摩揭陀国(下)摩揭陁國(下)
1盲の母を養った象
菩提樹東渡尼連禪那河,大林中有窣堵波。其北有池,香象侍母處也。如來在昔修菩薩行,為香象子,居北山中,遊此池側。其母盲也,采藕根,汲清水,恭行孝養,與時推移。屬有一人,遊林迷路,仿徨往來,悲號慟哭。象子聞而湣焉,導之以示歸路。是人既還,遂白王曰:「我知香象遊舍林藪,此奇貨也,可往捕之。」王納其言,興兵往狩,是人前導,指象示王,即時兩臂墮落,若有斬截者。其王雖驚此異,仍縛象子以歸。象子既已維縶多時,而不食水草,典廄者以聞,王遂親問之。象子曰:「我母盲冥,累日饑餓,今見幽厄,詎能甘食?」王湣其情也,故遂放之。
菩提樹の東から尼連禪那河を渡り、大きな林の中に窣堵波がある。その北に池があり、香象が母に侍ったところである。如来は昔、菩薩の行を修められたとき、香象の子となって北の山の中に居り、この池のかたわらに遊ばれた。その母は盲であったので、蓮の根を采り、清い水を汲んで、恭しく孝の養いを行い、時とともに移っていった。たまたま一人の人が、林に遊んで路に迷い、彷徨い往き来して、悲しみ号いて慟き哭いた。象の子は聞いて憫れみ、導いて帰る路を示してやった。この人は帰ってから、ついに王に申し上げて言った。「私は香象が遊び住む林藪を知っております。これは珍しい貨です。行って捕らえるべきです。」王はその言葉を納れ、兵を興して狩りに行き、この人が前を導いた。象を指して王に示すと、すぐにその両の腕が堕ち落ちた。斬り截った者があるかのようであった。その王はこの異事に驚きながらも、そのまま象の子を縛って帰った。象の子はもう繋がれて久しいのに、水も草も食べなかったので、廏を司る者がそれを申し上げ、王はついに自ら問うた。象の子が言った。「私の母は盲いて冥く、幾日も饑え餓えております。今、幽い厄にあって、どうして甘んじて食べられましょうか。」王はその情を憫れんで、それでついに放してやった。
2迦葉波仏が座られたところ
其側窣堵波前建石柱,是昔迦葉波佛於此宴坐。其側有過去四佛座及經行遺跡之所。
そのかたわらの窣堵波の前に石柱を建ててあり、これは昔、迦葉波仏がここで宴かに座られたところである。そのかたわらには、過去の四仏が座り、また経行された跡の残るところがある。
3郁頭藍子が悪い願を発したところ
四佛座東渡莫訶河,至大林中,有石柱,是外道入定及發惡願處。昔有外道郁頭藍子者,志逸煙霞,身遺草澤,於此法林棲神匿跡。既具五神通,得第一有定。摩揭陁王特深宗敬,每至中時,請就宮食。郁頭藍子淩虛履空,往來無替。摩揭陁王候時瞻望,亦既至已,捧接置座。王將出遊,欲委留事,簡擢中宮,無堪承命。有少息女,淑慎令儀,既親且賢,無出其右。摩揭陁王召而命曰:「吾方遠遊,將有所委,爾宜悉心,慎終其事。彼郁頭藍仙,宿所宗敬,時至來飯,如我所奉。」敕誡既已,便即巡覽。少女承旨,瞻候如儀,大仙至已,捧而置座。郁頭藍子既觸女人,起欲界染,退失神通,飯訖言歸,不得虛遊。心中愧恥,詭謂女曰:「我比修道業,入定怡神,淩虛往來,略無暇景,國人願睹,聞之久矣。然先達垂訓,利物為務,豈守獨善,忘其兼濟?今欲從門而出,履地而往,使夫睹見之徒,咸蒙福利。」王女聞已,宣告遠近,是時人以馳競,灑掃衢路,百千萬眾,佇望來儀。郁頭藍子步自王宮,至彼法林。宴坐入定,心馳外境,棲林則烏鳥嚶囀,臨池乃魚鱉喧聲,情散心亂,失神廢定。乃生忿恚,即發惡願:「願我當來為暴惡獸,貍身鳥翼,搏食生類,身廣三千里,兩翅各廣千五百里,投林啖諸羽屬,入流食彼水生。」發願既已,忿心漸息,勤求頃之,復得本定。不久命終,生第一有天,壽八萬劫。如來記之,天壽畢已,當果昔願,得此弊身,從是流轉惡道,未期出離。
四仏の座の東から莫訶河を渡って大きな林の中に至ると石柱があり、これは外道が定に入り、また悪い願を発したところである。昔、外道の郁頭藍子という者がいて、志は煙と霞の外に逸れ、身を草と沢に遺して、この法の林で神を棲ませ跡を匿していた。すでに五つの神通を具え、第一有の定を得ていた。摩揭陀王はとりわけ深く宗と敬って、昼になるたび、宮に請いて食を供した。郁頭藍子は虚を凌ぎ空を履んで、往き来に替わりがなかった。摩揭陀王は時を候って瞻み望み、至れば捧け接けて座に置いた。王が遊びに出ようとして、留めておく事を委ねようと、中宮を簡び擢んだが、命を承けるに堪える者がなかった。年少の息女がいて、淑やかに慎み、儀が令しく、親しくもあり賢くもあって、その右に出る者がなかった。摩揭陀王は召して命じて言った。「私はこれから遠くに遊び、委ねる事がある。おまえは心を悉くして、その事を慎んで終わらせよ。あの郁頭藍の仙は、昔から宗と敬ってきた者だ。時が至って来て飯するときは、私が奉ったとおりにせよ。」敕め戒め終えて、すぐに巡り覧に出た。年少の娘は旨を承け、儀のとおりに瞻み候い、大仙が至ると、捧けて座に置いた。郁頭藍子はすでに女人に触れて、欲界の染めが起こり、神通を失い退いて、飯し終えて帰ろうとしたが、虚を遊くことができなかった。心中に慚じ恥じて、娘を詭いて言った。「私はこのところ道の業を修め、定に入って神を怡ばせ、虚を凌いで往き来し、ほとんど暇な景もなかった。国の人が見たいと願っていると聞いてから久しい。しかし先に達した者が訓えを垂れて、物を利することを務めとせよと言った。どうして独り善きを守って、兼ねて済うことを忘れようか。今、門から出て、地を履んで往き、見る徒がみな福と利を蒙るようにしたいのだ。」王の娘は聞いて、遠近に宣べ告げたので、このとき人々は馳せ競って、衢と路を洒ぎ掃き、百千万の衆が、おいでを佇み望んだ。郁頭藍子は王宮から歩いて、あの法の林に至った。宴かに座って定に入ろうとしたが、心は外の境に馳せ、林に棲めば烏と鳥が嚶き囀り、池に臨めば魚と鱉が喧しく声を立て、情は散り心は乱れて、神を失い定を廃した。そこで忿りと恚りが生じ、すぐに悪い願を発した。「願わくは私が来たる世に暴く悪しい獣となり、貍の身に鳥の翼で、生きた類を搏り食い、身の広さは三千里、両の翅はそれぞれ広さ千五百里となって、林に投じて諸々の羽ある属を啖み、流れに入ってあの水に生きるものを食らおう。」願を発し終えると、忿る心はしだいに息み、勤め求めてしばらくすると、ふたたびもとの定を得た。久しからずして命を終え、第一有の天に生まれ、寿は八万劫であった。如来はこれを記して言われた。「天の寿が畢われば、まさに昔の願を果として、この弊しい身を得、これより悪しい道に流れ転じて、出で離れる期がない。」
4鷄足山 — 大迦葉波が袈裟を持って入ったところ
莫訶河東入大林野,行百餘里,至屈屈咤播陁山,亦謂窶盧播陀山。高巒峭無極,深壑洞無涯,山麓谿澗,喬林羅谷,崗岑嶺嶂,繁草被巖,峻起三峰,傍挺絕崿,氣將天接,形與雲同。其後尊者大迦葉波居中寂滅,不敢指言,故云尊足。摩訶迦葉波者,聲聞弟子也,得六神通,具八解脫。如來化緣斯畢,垂將涅槃,告迦葉波曰:「我於曠劫勤修苦行,為諸眾生求無上法,昔所願期,今已果滿。我今將欲入大涅槃,以諸法藏囑累於汝,住持宣布,勿有失墜。姨母所獻金鏤袈裟,慈氏成佛,留以傳付。我遺法中諸修行者,若比丘、比丘尼、鄔波索迦、鄔波斯迦,皆先濟渡,令離流轉。」迦葉承旨,住持正法。結集既已,至第二十年,厭世無常,將入寂滅,乃往雞足山。山陰而上,屈盤取路,至西南崗。山峰險阻,崖徑槃薄,乃以錫扣,剖之如割。山徑既開,逐路而進,槃紆曲折,回互斜通,至於山頂,東北面出。既入三峰之中,捧佛袈裟而立,以願力故,三峰斂覆,故今此山三脊隆起。當來慈氏世尊之興世也,三會說法之後,餘有無量憍慢眾生,將登此山,至迦葉所,慈氏彈指,山峰自開。彼諸眾生既見迦葉,更增憍慢。時大迦葉授衣致辭,禮敬已畢,身升虛空,示諸神變,化火焚身,遂入寂滅。時眾瞻仰,憍慢心除,因而感悟,皆證聖果。故今山上建窣堵波,靜夜遠望,或見明炬。及有登山,遂無所睹。
莫訶河の東から大きな林と野に入り、百余里行くと屈屈咤播陀山に至る。窶盧播陀山ともいう。高い巒は峭しくて極まりなく、深い壑は洞いて涯がない。山の麓の谿と澗には、喬い林が谷に羅なり、崗と岑、嶺と嶂には、繁った草が巌を被っている。三つの峰が峻しく起ち、かたわらに絶えた崿が挺んでいて、気は天に接しようとし、形は雲と同じである。その後、尊者大迦葉波がその中で寂滅されたので、あえて指して言わず、それで尊足というのである。摩訶迦葉波は、声聞の弟子で、六つの神通を得、八つの解脱を具えていた。如来が化の縁をここに畢えられ、まさに涅槃されようとして、迦葉波に告げて言われた。「私は曠かな劫にわたって勤めて苦行を修め、諸々の衆生のために無上の法を求めた。昔願い期したことは、今すでに果たし満ちた。私は今まさに大涅槃に入ろうとして、諸々の法の蔵をおまえに囑み累ねる。住して持ち、宣べ布いて、失い墜とすことがないようにせよ。姨母が献じた金の鏤の袈裟は、慈氏が仏を成られたとき、留めて伝え付けよ。私が遺した法の中の諸々の修行する者、すなわち比丘、比丘尼、鄔波索迦、鄔波斯迦を、みな先に済い渡して、流れ転ずることから離れさせよ。」迦葉は旨を承け、正しい法を住し持った。結集を終えてから二十年目に至って、世の無常を厭い、まさに寂滅に入ろうとして、そこで鷄足山に往った。山の陰から上り、屈り盤って路を取り、西南の崗に至った。山の峰は険しく阻み、崖の径は盤り薄まっていたので、そこで錫杖で扣くと、割くように剖れた。山の径が開くと、路を逐って進み、盤り紆り曲り折れ、回り互いに斜めに通って、山の頂に至り、東北の面に出た。三つの峰の中に入って、仏の袈裟を捧げて立つと、願の力によって、三つの峰が斂まって覆った。だから今、この山は三つの脊が隆く起っている。来たる世に慈氏世尊が世に興られるとき、三たびの会で法を説かれた後にも、なお無量の憍り慢る衆生が残って、まさにこの山に登り、迦葉のところに至るであろう。慈氏が指を弾けば、山の峰は自ずから開く。あの諸々の衆生は迦葉を見て、いよいよ憍りと慢りを増す。そのとき大迦葉は衣を授け辞を致して、礼し敬い終えると、身を虚空に升らせ、諸々の神しい変化を示し、火に化して身を焚き、ついに寂滅に入る。そのとき衆は瞻み仰いで、憍り慢る心が除かれ、それによって感じ悟って、みな聖なる果を証する。だから今、山の上に窣堵波を建ててあり、静かな夜に遠くから望むと、明るい炬が見えることがある。山に登ると、ついに見えるものはない。
夾注 5
居勿反。
居と勿の反切で読む。
唐言雞足。
唐の言葉では鷄足である。
唐言尊足山。
