄溟,宅於平壤。賣刀劍而買牛犢,捨干戈而操耒耜,凡可援濟,毋憚勤勞。苟富庶之有徵,冀禮義之可復,亟正疆界,以定民心,我師不復踰限矣。大號一出,朕不食言。復有敢踵亂犯上者,非干爾主,乃亂我典刑,國有常憲,人得誅之。於戲!世子其王矣。往欽哉!恭承丕訓,永為東藩,以揚我休命。

「世子は急いで身支度をし、車を命じて帰国し、政を執り、仇を解き恨みを釈き、徳を布き恩を施せ。遥かに思えば、傷つき疲れた民は、まさに撫で安んじられるべき時にある。あの大海から出て、平壌に居を定めよ。刀剣を売って牛の子を買い、干戈を捨てて鋤鍬を取れ。およそ救い助けうることであれば、労を惜しむな。まことに富み栄える徴があれば、礼義の復するのも望めよう。速やかに疆界を正して民心を定めれば、我が軍はもはや限りを越えることはない。大号がひとたび出れば、朕は言を食まない。重ねて敢えて乱に続いて上を犯す者があれば、それはお前の主に関わることではなく、我が典刑を乱すものであるから、国に常の法があり、人はこれを誅することができる。ああ、世子よ、王となれ。行って慎め。大いなる訓えを恭しく承け、永く東藩となって、我が善き命を揚げよ。」

2冊封と印

四月,復降旨諭倎曰:「朕祗若天命,獲承祖宗休烈,仰惟覆燾,一視同仁,無遐邇小大之間也。以爾歸款,既冊為王還國,今得爾與邊將之書,因知其上下之情,朕甚憫焉。」倎求出水就陸,免軍馬侵擾,還被虜及逃民,皆從之。詔班師,乃赦其境內。六月,倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即入賀即位,以國王封冊、王印及虎符賜之。是月,又下詔撫諭之。

四月、再び旨を降して倎を諭して言った。「朕は謹んで天命に従い、祖宗の善き功業を承けた。仰ぎ思えば、天が覆うように、一様に等しく仁をもって見、遠近や大小の隔てはない。お前が帰順したので、すでに王に冊して帰国させたが、いまお前と辺将の書を得て、その上下の事情を知り、朕は深く憐れんでいる。」倎は、水を出て陸に就くこと、軍馬の侵し騒がすことを免れること、捕虜および逃げた民を返されることを求め、いずれも聞き入れられた。詔して軍を還し、そこでその境内を赦した。六月、倎はその子の永安公の僖、判司宰事の韓即を遣わして即位を賀させたので、国王の封冊、王印および虎符を賜った。この月、また詔を下して撫で諭した。

3名を禃と改める

二年三月,遣使入貢。四月,倎入朝。六月,倎更名禃,遣其世子愖奉表以聞。八月,賜禃玉帶一,遣侍衞將軍孛里察、禮部郎中高逸民護愖還國。九月,禃遣其侍御史張鎰奉表入謝。十月,帝遣阿的迷失、焦天翼持詔,諭以開榷場事。

二年三月、使者を遣わして入貢した。四月、倎が入朝した。六月、倎は名を禃と改め、その世子の愖を遣わして表を奉じて知らせた。八月、禃に玉帯一つを賜い、侍衛将軍の孛里察、礼部郎中の高逸民を遣わして愖を護って帰国させた。九月、禃はその侍御史の張鎰を遣わして表を奉じて謝した。十月、帝は阿的迷失・焦天翼を遣わして詔を持たせ、榷場を開く事について諭した。

4暦を賜う

三年正月,罷互市。諸王塔察兒請置鐵冶,從之。請立互市,不從。賜禃曆,後歲以為常,禃遣使入謝,優詔答之。四月,禃遣其左諫議大夫朴倫、郎將辛洪成等奉表入朝。六月,遣使入貢。八月,朴倫等還,賜西錦三段、間金熟綾六段。十月,詔諭禃籍編民,出師旅,輸糧餉,助軍儲。是月,禃遣使入貢。

