高麗三 — 林衍・三別抄・耽羅高麗 三
1馬亨の二つの策
樞密院臣議征高麗事。初,馬亨以為「高麗者,本箕子所封之地,漢、晉皆為郡縣。今雖來朝,其心難測。莫若嚴兵假道,以取日本為名,乘勢可襲其國,定為郡縣」。亨又言:「今既有釁端,不宜遣兵伐之。萬一不勝,上損國威,下損士卒。彼或上表言情,宜赦其罪戾,減其貢獻,以安撫其民,庶幾感慕聖化。俟南宋已平,彼有他志,回兵誅之,亦未晚也。」前樞密院經歷馬希驥亦言:「今之高麗,乃古新羅、百濟、高句麗三國併而為一。大抵藩鎮權分則易制,諸侯強盛則難臣。驗彼州城軍民多寡,離而為二,分治其國,使權侔勢等,自相維制,則徐議良圖,亦易為區處耳。」黑的等至其國,禃受詔復位,遣借禮部侍郎朴(杰)〔烋〕從黑的等奉表入朝。十二月,乃親朝京師。
枢密院の臣が高麗を征つ事を議した。はじめ馬亨は、「高麗はもともと箕子が封じられた地で、漢・晋はいずれもこれを郡県とした。いま来朝しているとはいえ、その心は測りがたい。兵を厳しくして道を借り、日本を征つことを名目として、勢いに乗じてその国を襲い、郡県と定めるのに越したことはない」と言った。亨はまた言った。「いますでに争いの端が生じている以上、兵を遣わして討つのはよろしくありません。万一勝てなければ、上は国の威を損ない、下は士卒を失います。彼らがもし表を上げて事情を述べるなら、その罪を赦し、貢ぎ物を減らして、その民を安んじ撫でるべきです。そうすれば、ほぼ聖なる教化を慕うでしょう。南宋が平定されるのを待ち、彼らに他意があれば、兵を返して誅してもなお遅くはありません。」前の枢密院経歴の馬希驥もまた言った。「いまの高麗は、古の新羅・百済・高句麗の三国が併さって一つになったものです。おおよそ藩鎮は権が分かれれば制しやすく、諸侯は強盛であれば臣とするのが難しい。かの州城と軍民の多寡を調べ、離して二つとし、その国を分けて治めさせ、権勢を互いに等しくして自ら牽制し合うようにすれば、ゆっくりと良い計を議するにしても、処置しやすいでしょう。」黒的らがその国に至ると、禃は詔を受けて復位し、借礼部侍郎の朴烋を黒的らに従わせ、表を奉じて入朝させた。十二月、ついに自ら都に朝した。
夾注 1
朴(杰)〔烋〕據本書卷六世祖紀至元六年十一月庚午條及高麗史卷二六元宗世家元宗十年十一月戊辰條改。
「朴(杰)〔烋〕」は、本書巻六の世祖紀至元六年十一月庚午の条および『高麗史』巻二六の元宗世家元宗十年十一月戊辰の条によって改めた。
2討つのは林衍一人だけ
七年正月,遣使言:「比奉詔,臣已復位,令從七百人入覲。」詔令從四百人來,餘留之西京。詔西京內屬,改東寧府,畫慈悲嶺為界,以忙哥都為安撫使,佩虎符,率兵戍其西境。詔諭其國僚屬軍民以討林衍之故,其略曰:「朕即位以來,閔爾國久罹兵亂,冊定爾主,撤還兵戍,十年之間,其所以撫護安全者,靡所不至。不圖逆臣林衍自作弗靖,擅廢易國王禃,脅立安慶公淐,詔令赴闕,復稽延不出,豈可釋而不誅?已遣行省率兵東下,惟林衍一身是討。其安慶公淐本非得已,在所寬宥。自餘脅從詿誤,一無所問。」二月,遣軍送禃就國,詔諭高麗國官吏軍民曰:「朕惟臣之事君,有死無二,不意爾國權臣輒敢擅廢國主。彼既驅率兵眾,將致爾眾危擾不安,以汝黎庶之故,特遣兵護送國王禃還國,奠居舊京,命達魯花赤同往鎮撫,以靖爾邦。惟爾東土之人,不知為汝之故,必生疑懼,爾眾咸當無畏,按堵如故。已別敕將帥,嚴戒兵士勿令侵犯。汝或妄動,汝妻子及汝身當致俘略,宜審思之。」