唐の言葉では尊足山である。
唐言近事男。舊曰伊蒱塞,又曰優婆塞,皆訛化。
唐の言葉では近事男である。旧くは伊蒱塞といい、また優婆塞といったが、どちらも誤りである。
唐言近事女。舊曰優婆斯,又曰優婆夷,皆訛也。
唐の言葉では近事女である。旧くは優婆斯といい、また優婆夷といったが、どちらも誤りである。
5佛陀伐那山
雞足山東北行百餘里,至佛陀伐那山。峰崖崇峻,巘崿隱嶙。巖間石寶,佛嘗降止。傍有般石,帝釋、梵天摩牛頭栴檀塗飾如來,今其石上餘香郁烈。五百羅漢潛靈於此,諸有感遇,或得睹見,時作沙彌之形,入裏乞食。或隱或顯,靈奇之跡,差難以述。
鷄足山から東北へ百余里行くと佛陀伐那山に至る。峰と崖は崇く峻しく、巘と崿は隱み嶙んでいる。巌の間の石室に、仏がかつて降りて止まられた。かたわらに盤石があり、帝釈と梵天が牛頭栴檀を摩り、如来に塗って飾ったところなので、今もその石の上に残った香りが郁しく烈しい。五百人の羅漢がここに霊を潜めていて、感じ遇う者があれば見ることができることもあり、ときに沙弥の形をして、里に入って食を乞う。あるときは隱れあるときは顕れる、霊妙で奇しい跡は、まちまちで述べ難い。
夾注 1
底本には石寶とあるが、下の場所に出てくる石室と同じ岩の洞であるから「石室」と改めて読んだ。― 訳者
6杖林 — 杖を投げた婆羅門
佛陀伐那山空谷中東行三十餘里,至泄瑟知林。林竹修勁,被山彌谷。其先有婆羅門,聞釋迦佛身長丈六,常懷疑惑,未之信也,乃以丈六竹杖,欲量佛身。恒於杖端出過丈六,如是增高,莫能窮實,遂投杖而去,因植根焉。中有大窣堵波,無憂王之所建也。如來在昔,於此七日為諸天人現大神通,說深妙法。
佛陀伐那山の空ろな谷の中を東へ三十余里行くと泄瑟知の林に至る。林の竹は修く勁く、山を被い谷に満ちている。それより先、ある婆羅門が、釈迦仏の身の長さが一丈六尺あると聞いて、つねに疑いと惑いを懐いて信じなかったので、そこで一丈六尺の竹の杖で、仏の身を量ろうとした。いつも杖の端から一丈六尺を過ぎて出てしまい、このようにいよいよ高くなって、その実を窮めることができなかったので、ついに杖を投げて去ったが、それによって根が植いた。その中に大きな窣堵波があり、無憂王が建てたものである。如来は昔、ここで七日の間、諸天と人々のために大きな神通を現し、深く妙なる法を説かれた。
夾注 2
移結反。
移と結の反切で読む。
唐言杖林。
唐の言葉では杖林である。
7勝軍居士 — 百歳まで塔を作った人
杖林中近有鄔波索迦阇耶犀那者,西印度剎帝利種也,志尚夷簡,情悅出林,跡居幻境,心遊真際,內外典籍,窮究幽微,辭論清高,儀範閑雅。諸沙門、婆羅門、外道異學、國王、大臣、長者、豪右,相趣通謁,伏膺請益。受業門人,十室而六。年漸七十,耽讀不倦,餘藝捐廢,惟習佛經,策勵身心,不舍晝夜。印度之法,香末為泥,作小窣堵波,高五六寸,書寫經文,以置其中,謂之法舍利也。數漸盈積,建大窣堵波,總聚於內,常修供養。故勝軍之為業也,口則宣說妙法,導誘學人,手乃作窣堵波,式崇勝福,夜又經行禮誦,宴坐思惟,寢食不遑,晝夜無怠。年百歲矣,志業不衰。三十年間,凡作七拘胝法舍利窣堵波。每滿一拘胝,建大窣堵波,而總置中,盛修供養,請諸僧眾,法會稱慶。其時神光燭曜,靈異昭彰。自茲厥後,時放光明。
杖林の中に、近ごろ鄔波索迦の阇耶犀那という者がいて、西インドの剎帝利の種である。志は夷らかで簡やかなことを尚び、情は林に出ることを悦んで、跡は幻の境に居ながら、心は真の際に遊んでいた。内と外の典籍について、幽かで微かなところまで窮め究め、辞と論は清く高く、儀と範は閑やかで雅やかであった。諸々の沙門、婆羅門、外道の異なる学ぶ者、国王、大臣、長者、豪族が、互いに趣いて謁み、膺を伏せて益を請うた。業を受けた門人は、十戸のうち六戸であった。年がしだいに七十になっても、読むことに耽って倦まず、ほかの技は捐て廃して、ただ仏の経だけを習い、身と心を策め励まして、昼も夜も捨てなかった。インドの法では、香の末を泥として、小さな窣堵波を作り、高さは五、六寸、経の文を書き写して、その中に置く。これを法舎利という。数がしだいに盈ち積もると、大きな窣堵波を建てて、すべてを内に聚め、つねに供養を修める。だから勝軍の業としたことは、口では妙なる法を宣べ説いて学ぶ者を導き誘い、手では窣堵波を作って、法式どおりに勝れた福を崇めることであった。夜にはまた経行して礼し誦し、宴かに座って思惟し、寝ることも食うことも遑なく、昼夜に怠りがなかった。年は百になったが、志と業は衰えなかった。三十年の間に、およそ七拘胝の法舎利の窣堵波を作った。一拘胝が満ちるたびに、大きな窣堵波を建てて、すべてを中に置き、盛んに供養を修め、諸々の僧衆を請いて、法会を開き慶びを称えた。そのときには神しい光が燭し曜き、霊妙な異事が昭らかに彰れた。これより後、時に明るい光を放つ。
夾注 2
唐言勝軍。
唐の言葉では勝軍である。
唐言億。
唐の言葉では億である。
8二つの温泉
杖林西南十餘里,大山陽有二溫泉,其水甚熱。在昔如來化出此水,於中浴焉。今者尚存,清流無減,遠近之人,皆來就浴,沈痾宿疹,多有除差。其傍則有窣堵波,如來經行之處也。
杖林の西南十余里、大きな山の南に二つの温泉があり、その水はひどく熱い。昔、如来がこの水を化し出して、その中で浴まれた。今もなお残って、清い流れが減ることがないので、遠近の人はみな来て浴む。沈んだ痾いや宿りついた疹いが、除き癒ることが多い。そのかたわらには窣堵波があり、如来が経行されたところである。
9頻毗娑羅王が築いた石の階
杖林東南行六七里,至大山,橫嶺之前有石窣堵波。昔如來雨三月為諸人天於此說法,時頻毗娑羅王欲來聽法,乃疏山積石,壘階以進,廣二十餘步,長三四里。
杖林の東南へ六、七里行くと大きな山に至り、横に伸びた嶺の前に石の窣堵波がある。昔、如来が雨の三ヶ月の間、諸々の人と天のためにここで法を説かれたとき、頻毗娑羅王が来て法を聴こうとして、そこで山を疏き石を積み、階を壘ねて進んだ。広さは二十余歩、長さは三、四里である。
夾注 1
底本はこの場所を頻毗娑羅、下の一箇所を頻毗婆羅と記して分かれているが、マガダの一人の王であるから「頻毗娑羅」に合わせた。― 訳者
10広博仙人の石室
大山北三四里,有孤山,昔廣博仙人棲隱於此,鑿崖為室,餘趾尚存。傳教門人,遺風猶扇。
大きな山の北三、四里に孤山があり、昔、広博仙人がここに棲み隱れて、崖を鑿って室とした。残った趾はなお存っている。教えを伝えた門人の遺した風が、今もなお扇いでいる。
11千人が座る石室
孤山東北四五里,有小孤山,山壁石室廣袤可坐千餘人矣。如來在昔於此三月說法。石室上有大磐石,帝釋、梵天磨牛頭旃檀塗飾佛身,石上餘香,於今郁烈。
孤山の東北四、五里に小さな孤山があり、山の壁の石室は、広さと長さが千余人は座れるほどである。如来は昔、ここで三ヶ月の間法を説かれた。石室の上に大きな盤石があり、帝釈と梵天が牛頭旃檀を摩って仏の身に塗って飾ったところなので、石の上に残った香りが、今も郁しく烈しい。
12阿素洛の宮に入った十四人
石室西南隅有巖岫,印度謂之阿素洛宮也。往有好事者,深閑咒術,顧儔命侶,十有四人,約契同志,入此巖岫。行三四十里,廓然大明,乃見城邑臺觀,皆是金銀琉璃。是人至已,有諸少女佇立門側,歡喜迎接,甚加禮遇。於是漸進至內城門,有二婢使各捧金盤,盛滿花香,而來迎候。謂諸人曰:「宜就池浴,塗冠香花,已而後入,斯為美矣。唯彼術士,宜時速進。」餘十三人遂即沐浴,即入池已,恍若有忘,乃坐稻田中,去此之北平川中,已三四十里矣。
石室の西南の隅に巌の洞があり、インドではこれを阿素洛の宮という。昔、物好きな者がいて、咒いの術に深く慣れていたが、仲間を顧み連れを召して、十四人が志を同じくすることを約し契って、この巌の洞に入った。三、四十里行くと、廓として大いに明るく、そこで城と邑、台と観が見えたが、みな金と銀と琉璃であった。この人たちが至ると、幾人かの若い女が門のかたわらに佇み立っていて、歓び喜んで迎え接け、ひどく礼を加えて遇した。そして次々に進んで内の城門に至ると、二人の婢の使いがそれぞれ金の盤を捧げ、花と香を満たし盛って、迎え候いに来た。人々に言った。「池に就いて浴み、香と花を塗り冠ってから入られるのが、よいことです。ただあの術士だけは、早く速やかに進まれるのがよいでしょう。」残りの十三人はついにすぐ沐浴したが、池に入るとすぐ、恍として忘れたようになり、そして稲の田の中に座っていた。ここから北の平らな川の中へ、もう三、四十里のところであった。
夾注 1
舊曰阿修羅,又曰阿須倫,又曰阿蘇羅,皆訛也。
旧くは阿修羅といい、また阿須倫といい、また阿蘇羅といったが、どれも誤りである。
13崖を削って造った棧道
石室側有棧道,廣十餘步,長四五里。昔頻毗婆羅王將往佛所,乃斬石通谷,疏崖導川,或壘石,或鑿巖,作為階級,以至佛所。
石室のかたわらに棧道があり、広さは十余歩、長さは四、五里である。昔、頻毗娑羅王がまさに仏のおられるところに往こうとして、そこで石を斬って谷を通し、崖を疏いて川を導き、あるところは石を壘ね、あるところは巌を鑿って、階段を造り、仏のおられるところまで至らせた。
14上茅宮城
從此大山中東行六十餘里,至矩奢揭羅補羅城。上茅宮城,摩揭陁國之正中,古先君王之所都,多出勝上吉祥香茅,以故謂之上茅城也。崇山四周,以為外郭,西通峽徑,北辟山門,東西長,南北狹,周一百五十餘里。內城餘趾周三十餘里。羯尼迦樹遍諸蹊徑,花含殊馥,色爛黃金,暮春之月,林皆金色。
ここから大きな山の中を東へ六十余里行くと矩奢揭羅補羅城に至る。上茅宮城は摩揭陀国のちょうど中で、古い先の君王が都としたところである。勝れて上い吉祥の香茅が多く出るので、それで上茅城というのである。崇い山が四方を周って外の郭となり、西に峽の径が通じ、北に山の門が開いている。東西に長く南北に狭くて、周囲百五十余里である。内城の残った趾は周囲三十余里である。羯尼迦の樹が諸々の蹊と径にあまねくあって、花は殊れた馥りを含み、色は黄金のように爛やかで、暮春の月には、林がみな金色になる。
夾注 1
唐言上茅宮城。
唐の言葉では上茅宮城である。
15酔った象を降伏させられたところ
宮城北門外有窣堵波,是提婆達多與未生怨王共為親友,乃放護財醉象,欲害如來。如來指端出五師子,醉象於此馴伏而前。