三年正月、互市を廃した。諸王の塔察兒が鉄冶を置くことを請うたので、これに従った。互市を立てることを請うたが、従わなかった。禃に暦を賜い、後には毎年の例とした。禃が使者を遣わして謝したので、優しい詔でこれに答えた。四月、禃はその左諫議大夫の朴倫、郎将の辛洪成らを遣わし、表を奉じて入朝させた。六月、使者を遣わして入貢した。八月、朴倫らが帰るとき、西錦三段、間金熟綾六段を賜った。十月、詔して禃に、編民を籍に著け、師旅を出し、糧餉を輸して軍の貯えを助けるよう諭した。この月、禃は使者を遣わして入貢した。

5懇ろな申し出を容れる

四年二月,以禃不答詔書,詰其使者。禃表乞俟民生稍集,然後惟命。帝以其辭意懇實,允之。朝貢物數,亦命稱其力焉。自三月至于六月,禃凡三遣使入貢,賜禃羊五百。十一月,禃以免置驛籍民等事,遣其翰林學士韓就奉表入謝。

四年二月、禃が詔書に答えなかったことで、その使者を詰問した。禃は表で、民の生業が少し立ち直るのを待ってから命のとおりにしたいと願ったので、帝はその言葉と意が懇ろで真実であるとして、これを許し、朝貢する物の数も、その力に見合うようにせよと命じた。三月から六月まで、禃はおよそ三度使者を遣わして入貢したので、禃に羊五百頭を賜った。十一月、禃は、駅を置くことや民を籍に著けることなどを免じられたことについて、その翰林学士の韓就を遣わし、表を奉じて謝した。

6元宗の親朝

五年正月丁丑朔,禃遣使奉表入賀,諭還使,令禃親朝京師。四月,以西北諸王率眾款附,擬今歲朝王公羣牧于上都,又遣必闍赤古乙獨徵禃入朝,修世見之禮。五月,禃遣其借國子祭酒張鎰從古乙獨入見。六月,乃親朝。九月,帝以改中統五年為至元元年,遣郎中路得成持赦令,與禃郎將康允(玿)〔紹〕頒其國。十月,禃入朝。十二月,遣禃還國。是年春,禃遣使入貢。自是終世祖三十一年,其國入貢者凡三十有六。

五年正月丁丑の朔、禃が使者を遣わして表を奉じて賀したので、使者を帰すに際し、禃に自ら都に朝するよう諭した。四月、西北の諸王が衆を率いて帰順したので、この年は上都で王公と群牧の朝を受けることとし、また必闍赤の古乙独を遣わして禃の入朝を徴し、代々まみえる礼を修めさせた。五月、禃はその借国子祭酒の張鎰を古乙独に従わせて拝謁させた。六月、そこで自ら朝した。九月、帝が中統五年を至元元年と改めるにあたり、郎中の路得成を遣わして赦令を持たせ、禃の郎将の康允紹とともにその国に頒布させた。十月、禃が入朝した。十二月、禃を帰国させた。この年の春、禃は使者を遣わして入貢した。これより世祖の三十一年が終わるまで、その国が入貢したのはおよそ三十六度である。

夾注 1

康允(玿)〔紹〕據高麗史卷二六元宗世家元宗五年五月己丑條、卷一二三康允紹傳改。下同。

「康允(玿)〔紹〕」は『高麗史』巻二六の元宗世家元宗五年五月己丑の条、巻一二三の康允紹伝によって改めた。以下も同じ。

7日本への道案内となれ

至元三年二月,立瀋州,以處高麗降民。帝欲通好日本,以高麗與日本鄰國,可為鄉導,八月,遣國信使兵部侍郎黑的、禮部侍郎殷弘、計議官伯德孝先等使日本,先至高麗諭旨。十二月,禃遣其樞密院副使宋君斐、借禮部侍郎金贊等導詔使黑的、殷弘等往日本,不至而還。