七年正月、使者を遣わして「先に詔を奉じ、臣はすでに復位しましたので、従者七百人を率いて拝謁いたします」と言った。詔して従者四百人だけを来させ、残りは西京に留めさせた。詔して西京を内属させ、東寧府と改め、慈悲嶺を画して境とし、忙哥都を安撫使とし、虎符を帯びさせて兵を率いてその西の境を守らせた。詔してその国の僚属や軍民に林衍を討つ理由を諭した。その大略に言う。「朕は即位して以来、お前たちの国が長く兵乱にかかっていることを憐れみ、お前たちの主を冊立し、守りの兵を撤して帰し、十年の間、撫で護り安んじるために至らぬところはなかった。思いもよらず逆臣の林衍が自ら不穏なことを行い、ほしいままに国王の禃を廃して替え、安慶公の淐を脅して立て、詔して闕に赴けと命じても、なお引き延ばして出てこない。どうして放っておいて誅さずにおられようか。すでに行省を遣わして兵を率いて東に下らせたが、討つのはただ林衍一人の身だけである。安慶公の淐はもともとやむを得なかったのであるから、寛く赦すべきところであり、そのほか脅されて従い誤って巻き込まれた者は、一人も問わない。」二月、軍を遣わして禃を護送して国に就かせ、詔して高麗国の官吏と軍民に諭して言った。「朕が思うに、臣が君に仕えるには死があるのみで二心はないはずなのに、思いもよらずお前たちの国の権臣が、たちまち敢えてほしいままに国主を廃した。彼らはすでに兵衆を駆り立てており、お前たちを危うく騒がしく不安にさせるであろうから、お前たち民衆のために、特に兵を遣わして国王の禃を護送して帰国させ、旧い都に居を定めさせ、達魯花赤に命じて同行させて鎮め撫でさせ、お前たちの邦を靖んじる。ただお前たち東土の人は、お前たちのためだとは知らず、必ず疑いと恐れを生じるであろうが、お前たちはみな恐れることなく、もとのとおり安んじていよ。すでに別に将帥に勅して、兵士がお前たちを侵さぬよう厳しく戒めた。お前たちがもしみだりに動けば、お前たちの妻子もお前たち自身も捕虜にされ掠められることになろう。よく考えるがよい。」
3林衍の最期と三別抄
初,有旨令頭輦哥行省駐西京,而以忙哥都、趙良弼充安撫使,與禃俱入其京;既而復令行省入其王京,而以脫(脫)朵兒充其國達魯花赤,罷安撫司。四月,東京行尚書省軍近西京,遣徹徹都等同禃之臣鄭子璵等持省劄召高麗國令公林衍。使還,言:「衍已死,子惟茂襲令公位。其國侍郎洪文(係)〔系〕、尚書宋宗禮,殺惟茂及衍婿崔宗(玿)〔紹〕。惟茂弟惟(䄄)〔栶〕自剄。衍黨裴仲孫等復集餘眾,立禃庶族承化侯為王,竄入珍島。」大軍次王京西關城,遣人收繫林衍妻子。行省與禃議遷江華島居民於王京,仍宣詔撫綏之,禃弗從,至入居其舊京,始從行省之議。
はじめ、頭輦哥の行省は西京に駐まらせ、忙哥都と趙良弼を安撫使として禃とともにその王京に入らせよという旨があったが、ほどなくまた行省をその王京に入らせ、脱朵児をその国の達魯花赤として、安撫司を廃した。四月、東京行尚書省の軍が西京に近づくと、徹徹都らを禃の臣の鄭子璵らとともに遣わし、省の劄を持たせて高麗の令公の林衍を召した。使者が帰って言った。「衍はすでに死に、子の惟茂が令公の位を襲いましたが、その国の侍郎の洪文系と尚書の宋宗礼が、惟茂と衍の婿の崔宗紹を殺し、惟茂の弟の惟栶は自ら首を刎ねました。衍の一党の裴仲孫らが再び残った衆を集め、禃の庶族の承化侯を王に立てて、珍島に逃げ込みました。」大軍は王京の西の関城に次し、人を遣わして林衍の妻子を捕らえ繋いだ。行省は禃と、江華島の住民を王京に移すことを議し、そのまま詔を宣べて撫で安んじたが、禃は従わず、旧い都に入り住むに至って、はじめて行省の議に従った。
夾注 5
脫(脫)朵兒見卷七校勘記[三]。
「脱(脱)朵児」は巻七の校勘記[三]に見える。