宮城の北門の外に窣堵波があり、これは提婆達多が未生怨王とともに親しい友となって、そこで護財という酔った象を放ち、如来を害そうとしたところである。如来が指の端から五頭の師子を出されると、酔った象はここで馴れ伏して前に進んだ。
16舍利子が馬勝に法を聞く
伏醉象東北有窣堵波,是舍利子聞阿濕婆恃比丘說法證果之處。初,舍利子在家也,高才雅量,見重當時,門生學徒,傳以受業。此時將入王舍大城,馬勝比丘亦方乞食。時舍利子遙見馬勝,謂門生曰:「彼來者甚庠序,不證聖果。豈斯調寂?宜少佇待,觀其進趣。」馬勝比丘已證羅漢,心得自在,容止和雅,振錫來儀。舍利子曰:「長老善安樂耶?師何人,證何法,若此之悅豫乎?」馬勝謂曰:「爾不知耶,凈飯王太子舍轉輪王位,悲湣六趣,苦行六年,證三菩提,具一切智,是吾師也。夫法者,非有非空,難用詮敘,惟佛與佛乃能究述,豈伊愚昧所能詳議?」因為頌說,稱贊佛法,舍利子聞已,便獲果證。
酔った象を伏せたところの東北に窣堵波があり、これは舍利子が阿濕婆恃比丘の説法を聞いて果を証したところである。はじめ、舍利子が家にいたとき、才は高く量は雅やかで、その時代に重んじられ、門下の学ぶ徒に次々と業を授けていた。このとき王舍の大城に入ろうとしていたが、馬勝比丘もまた食を乞うていた。そのとき舍利子は遥かに馬勝を見て、門生に言った。「あそこへ来る者はひどく庠やかに序がある。聖なる果を証していないなら、どうしてこのように調い寂かでいられようか。しばらく佇んで待って、その進み趣くところを観よう。」馬勝比丘はすでに羅漢を証して、心に自在を得、容と止は和やかで雅やかであり、錫杖を振るって来た。舍利子が言った。「長老は善く安らかで楽しいか。師は何という人で、何の法を証して、このように悦び豫しんでおられるのか。」馬勝が言った。「あなたは知らないのか。浄飯王の太子が転輪王の位を捨て、六つの趣を悲しみ憫れんで、六年の間苦行され、三菩提を証し、一切智を具えられた。これが我が師である。そもそも法とは、有るのでもなく空しいのでもなく、言葉で詮べ敘べることが難しい。ただ仏と仏だけが究め述べることができるのだから、どうして愚かで昧い者が詳しく議せることであろうか。」そして頌にして説き、仏法を称え讃えたので、舍利子は聞いてしまうと、すぐに果を獲て証した。
夾注 1
唐言馬勝。
唐の言葉では馬勝である。
17勝密の火の坑と毒の飯
舍利子證果北不遠,有大深坑,傍建窣堵波,是室利毱多以火坑、毒飯欲害佛處。勝密者,宗信外道,深著邪見。諸梵志曰:「喬答摩國人尊敬,遂令我徒無所恃賴,汝今可請至家飯會,門穿大坑,滿中縱火,棧以朽木,覆以燥土。凡諸飯食,皆雜毒藥,若免火坑,當遭毒食。」勝密承命,便設毒會。城中之人皆知勝密於世尊所起惡害心,咸皆勸請,願佛勿往。世尊告曰:「無得懷憂。如來之身,物莫能害。」於是受請而往。足履門閫,火坑成池,清瀾澄鑒,蓮花彌漫。勝密見已,憂惶無措,謂其徒曰:「以術免火,尚有毒食。」世尊飯食已訖,為說妙法,勝密聞已,謝咎歸依。
舍利子が果を証したところの北、遠くないところに大きく深い坑があり、かたわらに窣堵波を建ててある。これは室利毱多が火の坑と毒の飯で仏を害そうとしたところである。勝密という者は、外道を宗として信じ、邪な見に深く著いていた。諸々の梵志が言った。「喬答摩を国の人が尊び敬って、ついに我らの徒には恃み頼るものがなくなった。おまえは今、家に請いて飯の会を設け、門に大きな坑を穿って、中に火を満たして縦ち、朽ちた木で棧を架け、乾いた土で覆え。およそ諸々の飯と食にはみな毒の薬を雑えておけば、もし火の坑を免れても、きっと毒の食に遭うだろう。」勝密は命を承けて、すぐに毒の会を設けた。城の中の人はみな、勝密が世尊に対して悪く害する心を起こしたと知って、みな勧め請い、仏が往かれないことを願った。世尊が告げて言われた。「憂いを懐くことはない。如来の身は、何ものも害することができない。」そして請いを受けて往かれた。足が門の閫を履むと、火の坑は池となり、清い波が鏡のように澄み、蓮の花が広く満ちた。勝密は見てしまうと、憂え惶れて措くところがなく、その徒に言った。「術によって火は免れたが、まだ毒の食がある。」世尊は飯を食し終えて、妙なる法を説かれたので、勝密は聞いてしまうと、咎を謝して帰依した。
夾注 1
唐言勝密。
唐の言葉では勝密である。
18時縛迦が建てた説法堂
勝密火坑東北,山城之曲,有窣堵波,是時縛迦大醫於此為佛建說法堂,周其壖垣種植花果,餘址蘗株尚有遺跡。如來在世,多於中止。其傍復有時縛迦故宅,餘其舊井,墟坎猶存。
勝密の火の坑の東北、山の城の曲がったところに窣堵波があり、これは時縛迦という大きな医者がここで仏のために説法の堂を建てたところである。その垣を周って花と果を種え植えたが、残った址と切り株に、なお遺された跡がある。如来は世におられたとき、その中に多く止まられた。そのかたわらにはまた時縛迦の古い宅があり、その旧い井が残って、墟の坎がなお存っている。
夾注 1
舊曰耆婆,訛也。
旧くは耆婆といったが、誤りである。
19鷲峰山
宮城東北行十四五里,至姞栗陁羅矩咤山,接北山之陽,孤標特起,既棲鷲鳥,又類高臺,空翠相映,濃淡分色。如來禦世垂五十年,多居此山,廣說妙法。頻毗娑羅王為聞法故,興發人徒,自山麓至峰岑,跨谷淩巖,編石為階,廣十餘步,長五六里。中路有二小窣堵波,一謂下乘,即王至此徒行以進;一謂退凡,即簡凡夫不令同往。其山頂則東西長,南北狹。臨崖西埵有磚精舍,高廣奇制,東辟其戶,如來在昔多居說法。今作說法之像,量等如來之身。
宮城から東北へ十四、五里行くと姞栗陀羅矩咤山に至る。北の山の南に接して、孤り標って特に起ち、鷲の鳥が棲んでおり、また高い台にも似ていて、空の色と翠の色が互いに映えて、濃いものと淡いものが色を分けている。如来は世を禦められること五十年近く、この山に多く居られて、妙なる法を広く説かれた。頻毗娑羅王は法を聞くために、人と徒を興し発して、山の麓から峰の岑まで、谷を跨ぎ巌を凌いで、石を編んで階とした。広さは十余歩、長さは五、六里である。中ほどの路に二つの小さな窣堵波があり、一つは下乗といい、すなわち王がここに至って徒歩で進んだところであり、一つは退凡といい、すなわち凡夫を簡んでともに往かせなかったところである。その山の頂は東西に長く、南北に狭い。崖に臨む西の埵に煉瓦の精舎があり、高く広く造りが奇抜で、東にその戸を開いている。如来は昔ここに多く居られて法を説かれた。今、法を説かれる姿の像を造っており、大きさは如来の身に等しい。
夾注 1
唐言鷲峰,亦謂鷲臺。舊曰耆阇崛山,訛也。
唐の言葉では鷲峰であり、鷲台ともいう。旧くは耆阇崛山といったが、誤りである。
20提婆達多が石を擲ったところ
精舍東有長石,如來經行所履也。傍有大石,高丈四五尺,周三十餘步,是提婆達多遙擲擊佛處也。其南崖下有窣堵波,在昔如來於此說《法華經》。
精舎の東に長い石があり、如来が経行されて履まれたものである。かたわらに大きな石があり、高さは一丈四、五尺、周囲三十余歩で、これは提婆達多が遥かから擲って仏を撃ったところである。その南の崖の下に窣堵波があり、昔、如来がここで『法華経』を説かれた。
21仏が定に入られた石窟
精舍南山崖側有大石寶,如來在昔於此入定。
精舎の南の山の崖のかたわらに大きな石室があり、如来は昔、ここで定に入られた。
22魔が阿難を怖れさせたところ
佛石寶西北,石寶前有大磐石,阿難為魔怖處也。尊者阿難於此入定,魔王化作鷲鳥,於黑月夜分據其大石,備翼驚鳴,以怖尊者。尊者是時驚懼無措,如來鑒見,伸手安慰,通過石壁,摩阿難頂,以大慈言而告之曰:「魔所變化,宜無怖懼。」阿難蒙慰,身心安樂。石上鳥跡、崖中通穴,歲月雖久,於今尚存。
仏の石室の西北、石室の前に大きな盤石があり、阿難が魔に怖れさせられたところである。尊者阿難がここで定に入っていたところ、魔王が鷲の鳥に化して、黒い月の夜が更けたころ、その大きな石に据わり、翼を備え驚くように鳴いて、尊者を怖れさせた。尊者はこのとき驚き懼れて措くところがなかったが、如来が鑑み見られて、手を伸べて安んじ慰められ、石の壁を通り過ぎて、阿難の頂を摩り、大きな慈しみの言葉で告げて言われた。「魔が変化したものである。怖れ懼れることはない。」阿難は慰めを蒙って、身も心も安らかに楽しくなった。石の上の鳥の跡と、崖の中の通った穴は、歳月は久しいが、今もなお存っている。
23舍利子らの石室
精舍側有數石室,舍利子等諸大羅漢於此入定。舍利子石室前有一大井,枯涸無水,墟坎猶存。
精舎のかたわらに石室がいくつかあり、舍利子ら諸々の大羅漢がここで定に入った。舍利子の石室の前に大きな井が一つあり、枯れ涸れて水がなく、墟の坎だけがなお残っている。
24袈裟を曬された岩
精舍東北石澗中有大磐石,是如來曬袈裟之處,衣文明徹,皎如雕刻。其傍石上有佛腳跡,輪文雖暗,規模可察。
精舎の東北の石の澗の中に大きな盤石があり、これは如来が袈裟を曬されたところである。衣の文が明らかに徹って、彫り刻んだように皎らかである。そのかたわらの石の上に仏の足の跡があり、輪の文は暗いが、その規模は察することができる。
25摩揭陀城を望まれたところ
北山頂有窣堵波,是如來望摩揭陁城,於此七日說法。
北の山の頂に窣堵波があり、これは如来が摩揭陀城を望まれて、ここで七日の間法を説かれたところである。
26毗布羅山の温泉
山城北門西,有毗布羅山。聞之土俗曰:「山西南崖陰,昔有五百溫泉,今者數十而已,然猶有冷有暖,未盡溫也。其泉源發雪山之南無熱惱池,潛流至此,水甚清美,味同本池。流經五百枝小熱地獄,火勢上炎,致斯溫熱。泉流之口,並皆雕石,或作師子、白象之首,或作石筒懸流之道,下乃編石為池。諸方異域咸來此浴,浴者宿疹多差。
山の城の北門の西に毗布羅山がある。その地の俗に聞くとこう言う。「山の西南の崖の陰に、昔は五百の温泉があったが、今は数十だけである。しかしまだ冷たいものもあり暖かいものもあって、すべてが温かいわけではない。その泉の源は雪山の南の無熱悩池から発して、潜かに流れてここに至るので、水はひどく清く美味で、味はもとの池と同じである。流れて五百枝の小さな熱地獄を経るので、火の勢いが上に炎えて、この温かさと熱さに至ったのである。」泉の流れ出る口にはみな石を雕って、あるものは師子や白象の首を造り、あるものは石の筒で懸けて流す道を造り、下には石を編んで池としている。諸方の異なる地域からみなここに来て浴み、浴んだ者は宿りついた疹いが多く癒る。
27温泉の左右の跡
