達羅毗荼国達羅毗荼國
達羅毗荼國周六千餘里,國大都城號建志補羅,周三十餘里。土地沃壤,稼穡豐盛,多花果,出寶物。氣序溫暑,風俗勇烈。深篤信義,高尚博識,而語言文字,少異中印度。伽藍百餘所,僧徒萬餘人,皆遵學上座部法。天祠八十餘所,多露形外道也。如來在世,數遊此國,說法度人,故無憂王於諸聖跡皆建窣堵波。
達羅毗荼国は周り六千余里である。国の大都城は建志補羅と号し、周り三十余里である。土地は沃えた壌で、植え収めることが豊かに盛んであり、花も果も多く、宝物が出る。気候は温かく暑く、風俗は勇ましく烈しい。信と義に深く篤く、博く識ることを高く尚ぶが、言葉と文字は中インドと少し異なる。伽藍は百余ヶ所、僧徒は万余人で、みな上座部の法を遵って学ぶ。天祠は八十余ヶ所あり、たいていは形を露わにする外道である。如来が世におられたとき、たびたびこの国に遊んで法を説き人を度されたので、無憂王は諸々の聖なる跡にみな窣堵波を建てた。
2護法菩薩が生まれた城
建志補羅城者,即達磨波羅菩薩本生之城。菩薩此國大臣之長子也,幼懷雅量,長而弘遠。年方弱冠,王姬下降。禮筵之夕,憂心慘淒,對佛像前殷勤祈請。至誠所感,神負遠遁,去此數百里,至山伽藍,坐佛堂中。有僧開戶,見此少年,疑其盜也,更詰問之。菩薩具懷指告,因請出家。眾咸驚異,遂允其志。王乃宣命,推求遐邇,乃知菩薩神負遠塵。王之知也,增深敬異。自染衣已,篤學精勤,令問風範,語在前記。
建志補羅城は、すなわち達磨波羅菩薩が本より生まれた城である。菩薩はこの国の大臣の長子であって、幼くして雅かな量を懷き、長じて弘く遠かった。年がまさに弱冠のころ、王の姫が下り降った。礼の筵の夕べ、憂える心が慘く淒しく、仏像の前に対して殷んに勤めて祈り請うた。至った誠が感ずるところとなり、神が負って遠くに遁れ、ここから数百里離れた山の伽藍に至って、仏堂の中に坐らせた。ある僧が戸を開けてこの少年を見、盗人かと疑って、あらためて詰め問うた。菩薩は懷いを具えて指し告げ、それによって出家を請うたので、衆はみな驚き異しみ、ついにその志を允した。王はそこで命を宣べ、遐くも邇くも推し求めたが、そこで菩薩が神に負われて塵を遠ざかったことを知った。王が知ってからは、敬い異しむことがいっそう深まった。染めた衣を着てからは、篤く学び精しく勤め、その令い問いと風範は、前の記に語ってある。
夾注 1
唐言護法。
唐の言葉では護法である。
3城の南の大きな伽藍
城南不遠有大伽藍,國中聰睿同類萃止。有窣堵波,高百餘尺,無憂王所建也。如來在昔於此說法,摧伏外道,廣度人天。其側則有過去四佛坐及經行遺跡之所。
城の南、遠くないところに大きな伽藍があり、国の中の聡く睿い同じ類の者が萃まり止まっている。窣堵波があり、高さは百余尺で、無憂王が建てたものである。如来は昔ここで法を説き、外道を摧き伏せ、人も天も広く度された。その側には過去の四仏が坐し、経行された遺跡の処がある。
自此南行三千餘里,至秣羅矩咤國。
ここから南へ三千余里行くと、秣羅矩咤国に至る。
夾注 1
亦謂枳秣羅國,南印度境。
枳秣羅国ともいう。南インドの境である。