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年譜に寄せる序年譜序

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 120字 · 朗読 1分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 年譜 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

嗣子涵旣撰家公前後文集。因據公之手草家狀。又成年譜。涵觀古人文集年譜。各於年中。備詳所著本末端由。以相參考。大抵古人詩集。未必皆著所述年月矣。未知據何本而載之之詳耶。今家公文集。其不標年月者亦多。故不得各隨年載。一一標之。但存十之一二耳。然公之著作。雖一年一月。寧有所闕者耶。

跡を継ぐ子の涵は、父の前後の文集を編み終えたのち、公がみずから書きとめておいた家の記録によって、さらに年譜を作った。私が古人の文集に付いた年譜を見ると、どれも年ごとに書かれた文のはじめと終わり、そのいきさつまで詳しく備えて、たがいに照らし合わせられるようにしてある。しかし、おおよそ古人の詩集には、作った年月が必ずしもみな記されてはいなかったはずなのに、何に拠ってあれほど詳しく載せたのかは分からない。

いま父の文集も、年月を記していないものがやはり多い。それゆえ年ごとに一つ一つ示して載せることができず、十のうち一つ二つを残しただけである。しかし公の著作は、一年一月といえども、どうして欠けた時があっただろうか。