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李奎報の一生東國李相國文集年譜

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 127 · 漢字 4,218字 · 朗読 37.4分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 年譜 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

戊子

戊子の年。

公生於是年十二月十六日癸卯。諱奎報。字春卿。黃驪縣人也。考諱允綏官至戶部郞中。母金氏。金壤郡人。考諱仲權。後改施政。中古名儒也。擢高第。官至蔚珍縣尉。公始生三月。惡瘇滿身。衆藥不理。嚴君憤之。詣松岳祠宇。擲筴卜生死。曰生。問藥理與否。曰勿藥理。自是不復傅藥。皮皆爛。未辨面目。乳嫗常以白麪鋪兩臂。然後抱持之。一日。乳嫗抱出門外。有一老父過曰。此兒千金之子。何棄之如此。宜善護養。乳嫗走白嚴君。君疑其神人。使人追之。以路有三歧。遣三人追之。皆不見而還。始諱仁底。己酉歲。將赴司馬試。夢有人類村甿。皆着緇布衣。群飮堂上者。旁人曰。此二十八宿也。公驚悚再拜。問今年試席捷否。有一人指一人曰。彼奎星乃知之。公卽就問。未及聞其言而寤。恨未終其夢。俄復夢。其人來報曰。子必占狀元。勿慮也。此天機。但莫洩耳。因改今名赴試。果中第一。

公はこの年の十二月十六日癸卯の日に生まれた。諱は奎報、字は春卿で、黄驪県の人である。父の諱は允綏、官は戸部郎中に至った。母は金氏で、金壌郡の人である。その父の諱は仲権、のちに施政と改めた。近い昔の名高い儒者で、高い等第で及第し、官は蔚珍県尉に至った。

公が生まれて三か月のとき、ひどい腫れ物が全身に出て、多くの薬でも治らなかった。父は心を痛め、松岳の祠に詣でて筮竹を投げ、生き死にを占うと、生きると出た。薬で治るかを問うと、薬を使わなければ治ると出た。これより二度と薬を貼らなかった。皮膚はすべてただれて顔かたちが分からなくなった。乳母はいつも両腕に小麦粉を広げてから抱いた。

ある日、乳母が抱いて門の外に出たところ、一人の老人が通りかかって言った。 「この子は千金の子である。どうしてこのように捨て置くのか。よく世話をして育てるがよい。」 乳母は走って父に申し上げた。父はその人が神人ではないかと思い、人をやって後を追わせた。道が三つに分かれていたので三人を遣って追わせたが、みな見つけられずに帰ってきた。

はじめの名は仁底であった。己酉の年、司馬試に赴こうとしたとき、夢を見た。村人のような者たちがみな黒い布の衣を着て、堂の上で集まって酒を飲んでいた。かたわらの人が言った。 「これは二十八宿である。」 公は驚き畏まって二度拝し、今年の試験に受かるかどうかを問うた。一人が別の一人を指して言った。 「あの奎星がそれを知っている。」 公はすぐ進んで問うたが、その言葉を聞かないうちに目が覚め、夢を最後まで見られなかったのが悔しかった。やがてまた夢を見ると、その人が来て告げた。 「あなたは必ず状元を占めるだろう。心配しなくてよい。これは天の機密だから、ただ漏らさないように。」 そこで今の名に改めて試験に赴き、はたして第一位で及第した。

己丑

己丑の年。

庚寅

庚寅の年。

辛卯

辛卯の年。

是年。嚴君出倅成州。隨之任。

この年、父が成州の倅として出たので、従って任地へ行った。

壬辰

壬辰の年。

夾注 1

大金大定十二年

大金の大定十二年である。

癸巳

癸巳の年。

夾注 1

大定十三年

大定十三年である。

甲午

甲午の年。

夾注 1

大定十四年

大定十四年である。

是年。嚴君以內侍被召。隨至京師。

この年、父が内侍として召されたので、従って都に至った。

乙未

乙未の年。

夾注 1

大定十五年

大定十五年である。

丙申

丙申の年。

夾注 1

大定十六年

大定十六年である。

丁酉

丁酉の年。

夾注 1

大定十七年

大定十七年である。

戊戌公年十一

戊戌の年。公の年十一。

夾注 1

大定十八年

大定十八年である。

是年。叔父直門下省李富誇於省郞曰。吾猶子年可若干。能屬文。召試之可乎。諸郞欣然使迎之。命爲聯句。時方受外郡貢紙。以紙字占之。公應聲唱曰。紙路長行毛學士。諸郞手書之。又令爲對。卽曰。盃心常在麴先生。郞皆嘆伏。號奇童。慰勉遣之。

