書証 — 字と書を調べる書證
1「参差荇菜」の荇は水草であって莧ではない
詩云:「參差荇菜。」爾雅云:「荇,接余也。」字或爲莕。先儒解釋皆云:水草,圓葉細莖,隨水淺深。今是水悉有之,黃花似蒓,江南俗亦呼爲豬蒓,或呼爲荇菜。劉芳具有注釋。而河北俗人多不識之,博士皆以參差者是莧菜,呼人莧爲人荇,亦可笑之甚。
『詩経』に「参差たる荇菜」とあり、『爾雅』に「荇は接余である」とあって、字は莕とも書く。昔の儒者の解釈はどれも、水草で、葉が丸く茎が細く、水の深さ浅さに従うとしている。今、水のあるところにはどこにもあって、黄色い花が蒓に似ているので、江南の俗称では豬蒓といい、荇菜とも呼ぶ。劉芳が詳しく注釈している。ところが河北の俗人はこれを知らない者が多く、博士たちはみな「参差」とあるのを莧だと思って、人の食べる莧を「人荇」と呼ぶ。笑うべきことこの上ない。
2「誰が荼を苦いというのか」の苦菜
詩云:「誰謂荼苦?」爾雅、毛詩傳並以荼,苦菜也。又禮云:「苦菜秀。案:易統通卦驗玄圖曰:「苦菜生於寒秋,更冬歷春,得夏乃成。」今中原苦菜則如此也。一名遊冬,葉似苦苣而細,摘斷有白汁,花黃似菊。江南別有苦菜,葉似酸漿,其花或紫或白,子大如珠,熟時或赤或黑,此菜可以釋勞。案:郭璞注爾雅,此乃蘵黃蒢也。今河北謂之龍葵。梁世講禮者,以此當苦菜;旣無宿根,至春方生耳,亦大誤也。又高誘注呂氏春秋曰:「榮而不實曰英。」苦菜當言英,益知非龍葵也。
『詩経』に「誰が荼を苦いというのか」とあり、『爾雅』と『毛詩伝』はどちらも荼を苦菜としている。また『礼記』に「苦菜が穂を出す」とある。調べてみると『易統通卦験玄図』に「苦菜は寒い秋に生え、冬を越し春を経て、夏になってはじめて成る」とあり、今の中原の苦菜がそのとおりである。別名を遊冬といい、葉は苦苣に似て細く、摘み切ると白い汁が出て、花は黄色く菊に似ている。江南には別の苦菜があって、葉は酸漿に似て、花は紫か白、実は珠ほどの大きさで、熟すと赤か黒になる。この菜は疲れを解すことができる。調べてみると、郭璞の『爾雅』注では、これは蘵黄蒢であり、今、河北で龍葵と呼ぶものである。梁の世で『礼記』を講じる人たちは、これを苦菜だと思っていたが、越年の根がなく春になってやっと生えるのだから、これも大きな誤りである。また高誘が『呂氏春秋』に注して「花が咲いて実を結ばないものを英という」と言っているので、苦菜は英と言うべきであり、龍葵でないことがいよいよわかる。
3「有杕之杜」の杕を狄と読む河北本
詩云:「有杕之杜。」江南本並木傍施大,傳曰:「杕,獨貌也。」徐仙民音徒計反。説文曰:「杕,樹貌也。」在木部。韻集音次第之第,而河北本皆爲夷狄之狄,讀亦如字,此大誤也。
『詩経』に「有杕之杜」とある。江南本はどれも木偏に大と書き、伝に「杕は独り立つさま」とあり、徐仙民は徒と計の反切で読んだ。『説文』に「杕は樹のさま」とあって木部に入っている。『韻集』は次第の第の音で読んだ。ところが河北本はどれも夷狄の狄と書き、読みもその字のまま読む。これは大きな誤りである。
4「駉駉牡馬」の牡は雄馬であって放牧の牧ではない
詩云:「駉駉牡馬。」江南書皆作牝牡之牡,河北本悉爲放牧之牧。鄴下博士見難云:「駉頌旣美僖公牧於垧野之事,何限騲騭乎?」余答曰:「案:毛傳云:『駉駉,良馬腹幹肥張也。』其下又云:『諸侯六閑四種:有良馬,戎馬,田馬,駑馬。』若作放牧之意,通於牝牡,則不容限在良馬獨得駉駉之稱。良馬,天子以駕玉輅,諸侯以充朝聘郊祀,必無騲也。周禮圉人職:『良馬,匹一人。駑馬,麗一人。』圉人所養,亦非騲也;頌人舉其強駿者言之,於義爲得也。易曰:『良馬逐逐。』左傳云:『以其良馬二。』亦精駿之稱,非通語也。今以詩傳良馬,通於牧騲,恐失毛生之意,且不見劉芳義證乎?」
『詩経』に「駉駉たる牡馬」とある。江南の書はどれも牝牡の牡と書き、河北本はどれも放牧の牧と書く。鄴の博士が詰め寄って「駉の頌は僖公が垧の野で馬を飼ったことを讃えたものだ。どうして牝と牡を限るのか」と言った。私は答えた。「調べてみると、毛伝に『駉駉は良い馬の腹と胴が肥えて張っていること』とあり、その下にまた『諸侯は六つの馬屋に四つの種類がある。良馬・戎馬・田馬・駑馬である』とある。放牧の意味とし牝牡に通じるとするなら、良馬だけが駉駉という呼び名を得ることに限られはしない。良馬は天子が玉の車を牽かせ、諸侯が朝聘や郊祀に用いるのだから、牝馬であるはずがない。『周礼』圉人の職に『良馬は一頭に一人、駑馬は二頭に一人』とあるから、圉人が養うのも牝馬ではない。頌を作った人がその強く駿なるものを挙げて言ったとするのが、意味にかなう。『易』に『良馬が逐う』とあり、『左伝』に『その良馬二頭で』とあるが、これもすぐれた駿馬を指す呼び方であって、広く通じる言葉ではない。今、『詩伝』の良馬を牝馬を飼うことにまで通じさせれば、毛公の意味を失うだろう。それに劉芳の『義証』をご覧になっていないのか。」
5「荔挺」は草の名ではなく「荔がまっすぐに出る」
月令云:「荔挺出。」鄭玄注云:「荔挺,馬薤也。」説文云:「荔,似蒲而小,根可爲刷。」廣雅云:「馬薤,荔也。」通俗文亦云馬藺。易統通卦驗玄圖云:「荔挺不出,則國多火災。」蔡邕月令章句云:「荔似挺。」高誘注呂氏春秋云:「荔草挺出也。」然則月令注荔挺爲草名,誤矣。河北平澤率生之。江東頗有此物,人或種於階庭,但呼爲旱蒲,故不識馬薤。講禮者乃以爲馬莧;馬莧堪食,亦名豚耳,俗名馬齒。江陵嘗有一僧,面形上廣下狹;劉緩幼子民譽,年始數歲,俊晤善體物,見此僧云:「面似馬莧。」其伯父縧因呼爲荔挺法師。縧親講禮名儒,尙誤如此。
「月令」に「荔挺が出る」とあり、鄭玄の注に「荔挺は馬薤である」とある。『説文』に「荔は蒲に似て小さく、根で刷を作れる」とあり、『広雅』に「馬薤は荔である」とあり、『通俗文』も馬藺としている。『易統通卦験玄図』に「荔挺が出なければ、国に火災が多い」とあり、蔡邕の『月令章句』に「荔は挺に似ている」とあり、高誘の『呂氏春秋』注に「荔の草がまっすぐに出る」とある。とすれば「月令」の注が荔挺を草の名としたのは誤りである。河北の平らな沢によく生える。江東にもこれはかなりあって、人は庭に植えることもあるが、ただ旱蒲と呼ぶので、馬薤だと知らない。『礼記』を講じる人は馬莧だと思っている。馬莧は食べられ、豚耳ともいい、俗名は馬歯である。江陵にある僧がいて、顔の形が上が広く下が狭かった。劉緩の幼い子の民誉は、年がやっと数歳で、賢く物をよく捉えたので、この僧を見て「顔が馬莧のようだ」と言った。その伯父の劉絛はそれで荔挺法師と呼んだ。劉絛は自ら『礼記』を講じた名高い儒者であるのに、誤りがこのようであった。