至元三年二月、瀋州を立てて高麗の降った民を住まわせた。帝は日本と通好しようとしたが、高麗は日本と隣国であって道案内となりうるので、八月、国信使の兵部侍郎の黒的、礼部侍郎の殷弘、計議官の伯徳孝先らを日本に使いに遣わし、まず高麗に至って旨を諭させた。十二月、禃はその枢密院副使の宋君斐、借礼部侍郎の金賛らを遣わして詔使の黒的・殷弘らを導いて日本へ向かわせたが、至らずに帰った。

8潘阜の使行

四年正月,禃遣君斐等奉表從黑的等入朝。六月,帝以禃飾辭,令去使徒還,復遣黑的與君斐等以詔諭禃,委以日本事,以必得其要領為期。九月,禃遣其起居舍人潘阜、書狀官李挺充國信使,持書詣日本。

四年正月、禃は君斐らを遣わし、表を奉じて黒的らに従わせて入朝させた。六月、帝は、禃が言葉を飾って、行った使者を空しく帰らせたとして、再び黒的を君斐らとともに遣わし、詔で禃を諭し、日本の事を委ね、必ず要領を得ることを期限とした。九月、禃はその起居舎人の潘阜、書状官の李挺を国信使に任じ、書を持たせて日本に赴かせた。

9六つの事を問う

五年正月,禃遣其弟淐入朝。帝以禃見欺於淐,面數其事切責之。特遣北京〔路〕總管兼大(興)〔定〕府尹于也孫脫、禮部郎中孟甲持詔諭禃,其略曰:「向請撤兵,則已撤之矣。三年當去水就陸,而前言無徵也。又太祖法制,凡內屬之國,納質、助軍、輸糧、設驛、編戶籍、置長官,已嘗明諭之,而稽延至今,終無成言。在太(祖)〔宗〕時,王綧等已入質,驛傳亦粗立,餘率未奉行。今將問罪於宋,其所助士卒舟艦幾何?輸糧則就為儲積,至若設官及戶版事,其意謂何?故以問之。」三月,于也孫脫等至其國。

五年正月、禃はその弟の淐を遣わして入朝させた。帝は、禃が淐に欺かれたとして、その事を面前で数え上げ、切に責めた。特に北京路総管兼大定府尹の于也孫脱、礼部郎中の孟甲を遣わして詔で禃を諭した。その大略に言う。「先に撤兵を請うたので、すでに撤兵した。三年のうちに水を去って陸に就くというのに、前の言葉には徴しがない。また太祖の法制では、およそ内属する国は、質を納め、軍を助け、糧を輸し、駅を設け、戸籍を編み、長官を置くことであると、すでに明らかに諭したのに、今まで引き延ばして、ついに成った言葉がない。太宗の時に王綧らがすでに質に入り、駅伝もおおよそ立ったが、残りはおおむね奉行されていない。いま宋に罪を問おうとしているが、助ける士卒と舟艦はいくらか。糧はそのまま貯え積んでおけ。官を置く事と戸籍の事については、その意は何であるか。それゆえこれを問う。」三月、于也孫脱らがその国に至った。

夾注 2

北京〔路〕總管兼大(興)〔定〕府尹于也孫脫據本書卷六世祖紀至元五年正月辛丑條及高麗史卷二六元宗世家元宗九年三月壬申條補改。按當時有北京路總管府,領大定府。大興府屬燕京路。

「北京〔路〕総管兼大(興)〔定〕府尹の于也孫脱」は、本書巻六の世祖紀至元五年正月辛丑の条および『高麗史』巻二六の元宗世家元宗九年三月壬申の条によって補い改めた。当時、北京路総管府があって大定府を領していた。大興府は燕京路に属した。

太(祖)〔宗〕時王綧等已入質按上文,王綧于太宗十三年入質,與本書卷二太宗紀太宗十三年秋條符,據改。

「太(祖)〔宗〕の時に王綧らがすでに質に入った」 — 前の文に、王綧は太宗十三年に質に入ったとあり、本書巻二の太宗紀太宗十三年秋の条と合うので、これによって改めた。