この年、叔父で直門下省の李富が、省の郎官たちに自慢して言った。 「わたしの甥は年こそ若いが、文を作ることができる。呼んで試してみてはどうか。」 郎官たちは喜んで迎えに行かせ、聯句を作らせた。そのときちょうど外の郡から貢いだ紙を受け取っていたので、「紙」の字を韻に取った。公は声に応じて唱えた。 「紙の路を長く行く毛学士よ。」 郎官たちは手ずから書き取り、また対句を作らせると、すぐに唱えた。 「杯の中に常に在る麴先生。」 郎官たちはみな感嘆した。奇童と呼び、ねぎらい励まして帰らせた。

己亥

己亥の年。

夾注 1

大定十九年

大定十九年である。

庚子

庚子の年。

夾注 1

大定二十年

大定二十年である。

辛丑公年十四

辛丑の年。公の年十四。

夾注 1

大定二十一年

大定二十一年である。

是年。始籍文憲公徒誠明齋肄業。每夏課。先達輩會諸生。刻燭占韻賦詩。名曰急作。公連中榜頭。諸儒始奇之。

この年、はじめて文憲公徒の誠明斎に籍を置いて学んだ。夏の課業のたびに、先に及第した人たちが学生を集め、蠟燭に刻みを入れて時を計り、韻を取って詩を作らせた。これを急作といった。公が続けて首席に選ばれたので、多くの儒者がはじめて非凡だと思った。

壬寅公年十五

壬寅の年。公の年十五。

夾注 1

大定二十二年

大定二十二年である。

是年六月。又於夏課急作。適有齋中拜翰林者。以內直玉堂爲題占韻。公詩曰。獨直偏知殿閣涼。金蓮花燭炤華堂。露凝仙掌驚秋冷。月透紗窓信夜長。七寶床前宮漏永。九華帳裏御爐香。詞頭草罷銀河曙。喜見高天瑞日光。先達咸淳等皆嘆賞不已。升爲第一一等唯置公。示其異也。

この年の六月、夏の課業の急作で、ちょうど斎のなかに翰林となった者がいたので、「玉堂に独り宿直する」を題として韻を取った。公の詩はこうであった。

独り宿直して殿閣の涼しさをいっそう知り 金色の蓮の灯燭が華やかな堂を照らす 露が仙人の掌に凝って秋の冷えに驚き 月が紗の窓を透して夜の長さを知らせる 七宝の床の前に宮中の水時計は長く 九華の帳のうちに御殿の香炉が香る 詔の書き出しを草し終えると銀河が明け 高い天に瑞兆の日の光を喜んで見る

先に及第した咸淳たちはみな感嘆してやまなかった。第一等に上げたが、その等には公ひとりだけを置いた。その非凡さを示したのである。

夾注 1

此詩少時所作。不載集中。

この詩は幼いころの作なので、文集には載せなかった。

癸卯公年十六

癸卯の年。公の年十六。

夾注 1

大定二十三年

大定二十三年である。

春。嚴君出守水州。公留赴司馬試不捷。秋。之水州覲省。

春、父が水州の守として出た。公は残って司馬試に赴いたが及第しなかった。秋、水州へ行って親に会った。

甲辰公年十七

甲辰の年。公の年十七。

夾注 1

大定二十四年

大定二十四年である。

乙巳公年十八

乙巳の年。公の年十八。

夾注 1

大定二十五年

大定二十五年である。

春。自水州至。遂赴司馬試不捷。秋還。

春、水州から上って司馬試に赴いたが及第しなかった。秋に帰った。

丙午公年十九

丙午の年。公の年十九。

夾注 1

大定二十六年

大定二十六年である。

春。嚴君見代。隨至京師。

春、父が交代したので、従って都に至った。

丁未公年二十

丁未の年。公の年二十。

夾注 1

大定二十七年

大定二十七年である。

是年春。又赴司馬試不捷。公自四五年來。使酒放曠不自檢。唯以風月爲事。略不習科擧之文。故連赴試不中。

この年の春、また司馬試に赴いたが及第しなかった。公は四、五年前から酒に身をまかせて奔放にふるまい、みずからを律せず、ただ詩を作ることを事として、科挙の文はまったく習わなかった。そのため続けて試験に赴いても及第しなかった。