6「施施」を施一つで書いた江南の古い本
詩云:「將其來施施。」毛傳云:「施施,難進之意。」鄭箋云:「施施,舒行貌也。」韓詩亦重爲施施。河北毛詩皆云施施。江南舊本,悉單爲施,俗遂是之,恐爲少誤。
『詩経』に「将にその来ること施施たり」とあり、毛伝に「施施は進みにくいという意味」とあり、鄭箋に「施施はゆったり行くさま」とある。『韓詩』も重ねて施施としており、河北の『毛詩』もどれも施施としている。江南の古い本はどれも施一つだけにしてあって、俗もついにそれを正しいとしているが、少し誤っているのではないかと思う。
7「興雲祁祁」の雲は雨
詩云:「有渰萋萋,興雲祁祁。」毛傳云:「渰,陰雲貌。萋萋,雲行貌。祁祁,徐貌也。」箋云:「古者,陰陽和,風雨時,其來祁祁然,不暴疾也。」案:渰已是陰雲,何勞復云「興雲祁祁」耶?「雲」當爲「雨」,俗寫誤耳。班固靈臺詩云:「三光宣精,五行布序,習習祥風,祁祁甘雨。」此其證也。
『詩経』に「有渰萋萋、興雲祁祁(陰る雲は萋萋とし、雲が起こって祁祁とする)」とあり、毛伝に「渰は陰る雲のさま、萋萋は雲が行くさま、祁祁は緩やかなさま」とあり、箋に「昔は陰陽が和し、風雨が時にかなって、その来ることが祁祁として、激しくなかった」とある。調べてみると、渰がすでに陰る雲であるのに、どうしてまた「雲が起こって祁祁」と言う必要があろうか。「雲」は「雨」であるべきで、俗人が写し誤ったのである。班固の「霊台詩」に「三光は精を宣べ、五行は序を布く。習習たる祥風、祁祁たる甘雨」とある。これがその証しである。
8「猶豫」と「狐疑」の由来
禮云:「定猶豫,決嫌疑。」離騷曰:「心猶豫而狐疑。」先儒未有釋者。案:尸子曰:「五尺犬爲猶。」説文云:「隴西謂犬子爲猶。」吾以爲人將犬行,犬好豫在人前,待人不得,又來迎候,如此返往,至於終日,斯乃豫之所以爲未定也,故稱猶豫。或以爾雅曰:「猶如麂,善登木。」猶,獸名也,旣聞人聲,乃豫緣木,如此上下,故稱猶豫。狐之爲獸,又多猜疑,故聽河冰無流水聲,然後敢渡。今俗云:「狐疑,虎卜。」則其義也。
『礼記』に「猶豫を定め、嫌疑を決する」とあり、「離騒」に「心は猶豫して狐疑する」とあるが、昔の儒者に解いた者がない。調べてみると『尸子』に「五尺の犬を猶という」とあり、『説文』に「隴西では犬の子を猶という」とある。私が思うには、人が犬を連れて行くと、犬はあらかじめ人の前に出るのを好み、人を待ちきれずにまた戻って迎えに来る。こうして行き来して一日を終えるのだから、これが豫が定まらないことになるわけで、だから猶豫と呼ぶ。あるいは『爾雅』に「猶は麂に似て、木に登るのがうまい」とあるので、猶は獣の名で、人の声を聞くとあらかじめ木に登り、こうして上り下りするから猶豫と呼ぶのだともいう。狐という獣はまた疑いが多く、黄河の氷の下に流れる水の音がないのを聞いてから、はじめて渡る勇気を出す。今のことわざに「狐は疑い、虎は卜う」というのが、その意味である。
9「斉侯痎」を疥と読む誤り
左傳曰:「齊侯痎,遂痁。」説文云:「痎,二日一發之瘧。痁,有熱瘧也。」案:齊侯之病,本是間日一發,漸加重乎故,爲諸侯憂也。今北方猶呼痎瘧,音皆。而世間傳本多以痎爲疥,杜征南亦無解釋,徐仙民音介,俗儒就爲通云:「病疥,令人惡寒,變而成瘧。」此臆説也。疥癬小疾,何足可論,寧有患疥轉作瘧乎?
『左伝』に「斉侯が痎を患い、ついに痁となった」とある。『説文』に「痎は二日に一度発する瘧、痁は熱のある瘧である」とある。調べてみると、斉侯の病はもともと一日おきに発するもので、だんだん重くなったので、諸侯の憂いとなったのである。今も北方では痎瘧と呼び、音は皆である。ところが世間の伝本は多く痎を疥と書いており、杜征南にも解釈がなく、徐仙民は介と読み、俗な儒者たちは取り繕って「疥を患うと寒気がして、変じて瘧になる」と言うが、これは当て推量である。疥は小さな病で、どうして論ずるに足ろう。疥を患って瘧に変わることなど、あるだろうか。
夾注 1
杜征南
杜征南とは杜預のことである。底本にない本名を、読む人が誰を指すかわかるように本文に挟んでおいたが、朗読では一人の人が二つの名で聞こえてしまうので、注に移した。 ― 訳者
10影は本来は景
尙書曰:「惟影響。」周禮云:「土圭測影,影朝影夕。」孟子曰:「圖影失形。」莊子云:「罔兩問影。」如此等字,皆當爲光景之景。凡陰景者,因光而生,故即謂爲景。淮南子呼爲景柱,廣雅云:「晷柱挂景。」並是也。至晉世葛洪字苑,傍始加影□〔去掉景〕,音於景反。而世間輒改治尙書、周禮、莊、孟從葛洪字,甚爲失矣。
『尚書』に「影と響きのようだ」とあり、『周礼』に「土圭で影を測り、朝の影と夕の影」とあり、『孟子』に「影を描いて形を失う」とあり、『荘子』に「罔両が影に問う」とある。こうした字はどれも光景の景であるべきである。陰る影というものは光によって生じるので、そのまま景という。『淮南子』は景柱と呼び、『広雅』に「晷柱が景を懸ける」とあるが、どれもこれである。晋の世の葛洪の『字苑』に至って、はじめて傍に彡を加えて影となり、音は於と景の反切である。ところが世間ではすぐに『尚書』『周礼』『荘子』『孟子』を葛洪の字に従って直してしまうので、ひどい誤りである。
11軍の陳を陣に直すな
太公六韜,有天陳、地陳、人陳、雲鳥之陳。論語曰:「衞靈公問陳於孔子。」左傳:「爲魚麗之陳。」俗本多作阜傍車乘之車。案諸陳隊,並作陳、鄭之陳。夫行陳之義,取於陳列耳,此六書爲假借也,蒼、雅及近世字書,皆無別字;唯王羲之小學章,獨阜傍作車,縱復俗行,不宜追改六韜、論語、左傳也。
太公の『六韜』に、天陳・地陳・人陳・雲鳥の陳がある。『論語』に「衛の霊公が孔子に陳を問うた」とあり、『左伝』に「魚麗の陳を敷いた」とあるが、俗本には多く阜偏に車乗の車を書く。調べてみると、諸々の軍の隊は、どれも陳・鄭の陳と書く。行陳の意味は陳列から取ったものであり、これは六書の仮借である。『蒼頡』『爾雅』や近い世の字書には、どれも別の字がなく、ただ王羲之の『小学章』だけが阜偏に車を書いている。俗に通用していても、『六韜』『論語』『左伝』を追いかけて直すべきではない。
