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秣底補羅国秣底補羅國

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 大唐西域記 · 玄奘 著 · 辯機 編 · 646年(唐・貞観20年) · 段落 6 · 漢字 1,655字 · 朗読 6.6分

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 第4巻 玄奘が十七年のあいだ西域とインドの百三十八か国を踏んで帰り、唐の太宗に奉った記録。西遊記のもとになった書だが、ここにあるのは妖怪ではなく、国ごとの広さと気候と言葉と信仰である。法顕より二百年後、慧超より八十年前の道である。

秣底補羅國周六千餘里。國大都城周二十餘里。宜穀、麥,多花果。氣序和暢,風俗淳質。崇尚學藝,深閑咒術。信邪正者,其徒相半。王,戍陀羅種也,不信佛法,敬事天神。伽藍十餘所,僧徒八百餘人,多學小乘教說一切有部。天祠五十餘所,異道雜居。

秣底補羅国は周囲六千余里である。国の大都城は周囲二十余里である。穀物と麦に適し、花や果実が多い。気候はのどかで、風俗は素朴で質素である。学問と技芸を高く尊び、呪術に深く通じている。邪を信じる者と正を信じる者が、その数は半ばずつである。王は戍陀羅の種族で、仏法を信じず、天神を敬い祀っている。伽藍は十余か所、僧は八百余人で、小乗の教えである説一切有部を学ぶ者が多い。天祠は五十余か所、外道が入りまじって住む。

2瞿拿鉢剌婆論師と慈氏

大城南四五里,至小伽藍,僧徒五十餘人。昔瞿拿缽剌婆論師於此作《辯真》等論,凡百餘部。論師少而英傑,長而弘敏,博物強識,碩學多聞。本習大乘,未窮玄奧,因覽《毗婆沙論》,退業而學小乘,作數十部論,破大乘綱紀,成小乘執著。又制俗書數十餘部,非斥先進所作典論。覃思佛經,十數不決,研精雖久,疑情未除。時有提婆犀那羅漢,往來睹史多天,德光願見慈氏,決疑請益,天軍以神通力,接上天宮。既見慈氏,長揖不禮。天軍謂曰:「慈氏菩薩次紹佛位,何乃自高,敢不致敬?方欲受業,如何不屈?」德光對曰:「尊者此言,誠為指誨。然我具戒苾芻,出家弟子,慈氏菩薩受天福樂,非出家之侶,而欲作禮,恐非所宜。」菩薩知其我慢心固,非聞法器,往來三返,不得決疑。更請天軍,重欲覲禮。天軍惡其我慢,蔑而不對。德光既不遂心,便起恚恨,即趣山林,修發通定,我慢未除,不證道果。

大城の南四、五里行くと小さな伽藍に至り、僧は五十余人である。昔、瞿拿鉢剌婆論師がここで『辯真』などの論を作り、およそ百余部に及んだ。論師は幼くして英傑であり、長じては広く機敏で、物を博く知り記憶が強く、学は大きく聞くことも多かった。もともと大乗を修めていたが奥深いところをきわめず、『毗婆沙論』を読んだことから、それまでの業を退いて小乗を学び、数十部の論を作って大乗の綱紀を破り、小乗の執着を成した。また世俗の書を数十余部作って、先人の作った典籍や論を誤りとして斥けた。仏の経を深く思ったが十数のことが決せられず、精しく研めて久しくなっても疑いの情が消えなかった。そのとき提婆犀那羅漢が睹史多天を往き来していたので、徳光は慈氏に会って疑いを決し教えを請いたいと願った。天軍は神通の力でもって天宮に連れ上った。慈氏に会うと、長く揖をしたが礼はしなかった。天軍は言った。「慈氏菩薩は次に仏の位を継がれる方である。どうしてみずから高ぶり、あえて敬いを致さないのか。まさに学業を受けようとしながら、どうして屈しないのか。」徳光は答えた。「尊者のこのお言葉は、まことに教え示しです。しかし私は戒を具えた苾芻、家を出た弟子です。慈氏菩薩は天の福楽を受ける方で、家を出た者の仲間ではないのに礼をしようとするのは、適切でないのではないかと恐れます。」菩薩はその我慢の心が固く、法を聞く器でないことを知られたので、三たび往き来したが疑いを決することができなかった。さらに天軍に請うて重ねて拝しようとしたが、天軍はその我慢を憎んで、さげすんで答えなかった。徳光は心が遂げられないと、たちまち怒りと恨みを起こし、ただちに山林に赴いて神通を発する定を修めたが、我慢を除くことができず、道の果を証することはなかった。