戊申公年二十一

戊申の年。公の年二十一。

夾注 1

大定二十八年

大定二十八年である。

己酉公年二十二

己酉の年。公の年二十二。

夾注 1

大定二十九年

大定二十九年である。

是年春。擧司馬試。中第一。以十韻詩賦之。其題。先王制軒冕。著貴賤不求美。公破題云。太古無軒冕。誰分貴賤流。制之然後著。美也不曾求。又一句云。始造聞黃帝。徒行豈孔丘。座主柳公嗟賞不已。遂擢第一。

この年の春、司馬試を受けて第一で及第した。十韻の詩で作ったが、その題は「先王が車と冕を作って貴賤を表したが、美しさを求めたのではない」であった。公は書き出しを詠んだ。

遠い昔には車も冕もなかった 誰が貴い者と賤しい者とを分けたであろう これを作ってのちに表されたのであって 美しさはかつて求めたものではなかった

また一つの句はこうであった。

はじめて作ったのは黄帝だと聞いているが 歩いて行くことを、どうして孔丘がしたであろう

座主の柳公は感嘆してやまず、ついに第一に選んだ。

庚戌公年二十三

庚戌の年。公の年二十三。

夾注 1

大定三十年

大定三十年である。

六月。赴禮部試。擢第同進士。公嫌其科劣。欲辭之。以嚴君切責。且無舊例。不得辭。因大醉。謂賀客等曰。予科第雖下。豈不是三四度陶鑄門生者乎。坐客掩口竊笑。公旣不事科擧之文。其作賦荒蕪。不合格律。又試圍內奉命承宣朴純。與座主受宣醞。次召公飮以一觥。卽大醉亂書。欲裂棄之。傍座孫得之奪而呈之。其詩題。戴君若鼇冠靈山。公詩第四句云。壯似支三聳。憂无釣六逃。第五句云。奉天呈屹屹。負岳出滔滔。知貢擧李諱知命愛此句。遂不擯之。

六月、礼部試に赴き、同進士として及第した。公はその等級が低いのを嫌って辞そうとしたが、父がきびしく叱り、またそのような前例もなかったので辞することができなかった。そうして大いに酔い、祝いに来た人たちに言った。 「わたしの及第の等は低いが、どうして三度四度と門生を育てる者でないことがあろうか。」 座にいた者たちは口を覆ってひそかに笑った。

公はもともと科挙の文に力を入れなかったので、作った賦は粗く、格式や韻律に合わなかった。また試験場の中で、王命を受けた承宣の朴純が座主とともに王の賜った酒を受け、続いて公を呼んで一杯飲ませたところ、すぐ大いに酔って乱れた字で書きつけ、破り捨てようとした。かたわらに座っていた孫得之が奪って差し出した。その詩の題は「君を戴くことは、鼇が霊山を頭に戴くようである」であった。公の詩の第四句はこうであった。

壮んなことは三つの山を支えて聳えるようで 六匹の鼇を釣って逃げられる心配もない

第五句はこうであった。

天を奉じて高々とそびえ立ち 岳を負って滔々と現れ出る

知貢挙の李知命がこの句を愛し、ついに退けなかった。

辛亥公年二十四

辛亥の年。公の年二十四。

夾注 1

大金明昌二年

大金の明昌二年である。

秋八月。丁父憂。寓居天磨山。自稱白雲居士。作天磨山詩。失之不錄前集。後追覓之。載後集初卷。首句云。世人但取山崔巍。乃以天磨而號之者是也。後常遊此山作詩。若北山雜題重遊北山者是也。