洪文(係)〔系〕據高麗史卷二六元宗世家元宗十一年五月癸丑條及卷一三0林衍傳改。
「洪文(係)〔系〕」は『高麗史』巻二六の元宗世家元宗十一年五月癸丑の条および巻一三〇の林衍伝によって改めた。
宋宗禮見卷七校勘記[五]。下同。
「宋宗礼」は巻七の校勘記[五]に見える。以下も同じ。
崔宗(玿)〔紹〕據高麗史卷一三0林衍傳及東國通鑑卷三五改。
「崔宗(玿)〔紹〕」は『高麗史』の林衍伝および『東国通鑑』巻三五によって改めた。
惟(裀)〔栶〕據高麗史卷一三0林衍傳及東國通鑑卷三五改。
「惟(裀)〔栶〕」は『高麗史』の林衍伝および『東国通鑑』巻三五によって改めた。
4空になった江華島
六月,禃遣人報有朝廷逃軍與承化侯者以三別抄軍叛。世子愖復言:「叛兵據江華島,宜率軍水陸進擊之。」禃復報叛兵悉遁去。世子愖言:「叛兵劫府庫,燒圖籍,逃入海中。」行省使人覘江華島中百姓皆空,島之東南,相距約四十里,叛兵乘船候風,勢欲遁。於是即命乃顏率眾追擊之。七月,丞相安童等言,頭輦哥等遣大托、忙古䚟來言,令阿海領軍一千五百,屯王京伺察其國中。遂以阿海為安撫使。十一月,中書省臣言於高麗設置屯田經略司。以忻都、史樞為鳳州等處經略使,佩虎符,領軍五千屯田於金州;又令洪茶丘以舊領民二千屯田,阿剌帖木兒為副經略司,總轄之,而罷阿海軍。
六月、禃が人を遣わして、朝廷の逃亡兵が承化侯とともに三別抄軍として叛いたと報せた。世子の愖が重ねて「叛いた兵が江華島に拠っていますから、軍を率いて水陸から進んで撃つべきです」と言った。禃は重ねて、叛兵はみな逃げ去ったと報せた。世子の愖は「叛兵が府庫を劫かし、図籍を焼き、海中に逃げ込みました」と言った。行省が人を遣わして江華島の中を窺わせると、百姓はみな空になっており、島の東南、およそ四十里を隔てたあたりで、叛兵が船に乗って風を待ち、逃げ去ろうとする勢いであった。そこで直ちに乃顔に命じて衆を率いて追撃させた。七月、丞相の安童らが言うには、頭輦哥らが大托・忙古䚟を遣わして来て、阿海に軍一千五百を領させ、王京に屯してその国中を伺い察せよと言った、とのことであった。そこで阿海を安撫使とした。十一月、中書省の臣が、高麗に屯田経略司を設けることを言上した。忻都と史枢を鳳州などの地の経略使とし、虎符を帯びさせて軍五千を領して金州に屯田させ、また洪茶丘には旧く領していた民二千をもって屯田させ、阿剌帖木児を副経略司としてこれを総轄させ、阿海の軍は廃した。
5屯田と催促
閏十一月,世子愖還。有詔諭禃以其陪臣元傅等妄奏頭輦哥國王為頭行省官員數事,及其國私與南宋、日本交通,又往年所言括兵造船至今未有成效,且謂自此以往或先有事南宋,或先有事日本,兵馬、船艦、資糧,早宜措置。是月,又詔禃曰:「嚮嘗遣信使通問日本,不謂執迷固難以善言開諭,此卿所知。將經略於彼,敕有司發卒屯田,為進取之計,庶免爾國他日轉輸之勞。仍遣使持書,先示招懷。卿其悉心盡慮,俾贊方略,期於有成,以稱朕意。」初,林衍之變,百姓驚擾,至是下詔撫慰之。
閏十一月、世子の愖が帰った。詔して禃に、その陪臣の元傅らが頭輦哥国王を頭行省の官員だとみだりに奏したことなど数件と、その国が私かに南宋・日本と交通していること、また先年に言った兵を括り船を造ることが今に至るまで成果のないことを諭し、さらに、これより後は南宋に先に事を起こすにせよ、日本に先に事を起こすにせよ、兵馬・船艦・資糧を早く手配すべきであると言った。この月、また禃に詔して言った。「かつて信使を遣わして日本に音信を通じたが、思いのほか頑なに迷って、善い言葉で諭すことが難しかったのは、卿の知るところである。かの地を経略しようとして、有司に勅して兵を出し屯田させ、進んで取る計としたのは、お前たちの国が後日に運輸の労をすることを免れさせるためでもある。そのまま使者を遣わして書を持たせ、まず招き懐ける意を示す。卿は心と思慮を尽くして方略を助け、成し遂げることを期し、朕の意に適うようにせよ。」はじめ林衍の変のとき、百姓は驚き騒いだので、ここに至って詔を下してこれを撫で慰めた。