12「灌木」は叢がる木
詩云:「黃鳥于飛,集於灌木。」傳云:「灌木,叢木也。」此乃爾雅之文,故李巡注曰:「木叢生曰灌。」爾雅末章又云:「木族生爲灌。」族亦叢聚也。所以江南詩古本皆爲叢聚之叢,而古叢字似最字,近世儒生,因改爲最,解云:「木之最高長者。」案:眾家爾雅及解詩無言此者,唯周續之毛詩注,音爲徂會反,劉昌宗詩注,音爲在公反,又祖會反:皆爲穿鑿,失爾雅訓也。
『詩経』に「黄色い鳥が飛んで、灌木に集まる」とあり、伝に「灌木は叢がる木である」とある。これは『爾雅』の文なので、李巡の注に「木が叢がって生えるのを灌という」とある。『爾雅』の末の章にまた「木が族がって生えるのを灌とする」とあり、族も叢がり集まることである。だから江南の『詩経』の古い本はどれも叢聚の叢と書くのだが、古い叢の字が最の字に似ているので、近い世の儒生が最に直して「木のうちで最も高く長いもの」と解いた。調べてみると、諸家の『爾雅』や詩の解にこう言った者はなく、ただ周続之の『毛詩注』が徂と会の反切で読み、劉昌宗の詩注が在と公の反切、また祖と会の反切で読んでいる。どれも無理に穿ったもので、『爾雅』の訓を失っている。
13「也」の字をすべて削ってしまった河北の経伝
「也」是語已及助句之辭,文籍備有之矣。河北經傳,悉略此字,其間字有不可得無者,至如「伯也執殳」,「於旅也語」,「回也屢空」,「風,風也,教也」,及詩傳云:「不戢,戢也;不儺,儺也。」「不多,多也。」如斯之類,儻削此文,頗成廢闕。詩言:「靑靑子衿。」傳曰:「靑衿,靑領也,學子之服。」按:古者,斜領下連於衿,故謂領爲衿。孫炎、郭璞注爾雅,曹大家注列女傳,並云:「衿,交領也。」鄴下詩本,旣無「也」字,群儒因謬説云:「靑衿、靑領,是衣兩處之名,皆以靑爲飾。」用釋「靑靑」二字,其失大矣!又有俗學,聞經傳中時須也字,輒以意加之,每不得所,益成可笑。
「也」は言葉の終わりと句を助ける語であり、文籍にはすべて備わっている。河北の経伝はこの字をみな省いているが、その中には省いてはならない字もある。「伯や殳を執る」「旅に於いてや語る」「回や屢しば空し」「風は風なり、教なり」、また詩伝の「戢まざるは、戢まるなり。儺わざるは、儺うなり」「多からざるは、多きなり」のような例は、この字を削れば、たちまち欠け落ちた文になる。『詩経』に「青青たる子の衿」とあり、伝に「青衿は青い領であり、学ぶ者の服である」とある。調べてみると、昔は斜めの領が下で衿に続いていたので、領を衿と呼んだ。孫炎と郭璞の『爾雅』注、曹大家の『列女伝』注はどれも「衿は交わった領である」としている。鄴の『詩経』の本には「也」の字がないので、多くの儒者がそれで誤って「青衿と青領は衣の二か所の名であり、どちらも青で飾る」と言い、それで「青青」の二字を解いているが、その誤りは大きい。また俗な学者が、経伝の中にときどき「也」の字が必要だと聞いて、すぐ自分の考えで加えるので、いつも置き場所を外して、いっそう笑いものになる。
14『易』の蜀才の注は誰か
易有蜀才注,江南學士,遂不知是何人。王儉四部目錄,不言姓名,題云:「王弼後人。」謝炅、夏侯該,並讀數千卷書,皆疑是譙周;而李蜀書一名漢之書,云:「姓范名長生,自稱蜀才。」南方以晉家渡江後,北間傳記,皆名爲僞書,不貴省讀,故不見也。
『易』に蜀才の注があるが、江南の学士たちは、ついにそれが誰なのか知らない。王倹の『四部目録』は姓名を言わず、「王弼の後の人」と記している。謝炅と夏侯該はどちらも数千巻の書を読んだが、どちらも譙周ではないかと疑った。ところが李氏の『蜀書』、別名『漢之書』に「姓は范、名は長生で、自ら蜀才と称した」とある。南方では晋が川を渡ってから、北の伝記をどれも偽書といって読むことを貴ばなかったので、見なかったのである。
15「臝股肱」の臝は袖をまくること
禮王制云:「臝股肱。」鄭注云:「謂揎衣出其臂脛。」今書皆作擐甲之擐。國子博士蕭該云:「擐當作揎,音宣,擐是穿著之名,非出臂之義。」案字林,蕭讀是,徐爰音患,非也。
『礼記』王制に「臝股肱」とあり、鄭玄の注に「衣をまくり上げてその腕と脛を出すことをいう」とある。今の書はどれも甲を着る擐と書いている。国子博士の蕭該は「擐は揎と書くべきで、音は宣である。擐は通して着ることの名であって、腕を出すという意味ではない」と言った。『字林』で調べると、蕭該の読みが正しく、徐爰が患と読んだのは誤りである。
16「田肯」か「田宵」か
漢書:「田肯賀上。」江南本皆作「宵」字。沛國劉顯,博覽經籍,偏精班漢,梁代謂之漢聖。顯子臻,不墜家業。讀班史,呼爲田肯。梁元帝嘗問之,答曰:「此無義可求,但臣家舊本,以雌黃改『宵』爲『肯』。」元帝無以難之。吾至江北,見本爲「肯」。
『漢書』に「田肯が上に賀した」とあるが、江南本はどれも「宵」の字になっている。沛国の劉顕は経籍を広く見て、とりわけ班固の『漢書』に精しく、梁の世では漢聖と呼ばれた。劉顕の子の劉臻も家業を落とさなかった。班固の史書を読んで、田肯と呼んだ。梁の元帝がかつてそれを尋ねると、「ここには求めるべき意味はありませんが、ただ私の家の古い本では、雌黄で『宵』を『肯』に直してあります」と答えた。元帝は言い返せなかった。私が江北に至って見ると、本は「肯」になっていた。
17「紫色蛙声」は姿のことではない
漢書王莽贊云:「紫色蛙聲,餘分閏位。」蓋謂非玄黃之色,不中律呂之音也。近有學士,名問甚高,遂云:「王莽非直鳶髆虎視,而復紫色蛙聲。」亦爲誤矣。
『漢書』の王莽の賛に「紫色と蛙の声、余った分の閏の位」とあるのは、おおむね正しい黒や黄の色ではなく、律呂に合う音でもないという意味である。近ごろある学士がいて、名はとても高いのに、ついに「王莽は鳶の肩と虎の眼差しであっただけでなく、さらに紫の色に蛙の声だった」と言った。これも誤りである。
18策と筴、悉と述、妒と姤
簡策字,竹下施朿,末代隸書,似杞、宋之宋,亦有竹下遂爲夾者;猶如刺字之傍應爲朿,今亦作夾。徐仙民春秋、禮音,遂以筴爲正字,以策爲音,殊爲顛倒。史記又作悉字,誤而爲述,作妒字,誤而爲姤,裴、徐、鄒皆以悉字音述,以妒字音姤。旣爾,則亦可以亥爲豕字音,以帝爲虎字音乎?