10船千艘を造れ

四月,禃遣其門下侍郎李藏用奉表與也孫脫等入朝。五月,帝敕藏用曰:「往諭爾主,速以軍數實奏,將遣人督之。今出軍,爾等必疑將出何地,或欲南宋,或欲日本,爾主當造舟一千艘,能涉大海可載四千石者。」藏用曰:「舟艦之事即當應命,但人民殘少,恐不及期。往者臣國有軍四萬,三十餘年間死於兵疫,今止有牌子頭、五十戶、百戶、千戶之類虛名,而無軍卒。」帝曰:「死者有之,生者亦有之。」藏用曰:「賴聖德,自撤兵以來,有生長者僅十歲耳。」帝又曰:「自爾來者言,海中之事,於宋得便風可三日而至,日本則朝發而夕至。舟中載米,海中捕魚而食之,則豈不可行乎?」又敕藏用曰:「歸可以此言諭爾主。」

四月、禃はその門下侍郎の李蔵用を遣わし、表を奉じて也孫脱らとともに入朝させた。五月、帝は蔵用に勅して言った。「帰ってお前の主に諭し、速やかに軍の数を事実のとおりに奏させよ。人を遣わしてこれを督する。いま軍を出せば、お前たちは必ずどこへ出るのかと疑うであろうが、南宋かもしれず、日本かもしれない。お前の主は船一千艘を造れ。大海を渉ることができ、四千石を載せられるものにせよ。」蔵用は「船の事はただちに命に応じます。ただ人民が衰え少なく、期限に及ばないことを恐れます。昔、臣の国には軍四万がありましたが、三十余年の間に戦いと疫病で死に、いまは牌子頭・五十戸・百戸・千戸といった虚名だけがあって、軍卒はおりません」と言った。帝は「死んだ者もあろうが、生きている者もあろう」と言った。蔵用は「聖徳のおかげで、撤兵以来に生まれ育った者は、やっと十歳ばかりです」と言った。帝はまた「お前の国から来た者が言うには、海の事は、宋までは順風を得れば三日で至り、日本なら朝に発って夕に着くという。船に米を載せ、海で魚を捕って食えば、どうして行けないことがあろうか」と言い、また蔵用に「帰ってこの言葉でお前の主を諭せ」と勅した。

11軍を閲し船を造る

七月,詔都統領脫朵兒、武德將軍統領王國昌、武略將軍副統領劉傑等使其國,與其來朝者大將軍崔東秀偕行。八月,至其國,禃出昇天府迎之,蓋諭以閱軍造船也。九月,以禃表奏潘阜等奉使無功而還,復遣黑的等使日本,詔禃遣重臣導送。十二月,禃遣其知門下省事申思(全)〔佺〕、禮部侍郎陳井、起居舍人潘阜等從國信使黑的等赴日本,借禮部侍郎張鎰奉表從脫朵兒入朝。

七月、詔して都統領の脱朵児、武徳将軍統領の王国昌、武略将軍副統領の劉傑らをその国に使いさせ、来朝していた大将軍の崔東秀とともに行かせた。八月、その国に至ると、禃は昇天府に出て迎えた。おおむね、軍を閲し船を造ることを諭すためであった。九月、禃が表で、潘阜らが使いして功なく帰ったことを奏したので、再び黒的らを日本に使いに遣わし、詔して禃に重臣を遣わして導き送らせた。十二月、禃はその知門下省事の申思佺、礼部侍郎の陳井、起居舎人の潘阜らを国信使の黒的らに従わせて日本に赴かせ、借礼部侍郎の張鎰は表を奉じて脱朵児に従って入朝した。

夾注 1

申思(全)〔佺〕據高麗史卷二六元宗世家元宗九年十二月庚辰條改。新元史已校。下同。

「申思(全)〔佺〕」は『高麗史』巻二六の元宗世家元宗九年十二月庚辰の条によって改めた。『新元史』はすでに校している。以下も同じ。

12金俊を誅す

六年正月,禃遣其大將軍康允(玿)〔紹〕奉表奏誅權臣金俊等。三月,禃復遣申思(全)〔佺〕奉表從黑的入朝。六月,禃遣其世子愖入朝。賜禃玉帶一,愖金五十兩,從官銀幣有差。七月,帝遣明威將軍都統領脫朵兒、武德將軍統領王國昌、武略將軍副統領劉傑相視耽羅等處道路,詔禃選官引達,以人言耽羅海道往南宋、日本甚易故也。