6必ず日本に到達させよ
十二月,詔諭禃送使通好日本,曰:「朕惟日本自昔通好中國,實相密邇,故嘗詔卿導達去使,講信修睦,為其疆吏所梗,竟不獲明諭朕心。後以林衍之亂,故不暇及。今既輯寧爾家,遣少中大夫、祕書監趙良弼充國信使,期於必達。仍以忽林赤、王國昌、洪茶丘將兵送抵海上。比國信使還,姑令金州等處屯駐。所需糧餉,卿專委官赴彼,逐近供給,并鳩集金州旁左船艦,於金州需待,無致稽緩匱乏。」
十二月、詔して禃に使者を遣わして日本と通好させた。「朕が思うに、日本は昔から中国と通好しており、実にごく近い。それゆえかつて卿に、行く使者を導いて信を語り睦みを修めさせようとしたが、その国境の役人に阻まれ、ついに朕の心を明らかに諭すことができなかった。後には林衍の乱のために、及ぶ暇がなかった。いますでにお前の家を鎮め安んじたので、少中大夫・秘書監の趙良弼を国信使に任じ、必ず到達することを期する。そのまま忽林赤・王国昌・洪茶丘に兵を率いて海辺まで送り届けさせ、国信使が帰るまでは、ひとまず金州などの地に駐屯させる。必要な兵糧は、卿が官を専任してそこへ赴かせ、近い所から供給させ、あわせて金州の近辺の船艦を集めて金州で待たせ、遅れや欠乏を生じさせぬようにせよ。」
7珍島を平定する
八年正月,禃遣其樞密使金鍊奉表入見,請結婚。安撫使阿海略地珍島,與逆黨遇,多所亡失。中書省臣言諜知珍島餘糧將竭,宜乘弱攻之,詔不許。二月,命忽都答兒持詔諭裴仲孫。三月,仲孫乞諸軍退屯,然後內附,忻都未從其請,有詔諭之。四月,忻都言仲孫稽留詔使,負固不服,乞與虎林赤、王國昌分道進討,從之。以討珍島諭禃。五月,忻都與史樞、洪茶丘大敗珍島賊,獲承化侯斬之,其黨金通精走耽羅。七月,禃遣其上將軍鄭子璵奉表謝平珍島。世子愖率其尚書右丞宋玢、軍器監薛公儉等衣冠胤冑二十八人入侍。八月,忽林赤赴鎮邊合浦縣屯所。九月,禃遣其通事別將徐(稱)〔偁〕導送宣撫趙良弼使日本。帝遣愖還國。十一月,禃遣其同知樞密院事李昌慶奉表謝許婚事。
八年正月、禃がその枢密使の金錬を遣わして表を奉じて拝謁し、婚を結ぶことを請うた。安撫使の阿海が珍島の地を攻めたが、逆党と遭遇して失うところが多かった。中書省の臣が、珍島の残りの糧が尽きようとしていることを諜して知ったので、弱ったところに乗じて攻めるべきだと言上したが、詔して許さなかった。二月、忽都答児に命じて詔を持たせ裴仲孫を諭させた。三月、仲孫は諸軍が退いて屯した後に内附したいと願ったが、忻都がその請いに従わなかったので、詔してこれを諭した。四月、忻都が、仲孫が詔使を留め、険阻を頼みにして服さないので、虎林赤・王国昌と道を分けて進み討つことを願い出たので、これに従った。珍島を討つことを禃に諭した。五月、忻都は史枢・洪茶丘とともに珍島の賊を大いに破り、承化侯を捕らえて斬った。その一党の金通精は耽羅に逃げた。七月、禃がその上将軍の鄭子璵を遣わし、表を奉じて珍島平定を謝した。世子の愖が、その尚書右丞の宋玢、軍器監の薛公倹ら衣冠の子弟二十八人を率いて入侍した。八月、忽林赤が鎮辺の合浦県の屯所に赴いた。九月、禃がその通事別将の徐偁を遣わして宣撫の趙良弼の日本への使行を導き送らせた。帝は愖を帰国させた。十一月、禃がその同知枢密院事の李昌慶を遣わして表を奉じ、婚を許された事を謝した。