簡策の策の字は、竹の下に朿を書くのだが、末の世の隷書は杞・宋の宋に似ており、竹の下をついに夾と書いたものもある。刺の字の傍も朿であるべきなのに、今また夾と書くのと同じである。徐仙民の『春秋音』『礼音』は、ついに筴を正しい字とし、策を音としており、ひどく逆さまである。『史記』はまた悉の字を誤って述と書き、妒の字を誤って姤と書いているのに、裴駰・徐広・鄒誕生はどれも悉の字を述と読み、妒の字を姤と読んだ。それならば、亥を豕の字の音とし、帝を虎の字の音とすることもできようか。
19虙羲を宓羲と誤り書いた経緯
張揖云:「虙,今伏羲氏也。」孟康漢書古文注亦云:「虙,今伏。」而皇甫謐云:「伏羲或謂之宓羲。」按諸經史緯候,遂無宓羲之號。虙字從虍,宓字從宓□〔去掉必〕,下俱爲必,末世傳寫,遂誤以虙爲宓,而帝王世紀因更立名耳。何以驗之?孔子弟子虙子賤爲單父宰,即虙羲之後,俗字亦爲宓,或復加山。今兗州永昌郡城,舊單父地也,東門有子賤碑,漢世所立,乃曰:「濟南伏生,即子賤之後。」是知虙之與伏,古來通字,誤以爲宓,較可知矣。
張揖は「虙は今の伏羲氏である」と言い、孟康の『漢書古文注』も「虙は今の伏である」と言っている。ところが皇甫謐は「伏羲を宓羲ともいう」と言っている。調べてみると、諸々の経や史や緯や候に、ついに宓羲という名はない。虙の字は虍に従い、宓の字は宀の下に□〔去掉必〕に従って、下はどちらも必である。末の世に写すうちに、ついに虙を宓と誤って書き、『帝王世紀』がそれでまた名を立てただけである。何でそれを証すのか。孔子の弟子の虙子賤が単父の宰となったが、これは虙羲の後裔であり、俗字でもやはり宓と書き、ときに山を加えることもある。今の兗州永昌郡城は昔の単父の地であり、東門に子賤の碑があって漢の世に立てられたものだが、「済南の伏生は、すなわち子賤の後裔である」とある。これで虙と伏が昔から通用する字であり、宓と誤って書いたものだと、はっきりわかる。
20「鶏の口になっても牛の尾にはなるな」の原文
太史公記曰:「寧爲雞口,無爲牛後。」此是删戰國策耳。案:延篤戰國策音義曰:「尸,雞中之主。從,牛子。」然則,「口」當爲「尸」,「後」當爲「從」,俗寫誤也。
太史公の記に「鶏の口になっても、牛の後ろにはなるな」とあるが、これは『戦国策』を削ったものである。調べてみると、延篤の『戦国策音義』に「尸は鶏の中の主である。従は牛の子である」とある。とすれば、「口」は「尸」であるべきで、「後」は「従」であるべきで、俗人が写し誤ったのである。
21「伎癢」が「徘徊」に変わる
應劭風俗通云:「太史公記:『高漸離變名易姓,爲人庸保,匿作於宋子,久之作苦,聞其家堂上有客擊筑,伎癢,不能無出言。』」案:伎癢者,懷其伎而腹癢也。是以潘岳射雉賦亦云:「徒心煩而伎癢。」今史記並作「徘徊」,或作「彷徨不能無出言」,是爲俗傳寫誤耳。
応劭の『風俗通』に「太史公の記に『高漸離は名と姓を変え、人に雇われて働き、宋子に隠れて働いていたが、長く苦しく働いているうちに、その家の堂の上で客が筑を弾くのを聞いて、技が痒くなり、口に出さずにいられなかった』とある」と記されている。調べてみると、伎癢とは、自分の技を抱えていて腹の中が痒いことである。だから潘岳の「射雉賦」にも「ただ心が煩わしく技が痒い」とある。今の『史記』はどれも「徘徊」と書き、ときに「彷徨して口に出さずにいられなかった」と書いている。これは俗に伝え写すうちの誤りである。
22「妒媚」は「妒媢」
太史公論英布曰:「禍之興自愛姬,生於妒媚,以至滅國。」又漢書外戚傳亦云:「成結寵妾妒媚之誅。」此二「媚」並當作「媢」,媢亦妒也,義見禮記、三蒼。且五宗世家亦云:「常山憲王後妒媢。」王充論衡云:「妒夫媢婦生,則忿怒鬬訟。」益知媢是妒之別名。原英布之誅爲意賁赫耳,不得言媚。
太史公が英布を論じて「禍の起こりは愛する妾からで、妒媚から生じて、国を滅ぼすに至った」と言い、また『漢書』外戚伝にも「ついに寵妾の妒媚で誅を受けることになった」とある。この二つの「媚」はどちらも「媢」であるべきで、媢も妬むという意味であり、その義は『礼記』『三蒼』に見える。それに「五宗世家」にも「常山憲王の后が妒媢した」とあり、王充の『論衡』に「妬む夫と妬む妻が生まれれば、怒り争って訴え合う」とあるので、媢が妬みの別名であることがいよいよわかる。英布が誅されたもとは賁赫を疑ったことであるから、媚とは言えない。
23秦の秤のおもりの銘で「隗林」が「隗狀」だとわかる
史記始皇本紀:「二十八年,丞相隗林、丞相王綰等,議於海上。」諸本皆作山林之「林。」。開皇二年五月,長安民掘得秦時鐵稱權,旁有銅塗鐫銘二所。其一所曰:「廿六年,皇帝盡並兼天下諸侯,黔首大安,立號爲皇帝,乃詔丞相狀、綰,法度量則不壹嫌疑者,皆明壹之。」凡四十字。其一所曰:「元年,制詔丞相斯、去疾,法度量,盡始皇帝爲之,皆有刻辭焉。今襲號而刻辭不稱始皇帝,其於久遠也,如後嗣爲之者,不稱成功盛德,刻此詔□左,使毋疑。」凡五十八字,一字磨滅,見有五十七字,了了分明。其書兼爲古隸。余被敕寫讀之,與內史令李德林對,見此稱權,今在官庫;其「丞相狀」字,乃爲狀貌之「狀」,丬旁作犬;則知俗作「隗林」,非也,當爲「隗狀」耳。
『史記』始皇本紀に「二十八年、丞相の隗林と丞相の王綰たちが海の上で議した」とあり、諸本はどれも山林の「林」になっている。開皇二年五月、長安の民が土を掘って秦の時代の鉄の秤のおもりを手に入れた。その傍に銅をかぶせて刻んだ銘が二か所あった。一方には「二十六年、皇帝が天下の諸侯をすべて併せ、民が大いに安らぎ、号を立てて皇帝とし、そこで丞相の狀と綰に詔して、度量の法が一つに揃わず疑わしいものを、すべて明らかにして一つにさせた」とあり、全部で四十字である。一方には「元年、丞相の斯と去疾に制詔する。度量の法は、すべて始皇帝が作られたもので、どれも刻んだ辞がある。今、号を継いで刻む辞に始皇帝と称さなければ、久しく年を経て後嗣が作ったもののように見え、成した功と盛んな徳を称えられないことになるから、この詔を□左に刻んで、疑いのないようにせよ」とあり、全部で五十八字で、一字は磨り減って、五十七字がはっきり見える。その書体は古隷を兼ねていた。私は勅を受けて写し読み、内史令の李徳林と向き合って、この秤のおもりを見た。今は官の蔵にある。その「丞相狀」の字は、まさに狀貌の狀で、丬の傍に犬を書いていた。だから俗本の「隗林」が誤りで、「隗狀」であるべきだとわかる。
24「中外禔福」の禔は示偏
漢書云:「中外禔福。」字當從示。禔,安也,音匙匕之匙,義見蒼雅、方言。河北學士皆云如此。而江南書本,多誤從手,屬文者對耦,並爲提挈之意,恐爲誤也。
『漢書』に「内も外も禔福である」とあるが、字は示に従うべきである。禔は安らかという意味で、音は匙匕の匙であり、その義は『蒼頡』『爾雅』『方言』に見える。河北の学士はみなこう言っている。ところが江南の書は多く誤って手に従わせ、文を作る者は対を合わせて、どれも提挈の意味にしているので、誤りではないかと思う。
25「禁中」を「省中」と言ったわけ
或問:「漢書注:『爲元后父名禁,故禁中爲省中。』何故以『省』代『禁』?」答曰:「案:周禮宮正:『掌王宮之戒令糾禁。』鄭注云:『糾,猶割也,察也。』李登云:『省,察也。』張揖云:『省,今省祭□〔示改言〕也。』然則小井、所領二反,並得訓察。其處旣常有禁衞省察,故以『省』代『禁』。祭□〔示改言〕,古察字也。」
ある人が尋ねた。「『漢書』の注に『元后の父の名が禁であったので、禁中を省中とした』とありますが、どうして『省』で『禁』に代えたのですか。」答えた。「調べてみると『周礼』宮正に『王宮の戒令と糾禁を掌る』とあり、鄭玄の注に『糾は割くようなもの、察するようなものである』とある。李登は『省は察することである』と言い、張揖は『省は今の省□〔示改言〕である』と言っている。とすれば、小井と所領の二つの反切が、どちらも察するという訓を得る。その場所にはいつも禁衛がいて省察しているので、『省』で『禁』に代えたのである。□〔示改言〕は古い察の字である。」
26「四姓小侯」とは外戚の小さな侯
漢明帝紀:「爲四姓小侯立學。」按:桓帝加元服,又賜四姓及梁、鄧小侯帛,是知皆外戚也。明帝時,外戚有樊氏、郭氏、陰氏、馬氏爲四姓。謂之小侯者,或以年小獲封,故須立學耳。或以侍祠猥朝,侯非列侯,故曰小侯,禮云:「庶方小侯。」則其義也。
漢の明帝紀に「四姓の小侯のために学を立てた」とある。調べてみると、桓帝が元服を加えたとき、また四姓と梁・鄧の小侯に帛を賜ったので、どれも外戚だとわかる。明帝のとき、外戚に樊氏・郭氏・陰氏・馬氏があって四姓となった。小侯というのは、年が小さいうちに封を得たので、学を立てる必要があったからである。あるいは、侍祠や猥朝であって、侯が列侯ではないので小侯といったともいう。『礼記』に「庶方の小侯」とあるのが、その意味である。
27鸛雀がくわえたのは鱣ではなく鱔
後漢書云:「鸛雀銜三鱔魚。」多假借爲鱣鮪之鱣;俗之學士,因謂之爲鱣魚。案:魏武四時食制:「鱣魚大如五斗奩,長一丈。」郭璞注爾雅:「鱣長二三丈。」安有鸛雀能勝一者,況三乎?鱣又純灰色,無文章也。鱔魚長者不過三尺,大者不過三指,黃地黑文;故都講云:「蛇鱔,卿大夫服之象也。」續漢書及搜神記亦説此事,皆作「鱔」字。孫卿云:「魚鱉鰍鱣。」及韓非、説苑皆曰:「鱣似蛇,蠶似蠋。」並作「鱣」字。假「鱣」爲「鱔」,其來久矣。
『後漢書』に「鸛雀が三匹の鱔魚をくわえた」とあるが、多くは鱣鮪の鱣に仮借しており、俗な学士はそれで鱣魚だという。調べてみると、魏の武帝の「四時食制」に「鱣魚は五斗の箱ほどの大きさで、長さは一丈」とあり、郭璞の『爾雅』注に「鱣は長さが二、三丈」とある。どうして鸛雀が一匹でも持てよう。まして三匹をどうしよう。鱣はまた純粋な灰色で、模様がない。鱔は長いものでも三尺を越えず、大きいものでも指三本を越えず、黄色い地に黒い模様である。だから都講が「蛇と鱔は、卿大夫の服の象である」と言った。『続漢書』と『捜神記』もこの事を述べて、どちらも「鱔」の字で書いている。孫卿は「魚・鼈・鰍・鱣」と言い、韓非と『説苑』はどちらも「鱣は蛇に似て、蠶は蠋に似ている」と言って、どれも「鱣」の字で書いている。「鱣」を「鱔」として借りて使うのは、その由来が古い。
28「乳を飲ませる虎の穴」を「六」と誤り書いた江南本
後漢書:「酷吏樊曄爲天水郡守,凉州爲之歌曰:『寧見乳虎穴,不入冀府寺。』」而江南書本「穴」皆誤作「六」。學士因循,迷而不寤。夫虎豹穴居,事之較者;所以班超云:「不探虎穴,安得虎子?」寧當論其六七耶?