六年正月、禃はその大将軍の康允紹を遣わし、表を奉じて権臣の金俊らを誅したことを奏した。三月、禃は再び申思佺を遣わし、表を奉じて黒的に従わせて入朝させた。六月、禃はその世子の愖を遣わして入朝させたので、禃に玉帯一つ、愖に金五十両、従う官には銀と幣を差をつけて賜った。七月、帝は明威将軍都統領の脱朵児、武徳将軍統領の王国昌、武略将軍副統領の劉傑を遣わして耽羅などの地の道筋を見させ、詔して禃に官を選んで導かせた。人々が、耽羅の海路から南宋や日本へ行くのはきわめて容易だと言ったからである。

13林衍の廃立

八月,世子愖至朝,奏本國臣下擅廢禃立其弟安慶公淐事。詔遣使臣斡朵思不花、李諤等至其國詳問之。九月,其樞密院副使金方慶奉表從斡朵思不花等入朝。樞密院御史臺奏,世子愖言:「朝廷若出征,能辦軍三千,備糧五月,如官軍入境,臣宜同往,庶不驚擾。」帝然之。詔授世子禃特進、上柱國,敕愖率兵三千赴其國難。命抄不花往征其國,以病不果行,詔遣蒙哥都代之。

八月、世子の愖が朝廷に至り、本国の臣下がほしいままに禃を廃してその弟の安慶公の淐を立てた事を奏した。詔して使臣の斡朵思不花、李諤らをその国に遣わして詳しく問わせた。九月、その枢密院副使の金方慶が表を奉じて斡朵思不花らに従って入朝した。枢密院と御史台が奏するに、世子の愖が「朝廷がもし出征されるなら、軍三千を調え、五か月分の糧を備えられます。官軍が境に入るときは、臣も同行すべきで、そうすれば驚き騒ぐことがないでしょう」と言った、とのことであった。帝はこれをよしとした。詔して世子に特進・上柱国を授け、愖に兵三千を率いてその国の難に赴くよう勅した。抄不花に命じてその国を征たせようとしたが、病のため行けなかったので、詔して蒙哥都を遣わしてこれに代えた。

14崔坦が五十余城を献じる

十月,帝以禃、淐廢置乃林衍所為,遣中憲大夫兵部侍郎黑的、淄萊路總管府判官徐世雄詔禃、淐、衍等以十二月同詣闕下,面陳情實,聽其是非。又遣國王頭輦哥等率兵壓境,如踰期不至,即當窮治首惡,進兵勦戮。命趙璧行中書省于東京,仍詔諭高麗國軍民。十一月,高麗都統領崔坦等以林衍作亂,挈西京五十餘城入附。遣斷事官別同瓦馳驛於王綧、洪茶丘所管實科差戶內簽軍至東京,付樞密院,得三千三百人。高麗西京都統李延齡乞益兵,遣忙哥都率兵二千赴之。

十月、帝は禃と淐の廃立が林衍の仕業であるとして、中憲大夫兵部侍郎の黒的、淄萊路総管府判官の徐世雄を遣わし、禃・淐・衍らに、十二月にともに闕下に参り、面前で実情を述べて是非を聴くよう詔した。また国王の頭輦哥らを遣わして兵を率いて境を圧し、期限を越えて至らなければ、ただちに首悪を窮め治め、兵を進めて討ち滅ぼすこととした。趙璧に命じて東京で中書省の事を行わせ、そのまま高麗国の軍民に詔して諭した。十一月、高麗の都統領の崔坦らが、林衍が乱を起こしたことを名として、西京の五十余城を挈げて附き入った。断事官の別同瓦を駅馬で遣わし、王綧・洪茶丘が管する実科差戸の内から軍を簽して東京に至らせ、枢密院に付したところ、三千三百人を得た。高麗の西京都統の李延齢が兵を増やすことを願ったので、忙哥都を遣わして兵二千を率いて赴かせた。