夾注 2

唐言德光。

唐の言葉で徳光という。

唐言天軍。

唐の言葉で天軍という。

3衆賢論師と世親

德光伽藍北三四里,有大伽藍,僧徒二百餘人,並學小乘法教,是眾賢論師壽終之處。論師迦濕彌羅國人也,聰敏博達,幼傳雅譽,特深研究說一切有部《毗婆沙論》。時有世親菩薩,一心玄道,求解言外,破毗婆沙師所執,作《阿毗達磨俱舍論》,辭義善巧,理致精高。眾賢循覽,遂有心焉。於是沈研鉆極十有二歲,作《俱舍雹論》二萬五千頌,凡八十萬言矣。所謂言深致遠,窮幽洞微。告門人曰:「以我逸才,持我正論,逐斥世親,挫其鋒銳,無令老叟獨擅先名。」於是學徒四三俊彥,持所作論,推訪世親。世親是時在磔迦國奢羯羅城,遠傳聲問眾賢當至。世親聞已,即治行裝。門人懷疑,前進諫曰:「大師德高先哲,名擅當時,遠近學徒莫不推謝。今聞眾賢,一何惶遽?必有所下,我曹厚顏。」世親曰:「吾今遠遊,非避此子。顧此國中,無復鑒達。眾賢後進也,詭辯若流,我衰耄矣,莫能持論。欲以一言頹其異執,引至中印度,對諸耄彥,察乎真偽,詳乎得失。」尋即命侶,負笈遠遊。眾賢論師當後一日至此伽藍,忽覺氣衰,於是裁書謝世親曰:「如來寂滅,弟子部執,傳其宗學,各擅專門,黨同道,疾異部。愚以寡昧,猥承傳習,覽所制《阿毗達磨俱舍論》,破毗婆沙師大義,輒不量力,深究彌年,作為此論,扶正宗學。智小謀大,死其將至。菩薩宣暢微言,抑揚至理,不毀所執,得存遺文,斯為幸矣,死何悔哉?」於是歷選門人有辭辯者而告之曰:「吾誠後學,輕淩先達,命也如何?當從斯沒!汝持是書及所制論,謝彼菩薩,代我悔過。」授辭適畢,奄爾云亡。門人奉書至世親所而致辭曰:「我師眾賢已舍壽命,遺言致書,責躬謝咎。不墜其名,非所敢望。」世親菩薩覽書閱論,沈吟久之,謂門人曰:「眾賢論師聰敏後進,理雖不足,辭乃有餘。我今欲破眾賢之論,若指諸掌。顧以垂終之托,重其知難之辭,茍緣大義,存其宿志,況乎此論發明我宗?」遂為改題為《順正理論》。門人諫曰:「眾賢未沒,大師遠跡,既得其論,又為改題,凡厥學徒,何顏受愧?」世親菩薩欲除眾疑,而說頌曰:「如師子王,避豕遠逝,二力勝負,智者應知。」眾賢死已,焚屍收骨,於伽藍西北二百餘步庵沒羅林中,起窣堵波,今猶現在。