『後漢書』に「酷吏の樊曄が天水郡守になると、凉州でこう歌った。『乳を飲ませる虎の穴を見ることがあっても、冀府の役所には入るまい』」とある。ところが江南の書の本は「穴」をどれも「六」と誤って書いている。学士たちはそのまま従って、迷ったまま気づかない。虎や豹が穴に住むのは明らかなことなので、班超が「虎の穴を探らずに、どうして虎の子を得られよう」と言った。どうして六だ七だと論じようか。
29「風吹削肺」の肺は削った木くず
後漢書楊由傳云:「風吹削肺。」此是削札牘之柿耳。古者,書誤則削之,故左傳云「削而投之」是也。或即謂札爲削,王褒童約曰:「書削代牘。」蘇竟書云:「昔以摩硏編削之才。」皆其證也。詩云:「伐木滸滸。」毛傳云:「滸滸,柿貌也。」史家假借爲肝肺字,俗本因是悉作脯臘之脯,或爲反哺之哺。學士因解云:「削哺,是屛障之名。」旣無證據,亦爲妄矣!此是風角占候耳。風角書曰:「庶人風者,拂地揚塵轉削。」若是屛障,何由可轉也?
『後漢書』楊由伝に「風が削肺を吹き上げた」とあるが、これは札や牘を削った削りくずのことにすぎない。昔は字を書き誤ると削ったので、『左伝』に「削って投げた」とあるのがこれである。あるいは札そのものを削といい、王褒の「僮約」に「削に書いて牘の代わりとする」とあり、蘇竟の書に「昔、磨き研いで編み削る才で」とあるのが、どれもその証しである。『詩経』に「木を伐れば滸滸たり」とあり、毛伝に「滸滸は削りくずのさまである」とある。史家が肝肺の字に仮借したので、俗本はそれでどれも脯臘の脯と書き、あるいは反哺の哺と書く。学士たちはそれで「削哺は屛障の名である」と解くが、証拠もなく、やはりでたらめである。これは風角で占うことにすぎない。『風角書』に「庶人の風は、地を払って塵を上げ、削りくずを転がす」とある。もし屛障であるなら、どうして転がせるのか。
30「蒜果」の果は粒の顆
三輔決錄云:「前隊大夫范仲公,鹽豉蒜果共一筩。」「果」當作魏顆之「顆」。北土通呼物一塊,改爲一顆,蒜顆是俗間常語耳。故陳思王鷂雀賦曰:「頭如果蒜,目似擘椒。」又道經云:「合口誦經聲璅璅,眼中淚出珠子□〔石果〕。」其字雖異,其音與義頗同。江南但呼爲蒜符,不知謂爲顆。學士相承,讀爲裹結之裹,言鹽與蒜共一苞裹,內筩中耳。正史削繁音義又音蒜顆爲苦戈反,皆失也。
『三輔決録』に「前隊大夫の范仲公は、塩と豉と蒜の果を一つの筒に入れた」とあるが、「果」は魏顆の「顆」と書くべきである。北の地では広く物の一塊を一顆と言い換えて呼ぶので、蒜顆は俗間のありふれた言葉である。だから陳思王の「鷂雀賦」に「頭は蒜の顆のようで、目は割いた椒のようだ」とあり、また道経に「口を合わせて経を誦すれば声が細々として、眼から出る涙が珠のように□〔石果〕」とある。字は違うが、音と意味はかなり同じである。江南ではただ蒜符と呼ぶだけで、顆というのを知らない。学士たちが受け継いで、裹結の裹と読み、塩と蒜を一つの包みに包んで筒の中に入れたのだと言った。『正史削繁音義』はまた蒜顆を苦と戈の反切で読んだが、どれも誤りである。
31蔣済が自分で作った字
有人訪吾曰:「魏志蔣濟上書云『弊□〔支力〕之民』,是何字也?」余應之曰:「意爲□〔支力〕即是□〔危皮〕倦之□〔危皮〕耳。張揖、呂忱並云:『支傍作刀劍之刀,亦是剞字。』不知蔣氏自造支傍作筋力之力,或借剞字,終當音九僞反。」
ある人が私を訪ねて尋ねた。「『魏志』の蔣濟の上書に『弊□〔支力〕の民』とありますが、何の字ですか。」私は答えた。「私が思うに、□〔支力〕は□〔危皮〕倦の□〔危皮〕にすぎない。張揖と呂忱はどちらも『支の傍に刀剣の刀を書けば、やはり剞の字である』と言っている。蔣氏が自分で支の傍に筋力の力を加えて作ったのか、あるいは剞の字を借りたのかはわからないが、いずれにしても九と僞の反切で読むべきである。」
32羊曼の「濌伯」
晉中興書:「太山羊曼,常頽縱任俠,飲酒誕節,兗州號爲濌伯。」此字皆無音訓。梁孝元帝常謂吾曰:「由來不識。唯張簡憲見教,呼爲嚃羹之嚃。自爾便遵承之,亦不知所出。」簡憲是湘州刺史張纘謚也,江南號爲碩學。案:法盛世代殊近,當是耆老相傳;俗間又有濌濌語,蓋無所不施,無所不容之意也。顧野王玉篇誤爲黑傍沓。顧雖博物,猶出簡憲、孝元之下,而二人皆云重邊。吾所見數本,並無作黑者。重沓是多饒積厚之意,從黑更無義旨。
『晋中興書』に「太山の羊曼は、いつも崩れるように勝手気ままで任俠ぶり、酒を飲んで節度がなかったので、兗州では濌伯と呼んだ」とあるが、この字はどこにも音も訓もない。梁の孝元帝はいつも私に言った。「もともと知らなかったが、ただ張簡憲が教えてくれて、嚃羹の嚃と読んでいる。それから従っているが、やはり出どころは知らない。」簡憲は湘州刺史の張纘の諡で、江南では大学者と言われた。調べてみると、何法盛は時代がとても近いので、きっと年寄りたちから伝え聞いたのだろう。俗間にはまた濌濌という言葉があって、おおむね施さないところがなく、受け入れないものがないという意味である。顧野王の『玉篇』は誤って黒偏に沓と書いている。顧野王は博く物を知っていても、やはり簡憲と孝元帝の下であり、二人はどちらも重の偏だと言っている。私が見た数本にも、黒で書いたものはない。重沓は多く豊かに積み重なって厚いという意味であり、黒に従えば、いっそう意味がない。
33「三婦」の詩の婦は嫁、「丈人」は舅
古樂府歌詞,先述三子,次及三婦,婦是對舅姑之稱。其末章云:「丈人且安坐,調弦未遽央。」古者,子婦供事舅姑,旦夕在側,與兒女無異,故有此言。丈人亦長老之目,今世俗猶呼其祖考爲先亡丈人。又疑「丈」當作「大」,北間風俗,婦呼舅爲大人公。「丈」之與「大」,易爲誤耳。近代文士,頗作三婦詩,乃爲匹嫡並耦己之群妻之意,又加鄭、衞之辭,大雅君子,何其謬乎?