夾注 1
徐(稱)〔偁〕據高麗史卷二七元宗世家元宗十三年四月庚寅條、東國通鑑卷三六改。下同。
「徐(称)〔偁〕」は『高麗史』巻二七の元宗世家元宗十三年四月庚寅の条、『東国通鑑』巻三六によって改めた。以下も同じ。
8白琚の使行
九年正月,禃遣其別將白琚偕張鐸等十二人奉表入見。世子愖以其國尚書右丞宋玢、玢父上將軍宗禮討林惟茂狀,言其功于中書省。遣郎中不花、馬璘使高麗,諭以供戰船輸軍糧事。二月,禃致書日本,使通好于朝。六月,遣西京屬城諸達魯花赤及質子金鎰等歸國。
九年正月、禃がその別将の白琚を張鐸ら十二人とともに遣わし、表を奉じて拝謁させた。世子の愖は、その国の尚書右丞の宋玢と、玢の父の上将軍の宗礼が林惟茂を討った次第を中書省に述べ、その功を知らせた。郎中の不花と馬璘を高麗に使いに遣わし、戦船を供し軍糧を運ぶ事について諭した。二月、禃が日本に書を送り、朝廷と通好させようとした。六月、西京の属城の諸達魯花赤および質子の金鎰らを帰国させた。
9耽羅城を攻め落とす
十年正月,禃遣其世子愖入朝。四月,經略使忻都同洪茶丘領兵入海,攻拔耽羅城,禽金通精等,奉詔誅之。六月,禃遣其大將軍金忻表奏攻破濟州。九月,禃屢言:「小國地狹,比歲荒歉,其生券軍乞駐東京。」詔令營北京界,仍敕東京路運米二萬石賑之。達魯花赤焦天翼還朝。
十年正月、禃がその世子の愖を遣わして入朝させた。四月、経略使の忻都が洪茶丘とともに兵を率いて海に入り、耽羅城を攻め落とし、金通精らを捕らえ、詔を奉じてこれを誅した。六月、禃がその大将軍の金忻を遣わし、済州を攻め破ったことを表で奏した。九月、禃がしきりに「小国は地が狭いうえ、ここ数年飢饉が続いていますので、その生券軍は東京に駐屯させていただきたい」と言ったので、詔して北京の境に陣営を構えさせ、そのまま東京路に勅して米二万石を運んで賑わし救わせた。達魯花赤の焦天翼が朝廷に帰った。
10元宗が没し忠烈王が立つ
十一年正月己卯朔,宮闕告成,帝始御正殿,受皇太子諸王百官朝賀。禃遣其少卿李義孫等入賀。三月,遣木速塔八、撒木合持詔使高麗簽軍五千六百人助征日本。五月,皇女忽都魯揭里迷失下嫁于世子愖。七月,其樞密院副使奇蘊奉表告王禃薨,命世子愖襲爵,詔諭高麗國王宗族及大小官員百姓人等,其略曰:「國王王禃存日,屢言世子愖可為繼嗣。今令愖襲爵為王。凡在所屬,並聽節制。」八月,世子愖還至其國襲位。九月,遣其齊安侯王淑上表謝恩。十一月,皇女入京城。愖復遣其判閤門事李信孫等奉表入謝。十二月,以黑的為高麗達魯花赤,李益受代還。
十一年正月己卯の朔、宮闕が落成し、帝ははじめて正殿に出御して、皇太子・諸王・百官の朝賀を受けた。禃はその少卿の李義孫らを遣わして賀させた。三月、木速塔八・撒木合を遣わし、詔して高麗に兵五千六百人を徴して日本征討を助けさせた。五月、皇女の忽都魯掲里迷失が世子の愖に嫁した。七月、その枢密院副使の奇蘊が表を奉じて王禃の薨去を告げたので、世子の愖に爵を襲がせるよう命じ、詔して高麗国王の宗族および大小の官員・百姓らに諭した。その大略に言う。「国王の王禃は存命の日、しきりに世子の愖こそ後嗣とすべきだと言っていた。いま愖に爵を襲がせて王とする。およそ所属する者は、みなその節制に従え。」八月、世子の愖がその国に帰って位を襲いだ。九月、その斉安侯の王淑を遣わして表を上げ、恩を謝した。十一月、皇女が京城に入った。愖は重ねてその判閤門事の李信孫らを遣わし、表を奉じて謝した。十二月、黒的を高麗の達魯花赤とし、李益は交代して帰った。