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師子国師子國

梁書 諸夷伝(梁書に記された諸夷の記録) 梁書 諸夷傳 · 姚思廉 · 636年(唐・貞観10年) · 段落 3 · 漢字 371字 · 朗読 1.5分

梁書 諸夷伝(梁書に記された諸夷の記録) 全一巻 南朝の梁が見た三十六か国。武寧王が「再び強国となった」と知らせた表文、新羅が初めて自らの名で現れる記録、仏の髪と阿育王塔の話、そして扶桑国・女人国のような海の果ての伝説まで — 南海から西域に至る最も幅広い諸夷伝である。

1鬼神と竜の島

師子國,天竺旁國也。其地和適,無冬夏之異。五穀隨人所種,不須時節。其國舊無人民,止有鬼神及龍居之。諸國商估來共市易,鬼神不見其形,但出珍寶,顯其所堪價,商人依價取之。諸國人聞其土樂,因此競至,或有停住者,遂成大國。

師子国は天竺の傍らの国である。その地は和らぎ適っていて、冬と夏の違いがない。五穀は人が種える通りになり、時節を要しない。その国には昔、人民がなく、ただ鬼神と竜だけが住んでいた。諸国の商人が来てともに市い交易したが、鬼神はその姿を見せず、ただ珍しい宝を出して、それに見合う値を示しておくだけで、商人は値のとおりにこれを取っていった。諸国の人はその土地の楽しさを聞き、それによって競い至り、中には留まり住む者もあって、ついに大きな国となった。

2玉の像の話

晉義熙初,始遣獻玉像,經十載乃至。像高四尺二寸,玉色潔潤,形制殊特,殆非人工。此像歷晉、宋世在瓦官寺,寺先有徵士戴安道手制佛像五軀,及顧長康維摩畫圖,世人謂爲三絕。至齊東昏,遂毀玉像,前截臂,次取身,爲嬖妾潘貴妃作釵釧。宋元嘉六年、十二年,其王刹利摩訶遣使貢獻。

晋の義熙の初め、はじめて玉の像を献じたが、十年を経てようやく至った。像の高さは四尺二寸、玉の色は潔く潤い、形と作りは格別で、ほとんど人の手わざではなかった。この像は晋・宋の世を経て瓦官寺にあったが、寺にはそれより先、徴士の戴安道が手ずから作った仏像五軀と、顧長康の維摩の画図があって、世の人はこれを三絶と呼んだ。斉の東昏侯に至って、ついに玉の像を毀し、まず臂を截り、次に身を取って、嬖妾の潘貴妃の釵と釧を作った。宋の元嘉六年と十二年、その王の刹利摩訶が使者を遣わして貢物を献じた。

3伽葉伽羅訶梨邪の表

大通元年,後王伽葉伽羅訶梨邪使奉表曰:「謹白大梁明主:雖山海殊隔,而音信時通。伏承皇帝道德高遠,覆載同於天地,明照齊乎日月,四海之表,無有不從,方國諸王,莫不奉獻,以表慕義之誠。或泛海三年,陸行千日,畏威懷德,無遠不至。我先王以來,唯以脩德爲本,不嚴而治。奉事正法道天下,欣人爲善,慶若己身,欲與大梁共弘三寶,以度難化。信還,伏聽告敕。今奉薄獻,願垂納受。」

大通元年、後の王の伽葉伽羅訶梨邪が使者に表を奉じさせて言った。「謹んで大梁の明らかな主に申し上げます。山と海は隔たって異なるとはいえ、音信は時に通じます。伏して承りますに、皇帝の道徳は高く遠く、覆い載せることは天地と同じく、明るく照らすことは日月に齊しく、四海の表、従わぬものはなく、方国の諸王は奉り献じないものがなくて、義を慕う誠を表し、あるいは海に浮かぶこと三年、陸を行くこと千日であっても、威を畏れ徳を懐い、どれほど遠くとも至らぬことがないとのことです。わたしどもの先の王以来、ただ徳を修めることを本として、厳しくせずとも治まり、正しい法を奉じ事えて天下を導き、人の善を欣ぶことを己の身の慶びのようにしてきました。大梁とともに三宝を弘め、教化し難い者を済いたいと思います。使いが還りましたら、伏して告げ敕されるところを聴きます。いま薄い献り物を奉りますので、受け納めてくださいますように。」