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第十九章 — 還淳還淳

道徳経(道と徳を説く経典) 道德經 · 老子、注釈 王弼・河上公 · 紀元前4〜3世紀(王弼の注は3世紀) · 段落 1 · 漢字 45字 · 朗読 0.2分

道徳経(道と徳を説く経典) 道経 八十一章、五千字。墓から出た帛書本は今日用いる版本と字が異なり、同じ句をめぐって読みの分かれる箇所が多い。王弼は哲学として、河上公は治めと養生として読む。

1聖を絶ち知を棄てる

絕聖棄智,民利百倍;絕仁棄義,民復孝慈;絕巧棄利,盜賊無有。此三者以為文不足,故令有所屬﹕見素抱樸,少私寡欲。

聖を絶ち知を棄てれば、民の利は百倍になり、仁を絶ち義を棄てれば、民はまた孝と慈に戻り、巧を絶ち利を棄てれば、盗賊はいなくなる。この三つは文とするには足りないので、拠るところを持たせる。素のままを現し樸(あらき)を抱き、私を少なくし欲を寡なくする。

注 13
王弼

聖智,才之善也。仁義,人之善也。巧利,用之善也。而直云絕,文甚不足,不令之有所屬,無以見其指,故曰,此三者以為文而未足,故令人有所屬,屬之於素樸寡欲。

聖と知は才のうちで善いもの、仁と義は人のうちで善いもの、巧と利は用のうちで善いものである。それをただ絶てとだけ言えば文がひどく足りず、拠るところを持たせなければ、その指し示すものが見えない。だから、この三つは文とするには足りないので、人に拠るところを持たせ、素と樸と欲を寡なくすることに拠らせた、といった。

河上公

絕聖制作,反初守元。五帝垂象,倉頡作書,不如三皇結繩無文。

聖によって作り出すことを絶ち、初めに返って元を守る。五帝が象を垂れ、倉頡が文字を作ったのは、三皇が縄を結んで用い文字がなかったことに及ばない。

河上公

棄智慧,反無為。

知恵を棄てて、無為に返る。

河上公

農事修,公無私。

農事が整い、公平で私がない。

河上公

絕仁之見恩惠,棄義之尚華言。

仁が恩恵を見せようとするのを絶ち、義が華やかな言葉を尊ぶのを棄てる。

河上公

德化淳也。

徳による教化が厚いからである。

河上公

絕巧者,詐偽亂真也。棄利者,塞貪路閉權門也。

巧を絶つのは、欺きと偽りが真実を乱すからである。利を棄てるのは、貪りの道を塞ぎ権勢の門を閉じることである。

河上公

上化公正,下無邪私。

上の教化が公正であれば、下によこしまな私心がない。

河上公

謂上三事所棄絕也。

上の三つ、絶ち棄てた事をいう。

河上公

以為文不足者,文不足以教民。

文とするには足りないとは、文では民を教えるのに足りないということである。

河上公

當如下句。

まさに下の句のようにするのである。

河上公

見素者,當抱素守真,不尚文飾也。抱朴者,當抱其質樸,以示下,故可法則。

素のままを現すとは、まさに素のままを抱いて真実を守り、飾りを尊ばないことである。樸を抱くとは、まさにその質朴さを抱いて下に示すことであり、だから手本とすることができる。

河上公

少私者,正無私也。寡欲者,當知足也。

私を少なくするとは、正しくして私心がないことである。欲を寡なくするとは、まさに足るを知ることである。