徳光の伽藍の北三、四里に大きな伽藍があり、僧は二百余人で、みな小乗の法と教えを学んでいる。これは衆賢論師が命を終えた所である。論師は迦湿弥羅国の人で、聡く敏く広く通じ、幼いころから雅な誉れが伝わっており、とりわけ説一切有部の『毗婆沙論』を深く研究した。そのとき世親菩薩が一心に玄き道を求め、言葉の外の解を求めて、毗婆沙師たちの執するところを破り、『阿毗達磨俱舎論』を作った。その辞と義は巧みで、理の筋は精しく高かった。衆賢はこれを読みめぐらして、ついに思うところがあった。そこで十二年のあいだ深く研め極め、『俱舎雹論』二万五千頌を作り、およそ八十万言に及んだ。いわゆる言は深く意は遠く、幽きをきわめ微かなところを見通したものである。門人に告げた。「私の優れた才で私の正しい論を持ち、世親を追い斥けてその鋭さをくじき、あの老人に独りで先の名をほしいままにさせはしない。」そこで学ぶ者のうち三、四人の俊才が、作った論を持って世親を訪ねた。世親はこのとき磔迦国の奢羯羅城にいたが、衆賢が来ると遠くから聞こえてきた。世親はそれを聞くと、ただちに旅の支度をした。門人は疑いを抱き、進み出て諫めた。「大師は徳が先の哲人より高く、名は当代に独り高く、遠近の学ぶ者はみな譲り退いております。いま衆賢のことを聞かれて、どうしてそんなに慌てられるのですか。必ず下に出られるというのなら、私たちは面の皮が厚いことになります。」世親は言った。「私がいま遠く行くのは、この者を避けるのではない。ただこの国の中には、もはや見きわめ通じた者がいない。衆賢は後進だが、詭弁は水の流れるようであり、私は老い衰えて論を持ちこたえられない。一言でその異なる執を崩そうと思い、中インドに引き入れて、もろもろの老いた賢者の前で真偽を察し、得失を詳らかにしようとするのだ。」そしてただちに連れを呼び、書箱を負って遠く旅立った。衆賢論師は一日後にこの伽藍に至ったが、ふいに気の衰えるのを覚えた。そこで書を作って世親に謝して言った。「如来が寂滅に入られて以来、弟子たちは部を分けて執し、その宗の学を伝えておのおの専門をほしいままにし、同じ道を党とし、異なる部を憎んでおります。愚かで見識の浅い身で、おそれながら伝え習うところを承け、作られた『阿毗達磨俱舎論』が毗婆沙師の大義を破るのを見て、つい力を量らず、年を重ねて深く究め、この論を作って正しい宗の学を扶けました。智は小さく謀は大きく、死が今まさに至ろうとしています。菩薩が微かな言葉を宣べ述べ、至極の理を論じ分けられるにあたって、執されるところを毀たず、遺された文を存してくださるなら、それが幸いであって、死んで何を悔いましょうか。」そこで門人のうち言葉巧みな者を選んで告げた。「私はまことに後に学ぶ者として、先に達した者を軽んじ侮った。運命をどうしよう。ここで死ぬことになる。お前はこの書と作った論を持って、あの菩薩に謝し、私に代わって過ちを悔いてくれ。」言葉を授け終えると、ふいに亡くなった。門人は書を奉じて世親のもとに至り、言葉を申し上げた。「わが師の衆賢はすでに寿命を捨て、遺言として書を送り、みずからを責め咎を謝しました。その名を落とさないことは、あえて望むところではありません。」世親菩薩は書を見て論を読み、長く黙って考えたのち、門人に言った。「衆賢論師は聡く敏い後進で、理は足りないが、辞には余りがある。私がいま衆賢の論を破ろうとするのは、掌を指すように易しい。だが、死に臨んでの託を顧み、難しさを知ったその言葉を重んじ、かりにも大義に縁って、その久しい志を存そう。ましてこの論は私の宗を明らかにしているではないか。」そしてその題を改めて『順正理論』とした。門人は諫めた。「衆賢がまだ死んでいなかったとき、大師は遠く跡を移されました。いまその論を得て、また題を改めてやられるのでは、すべての学ぶ者はどんな顔で恥を受ければよいのでしょうか。」世親菩薩は人々の疑いを除こうとして、頌を説いた。「師子の王が、猪を避けて遠く去るようなもの。二つの力の勝ち負けは、智ある者が知るはずだ。」衆賢が死んだのち、屍を焼いて骨を収め、伽藍の西北二百余歩の庵没羅の林の中に窣堵波を建てた。いまもなお残っている。