古い楽府の歌詞は、まず三人の子を述べ、次に三人の婦に及ぶ。婦は舅と姑に対する呼び方である。その末の章に「丈人よ、どうか安らかにお座りください。弦を調えるのは、まだ終わっていません」とある。昔は嫁が舅と姑に仕えて、朝夕傍にいて、子や娘と変わらなかったので、こういう言葉がある。丈人もまた年長者を指す言い方で、今の世俗でも祖父や父を亡き丈人と呼ぶ。また「丈」は「大」と書くべきではないかとも思う。北の習いでは、嫁が舅を大人公と呼ぶ。「丈」と「大」は誤りやすい。近代の文士はよく三婦詩を作るが、それを正妻と自分の多くの妻を並べ合わせる意味に取り、さらに鄭や衛の言葉まで加えている。大雅の君子が、どうしてこれほど間違うのか。
34門の閂を焚いた「吹」は「炊」
古樂府歌百里奚詞曰:「百里奚,五羊皮。憶別時,烹伏雌,吹扊□〔上戸下多〕;今日富貴忘我爲!」「吹」當作炊煮之「炊」。案:蔡邕月令章句曰:「鍵,關牡也,所以止扉,或謂之剡移。」然則當時貧困,並以門牡木作薪炊耳。聲類作扊,又或作扂。
古い楽府の百里奚の歌に「百里奚よ、五枚の羊の皮よ。別れたときを思えば、卵を抱く雌鶏を煮て、門の閂を焚いて吹いた。今日は富貴になって私を忘れたのか」とある。「吹」は飯を炊く「炊」と書くべきである。調べてみると、蔡邕の『月令章句』に「鍵は閂の雄金具で、扉を止めるものであり、剡移ともいう」とある。とすれば、そのころ貧しくて、門の閂の木まで薪にして飯を炊いたのである。『声類』は扊と書き、扂と書くこともある。
35『通俗文』は誰が作ったか
通俗文,世間題云「河南服虔字子愼造」。虔旣是漢人,其敍乃引蘇林、張揖;蘇、張皆是魏人。且鄭玄以前,全不解反語,通俗反音,甚會近俗。阮孝緒又云「李虔所造」。河北此書,家藏一本,遂無作李虔者。晉中經簿及七志,並無其目,竟不得知誰制。然其文義允愜,實是高才。殷仲堪常用字訓,亦引服虔俗説,今復無此書,未知即是通俗文,爲當有異?或更有服虔乎?不能明也。
『通俗文』は、世間に「河南の服虔、字は子慎が作る」と題されている。服虔は漢の人であるのに、その序には蘇林と張揖を引いており、蘇と張はどちらも魏の人である。それに鄭玄より前には反切をまったく知らなかったのに、『通俗文』の反切の音は、近い世の俗音によく合っている。阮孝緒はまた「李虔が作った」と言っている。河北ではこの書を家ごとに一部ずつ蔵しているが、李虔が作ったとしたものは、ついに一つもない。『晋中経簿』と『七志』にはどちらもその目録がないので、ついに誰が作ったのかわからない。しかしその文と意味はよく当たっており、まことに高い才である。殷仲堪の『常用字訓』も服虔の俗説を引いているが、今はもうこの書がないので、それが『通俗文』なのか別のものなのか、あるいはまた別の服虔がいたのか、明らかにできない。
36『山海経』に後世の郡県名がある理由
或問:「山海經,夏禹及益所記,而有長沙、零陵、桂陽、諸暨,如此郡縣不少,以爲何也?」答曰:「史之闕文,爲日久矣;加復秦人滅學,董卓焚書,典籍錯亂,非止於此。譬猶本草神農所述,而有豫章、朱崖、趙國、常山、奉高、眞定、臨淄、馮翊等郡縣名,出諸藥物;爾雅周公所作,而云『張仲孝友』;仲尼修春秋,而經書孔丘卒;世本左丘明所書,而有燕王喜、漢高祖;汲冢瑣語,乃載秦望碑;蒼頡篇李斯所造,而云『漢兼天下,海內並厠,豨黥韓覆,畔討滅殘』;列仙傳劉向所造,而贊云七十四人出佛經;列女傳亦向所造,其子歆又作頌,終於趙悼后,而傳有更始韓夫人、明德馬后及梁夫人嫕:皆由後人所羼,非本文也。」
ある人が尋ねた。「『山海経』は夏の禹と益が記したものであるのに、長沙・零陵・桂陽・諸暨のような郡県が少なくなく載っています。どういうことですか。」答えた。「史書の欠けた文は、その年月が古く、そのうえ秦の人が学を滅ぼし、董卓が書を焼いて、典籍が入り乱れたのは、これに止まらない。たとえば『本草』は神農が述べたものであるのに、豫章・朱崖・趙国・常山・奉高・真定・臨淄・馮翊といった郡県の名が薬物の産地として出ている。『爾雅』は周公が作ったものであるのに『張仲は孝にして友なり』とある。仲尼が『春秋』を修めたのに、経の文に孔丘の死が記されている。『世本』は左丘明が書いたものであるのに、燕王の喜と漢の高祖がある。汲冢の『瑣語』に秦望の碑が載っている。『蒼頡篇』は李斯が作ったものであるのに『漢が天下を兼ね、海内を並べ据え、豨と黥、韓が覆り、背く者を討って滅ぼし残した』とある。『列仙伝』は劉向が作ったものであるのに、賛に七十四人が仏経から出たとある。『列女伝』も劉向が作り、その子の劉歆がまた頌を作って趙の悼后で終わっているのに、伝に更始帝の韓夫人・明徳馬后・梁夫人の嫕がある。どれも後の人が混ぜ入れたもので、本の文ではない。」
37『東宮旧事』の俗字
或問曰:「東宮舊事何以呼鴟尾爲祠尾?」答曰:「張敝者,呉人,不甚稽古,隨宜記注,逐鄕俗訛謬,造作書字耳。呉人呼祠祀爲鴟祀,故以祠代鴟字;呼紺爲禁,故以糹傍作禁代紺字;呼盞爲竹簡反,故以木傍作展代盞字;呼鑊字爲霍字,故以金傍作霍代鑊字;又金傍作患爲鐶字,木傍作鬼爲魁字,火傍作庶爲炙字,旣下作毛爲髻字;金花則金傍作華,窗扇則木傍作扇:諸如此類,專輒不少。
ある人が尋ねた。「『東宮旧事』はどうして鴟尾を祠尾と呼ぶのですか。」答えた。「張敞は呉の人で、古いことをあまり調べず、適当に書き記して、土地の習いの誤りに従って字を作っただけである。呉の人は祠祀を鴟祀と呼ぶので、祠で鴟の字に代え、紺を禁と呼ぶので、糸偏に禁を書いて紺の字に代え、盞を竹と簡の反切で呼ぶので、木偏に展を書いて盞の字に代え、鑊の字を霍の字と呼ぶので、金偏に霍を書いて鑊の字に代えた。また金偏に患を書いて鐶の字とし、木偏に鬼を書いて魁の字とし、火偏に庶を書いて炙の字とし、旣の下に毛を書いて髻の字とし、金花は金偏に華を、窗扇は木偏に扇を書いた。こういう類で勝手にやったものが少なくない。」
38「六色罽□〔糹畏〕」とは何か
又問:「東宮舊事『六色罽□〔糹畏〕』,是何等物?當作何音?」答曰:「案:説文云:『莙,牛藻也,讀若威。』音隱:『塢瑰反。』即陸機所謂『聚藻,葉如蓬』者也。又郭璞注三蒼亦云:『蘊,藻之類也,細葉蓬茸生。』然今水中有此物,一節長數寸,細茸如絲,圓繞可愛,長者二三十節,猶呼爲莙。又寸斷五色絲,橫著綫股間繩之,以象莙草,用以飾物,即名爲莙;於時當紺六色罽,作此莙以飾緄帶,張敞因造糹旁畏耳,宜作隈。」
また尋ねた。「『東宮旧事』の『六色罽□〔糹畏〕』は何の物で、どう読むのですか。」答えた。「調べてみると『説文』に『莙は牛藻であり、威のように読む』とあり、音隠に『塢と瑰の反切』とある。これはつまり陸機のいう『聚藻は葉が蓬のようだ』というものである。また郭璞の『三蒼』注にも『蘊は藻の類で、細い葉がふさふさと生える』とある。今、水の中にこれがあって、一節の長さが数寸、細い毛が糸のようで、丸く巻いて愛らしく、長いものは二、三十節あるが、今も莙と呼ぶ。また五色の糸を一寸ずつ切って、糸の股の間に横に入れて縒り、莙の草に見せて物を飾るのに使い、それを莙と名づける。そのころ紺の六色の罽に、この莙を作って緄帯を飾ったので、張敞はそれで糸偏に畏を作っただけである。隈と書くべきである。」