溫泉左右諸窣堵波及精舍,基址鱗次,並是過去四佛坐及經行遺跡之所。此處既山水相帶,仁智攸居,隱淪之士蓋亦多矣。
温泉の左右の諸々の窣堵波と精舎は、基址が鱗のように次いでいて、みな過去の四仏が座り、また経行された跡の残るところである。この処はすでに山と水が互いに帯のように巡って、仁者と智者の住むところなので、隱れ淪んで住む士もまた多かったであろう。
28卑缽羅の石室 — 穴から出た女
溫泉西有卑缽羅石室,世尊在昔恒居其中。後壁洞穴是阿素洛宮也。習定比丘多居此室,時出怪異,龍、蛇、師子之形,見之者心發狂亂。然斯聖地,靈聖所止,躡跡欽風,忘其災禍。近有比丘,戒行貞潔,心樂幽寂,欲於此室匿跡習定。或有諫曰:「勿往彼也。彼多災異,為害不少,既難取定,亦恐喪身。宜鑒前事,勿貽後悔。」比丘曰:「不然。我方志求佛果,摧伏天魔,若此之害,夫何足言?」便即振錫而往室焉。於是設壇場,誦禁咒。旬日之後,穴出少女,謂比丘曰:「尊者染衣守戒,為含識歸依,修慧習定,作生靈善導。而今居此,驚駭我曹。如來之教,豈若是耶?」比丘曰:「我守凈戒,遵聖教也。匿跡山谷,遠喧雜也。忽此見譏,其咎安在?」對曰:「尊者誦咒聲發,火從外入,燒我居室,苦我枝屬。唯願悲湣,勿復誦咒。」比丘曰:「誦咒自護,非欲害物。往者,行人居此習定,期於聖果,以濟幽塗,睹怪驚駭,喪棄身命,汝之辜也。其何辭乎?」對曰:「罪障既重,智慧斯淺。自今已來,屏居守分,亦願尊者勿誦神咒。」比丘於是修定如初,安靜無害。
温泉の西に卑缽羅の石室があり、世尊は昔つねにその中に居られた。後ろの壁の洞いた穴は阿素洛の宮である。定を習う比丘がこの室に多く住むが、ときに怪しい異事が起こって、龍、蛇、師子の形が現れ、それを見た者は心が狂い乱れる。しかしこの聖なる地は、霊妙な聖者が止まられたところなので、跡を躡み風を欽んで、その災いと禍いを忘れるのである。近ごろある比丘がいて、戒行が貞く潔く、心は幽かで寂かなことを楽しんで、この室に跡を匿して定を習おうとした。ある者が諫めて言った。「あそこへ往ってはいけない。あそこは災いと異事が多く、害が少なくない。定を取ることも難しいうえ、身を喪うことさえ恐ろしい。先の事を鑑みて、後の悔いを貽さないようにするのがよい。」比丘が言った。「そうではない。私はまさに志して仏の果を求め、天の魔を摧き伏せようとしているのだ。このような害が、どうして言うに足ろうか。」そしてすぐに錫杖を振るってその室に往った。そこで壇場を設け、禁じる咒を誦した。十日の後、穴から若い女が出て、比丘に言った。「尊者は衣を染め戒を守って、識を含むものの帰依するところとなり、慧を修め定を習って、生きものの善い導き手となっておられます。それが今ここに居て、我らを驚かせ駭かせる。如来の教えが、どうしてこのようなものでしょうか。」比丘が言った。「私が浄らかな戒を守るのは聖なる教えに遵うためであり、山と谷に跡を匿すのは喧しさと雑りを遠ざけるためである。たちまちここで譏られるが、その咎はどこにあるのか。」答えて言った。「尊者が咒を誦す声が発つと、火が外から入って、私の住む室を焼き、私の枝属を苦しめます。ただ悲しみ憫れんで、もう咒を誦さないでください。」比丘が言った。「咒を誦すのは自らを護るためで、物を害そうというのではない。昔、行く人がここに住んで定を習い、聖なる果を期して、それによって冥い途を済おうとしたのに、怪しいものを睹て驚き駭き、身と命を喪い棄てた。それはおまえたちの辜である。何の言うことがあろうか。」答えて言った。「罪の障りはすでに重く、智慧はこのように浅いのです。今より後は屏み居て分を守りますから、どうか尊者も神しい咒を誦さないでください。」比丘はそこで初めのように定を修めたが、安らかに静まって害はなかった。
29毗布羅山の上の塔
毗布羅山上有窣堵波,昔者如來說法之處,今有露形外道,多依此住,修習苦行,夙夜匪懈,自旦至昏,旋轉觀察。
毗布羅山の上に窣堵波があり、昔、如来が法を説かれたところである。今は裸形の外道が多くここに依って住み、苦行を修め習って、朝も夜も懈らず、旦から昏まで、旋り転りながら観じ察している。
30提婆達多が定に入った石室
山城北門左南崖陰,東行二三里,至大石室,昔提婆達多於此入定。
山の城の北門の左、南の崖の陰を東へ二、三里行くと大きな石室に至る。昔、提婆達多がここで定に入った。
31自ら頸を刺して悟りを得た比丘
石室東不遠,磐石上有斑采,狀血染,傍建窣堵波,是習定比丘自害證果之處。昔有比丘,勤勵心身,屏居修定,歲月逾遠,不證聖果。退而自咎,竊復嘆曰:「無學之果,終不時證;有累之身,徒生何益?」便就此石自刺其頸,是時即證阿羅漢果,上升虛空,示現神變,化火焚身,而入寂滅。美其雅操,建以記功。
石室の東、遠くない盤石の上に斑の彩りがあって、血に染まったような状である。かたわらに窣堵波を建ててあり、これは定を習う比丘が自ら害して果を証したところである。昔ある比丘が、心と身を勤め励まし、屏み居て定を修めたが、歳月が越え遠くなっても、聖なる果を証せなかった。退いて自ら咎め、ひそかにまた嘆いて言った。「無学の果は、ついに時を得て証せない。累いある身で、いたずらに生きて何の益があろうか。」そしてすぐにこの石に就いて自らその頸を刺した。このときすぐに阿羅漢の果を証し、虚空に升って神しい変化を示し現し、火に化して身を焚いて、寂滅に入った。その雅やかな操を美しいとして、建てて功を記したのである。
32崖から身を投じて悟りを得た比丘
比丘證果東石崖上,有石窣堵波,習定比丘投崖證果之處。昔在佛世,有一比丘,宴坐山林,修證果定,精勤已久,不得果證。晝夜繼念,無忘靜定。如來知其根機將發也,遂往彼而成之,自竹林園至山崖下,彈指而召,佇立以待。此比丘遙睹聖眾,身意勇悅,投崖而下,猶其凈心,敬信佛語,未至於地,已獲果證。世尊告曰:「宜知是時。」即升虛空,示現神變。用彰凈信,故斯封記。
比丘が果を証したところの東の石の崖の上に、石の窣堵波があり、定を習う比丘が崖から投じて果を証したところである。昔、仏の世に、一人の比丘がいて、山と林で宴かに座り、果を証する定を修めていたが、精しく勤めてすでに久しいのに、果を証することができなかった。昼も夜も念いを継いで、静かな定を忘れなかった。如来はその根機がまさに発こうとしているのを知られて、ついにそこへ往ってこれを成してやろうと、竹林園から山の崖の下に至り、指を弾いて召し、佇み立って待たれた。この比丘は遥かに聖なる衆を睹て、身も意も勇み悦んで、崖から投じて下ったが、その浄らかな心と、仏の語を敬い信じたことによって、地に至らないうちに、すでに果を獲て証した。世尊が告げて言われた。「まさにこの時を知るがよい。」そしてすぐに虚空に升って、神しい変化を示し現した。浄らかな信を彰すために、それでこのように封じて記したのである。
33迦蘭陀の竹園
山城北門行一里餘,至迦蘭陀竹園。今有精舍,石基磚室,東辟其戶。如來在世,多居此中,說法開化,導凡拯俗。今作如來之像,量等如來之身。
山の城の北門から一里あまり行くと迦蘭陀の竹園に至る。今、精舎があり、石の基に煉瓦の室で、東にその戸を開いている。如来は世におられたとき、この中に多く居られて、法を説いて開き化し、凡を導き俗を拯われた。今、如来の像を造っており、大きさは如来の身に等しい。
34迦蘭陀長者が竹園を奉ったいわれ
初,此城中有大長者迦蘭陁,時稱豪貴,以大竹園施諸外道。及見如來,聞法凈信,追惜竹園居彼異眾,今天人師無以館舍。時諸神鬼感其誠心,斥逐外道,而告之曰:「長者迦蘭陁當以竹園起佛精舍,汝宜速去,得免危厄。」外道憤恚,含怒而去。長者於此建立精舍,功成事畢,躬往請佛。如來是時遂受其施。
はじめ、この城の中に大きな長者の迦蘭陀がいて、当時は豪勢で貴いと称えられていたが、大きな竹の園を諸々の外道に施していた。如来に見え、法を聞いて浄らかに信じるようになると、竹の園があの異なる衆のところにあって、今、天と人の師に差し上げる館舎がないことを、追って惜しんだ。そのとき諸々の神と鬼がその誠の心に感じて、外道を斥け逐い、告げて言った。「長者の迦蘭陀は竹の園で仏の精舎を起こそうとしている。おまえたちは速やかに去れ。危うい厄を免れることができよう。」外道は憤り恚って、怒りを含んで去った。長者はここに精舎を建て立て、功が成り事が畢わると、自ら往って仏を請うた。如来はこのときついにその施しを受けられた。
35未生怨王の塔
迦蘭陁竹園東有窣堵波,阿阇多設咄路王之所建也。如來涅槃之後,諸王共分舍利,未生怨王得以持歸,式遵崇建,而修供養。無憂王之發信心也,開取舍利,建窣堵波,尚有遺餘,時燭光景。
迦蘭陀の竹園の東に窣堵波があり、阿阇多設咄路王が建てたものである。如来が涅槃された後、諸々の王が舎利をともに分けたとき、未生怨王は得て持ち帰り、法式どおりに遵って高く建て、供養を修めた。無憂王が信の心を発したとき、開いて舎利を取り、窣堵波を建てたが、なお遺り余ったものがあって、時に光と影を燭す。
夾注 1
唐言未生怨,舊曰阿阇世,訛略也。
唐の言葉では未生怨である。旧くは阿阇世といったが、誤って略したものである。
36阿難の半身の舎利
未生怨王窣堵波側窣堵波,有尊者阿難半身舍利。昔尊者將寂滅也,去摩揭陁國,趣吠舍厘城,兩國交爭,欲興兵甲。尊者傷湣,遂分其身。摩揭陁王奉歸供養,即斯勝地,式修崇建。
未生怨王の窣堵波のかたわらの窣堵波には、尊者阿難の半身の舎利がある。昔、尊者がまさに寂滅されようとして、摩揭陀国を去り、吠舍厘城に赴かれるとき、両国が争い合って、兵を興そうとした。尊者は傷み憫れんで、ついにその身を分けられた。摩揭陀王は奉じて帰り供養し、すなわちこの勝れた地に、法式どおりに高く建てたのである。
37如来が経行されたところ
其傍則有如來經行之處。次此不遠有窣堵波,是舍利子及沒特伽羅子等安居之所。
そのかたわらには如来が経行されたところがある。これに次いで遠くないところに窣堵波があり、これは舍利子と沒特伽羅子らが安居したところである。
38はじめの結集の石室
竹林園西南行五六里,南山之陰大竹林中有大石室,是尊者摩訶迦葉波於此與九百九十九大阿羅漢以如來涅槃後結集三藏。前有故基,未生怨王為集法藏諸大羅漢建此堂宇。
竹林園から西南へ五、六里行くと、南の山の陰の大きな竹の林の中に大きな石室があり、これは尊者摩訶迦葉波がここで九百九十九人の大阿羅漢とともに、如来の涅槃の後、三蔵を結集したところである。前に古い基があり、未生怨王が法の蔵を集める諸々の大羅漢のために、この堂宇を建てたものである。