秋の八月、父の喪に遭った。天磨山に身を寄せて住み、みずから白雲居士と名のって「天磨山の詩」を作った。この詩は失われて前集に載せられなかったが、のちに探し出して後集の初めの巻に載せた。初めの句に「世の人はただ山の高いことだけを取る」と言い、続いて天磨と名づけた理由を述べたのがそれである。のちにも常にこの山に遊んで詩を作った。「北山雑題」や「北山に再び遊ぶ」などがそれである。

壬子公年二十五

壬子の年。公の年二十五。

夾注 1

明昌三年

明昌三年である。

是年。著白雲居士語錄及傳。自敍己之行止。

この年、「白雲居士語録」と「白雲居士伝」を著して、自分の歩んできた跡をみずから記した。

癸丑公年二十六

癸丑の年。公の年二十六。

夾注 1

明昌四年

明昌四年である。

是年。作百韻詩。呈張侍郞自牧。張公厚遇。每謁。常置酒與飮。四月。得舊三國史。見東明王事奇之。作古詩以紀其異。

この年、百韻の詩を作って侍郎の張自牧に差し上げた。張公は手厚くもてなし、訪ねるたびにいつも酒を置いてともに飲んだ。四月、古い『三国史』を手に入れ、東明王のことを見て不思議に思い、古詩を作ってその異なるさまを記した。

甲寅公年二十七

甲寅の年。公の年二十七。

夾注 1

明昌五年

明昌五年である。

是年。作論潮水書。呈吳東閣世文。作天寶詠史詩四十三首。皆挾注。又作理小園記。

この年、「潮水を論ずる書」を作って東閣の呉世文に差し上げた。「天宝詠史詩」四十三首を作り、どれにも注を挟んだ。また「小さな園を手入れした記」を作った。

乙卯公年二十八

乙卯の年。公の年二十八。

夾注 1

明昌六年

明昌六年である。

是年。著和吳東閣三百韻詩。

この年、東閣の呉世文に和した三百韻の詩を作った。

丙辰公年二十九

丙辰の年。公の年二十九。

夾注 1

明昌七年

明昌七年である。

四月。京師亂。姊夫南流黃驪。五月。公携姊氏往焉。是年春。母家後壻出守尙州。六月。自黃驪赴尙州覲省。得寒熱病。數月不愈。至十月方還。詩集中有南遊詩。無慮九十餘首。是黃驪尙州所著也。

四月、都に乱が起こった。姉の夫が南の黄驪に流され、五月に公は姉を連れてそこへ行った。この年の春、母方の家の後の婿が尚州の守として出たので、六月に黄驪から尚州へ行って母に会った。寒熱の病にかかって数か月治らず、十月になってやっと帰った。詩集にある、南に遊んで作った詩九十余首が、黄驪と尚州で作ったものである。

丁巳公年三十

丁巳の年。公の年三十。

夾注 1

承安二年

承安二年である。

冬十二月日。冢宰趙任相國崔相國崔相國聯名上箚子。薦公請補外寄。以備將來文翰之任。上遂允可。掌奏承宣某。以嘗有微憾。至是奪箚子。不付天曹。佯稱忽失。冢宰亦以箚子不付爲解。便不調之。詩集有上趙令公詩云。昔見銀盃嘗羽化。今聞箚子忽登仙。士林莫不嘆之。又作上趙大尉書。追訴其由。

冬の十二月の某日、冢宰の趙公と任相国、崔相国、崔相国が連名で箚子を上げた。公を推挙して外の任に補し、将来の文翰の務めに備えさせるよう請うと、王はついに許した。奏上を司る承宣の某は、かつて小さな恨みがあったので、このとき箚子を奪って吏曹に回さず、ふと失くしたと偽って言った。冢宰もまた箚子が回らなかったことを言い訳にして、そのまま官を与えなかった。

詩集に「趙令公に差し上げる」という詩があり、こう言っている。

かつて銀の杯が羽を生やして消えるのを見たが いまは箚子がたちまち仙となって昇ったと聞く

士人で嘆かない者はなかった。また「趙大尉に差し上げる書」を作って、そのいきさつを後から訴えた。

夾注 4

永仁

名は永仁である。

濡

名は濡である。

詵

名は詵である。

讜。

名は讜である。

戊午公年三十一

戊午の年。公の年三十一。

夾注 1

承安三年

承安三年である。

己未公年三十二

己未の年。公の年三十二。

夾注 1

承安四年

承安四年である。

五月。知奏事相公宅。千葉榴花盛開。召賓客賞之。因致詩人。李仁老,咸淳,李湛之及公賦之後。一日偶謂左右曰。聞文儒四相國薦某不遂。又有奪箚子者。因曰文人相嫉如此。於是始有用公之意。夏六月。頒政。補全州牧司錄兼掌書記。秋九月。赴全州。是年所著。无慮古律十五六首。