39柏人城の東北の孤立した山 — 権務山
柏人城東北有一孤山,古書無載者。唯闞駰十三州志以爲舜納於大麓,即謂此山,其上今猶有堯祠焉;世俗或呼爲宣務山,或呼爲虛無山,莫知所出。趙郡士族有李穆叔、季節兄弟、李普濟,亦爲學問,並不能定鄕邑此山。余嘗爲趙州佐,共太原王邵讀柏人城西門內碑。碑是漢桓帝時柏人縣民爲縣令徐整所立,銘曰:「山有巏婺□〔女改山〕,王喬所仙。」方知此巏婺□〔女改山〕山也。巏字遂無所出。婺□〔女改山〕字依諸字書,即旄丘之旄也;旄字,字林一音亡付反,今依附俗名,當音權務耳。入鄴,爲魏收説之,收大嘉嘆。値其爲趙州莊嚴寺碑銘,因云:「權務之精。」即用此也。
柏人城の東北に孤立した山が一つあるが、古い書に載っているものがない。ただ闞駰の『十三州志』が、舜が大麓に入ったというのはこの山だとしており、その上には今も堯の祠がある。世俗では宣務山と呼ぶこともあり、虚無山と呼ぶこともあって、どこから出た名かわからない。趙郡の士族に李穆叔・季節の兄弟と李普済がいて、やはり学問をしていたが、どれも故郷のこの山を定められなかった。私はかつて趙州の佐となり、太原の王邵とともに柏人城の西門の内の碑を読んだ。碑は漢の桓帝のとき柏人県の民が県令の徐整のために立てたもので、銘に「山に巏婺□〔女改山〕があり、王喬が仙となった所である」とあった。はじめてこれが巏婺□〔女改山〕山だとわかった。巏の字はついに出どころがない。婺□〔女改山〕の字は、諸々の字書によれば、つまり旄丘の旄である。旄の字は『字林』に一つの音が亡と付の反切であるから、今の俗名に合わせて権務と読むべきである。鄴に入って魏収にそれを話すと、魏収は大いに感嘆した。ちょうど彼が趙州荘厳寺の碑銘を作っていて、それで「権務の精」と書いた。これを用いたのである。
40一夜がなぜ五更なのか
或問:「一夜何故五更?更何所訓?」答曰:「漢、魏以來,謂爲甲夜、乙夜、丙夜、丁夜、戊夜,又云鼓,一鼓、二鼓、三鼓、四鼓、五鼓,亦云一更、二更、三更、四更、五更,皆以五爲節。西都賦亦云:『衞以嚴更之署。』所以爾者,假令正月建寅,斗柄夕則指寅,曉則指午矣;自寅至午,凡歷五辰。冬夏之月,雖復長短參差,然辰間遼闊,盈不過六,縮不至四,進退常在五者之間。更,歷也,經也,故曰五更爾。」
ある人が尋ねた。「一夜をどうして五更というのですか。更は何という意味ですか。」答えた。「漢・魏以来、甲夜・乙夜・丙夜・丁夜・戊夜といい、また鼓といって一鼓・二鼓・三鼓・四鼓・五鼓といい、また一更・二更・三更・四更・五更といって、どれも五を節としている。「西都賦」にも『厳更の署で守る』とある。そうするわけは、たとえば正月の建寅なら、北斗の柄が夕には寅を指し、明け方には午を指すので、寅から午まで、全部で五つの辰を経る。冬と夏の月は、長短の違いはあっても、辰の間が広いので、増えても六を越えず、減っても四に至らず、進み退きがいつも五のあいだにある。更は経る、歴るという意味だから、五更というのである。」
41「朮は山薊」の薊を筋と読む誤り
爾雅云:「朮,山薊也。」郭璞注云:「今朮似薊而生山中。」案:朮葉其體似薊,近世文士,遂讀薊爲筋肉之筋,以耦地骨用之,恐失其義。
『爾雅』に「朮は山薊である」とあり、郭璞の注に「今の朮は薊に似て、山の中に生える」とある。調べてみると、朮の葉はその形が薊に似ているのに、近い世の文士がついに薊を筋肉の筋と読んで、地骨と対にして使っているので、その意味を失うのではないかと思う。
42傀儡を「郭禿」と呼ぶわけ
或問:「俗名傀儡子爲郭禿,有故實乎?」答曰:「風俗通云:『諸郭皆諱禿。』當是前代人有姓郭而病禿者,滑稽戲調,故後人爲其象,呼爲郭禿,猶文康象庾亮耳。」
ある人が尋ねた。「俗に傀儡子を郭禿と呼ぶのに、いわれがあるのですか。」答えた。「『風俗通』に『郭氏はみな禿を諱む』とある。前の世に姓が郭で禿の病があった人がいて、滑稽に戯れてからかわれたので、後の人がその姿を作って郭禿と呼んだのであり、文康が庾亮を模したのと同じである。」
43獄を治める参軍を「長流」というわけ
或問曰:「何故名治獄參軍爲長流乎?」答曰:「帝王世紀云:『帝少昊崩,其神降於長流之山,於祀主秋。』案:周禮秋官,司寇主刑罰、長流之職,漢、魏捕賊掾耳。晉、宋以來,始爲參軍,上屬司寇,故取秋帝所居爲嘉名焉。」
ある人が尋ねた。「どうして獄を治める参軍を長流というのですか。」答えた。「『帝王世紀』に『帝少昊が崩じると、その神が長流の山に降り、祀りでは秋を主った』とある。調べてみると『周礼』秋官で司寇が刑罰を主るので、長流の職は漢・魏の捕賊掾にすぎない。晋・宋以来、はじめて参軍となって上は司寇に属するので、秋の帝の居るところを取って、よい名としたのである。」
44「許慎は孔子より勝るのですか」
客有難主人曰:「今之經典,子皆謂非,説文所言,於皆云是,然則許愼勝孔子乎?」主人拊掌大笑,應之曰:「今之經典,皆孔子手迹耶?」客曰:「今之説文,皆許愼手迹乎?」答曰:「許愼檢以六文,貫以部分,使不得誤,誤則覺之。孔子存其義而不論其文也。先儒尙得改文從意,何況書寫流傳耶?必如左傳止戈爲武,反正爲乏,皿蟲爲蠱,亥有二首六身之類,後人自不得輒改也,安敢以説文校其是非哉?且余亦不專以説文爲是也,其有援引經傳,與今乖者,未之敢從。又相如封禪書曰:『導一莖六穗於庖,犧雙觡共抵之獸。』此導訓擇,光武詔云:『非徒有豫養導擇之勞』是也。而説文云:『導是禾名。』引封禪書爲證;無妨自當有禾名導,非相如所用也。『禾一莖六穗於庖』,豈成文乎?縱使相如天才鄙拙,強爲此語;則下句當云『麟雙觡共抵之獸』,不得云犧也。吾嘗笑許純儒,不達文章之體,如此之流,不足憑信。大抵服其爲書,隱括有條例,剖析窮根源,鄭玄注書,往往引以爲證;若不信其説,則冥冥不知一點一畫,有何意焉。」