39大迦葉波が三蔵を編む
初,大迦葉宴坐山林,忽燭光明,又睹地震,曰:「是何祥變,若此之異?」以天眼觀,見佛世尊於雙樹林間入般涅槃。尋命徒屬趣拘屍城,路逢梵志,手執天花。迦葉問曰:「汝從何來?知我大師今在何處?」梵志對曰:「我適從彼拘屍城來,見汝大師已入涅槃。天人大眾咸興供養,我所持花,自彼得也。」迦葉聞已,謂其徒曰:「慧日淪照,世界暗冥,善導遐棄,眾生顛墜。」懈怠比丘更相賀曰:「如來寂滅,我曹安樂,若有所犯,誰能訶制?」迦葉聞已,深更感傷,思集法藏,據教治犯。遂至雙樹,觀佛禮敬。既而法王去世,人天無導,諸大羅漢亦取滅度,時大迦葉作是思惟:「承順佛教,宜集法藏。」於是登蘇迷盧山,擊大揵椎,唱如是言:「今王舍城將有法事,諸證果人宜時速集!」揵槌聲中傳迦葉教,遍至三千大千世界,得神通者聞皆集會。是時迦葉告諸眾曰:「如來寂滅,世界空虛,當集法藏,用報佛恩。今將集法,務從簡靜,豈恃群居,不成勝業?其有具三明,得六通,聞持不謬,辯才無礙,如斯上人,可應結集。自餘果學,各歸其居。」於是得九百九十九人。除阿難在學地,大迦葉召而謂曰:「汝未盡漏,宜出聖眾。」曰:「隨侍如來,多歷年所,每有法議,曾未棄遺。今將結集,而見擯斥。法王寂滅,失所依怙。」迦葉告曰:「勿懷憂惱。汝親侍佛,誠復多聞,然愛惑未盡,習結未斷。」阿難辭屈而出,至空寂處,欲取無學,勤求不證。既已疲怠,便欲假寐,未及伏枕,遂證羅漢。往結集所,叩門白至。迦葉問曰:「汝結盡耶?宜運神通,非門而入。」阿難承命,從鑰隙入,禮僧已畢,退而復坐。是時安居初十五日也。於是迦葉揚言曰:「念哉諦聽!阿難聞持,如來稱贊,集素呾纜藏。優波厘持律明究,眾所知識,集毗奈耶藏。我迦葉波集阿毗達磨藏。」雨三月盡,集三藏訖。以大迦葉僧中上座,因而謂之上座部焉。
はじめ、大迦葉が山と林に宴かに座っていたが、たちまち明るい光を燭り、また地の震えるのを睹て、言った。「これは何の祥しい変で、このように異なるのか。」そして天の眼で観ると、仏世尊が双樹の林の間で般涅槃に入られるのが見えた。やがて徒属に命じて拘屍城に赴いたが、路で梵志に逢うと、手に天の花を執っていた。迦葉が問うて言った。「おまえはどこから来たのか。我が大師が今どこにおられるか知っているか。」梵志が答えて言った。「私はちょうどあの拘屍城から来たが、あなたの大師がすでに涅槃に入られるのを見た。天と人の大衆がみな供養を興していたので、私が持っている花も、そこで得たものである。」迦葉は聞いてしまうと、その徒に言った。「慧の日が照らすことを淪め、世界は暗く冥く、善い導き手が遥かに棄て去られて、衆生は顛れ墜ちていく。」懈け怠った比丘たちは互いに賀し合って言った。「如来が寂滅されて、我らは安らかで楽しい。犯すことがあっても、誰が訶し制することができようか。」迦葉は聞いてしまうと、いよいよ深く感じ傷んで、法の蔵を集め、教えに拠って犯を治めることを思った。そしてついに双樹に至り、仏を観て礼し敬った。やがて法王が世を去られて、人にも天にも導き手がなく、諸々の大羅漢もまた滅度を取っていったので、そのとき大迦葉はこう思惟した。「仏の教えを承け順って、まさに法の蔵を集めよう。」そこで蘇迷盧山に登り、大きな犍椎を撃って、このように唱えて言った。「今、王舍城にまさに法の事がある。果を証した人々は、早く速やかに集まるがよい。」犍椎の声の中に迦葉の教えが伝わって、三千大千世界にあまねく至ったので、神通を得た者は聞いてみな集まり会した。このとき迦葉が諸々の衆に告げて言った。「如来が寂滅されて、世界は空しく虚ろである。まさに法の蔵を集めて、仏の恩に報いなければならない。今まさに法を集めようとするのに、簡やかで静かであることに従うよう務めるべきである。どうして群れて居ることを恃んで、勝れた業が成らぬようなことがあろうか。三明を具え、六通を得、聞いて持って謬らず、弁才に礙りのない、このような上の人であってこそ、結集に応ずることができる。それ以外の果を学ぶ者は、それぞれその居るところに帰れ。」そこで九百九十九人を得た。ただ阿難はまだ学の地にあったので、大迦葉は召して言った。「おまえはまだ漏を尽くしていない。聖なる衆から出るがよい。」答えて言った。「如来に随い侍って、多くの年を歴ました。法の議があるたびに、かつて棄て遺されたことはありません。今まさに結集しようというのに、擯け斥けられます。法王が寂滅されて、依り怙むところを失っております。」迦葉が告げて言った。「憂え悩むことはない。おまえは親しく仏に侍って、まことにまた多く聞いた。しかし愛の惑いが尽きておらず、習いの結びが断たれていない。」阿難は辞が屈して出て、空ろで寂かな処に至り、無学を取ろうとしたが、勤め求めても証せなかった。すでに疲れ怠って、しばらく仮寝しようとしたが、枕に伏せる前に、ついに羅漢を証した。結集の所に往って、門を叩き至ったことを申し上げると、迦葉が問うて言った。「おまえは結びを尽くしたか。神通を運らせて、門ではないところから入るがよい。」阿難は命を承けて、鑰の隙から入り、僧に礼し終えると、退いてあらためて座った。このときは安居の初めの十五日であった。そこで迦葉は声を揚げて言った。「念ぜよ、諦かに聴け。阿難は聞いて持つことを如来が称え讃えられた。素呾纜の蔵を集めよ。優波厘は律を持って明らかに究め、衆の知るところである。毗奈耶の蔵を集めよ。私、迦葉波は阿毗達磨の蔵を集めよう。」雨の三ヶ月が尽きて、三蔵を集め終えた。大迦葉が僧の中の上座であったので、それによってこれを上座部というのである。
夾注 2
舊曰修多羅,訛也。
旧くは修多羅といったが、誤りである。
舊曰毗那耶,訛也。
旧くは毗那耶といったが、誤りである。
40阿難が悟りを得たところ
大迦葉結集西北,有窣堵波,是阿難受僧訶責,不預結集,至此宴坐,證羅漢果。證果之後,方乃預焉。
大迦葉が結集したところの西北に窣堵波があり、これは阿難が僧の訶責を受けて、結集に預からず、ここに至って宴かに座り、羅漢の果を証したところである。果を証した後に、はじめて預かることができた。
41大衆部の結集
阿難證果西行二十餘里,有窣堵波,無憂王之所的建也,大眾部結集之處。諸學無學數百千人,不預大迦葉結集之眾,而來至此,更相謂曰:「如來在世,同一師學,法王寂滅,簡異我曹。欲報佛恩,當集法藏。」於是凡聖咸會,賢智畢萃,復集素呾纜藏、毗奈耶藏、阿毗達磨藏、雜集藏、禁咒藏,別為五藏。而此結集,凡、聖同會,因而謂之大眾部。
阿難が果を証したところから西へ二十余里に窣堵波があり、無憂王が建てたもので、大衆部が結集したところである。諸々の学ぶべきものがある者と無い者、数百千人が、大迦葉の結集する衆に預かれず、ここに来至って、あらためて互いに言い合った。「如来が世におられたときは、同じ一人の師に学んだ。法王が寂滅されると、我らを簡び分けて異にする。仏の恩に報いようとするなら、まさに法の蔵を集めるべきである。」そこで凡も聖もみな会し、賢い者も智い者もことごとく萃まって、あらためて素呾纜の蔵、毗奈耶の蔵、阿毗達磨の蔵、雜集の蔵、禁咒の蔵を集め、別に五つの蔵とした。そしてこの結集は、凡と聖がともに会したので、それによってこれを大衆部というのである。
42迦蘭陀の池
竹林精舍北行二百餘步,至迦蘭陁池,如來在昔多此說法。水既清澄,具八功德,佛涅槃後,枯涸無餘。
竹林の精舎から北へ二百余歩行くと迦蘭陀の池に至る。如来は昔ここで多く法を説かれた。水はもともと清く澄んで、八つの功徳を具えていたが、仏の涅槃の後、枯れ涸れて残るものがない。
43無憂王の塔と石柱
迦蘭陁池西北行二三里,有窣堵波,無憂王所建也,高六十餘尺。傍有石柱,刻記立窣堵波事,高五十餘尺,上作象形。
迦蘭陀の池から西北へ二、三里行くと窣堵波があり、無憂王が建てたもので、高さは六十余尺である。かたわらに石柱があり、窣堵波を立てた事を刻んで記してある。高さは五十余尺で、上に象の形を造っている。
44王舍城
石柱東北不遠,至曷羅阇姞利呬城。外郭已壞,無復遺堵。內城雖毀,基址猶峻,周二十餘里,面有一門。
石柱の東北、遠くないところで曷羅阇姞利呬城に至る。外の郭はすでに壊れて、もう残った堵もない。内城は毀れているが、基址はなお峻しく、周囲二十余里で、面ごとに一つの門がある。
夾注 1
唐言王舍。
唐の言葉では王舍である。
45王舍城と名づけたいわれ
初,頻毗娑羅王都在上茆宮城也,編戶之家頻遭火害,一家縱逸,四鄰罹災,防火不暇,資產廢業,眾庶嗟怨,不安其居。王曰:「我以不德,下民罹患,修何福德可以禳之?」群臣曰:「大王德化邕穆,政教明察,今茲細民不謹,致此火災。宜制嚴科,以清後犯,若有火起,窮究先發,罰其首惡,遷之寒林。寒林者,棄屍之所,俗謂不詳之地,人絕遊往之跡。令遷於彼,同夫棄屍。既恥陋居,當自謹護。」王曰:「善,宜遍宣告居人。」頃之,王宮中先自失火。謂諸臣曰:「我其遷矣。」乃命太子監攝留事,欲清國憲,故遷居焉。時吠舍厘王聞頻毗娑羅王野處寒林,整集戎旅,欲襲不虞。邊候以聞,乃建城邑,以王先舍於此,故稱王舍城也。官屬士庶咸徙家焉。或云至未生怨王乃築此城,未生怨太子既嗣王位,因遂都之。逮無憂王遷都波咤厘城,以王舍城施婆羅門。故今城中無復凡民,惟婆羅門減千家耳。
はじめ、頻毗娑羅王が上茅宮城に都していたとき、戸籍に編まれた家々がしばしば火の害に遭った。一つの家が縦し逸れると、四方の隣が災いに罹り、火を防ぐ暇もなく、資産と生業を廃ったので、人々は嗟き怨んで、その居るところを安らかに思えなかった。王が言った。「私に徳がないので、下の民が患いに罹っている。どのような福徳を修めれば、これを禳うことができようか。」群臣が言った。「大王の徳と化は邕やかで穆やかであり、政と教えは明らかに察しておられますのに、今この細しい民が謹まないで、この火の災いを致しました。厳しい科を制めて、後の犯を清められるのがよろしいでしょう。もし火が起これば、先に発した者を窮め究めて、その首たる悪しき者を罰し、寒林に遷されるのです。寒林とは、屍を棄てる所で、俗には不詳な地といって、人が遊び往く跡を絶っているところです。あそこに遷させれば、あの棄てられた屍と同じことになります。陋しいところに居ることを恥じれば、おのずから謹んで護るでしょう。」王が言った。「よい。居る人にあまねく宣べ告げよ。」しばらくして、王宮の中で先に火を失した。王は諸臣に言った。「私が遷ろう。」そして太子に命じて留まる事を監め摂らせ、国の憲を清めようとして、それで遷り居った。そのとき吠舍厘王は、頻毗娑羅王が寒林の野に処っていると聞いて、戎の旅を整え集め、不意を襲おうとした。辺りの候が申し上げたので、そこで城と邑を建てたが、王が先にここに舍ったので、それで王舍城と称するのである。官属も士も庶もみな家をここに徙した。ある説では、未生怨王に至ってこの城を築き、未生怨太子が王位を嗣いでから、それによってついにここを都としたという。無憂王が波咤厘城に都を遷すと、王舍城を婆羅門に施した。だから今、城の中にはもう凡しい民はなく、ただ婆羅門が千家に足りないほどいるだけである。