4毗末羅蜜多羅論師

庵沒羅林側有窣堵波,毗末羅蜜多羅論師之遺身。論師,迦濕彌羅國人也,於說一切有部而出家焉。博綜眾經,研究異論,遊五印度國,學三藏玄文,名立業成,將歸本國。途次眾賢論師窣堵波也,拊而嘆曰:「惟論師雅量清高,抑揚大義,方欲挫異部,立本宗業也,如何降年不永!我無垢友猥承末學,異時慕義,曠代懷德。世親雖沒,宗學尚傳,我盡所知,當制諸論,令贍部洲諸學人等絕大乘稱,滅世親名,斯為不朽,用盡宿心。」說是語已,心發狂亂,五舌重出,熱血流湧。知命必終,裁書悔曰:「夫大乘教者,佛法之中究竟說也。名味泯絕,理致幽玄。輕以愚昧,駁斥先進,業報皎然,滅身宜矣。敢告學人,厥鑒斯在,各慎爾志,無得懷疑。」大地為震,命遂終焉。當其死處,地陷為坑。同旅焚屍,收骸旌建。時有羅漢見而嘆曰:「惜哉!苦哉!今此論師任情執見,毀惡大乘,墮無間獄。」

庵没羅の林のかたわらに窣堵波があり、毗末羅蜜多羅論師の遺身である。論師は迦湿弥羅国の人で、説一切有部において家を出た。もろもろの経を博く綜べ、異なる論を研究し、五インドの国を巡って三蔵の玄き文を学んだ。名が立ち業が成って、本国に帰ろうとした。その途中、衆賢論師の窣堵波に至り、それを撫でて嘆いた。「思うに論師は雅な度量が清く高く、大義を論じ分けて、まさに異なる部をくじき、もとの宗の業を立てようとされたのに、どうして天から下された年が長くなかったのか。私、無垢友はおそれながら末の学を承け、別の時にその義を慕い、遠い代にその徳を懐いてきた。世親は死んだとはいえ、その宗の学はなお伝わっている。私は知るところを尽くしてもろもろの論を作り、贍部洲の学ぶ者たちに大乗という称を絶たせ、世親の名を滅ぼそう。これこそ朽ちない業であり、久しい思いを尽くすことである。」この言葉を説き終えると、心が狂い乱れ、五つの舌が重なって出て、熱い血が湧き流れた。命が必ず終わると知って、書を作って悔いて言った。「そもそも大乗の教えは、仏法の中でも究極を説いたものである。名も味も消え絶え、理の筋は幽く玄い。愚かで暗いまま軽々しく先人を論駁し斥けたのだから、業の報いは明らかで、身が滅ぶのも当然である。あえて学ぶ者に告げる。その鑑はここにある。おのおの汝らの志を慎み、疑いを抱いてはならない。」大地は震え、命はついに終わった。その死んだ所は、地が陥って穴となった。同行の者たちは屍を焼き、骸を収めて表を建てた。そのとき羅漢が見て嘆いた。「惜しいことだ、苦しいことだ。いまこの論師は情にまかせて見を執し、大乗を毀り憎んだので、無間の獄に落ちた。」

夾注 1

唐言無垢友。

唐の言葉で無垢友という。

5摩裕羅城と殑伽河の門

國西北境殑伽河東岸有摩裕羅城,周二十餘里,居人殷盛。清流交帶,出鍮石、水精、寶器。去城不遠,臨殑伽河,有大天祠,甚多靈異。其中有池,編石為岸,引殑伽水為浦,五印度人謂之殑伽河門,生福滅罪之所。常有遠方數千人,集此澡濯。樂善諸王建立福舍,備珍羞,儲醫藥,惠施鰥寡,周給孤獨。

国の西北の境、殑伽河の東岸に摩裕羅城があり、周囲は二十余里で、住む人は多く盛んである。清い流れがめぐり交わり、鍮石・水晶・宝の器を産する。城から遠くない、殑伽河に臨む所に大きな天祠があり、霊異がはなはだ多い。その中に池があって、石を編んで岸とし、殑伽の水を引いて入江としている。五インドの人はこれを殑伽河の門といい、福を生じ罪を滅ぼす所とする。つねに遠方から数千人がここに集まって身を洗う。善を楽しむもろもろの王が福を施す舎を建て、珍しい食べ物を備え、薬を蓄えて、夫を失った者や妻を失った者に恵み施し、孤り身の者にあまねく与えている。

從此北行三百餘里,至婆羅吸摩補羅國。

ここから北へ三百余里行くと、婆羅吸摩補羅国に至る。

夾注 1

北印度境。

北インドの境である。