客が主人に詰め寄って言った。「今の経典はあなたがどれも誤りだと言い、『説文』の言うことはどれも正しいと言う。それなら許慎は孔子より勝るのですか。」主人は手を打って大笑いして答えた。「今の経典は、どれも孔子の手跡なのか。」客は「今の『説文』は、どれも許慎の手跡なのですか」と言った。答えた。「許慎は六書で検め、部首で貫いて、誤れないようにし、誤れば気づけるようにした。孔子はその意味を残して、その字を論じなかった。昔の儒者でさえ字を直して意味に従わせたのだから、まして写し伝えたものはどうであろう。『左伝』の止と戈が武、正を逆さにすれば乏、皿と虫が蠱、亥に首二つ身六つがあるといった類は、後の人が勝手に直せるものではないから、どうして『説文』でその是非を論じられよう。それに私も『説文』だけが正しいとはしていない。経伝を引いたところが今と違っているものは、従う気はない。また司馬相如の「封禅書」に『一つの茎に六つの穂のものを庖に導し、二つの角が一つの根の獣を犠とする』とある。この導は選ぶという意味で、光武帝の詔に『ただ前もって養い導き選ぶ労があるだけでなく』とあるのがこれである。ところが『説文』は『導は禾の名である』として「封禅書」を引いて証しとしている。導という禾の名が別にあるのはかまわないが、司馬相如が使ったのはそれではない。『禾の一茎六穂を庖に』が、どうして文になろうか。たとえ相如の天与の才が拙くて無理にこの言葉を作ったとしても、下の句は『麟の二角一本の獣』と言うべきで、犠とは言えない。私はかつて許慎が純な儒者で文章の体をわきまえていないと笑った。こういう類は信じるに足りない。しかしおおむねその書が整えられて条例があり、割き分けて根源を尽くしていることには感服する。鄭玄が書に注するとき、しばしば引いて証しとした。その説を信じなければ、真っ暗で一点一画に何の意味があるのかわからない。」
45俗字をすべて直せはしないが、正さずにおけないもの
世間小學者,不通古今,必依小篆,是正書記;凡爾雅、三蒼、説文,豈能悉得蒼頡本指哉?亦是隨代損益,互有同異。西晉已往字書,何可全非?但令體例成就,不爲專輒耳。考校是非,特須消息。至如「仲尼居」,三字之中,兩字非體,三蒼「尼」旁益「丘」,説文「尸」下施「幾」:如此之類,何由可從?古無二字,又多假借,以中爲仲,以説爲悅,以召爲邵,以閑爲閑:如此之徒,亦不勞改。自有訛謬,過成鄙俗,「亂」旁爲「舌」,「揖」下無「耳」,「黿」、「鼉」從「龜」,「奮」、「奪」從「雚」,「席」中加「帶」,「惡」上安「西」,「鼓」外設「皮」,「鑿」頭生「毁」,「離」則配「禹」,「壑」乃施「豁」,「巫」混「經」旁,「皋」分「澤」片,「獵」化爲「獦」,「寵」變成「□〔上穴下龍〕」,「業」左益「片」,「靈」底著「器」,「率」字自有律音,強改爲別;「單」字自有善音,輒析成異:如此之類,不可不治。吾昔初看説文,蚩薄世字,從正則懼人不識,隨俗則意嫌其非,略是不得下筆也。所見漸廣,更知通變,救前之執,將欲半焉。若文章著述,猶擇微相影響者行之,官曹文書,世間尺牘,幸不違俗也。
世間の小学をする者は、古今に通じず、必ず小篆に拠って書き物を正そうとするが、『爾雅』『三蒼』『説文』が、どうして蒼頡の本の意をすべて得ていようか。これも時代に従って減らし加えて、互いに同じところも違うところもある。西晋より前の字書を、どうしてすべて誤りだと言えよう。ただ体例が整って、勝手にやらないようにさせるだけである。是非を考え調べるには、とくによく見きわめるべきである。「仲尼居」のようなものは、三字のうち二字が正しい体ではなく、『三蒼』は「尼」の傍に「丘」を加え、『説文』は「尸」の下に「幾」を置いているが、こういう類をどうして従えよう。昔は二つの字がなく、また仮借が多かったので、中を仲とし、説を悅とし、召を邵とし、閑を閒とした。こういう類は、やはり直す必要はない。もともと誤りがあって卑俗になったものとして、「亂」の傍が「舌」になり、「揖」の下に「耳」がなく、「黿」「鼉」が「龜」に従い、「奮」「奪」が「雚」に従い、「席」の中に「帶」を加え、「惡」の上に「西」を置き、「鼓」の外に「皮」を置き、「鑿」の頭に「毁」が生え、「離」は「禹」と組み、「壑」は「豁」を使い、「巫」は「經」の傍と混じり、「皋」は「澤」の片に分かれ、「獵」が「獦」になり、「寵」が「□〔上穴下龍〕」に変わり、「業」の左に「片」を加え、「靈」の下に「器」を付け、「率」の字にもともと律の音があるのに無理に直して別の字にし、「單」の字にもともと善の音があるのにすぐ割いて別の字にするような類は、正さないわけにはいかない。私は昔はじめて『説文』を見て、世の字を笑い卑しんで、正しいものに従えば人が読めないのを恐れ、世の習いに従えば心にその誤りが引っかかって、ほとんど筆を下ろせなかった。見るものがだんだん広がって、改めて通じさせ変えることを知り、前の頑なさを直して、半ばほどにはなろうとしている。文章を書き著すときには、やはり少し近いものを選んで用い、役所の文書や世間の手紙では、世の習いに背かないのがよい。
46字を割って遊ぶやり方で字の音と意味は定まらない
案:彌亙字從二閑舟,詩云:「亙之秬秠」是也。今之隸書,轉舟爲日;而何法盛中興書乃以舟在二閑爲舟航字,謬也。春秋説以人十四心爲德,詩説以二在天下爲酉,漢書以貨泉爲白水眞人,新論以金昆爲銀,國志以天上有口爲呉,晉書以黃頭小人爲恭,宋書以召刀爲邵,參同契以人負告爲造:如此之例,蓋數術謬語,假借依附,雜以戲笑耳。如猶轉貢字爲項,以叱爲匕,安可用此定文字音讀乎?潘、陸諸子離合詩、賦,栻卜、破字經,及鮑昭謎字,皆取會流俗,不足以形聲論之也。
調べてみると、彌亙の亙の字は、二つの二の間に舟に従うもので、『詩経』に「亙之秬秠」とあるのがこれである。今の隷書は舟を日に変えているのに、何法盛の『中興書』は、二つの二の間の舟を舟航の字だとしたので、誤りである。『春秋説』は人・十・四・心を徳とし、『詩説』は二が天の下にあるのを酉とし、『漢書』は貨泉を白水真人とし、『新論』は金昆を銀とし、『国志』は天の上に口があるのを呉とし、『晋書』は黄頭小人を恭とし、『宋書』は召刀を邵とし、『参同契』は人が告を背負うのを造とした。こういう例は、おおむね数術の誤った言い方で、仮借してこじつけ、戯れと笑いを混ぜただけである。ちょうど貢の字を変えて項とし、叱を匕とするようなもので、どうしてこれで文字の音と読みを定められよう。潘岳・陸機たちの離合詩や賦、栻卜や破字経、鮑昭の謎の字は、どれも世の習いに合わせて取ったもので、形声で論ずるには足りない。
47「日中必□〔上彗下火〕」は「日中には必ず日に干せ」
河間邢芳語吾云:「賈誼傳云:『日中必□〔上彗下火〕。』注:『□〔上彗下火〕,暴也。』曾見人解云:『此是暴疾之意,正言日中不須臾,卒然便昃耳。』此釋爲當乎?」吾謂邢曰:「此語本出太公六韜,案字書,古者暴曬字與暴疾字相似,唯下少異,後人專輒加傍日耳。言日中時,必須曝曬,不爾者,失其時也。晉灼已有詳釋。」芳笑服而退。
河間の邢芳が私に言った。「賈誼伝に『日中には必ず□〔上彗下火〕する』とあり、注に『□〔上彗下火〕は暴である』とあります。かつてある人が『これは急であるという意味で、日中はひととき留まらず、たちまち傾くという意味だ』と解いているのを見ましたが、この解釈は当たっていますか。」私は邢芳に言った。「この言葉はもともと太公の『六韜』から出ている。字書を調べると、昔は暴曬の暴の字と暴疾の暴の字が互いに似ていて、下だけが少し違っていたのに、後の人が勝手に傍に日を加えただけである。日中には必ず日に干さなければならず、そうしなければ時を失うという意味である。晋灼がすでに詳しく解いている。」邢芳は笑って納得して退いた。