46殊底色迦長者の古い里
宮城西南隅有二小伽藍,諸國客僧往來此止,是佛昔日說法之所。次此西北有窣堵波,殊底色迦長者本生故里。
宮城の西南の隅に小さな伽藍が二つあり、諸国の客僧が往き来してここに止まる。これは仏が昔、法を説かれたところである。これに次いで西北に窣堵波があり、殊底色迦長者が生まれた古い里である。
夾注 1
唐言星歷。舊曰樹提伽,訛也。
唐の言葉では星歷である。旧くは樹提伽といったが、誤りである。
47羅怙羅を度されたところ
城南門外,道左有窣堵波,如來於此說法及度羅怙羅。
城の南門の外、道の左に窣堵波があり、如来がここで法を説かれ、また羅怙羅を度された。
48那爛陀の寺
從此北行三十餘里,至那爛陁僧伽藍。聞之耆舊曰:此伽藍南庵沒羅林中有池,其龍名那爛陁,傍建伽藍,因取為稱。從其實議,是如來在昔修菩薩行,為大國王,建都此地,悲湣眾生,好樂周給,時美其德,號施無厭,由是伽藍因以為稱。其地本庵沒羅園,五百商人以十億金錢買以施佛,佛於地處三月說法,諸商人等亦證聖果。佛涅槃後未久,此國先王鑠迦羅阿叠多敬重一乘,遵崇三寶,式占福地,建此伽藍。初興功也,穿傷龍身,時有善占尼乾外道,見而記曰:「斯勝地也,建立伽藍,當必昌盛,為五印度之軌則,逾千載而彌隆。後進學人易以成業,然多歐血,傷龍故也。」其子佛陀毱多王繼體承統,聿遵勝業,次此之南又建伽藍。呾他揭多毱多王篤修前緒,次此之東又建伽藍。婆羅阿叠多王之嗣位也,次此東北又建伽藍。功成事畢,福會稱慶,輸誠幽顯,延請凡聖。其會也,五印度僧萬里雲集,眾坐已定,二僧後至,引上第三重閣。或有問曰:「王將設會,先請凡聖,大德何方,最後而至?」曰:「我至那國也,和上嬰疹,飯已方行,受王遠請,故來赴會。」聞者驚駭,遽以白王。王心知聖也,躬往問焉。遲上重閣,莫知所去。王更深信,舍國出家。出家既已,位居僧末,心常怏怏,懷不自安:「我昔為王,尊居最上;今者出家,卑在眾末。」尋往白僧,自述情事。於是眾僧和合,令未受戒者以年齒為次,故此伽藍獨有斯制。其王之子伐阇羅嗣位之後,信心貞固,復於此西建立伽藍。其後中印度王於此北復建大伽藍。於是周垣峻峙,同為一門。既歷代君王繼世興建,窮諸剞劂,誠壯觀也。帝日王大伽藍者,今置佛像,眾中日差四十僧就此而食,以報施主之恩。
ここから北へ三十余里行くと那爛陀の伽藍に至る。古老たちに聞くとこう言う。この伽藍の南の庵沒羅の林の中に池があり、その龍の名が那爛陀で、かたわらに伽藍を建てたので、それによって名を取ったのだという。その実に従って議するなら、これは如来が昔、菩薩の行を修められたとき、大きな国の王となってこの地に都を建て、衆生を悲しみ憫れんで、広く給することを好み楽しまれたので、当時その徳を美しいとして、施して厭きることなしと号した。それによって伽藍がこれを名としたのである。その地はもともと庵沒羅の園であったが、五百人の商人が十億の金錢で買って仏に施し、仏はその地で三ヶ月の間法を説かれ、商人たちもまた聖なる果を証した。仏の涅槃の後、久しからずして、この国の先の王、鑠迦羅阿叠多が一乗を敬い重んじ、三宝を遵び崇めて、法式どおりに福の地を占って、この伽藍を建てた。はじめて功を興したとき、龍の身を穿って傷つけたが、そのとき占いの上手な尼乾の外道が、見て記して言った。「これは勝れた地である。伽藍を建て立てれば、きっと必ず昌え盛んになり、五インドの軌則となって、千年を越えていよいよ隆んになろう。後に進む学ぶ者は業を成しやすい。ただ血を歐く者が多いだろう。龍を傷つけたからである。」その子の佛陀毱多王が体を継ぎ統を承けて、勝れた業を遵い、これの南にまた伽藍を建てた。呾他揭多毱多王が前の緒を篤く修めて、これの東にまた伽藍を建てた。婆羅阿叠多王が位を嗣ぐと、これの東北にまた伽藍を建てた。功が成り事が畢わると、福の会を開いて慶びを称え、誠を幽かなものと顕かなものに輸して、凡と聖を延き請うた。その会には、五インドの僧が万里から雲のように集まった。衆が座を定めてから、二人の僧が後に至ったので、第三の重なる閣に引き上げた。ある者が問うて言った。「王がまさに会を設けるとき、先に凡と聖を請われた。大徳はどの方から、最後に至られたのか。」答えて言った。「私は至那国の者である。和上が疹いに嬰って、飯してからようやく行くことになったが、王の遠くからの請いを受けたので、会に赴きに来たのだ。」聞いた者は驚き駭いて、急いで王に申し上げた。王は心に聖者であると知って、自ら往って問うた。遅れて重なる閣に上ったが、去ったところが分からなかった。王はいよいよ深く信じて、国を捨てて出家した。出家してしまうと、位は僧の末に居ることになり、心はつねに怏々として、自ら安らかでない思いを懐いた。「私は昔、王となって、尊きこと最も上にあった。今、出家して、卑しきこと衆の末にある。」そしてやがて往って僧に申し上げ、自らその情と事を述べた。そこで衆僧は和合して、まだ戒を受けていない者は年齒を次とすることにさせた。だからこの伽藍にだけこの制があるのである。その王の子の伐阇羅が位を嗣いだ後、信の心が貞く固まって、あらためてこの西に伽藍を建て立てた。その後、中インドの王がこの北にあらためて大きな伽藍を建てた。そこで周りの垣が峻しくそびえ、ともに一つの門とした。歴代の君王が世を継いで興し建て、あらゆる彫りを尽くしてきたので、まことに壮かな観である。帝日王の大きな伽藍には、今、仏像を置いて、衆の中から日ごとに四十人の僧を差して、ここに就いて食させ、施主の恩に報いている。
夾注 6
唐言施無厭。
唐の言葉では施して厭きることなしである。
唐言帝日。
唐の言葉では帝日である。
唐言覺護。
唐の言葉では覚護である。
唐言如來。
唐の言葉では如来である。
唐言幼日。
唐の言葉では幼日である。
唐言金剛。
唐の言葉では金剛である。
49那爛陀の僧たち
僧徒數千,並俊才高學也,德重當時,聲馳異域者,數百餘矣。戒行清白,律儀淳粹,僧有嚴制,眾咸貞素,印度諸國皆仰則焉。請益談玄,渴日不足,夙夜警誡,少長相成,其有不談三藏幽旨者,則形影自愧矣。故異域學人欲馳聲問,咸來稽疑,方流雅譽。是以竊名而遊,咸得禮重。殊方異域欲入談議,門者詰難,多屈而還,學深今古,乃得入焉。於是客遊後進,詳論藝能,其退飛者固十七八矣。二三博物,眾中次詰,莫不挫其銳,頹其名。若其高才博物,強識多能,明德哲人,聯暉繼軌。至如護法、護月,振芳塵於遺教;德慧、堅慧,流雅譽於當時。光友之清論,勝友之高談,智月則風鑒明敏,戒賢乃至德幽邃。若此上人,眾所知識,德隆先達,學貫舊章,述作論釋各十數部,並盛流通,見珍當時。
僧徒は数千で、みな俊れた才と高い学の者である。徳がその時代に重く、声が異なる地域に馳せた者は、数百余りある。戒行は清く白く、律儀は淳く粹く、僧に厳しい制があって、衆はみな貞く素らかなので、インドの諸国はみな仰いで則としている。益を請い玄かなものを談じて、日が渇いても足りず、朝も夜も警め戒めて、少きも長きも互いに成し合う。三蔵の幽かな旨を談じられない者は、自分の形と影に自ら愧じる。だから異なる地域の学ぶ者が声と聞こえを馳せようと思えば、みな来て疑いを稽え、そうしてはじめて雅やかな誉れが流れる。それゆえ、名を竊んで遊ぶ者さえ、みな礼して重んじられる。殊なる方、異なる地域から談議に入ろうとすれば、門の者が詰め難じて、多くは屈して還り、学が今と古に深い者だけが入ることができる。そこで客として遊ぶ後に進む者たちが、技と能を詳しく論ずると、退いて飛び去る者が実に十のうち七、八である。二、三人の物に博い者が、衆の中で次々に詰めると、その鋭さを挫かれ、その名を頹されない者はない。その才が高く物に博く、識が強く能の多い、明らかな徳の哲い人に至っては、暉りを聯ね軌を継いできた。護法、護月のような者は、芳しい塵を遺された教えに振るい、徳慧、堅慧は、雅やかな誉れを当時に流した。光友の清い論、勝友の高い談、智月は風の鑑みが明らかに敏く、戒賢は至れる徳が幽かに邃い。このような上の人は、衆の知るところで、徳は先に達した者よりも隆く、学は旧い章を貫いていて、述べ作った論と釈がそれぞれ十数部あり、みな盛んに流通して、当時に珍しまれている。
50寺の周りの聖なる跡
伽藍四周,聖跡百數,舉其二三,可略言矣。
伽藍の四方の周りに、聖なる跡が百を数える。その二つ三つを挙げて、おおよそ言うことができよう。
51転輪王の位を求めた比丘
伽藍西不遠有精舍,在昔如來三月止此,為諸天人廣說妙法。次南百餘步小窣堵波,遠方比丘見佛處。昔有比丘自遠方來,至此遇見如來聖眾,內發敬心,五體投地,便即發願求輪王位。如來見已,告諸眾曰:「彼比丘者甚可湣惜。福德深遠,信心堅固,若求佛果,不久當證。今其發願求轉輪王,於當來世必受此報。身體投地下至金輪,其中所有微塵之數,一一塵是一輪王報也。既耽世樂,聖果斯遠。」其南則有觀自在菩薩立像。或見執香爐往佛精舍,周旋右繞。
伽藍の西、遠くないところに精舎があり、昔、如来が三ヶ月の間ここに止まられ、諸天と人々のために妙なる法を広く説かれた。これに次ぐ南百余歩の小さな窣堵波は、遠い方の比丘が仏に見えたところである。昔、ある比丘が遠い方から来て、ここに至って如来と聖なる衆に出会い見え、内に敬う心を発して、五体を地に投げ、すぐに願を発して輪王の位を求めた。如来は見てしまうと、諸々の衆に告げて言われた。「あの比丘はひどく憫れみ惜しまれる。福徳は深く遠く、信の心は堅く固いので、もし仏の果を求めたなら、久しからずしてまさに証したであろう。今、その願を発して転輪王を求めたので、来たる世に必ずこの報を受ける。身体を地に投げて下は金輪に至るまで、その中にあるすべての微塵の数、その一つ一つの塵が一人の輪王の報である。すでに世の楽に耽ったので、聖なる果はこのように遠い。」その南には観自在菩薩の立像がある。香炉を執って仏の精舎に往き、旋り巡って右に繞るのが見えることがある。
