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後娶 — 新たに娶った妻後娶

顔氏家訓(顔氏の家の教え) 顏氏家訓 · 顔之推 · 6世紀末 · 段落 5 · 漢字 669字 · 朗読 2.7分

顔氏家訓(顔氏の家の教え) 全一巻 南北朝末の学者・顔之推が子孫に残した二十篇の家訓。梁に生まれ、西魏・北斉・北周・隋の四つの国をさすらって生き延びた人が「家をそろえ、子孫を目覚めさせるために」書いた文章なので、子の教え方・兄弟・再婚・家の暮らし・身のふるまいと言葉づかい・学び・文章・名と実・足るを知ることから、字と書物の考証、言葉の音、書・絵・弓・占い・琴・碁といった諸芸、そして自分の葬いをどう行えという遺言にまで至る。「車から落ちなければ著作郎」と言われていた梁の貴族の子弟が、乱の後に畑を耕し馬を飼うようになったのを見て「身に持った小さな技は財千万に勝る」と言った箇所、「幼くして学ぶ者は日の昇るときの光のようであり、老いて学ぶ者は蠟燭を持って夜道を行くようなものだ」という箇所がここから出た。後の世の家訓はみなこの書を先祖とする。

1賢い父と孝行な子の間を裂いた継母

吉甫,賢父也,伯奇,孝子也,以賢父御孝子,合得終於天性,而後妻閒之,伯奇遂放。曾參婦死,謂其子曰:「吾不及吉甫,汝不及伯奇。」王駿喪妻,亦謂人曰:「我不及曾參,子不如華、元。」並終身不娶,此等足以爲誡。其後,假繼慘虐孤遺,離閒骨肉,傷心斷腸者,何可勝數。慎之哉!慎之哉!

吉甫は賢い父であり、伯奇は孝行な子であった。賢い父が孝行な子を導いたのだから、そのまま天性のまま生涯を終えるべきであったのに、後妻が二人の間を裂いて、伯奇はついに追い出された。曾参は妻が死んだとき、その子に「私は吉甫に及ばず、お前は伯奇に及ばない」と言った。王駿も妻を失ったとき、人に「私は曾参に及ばず、子は華や元に及ばない」と言い、二人ともに生涯再び妻を娶らなかった。こうした話は戒めとするに十分である。その後、継母が残された子を酷く虐げ、骨肉の間を裂いて、胸を痛め腸を断つようにさせた例は、数え切れない。慎むべきである。慎むべきである。

2江南と河北の再婚の習い

江左不諱庶孽,喪室之後,多以妾媵終家事;疥癬蚊䖟,或未能免,限以大分,故稀鬬鬩之恥。河北鄙於側出,不預人流,是以必須重娶,至於三四,母年有少於子者。後母之弟,與前婦之兄,衣服飲食,爰及婚宦,至於士庶貴賤之隔,俗以爲常。身沒之後,辭訟盈公門,謗辱彰道路,子誣母爲妾,弟黜兄爲傭,播揚先人之辭迹,暴露祖考之長短,以求直己者,往往而有。悲夫!自古姦臣佞妾,以一言陷人者衆矣!況夫婦之義,曉夕移之,婢僕求容,助相說引,積年累月,安有孝子乎?此不可不畏。

江南では庶出を嫌わないので、妻を失ったあとは多く妾に家の事を取り仕切らせて終わる。疥や蚊のような細かな揉め事は免れないとしても、大きな分限で区切っているので、争い合う恥は少ない。河北では側腹の子を卑しんで人の列に加えないので、必ず妻を娶り直し、三度四度にも及んで、母の年が子より若いこともある。後妻の生んだ弟と前妻の生んだ兄との間で、衣服や飲食から婚姻や官職にまで、士と庶、貴と賤ほどの隔たりをつけるのを、世の習いとして当たり前に思っている。父が死んだあとは訴訟が役所の門を埋め、謗りと辱めが道に露わになり、子は母を妾だと偽り、弟は兄を雇い人だと貶め、亡き親の言葉や事跡を言い広め、祖先の長所短所を暴き立てて、自分の言い分を通そうとする者が、あちこちにいる。悲しいことだ。昔から奸臣や媚びる妾が、一言で人を陥れたことは多い。ましてや夫婦の情で朝夕に心を移し、召使いたちが機嫌を取ろうとして口添えし引き入れるのだから、年月が積もって、どうして孝子が残ろうか。これを畏れないわけにはいかない。