52観自在菩薩の像と楊の枝の樹
觀自在菩薩像南窣堵波中,有如來三月之間剃剪發、爪,有嬰疾病,旋繞多愈。其西垣外池側窣堵波,是外道執雀於此問佛死生之事。次東南垣內五十餘步,有奇樹,高八九尺,其幹兩披,在昔如來嚼楊枝棄地,因植根柢,歲月雖久,初無增減。次東大精舍,高二百餘尺,如來在昔於此四月說諸妙法。次北百餘步精舍中,有觀自在菩薩像,凈信之徒興供養者所見不同,莫定其所,或立門側,或出檐前。諸國法俗咸來供養。
観自在菩薩の像の南の窣堵波の中には、如来が三ヶ月の間に剃り剪られた髪と爪があり、疹いや病にかかった者が旋り繞ると、多くは癒る。その西の垣の外の池のかたわらの窣堵波は、外道が雀を執ってここで仏に死と生の事を問うたところである。これに次ぐ東南の垣の内五十余歩に、奇しい樹があり、高さは八、九尺、その幹は二つに披れている。昔、如来が楊の枝を嚼んで地に棄てられたが、それによって根が植いた。歳月は久しいが、はじめから増えも減りもしない。これに次ぐ東の大きな精舎は、高さ二百余尺で、如来が昔ここで四ヶ月の間、諸々の妙なる法を説かれた。これに次ぐ北百余歩の精舎の中に、観自在菩薩の像があり、浄らかに信じる徒で供養を興す者の見るところが同じでなく、その所を定められない。あるときは門のかたわらに立ち、あるときは檐の前に出る。諸国の法の者も俗の者もみな来て供養する。
53婆羅阿叠多王の大きな精舎
觀自在菩薩精舍北有大精舍,高三百餘尺,婆羅阿叠多王之所建也。莊嚴度量及中佛像,同菩提樹下大精舍。其東北窣堵波,在昔如來於此七日演說妙法。西北則有過去四佛坐處。其南鍮石精舍,戒日王之所建立,功雖未畢,然其圖量一十丈而後成之。次東二百餘步垣外,有銅立佛像,高八十餘尺,重閣六層,乃得彌覆,昔滿胄王之所作也。
観自在菩薩の精舎の北に大きな精舎があり、高さは三百余尺で、婆羅阿叠多王が建てたものである。荘厳と度量、またその中の仏像は、菩提樹の下の大きな精舎と同じである。その東北の窣堵波は、昔、如来がここで七日の間、妙なる法を演べ説かれたところである。西北には過去の四仏の座られたところがある。その南の鍮石の精舎は、戒日王が建て立てたもので、功はまだ畢わっていないが、その図り量ったところでは十丈となってはじめて成るのである。これに次ぐ東二百余歩の垣の外に、銅の立った仏像があり、高さは八十余尺で、重なる閣の六層でようやく覆い被せることができる。昔、満冑王が作ったものである。
54多羅菩薩の像と車の軸で掘った井
滿胄王銅佛像北二三里,磚精舍中有多羅菩薩像。其量既高,其靈甚察。每歲元日,盛興供養。鄰境國王、大臣、豪族,賫妙香花,持寶幡蓋,金石遞奏,絲竹相和,七日之中,建斯法會。其垣南門內有大井。昔佛在世,有大商侶熱渴逼迫,來至佛所,世尊指其地以可得水。商主乃以車軸築地,地既為陷,水遂泉湧,飲已聞法,皆悟聖果。
満冑王の銅の仏像の北二、三里、煉瓦の精舎の中に多羅菩薩の像がある。その量はすでに高く、その霊妙さはひどく察しい。毎年、元日に、供養を盛んに興す。隣の境の国王、大臣、豪族が、妙なる香と花を賫し、宝の幡と蓋を持ち、金と石の楽器を遞いに奏し、絲と竹を相和させて、七日の間、この法会を開く。その垣の南門の内に大きな井がある。昔、仏が世におられたとき、大きな商いの仲間が熱さと渇きに逼められて、仏のおられるところに来至ると、世尊はその地を指して水が得られると言われた。商主はそこで車の軸で地を築いたところ、地は陥ち、水はついに泉のように湧いた。飲み終えてから法を聞いて、みな聖なる果を悟った。
55拘理迦の邑 — 沒特伽羅子の古い故郷
伽藍西南行八九里,至拘理迦邑,中有窣堵波,無憂之所建也,是尊者沒特伽羅子本生故里。傍有窣堵波,尊者於此入無餘涅槃,其中則有遺身舍利。尊者,大婆羅門種,與舍利子少為親友。舍利子以才明見貴,尊者以精鑒延譽,才智相比,動止必俱,結要終始,契同去就,相與厭俗,共求舍家,遂師珊阇耶焉。舍利子遇馬勝阿羅漢,聞法悟聖,還為尊者重述,聞而悟法,遂證初果。與其徒二百五十人俱到佛所,世尊遙見,指告眾曰:「彼來者,我弟子中神足第一。」既至佛所,請入法中。世尊告曰:「善來,比丘!凈修梵行,得離苦際。」聞是語時,須發落,俗裳變,戒品凈,威儀調順。經七日,結漏盡,證羅漢果,得神通力。
伽藍から西南へ八、九里行くと拘理迦の邑に至り、その中に窣堵波があり、無憂王が建てたもので、これは尊者沒特伽羅子が生まれた古い里である。かたわらに窣堵波があり、尊者はここで無余涅槃に入り、その中には遺された身の舎利がある。尊者は大きな婆羅門の種で、舍利子と少いときから親しい友であった。舍利子は才と明らかさによって貴まれ、尊者は精しい鑑みによって誉れを延べ、才と智が互いに比び、動くも止まるも必ずともにして、初めから終わりまでを要め結び、去るも就くも同じくすることを契った。互いにともに俗を厭い、ともに家を捨てることを求めて、ついに珊阇耶を師とした。舍利子が馬勝阿羅漢に遇い、法を聞いて聖を悟り、還って尊者にあらためて述べたので、聞いて法を悟り、ついに初果を証した。その徒二百五十人とともに仏のおられるところに到ると、世尊は遥かに見られて、指して衆に告げて言われた。「あそこへ来る者は、我が弟子の中で神足第一である。」仏のおられるところに至って、法の中に入ることを請うと、世尊が告げて言われた。「善く来た、比丘よ。浄らかに梵行を修めて、苦しみの際を離れよ。」この語を聞いたとき、鬚と髪が落ち、俗の裳が変わり、戒の品が浄らかになり、威儀が調い順った。七日を経て、結びと漏が尽き、羅漢の果を証して、神通の力を得た。
56頻毗娑羅王が仏を迎えたところ
沒特伽羅子故里東行三四里,有窣堵波,頻毗娑羅王迎見佛處。如來初證佛果,知摩揭陁國人心渴仰,受頻毗娑羅王請。於朝晨時,著衣持缽,與千比丘左右圍繞,皆是耆舊螺髻梵志,慕法染衣,前後羽從,入王舍城。時帝釋天王變身為摩那婆,首冠螺髻,左手執金瓶,右手執寶杖,足蹈虛空,離地四指,在大眾中前導佛路。時摩揭陁國頻毗娑羅王與其國內諸婆羅門、長者、居士百千萬眾,前後導從,出王舍城奉迎聖眾。
沒特伽羅子の古い里から東へ三、四里行くと窣堵波があり、頻毗娑羅王が仏を迎え見えたところである。如来がはじめて仏の果を証され、摩揭陀国の人の心が渇いて仰いでいるのを知られて、頻毗娑羅王の請いを受けられた。朝の晨のとき、衣を著け鉢を持って、千人の比丘に左右から囲み繞られたが、みな年老いた螺の髻の梵志で、法を慕って衣を染めた者たちであった。前後に羽のように従って、王舍城に入られた。そのとき帝釈天王が身を変えて摩那婆となり、首に螺の髻を冠り、左の手に金の瓶を執り、右の手に宝の杖を執って、足は虚空を蹈み、地を四指離れて、大衆の中で前に立って仏の路を導いた。そのとき摩揭陀国の頻毗娑羅王は、その国内の諸々の婆羅門、長者、居士の百千万の衆とともに、前後に導き従って、王舍城を出て聖なる衆を奉り迎えた。
57迦羅臂拿迦の邑 — 舍利子の古い故郷
頻毗娑羅王迎佛東南行二十餘里,至迦羅臂拿迦邑,中有窣堵波,無憂王之所建也,是尊者舍利子本生故里,井今尚在。傍有窣堵波,尊者於此寂滅,其中則有遺身舍利。
頻毗娑羅王が仏を迎えたところから東南へ二十余里行くと迦羅臂拿迦の邑に至り、その中に窣堵波があり、無憂王が建てたもので、これは尊者舍利子が生まれた古い里である。井が今もなお残っている。かたわらに窣堵波があり、尊者はここで寂滅し、その中には遺された身の舎利がある。
58舍利子の一生
尊者,大婆羅門種,其父高才博識,深鑒精微,凡諸曲籍莫不究習。其妻感夢,具告夫曰:「吾昨宵寐,夢感異人,身披鎧甲,手執金剛,摧破諸山,退立一山之下。」夫曰:「夢甚善。汝當生男,達學貫世,摧諸論師,破其宗致,唯不如一人,為作弟子。」果而有娠,母忽聰明,高談劇論,言無屈滯。尊者年始八歲,名擅四方,其性淳質,其心慈悲,朽壞結縛,成就智慧。與沒特伽羅子少而相友,深厭塵俗,未有所歸,於是與沒特伽羅子於珊阇耶外道所而修習焉。乃相謂曰:「斯非究竟之理,未能窮苦際也。各求明導,先嘗甘露,必同其味。」時大阿羅漢馬勝執持應器,入城乞食。舍利子見其威儀閑雅,即而問曰:「汝師是誰?」曰:「釋種太子厭世出家,成等正覺,是我師也。」舍利子曰:「所說何法,可得聞乎?」曰:「我初受教,未達深義。」舍利子曰:「願說所聞。」馬勝乃隨宜演說,舍利子聞已,即證初果。遂與其徒二百五十人往詣佛所,世尊遙見,指告眾曰:「我弟子中智慧第一。」至已頂禮,願從佛法。世尊告曰:「善來,比丘!」聞是語時,戒品具足。過半月後,聞佛為長爪梵志說法,聞餘論而感悟,遂證羅漢之果。其後阿難承佛告寂滅期,展轉相語,各懷悲感,舍利子深增戀仰,不忍見佛入般涅槃,遂請世尊,先入寂滅。世尊告曰:「宜知是時。」告謝門人,至本生里,侍者沙彌遍告城邑。未生怨王及其國人莫不風馳,皆悉雲會。舍利子廣為說法,聞已而去。於後夜分,正意系心,入滅盡定,從定起已而寂焉。
尊者は大きな婆羅門の種である。その父は才が高く識が博く、精しく微かなところを深く鑑みて、およそ諸々の曲しい籍までも究め習わないものがなかった。その妻が夢に感じて、夫にくわしく告げて言った。「私は昨の宵、寐ているうちに、夢に異なる人を感じました。身に鎧甲を披り、手に金剛を執って、諸々の山を摧き破り、一つの山の下に退いて立っていました。」夫が言った。「夢はたいへん善い。おまえはきっと男を生むだろう。学に達して世を貫き、諸々の論師を摧いてその宗の致を破るが、ただ一人にだけは及ばず、その弟子となるであろう。」果たして身ごもると、母はたちまち聡明になって、高く談じ激しく論じ、言葉に屈りも滯りもなかった。尊者は年がやっと八歳で、名が四方に擅られ、その性は純朴で質素、その心は慈しみ悲しんで、結びと縛りを朽ち壊し、智慧を成就した。沒特伽羅子と少いときから互いに友となり、塵の俗を深く厭ったが、まだ帰るところがなかった。そこで沒特伽羅子とともに珊阇耶外道のところで修め習った。そして互いに言い合った。「これは究極の理ではない。苦しみの際を窮めることはできない。それぞれ明らかな導き手を求めよう。先に甘露を嘗めたら、必ずその味を同じくしよう。」そのとき大阿羅漢の馬勝が応器を執り持って、城に入って食を乞うた。舍利子はその威儀が閑やかで雅やかなのを見て、すぐに進んで問うて言った。「あなたの師は誰か。」答えて言った。「釈の種の太子が世を厭って出家し、等正覚を成された。これが我が師である。」舍利子が言った。「説かれるのはどのような法か。聞くことができようか。」答えて言った。「私ははじめて教えを受けたばかりで、まだ深い義に達していない。」舍利子が言った。「聞かれたところを説いてほしい。」馬勝はそこで宜しきに随って演べ説いた。舍利子は聞いてしまうと、すぐに初果を証した。そしてついにその徒二百五十人とともに仏のおられるところに詣でると、世尊は遥かに見られて、指して衆に告げて言われた。「我が弟子の中で智慧第一である。」至って頂を礼し、仏の法に従うことを願うと、世尊が告げて言われた。「善く来た、比丘よ。」この語を聞いたとき、戒の品が具わり足りた。半月を過ぎた後、仏が長爪梵志のために法を説かれるのを聞き、他人に向けられた論を聞いて感じ悟り、ついに羅漢の果を証した。その後、阿難が仏から寂滅の期を告げられたことを承けて、次々に語り合い、それぞれ悲しみを懐いたが、舍利子は恋い仰ぐ思いがいよいよ深まって、仏が般涅槃に入られるのを見るのに忍びなかったので、世尊に先に寂滅することを請うた。世尊が告げて言われた。「まさにこの時を知るがよい。」門人に告げ謝して、生まれた里に至ると、侍者の沙弥が城と邑にあまねく告げた。未生怨王とその国の人は風のように馳せない者がなく、みな雲のように会した。舍利子は広く法を説き、聞き終えると人々は去った。その後、夜が更けたころ、意を正し心を繋いで、滅尽定に入り、定から起ってから寂かに去った。
59舍利子の門人たちが涅槃したところ
迦羅臂拿迦邑東南四五里,有窣堵波,是尊者舍利子門人入涅槃處。或曰:「迦葉波佛在世時,有三拘胝大阿羅漢同於此地無餘寂滅。
迦羅臂拿迦の邑の東南四、五里に窣堵波があり、これは尊者舍利子の門人が涅槃に入ったところである。ある説では「迦葉波仏が世におられたとき、三拘胝の大阿羅漢がともにこの地で無余に寂滅した」という。
夾注 1
拘胝者,唐言億。
拘胝とは、唐の言葉では億である。
60帝釈の窟
舍利子門人窣堵波東行三十餘里,至因陁羅勢羅窶訶山。其山巖谷杳冥,花林蓊郁,嶺有兩峰,岌然特起。西峰南巖間有大石室,廣而不高,昔如來嘗於中止。時天帝釋以四十二疑事畫石請問,佛為演釋,其跡猶在。今作此像,擬昔聖儀,入中禮敬者,莫不肅然敬懼。山嶺上有過去四佛坐及經行遺跡之所。東峰上有伽藍,聞諸土俗曰:其中僧眾,或於夜分,望見西峰石室佛像前每有燈炬。常為照燭。
舍利子の門人の窣堵波から東へ三十余里行くと因陀羅勢羅窶訶山に至る。その山の巌と谷は杳かに冥く、花と林は蓊しく郁しい。嶺に二つの峰があり、岌として特に起っている。西の峰の南の巌の間に大きな石室があり、広いが高くはなく、昔、如来がかつてその中に止まられた。そのとき天帝釈が四十二の疑わしい事を石に画いて請い問うたので、仏は演べ釈いてやられた。その跡はなお残っている。今この像を造って、昔の聖なる儀をかたどっているので、中に入って礼し敬う者は、粛然として敬い懼れない者がない。山の嶺の上には過去の四仏が座り、また経行された跡の残るところがある。東の峰の上に伽藍があり、その地の俗に聞くとこう言う。「その中の僧衆は、夜が更けたころ、西の峰の石室の仏像の前につねに灯と炬があって、いつも照らし燭しているのを望み見る。」
夾注 1
唐言帝釋窟也。
唐の言葉では帝釈の窟である。
61雁の塔
因陁羅勢羅窶訶山東峰伽藍前有窣堵波,謂亙娑。昔此伽藍習玩小乘,小乘漸教也,故開三凈之食,而此伽藍遵而不墜。其後三凈求不時獲。有比丘經行,忽見群雁飛翔,戲言曰:「今日眾僧中食不充,摩訶薩埵宜知是時。」言聲未絕,一雁退飛,當其僧前,投身自殞。比丘見已,具白眾僧,聞者悲感,咸相謂曰:「如來設法,導誘隨機。我等守愚,遵行漸教。大乘者。正理也,宜改先執,務從聖旨。此雁垂誡,誠為明導,宜旌厚德,傳記終古。」於是建窣堵波,式昭遺烈,以彼死雁瘞其下焉。
因陀羅勢羅窶訶山の東の峰の伽藍の前に窣堵波があり、亙娑という。昔、この伽藍は小乗を習い玩んでいた。小乗は漸くの教えなので、三つの浄らかな食を開いており、この伽藍はそれに遵って墜とさなかった。その後、三つの浄らかなものを求めても時を得て獲られなかった。ある比丘が経行していて、たちまち雁の群れが飛び翔るのを見て、戯れに言った。「今日は衆僧の昼の食が充ちない。摩訶薩埵はまさにこの時を知るがよい。」言葉の声がまだ絶えないうちに、一羽の雁が退いて飛び、その僧の前に当たって、身を投げて自ら殞ちた。比丘は見てしまうと、衆僧にくわしく申し上げたので、聞いた者は悲しみ感じて、みな互いに言い合った。「如来が法を設けられたのは、機に随って導き誘われたのである。我らは愚かさを守って、漸くの教えを遵い行ってきた。大乗が正しい理である。先に執ったものを改めて、聖なる旨に従うことを務めるべきである。この雁が戒めを垂れたのは、まことに明らかな導きである。厚い徳を旌して、終古に伝え記すべきである。」そこで窣堵波を建てて、法式どおりに遺された烈しさを昭らかにし、あの死んだ雁をその下に瘞めた。
夾注 2
許贈反。
許と贈の反切で読む。
唐言雁。
唐の言葉では雁である。
62迦布德迦の寺 — 鴿となられた如来
因陁羅勢羅窶訶山東北行百五六十里,至迦布德迦伽藍。僧徒二百餘人,學說一切有部。伽藍東有窣堵波,無憂王之所建也。昔佛於此為諸大眾一宿說法。時有羅者於此林中網捕羽族,經日不獲,遂作是言:「我惟薄福,恒為弊事。」來至佛所,揚言唱曰:「今日如來於此說法,令我網捕都無所得,妻孥饑餓,其計安出?」如來告曰:「汝應蕰火,當與汝食。」如來是時化作大鴿,投火而死,羅者持歸,妻孥共食。其後重往佛所,如來方便攝化,羅者聞法,悔過自新,舍家修學,便證聖果。因名所建為鴿伽藍。
因陀羅勢羅窶訶山から東北へ百五、六十里行くと迦布德迦の伽藍に至る。僧徒は二百余人で、説一切有部を学んで説いている。伽藍の東に窣堵波があり、無憂王が建てたものである。昔、仏がここで諸々の大衆のために一夜の間法を説かれた。そのとき網を打つ者がこの林の中で網で羽ある類を捕らえていたが、日が経っても獲られなかったので、ついにこう言った。「私はただ福が薄くて、いつも弊しい事ばかりだ。」そして仏のおられるところに来至り、声を揚げて唱えて言った。「今日、如来がここで法を説かれて、私の網にまったく獲るものがなくなりました。妻と子が饑え餓えておりますが、その計はどこから出せばよいのでしょう。」如来が告げて言われた。「おまえは火を蕰むがよい。おまえに食を与えよう。」如来はこのとき大きな鴿に化して、火に投じて死なれた。網を打つ者は持ち帰って、妻と子とともに食べた。その後あらためて仏のおられるところに往くと、如来は方便をもって摂め化されたので、網を打つ者は法を聞いて、過ちを悔いて自ら新たになり、家を捨てて学を修め、やがて聖なる果を証した。それによって建てたものを鴿の伽藍と名づけた。
夾注 1
唐言鴿。
唐の言葉では鴿である。
63孤山の観自在菩薩の像
迦布德迦伽藍南二三里,至孤山。其山崇峻,樹林郁茂,名花清流,被崖緣壑。上多精舍靈廟,頗極剞劂之工。正中精舍有觀自在菩薩像,軀量雖小,威神感肅,手執蓮華,頂戴佛像。常有數人,斷食要心,求見菩薩,七日、二七日、乃至一月,其有感者,見觀自在菩薩妙相莊嚴,威光赫奕,從像中出,慰諭其人。昔南海僧伽羅國王清旦以鏡照面,不見其身,乃睹贍部洲摩揭陁國多羅林中小山上有此菩薩像。王深感慶,圖以營求。既至此山,寔唯肖似,因建精舍,興諸供養。自後諸王尚想遺風,遂於其側建立精舍靈廟,香花伎樂供養不絕。
迦布德迦の伽藍の南二、三里で孤山に至る。その山は崇く峻しく、樹と林は郁しく茂っていて、名のある花と清い流れが、崖を被い壑を緣っている。上には精舎と霊妙な廟が多く、かなり彫りの工を極めている。ちょうど中の精舎に観自在菩薩の像があり、軀も量も小さいが、威と神しさが感じさせて粛やかである。手に蓮の華を執り、頂に仏の像を戴いている。つねに数人の者が、食を断ち心を要めて、菩薩に見えることを求め、七日、二七日、さらには一月に及ぶが、感ずることのあった者は、観自在菩薩の妙なる相が荘厳で、威の光が赫やかに奕き、像の中から出て、その人を慰め諭すのを見る。昔、南海の僧伽羅国の王が、清らかな朝に鏡で面を照らしたところ、その身が見えず、そのかわりに贍部洲の摩揭陀国の多羅の林の中の小さな山の上に、この菩薩の像があるのを睹た。王は深く感じ慶んで、図に描いて探し求めた。この山に至ると、実にただこれに肖て似ていたので、それによって精舎を建て、諸々の供養を興した。その後、諸々の王が遺された風を尚び想って、ついにそのかたわらに精舎と霊妙な廟を建て立てたので、香と花と伎と楽の供養が絶えない。
64小さな寺と大きな塔
孤山觀自在菩薩像東南行四十餘里,至一伽藍,僧徒五十餘人,並學小乘法教。伽藍前有大窣堵波,多有靈異,佛昔於此為梵天王等七日說法。其側則有過去三佛坐及經行遺跡之所。
孤山の観自在菩薩の像から東南へ四十余里行くと一つの伽藍に至る。僧徒は五十余人で、みな小乗の法と教えを学んでいる。伽藍の前に大きな窣堵波があり、霊妙な異事が多い。仏が昔ここで梵天王らのために七日の間法を説かれた。そのかたわらには、過去の三仏が座り、また経行された跡の残るところがある。
65殑伽河の南の大きな村
伽藍東北行七十餘里,殑伽河南,至大聚落,人民殷盛,有數天祠,並窮雕飾。東南不遠有大窣堵波,佛昔於此一宿說法。
伽藍から東北へ七十余里行くと、殑伽河の南の大きな聚落に至る。人民は殷んで盛んであり、天の祠がいくつかあって、みな彫りと飾りを尽くしている。東南の遠くないところに大きな窣堵波があり、仏が昔ここで一夜の間法を説かれた。
66落般膩羅の村
從此東入山林中,行百餘里,至落般膩羅聚落。伽藍前有大窣堵波,無憂王之所建,佛昔於此三月說法。此北二三里有大池,周三十餘里,四色蓮花四時開發。
ここから東へ山と林の中に入り、百余里行くと落般膩羅の聚落に至る。伽藍の前に大きな窣堵波があり、無憂王が建てたもので、仏が昔ここで三ヶ月の間法を説かれた。この北二、三里に大きな池があり、周囲三十余里で、四つの色の蓮の花が四季に開き発く。
從此東入大山林中,行二百餘里,至伊爛拿缽伐多國。
ここから東へ大きな山と林の中に入り、二百余里行くと伊爛拿缽伐多国に至る。
夾注 1
中印度境。
中インドの境である。