3継父は可愛がり継母は虐げる理由

凡庸之性,後夫多寵前夫之孤,後妻必虐前妻之子;非唯婦人懷嫉妒之情,丈夫有沈惑之僻,亦事勢使之然也。前夫之孤,不敢與我子争家,提攜鞠養,積習生愛,故寵之;前妻之子,每居己生之上,宦學婚嫁,莫不爲防焉,故虐之。異姓寵則父母被怨,繼親虐則兄弟爲讎,家有此者,皆門戶之禍也。

普通の人の性として、継父は前夫の遺児を多く可愛がり、後妻は必ず前妻の子を虐げる。女が妬みの心を抱き、男が溺れ惑う癖を持つせいだけではなく、事の勢いがそうさせるのでもある。前夫の遺児は自分の子と家を争うことができず、手を引いて育てているうちに慣れて愛情が生まれるので、可愛がる。前妻の子はいつも自分の生んだ子の上にいて、官職も学業も婚姻も妨げないものがないので、虐げる。他姓の子を可愛がれば父母が恨まれ、継母が虐げれば兄弟が敵になる。家にこういうことがあれば、どれも一門の禍である。

4継母に拝するたびに咽び泣いた子

思魯等從舅殷外臣,博達之士也。有子基、諶,皆已成立,而再娶王氏。基每拜見後母,感慕嗚咽,不能自持,家人莫忍仰視。王亦悽愴,不知所容,旬月求退,便以禮遣,此亦悔事也。

思魯たちの母方の従叔父、殷外臣は博識で物のよく分かった人であった。子の基と諶がどちらも成人したあとで、王氏を妻に娶り直した。基は継母に拝するたびに亡き母を慕って咽び泣き、自分を抑えることができず、家の者は誰も目を上げて見るに堪えなかった。王氏もまた痛ましく思って身の置き所を知らず、十日ばかりで退くことを願ったので、礼をもって送り帰した。これもまた悔いの残る話である。

5後漢書の薛包 — 追い出されても朝ごとに庭を掃く

《後漢書》曰:「安帝時,汝南薛包孟嘗,好學篤行,喪母,以至孝聞。及父娶後妻而憎包,分出之。包日夜號泣,不能去,至被毆杖。不得已,廬於舍外,旦入而洒埽。父怒,又逐之,乃廬於里門,昏晨不廢。積歲餘,父母慚而還之。後行六年服,喪過乎哀。既而弟子求分財異居,包不能止,乃中分其財:奴婢引其老者,曰:『與我共事久,若不能使也。』田廬取其荒頓者,曰:『吾少時所理,意所戀也。』器物取其朽敗者,曰:『我素所服食,身口所安也。』弟子數破其產,還復賑給。建光中,公車特徵,至拜侍中。包性恬虛,稱疾不起,以死自乞。有詔賜告歸也。」

『後漢書』にこうある。「安帝のとき、汝南の薛包(字は孟嘗)は学を好み行いが篤く、母を失って至孝で知られた。父が後妻を迎えると薛包を憎んで、分け出して家から出した。薛包は昼も夜も泣き叫んで去ることができず、杖で打たれるまでになった。やむを得ず家の外に庵を結び、朝になると入って水を打ち掃き清めた。父が怒ってまた追い出したので、村の門のそばに庵を結び、朝夕の挨拶を欠かさなかった。一年あまり経って、父母は恥じて呼び戻した。のちに六年の喪に服し、その悲しみは度を越えていた。やがて弟の子が財産を分けて別に住みたいと願い、薛包は止めることができず、財産を半分に分けた。奴婢は年老いた者を引き取り、『私と長く一緒に働いてきたから、お前には使えないだろう』と言い、田と家は荒れ崩れたものを取り、『私が若いころ手入れしたもので、心に懐かしい』と言い、器物は朽ちて壊れたものを取り、『私がいつも使い食べてきたもので、体と口に馴染んでいる』と言った。弟の子が何度も財産を使い果たすと、そのたびに助け与えた。建光のころ、公車で特に召されて侍中に任じられた。薛包は性質が淡々として虚心であったので、病と称して出ず、死をもって辞することを願った。詔が下り、休暇を賜って帰らせた。」