五月、知奏事の相公の屋敷で八重の石榴の花が盛りに咲いたので、客を招いて眺めさせ、続いて詩人たちを呼んだ。李仁老・咸淳・李湛之と公が詩を作った。

その後のある日、相公はふと左右の者に言った。 「聞けば、文を能くする四人の相国が某を推挙したが成らず、また箚子を奪った者がいるという。」 続いて言った。 「文を書く者どうしの妬みはこのようなものか。」 ここではじめて公を用いる気になった。夏の六月の人事で全州牧の司録兼掌書記に任じられた。秋の九月に全州へ行った。この年に作ったものは、古詩と律詩が十五、六首である。

夾注 1

後爲晉康公。

のちに晋康公となった。

庚申公年三十三

庚申の年。公の年三十三。

夾注 1

承安五年

承安五年である。

是年所著。无慮三十餘首。冬十二月。被廢發全州。初公之理州也。通判郞將某。貪且偃肆。公不屈。因公事屢激怒之。通判不勝其憤。又欲自專。遂搆貝錦之詞。行次廣州。適値守歲。妻兄晉公度爲書記。迎到其居守歲。贈詩一首。其首句云。偶霑微祿官江南是已。

この年に作ったものは三十余首である。冬の十二月、罷免されて全州を発った。はじめ公がこの州を治めていたとき、通判の郎将某が貪欲で、しかも傲り高ぶっていた。公が屈せず、公務でたびたび彼を怒らせた。通判はその憤りに堪えず、また思うままにしようとして、ついに錦を織るように無い罪を仕立て、讒言の言葉をこしらえた。

道すがら広州に至ったとき、ちょうど大晦日に当たった。妻の兄の晋公度が書記をしていて、迎え入れて自分の家で年を越させた。詩一首を贈ったが、その初めの句に「たまたまわずかな禄に浴して江南に官した」とあるのがこれである。

辛酉公年三十四

辛酉の年。公の年三十四。

夾注 1

承安六年

承安六年である。

春正月。至自廣州。夏四月。之竹州迎母至京師。先是。姊壻自黃驪補竹州監務。姊與母之其任居焉。是年四月。母求還京師。公迎侍而至。有遊竹州萬善寺詩是也。五月。作四輪亭記。六月。作南行記及自竹州與母赴長安詩是也。

春の正月、広州から帰った。夏の四月、竹州へ行って母を迎え、都に来た。これより先、姉の夫が黄驪から竹州の監務に任じられ、姉と母はその任地に行って住んでいた。この年の四月、母が都に帰ることを望んだので、公が付き添って来たのである。「竹州の万善寺に遊ぶ」という詩がそれである。五月に「四輪亭記」を作った。六月に「南行記」と「竹州から母に付き添って都へ行く」という詩を作った。それがそれである。

壬戌公年三十五

壬戌の年。公の年三十五。

夾注 1

泰和二年

泰和二年である。

夏五月。丁母憂。冬十二月。東京叛。與雲門山賊黨擧兵。朝廷出三軍征之。軍幕逼散官及第等。充修製員。歷三人。皆以計避不就至公慨然曰。予雖懦怯。亦國民也。避國難非夫也。遂從軍。於是幕府欣然。奏爲兵馬錄事兼修製。盖暢其情也。是月。行次淸州。作幕中書懷古詩十八韻。呈同營諸公。又次尙州作觀金上人草書古詩十五韻。

夏の五月、母の喪に遭った。冬の十二月、東京が叛いて雲門山の賊徒とともに兵を挙げたので、朝廷は三軍を出して討たせた。軍幕では散官や及第した者を急き立てて修製員に充てようとしたが、三人を経てもみな策を講じて避け、就こうとしなかった。公の番になると、公は慨然として言った。 「わたしは臆病ではあるが、やはり国の民である。国の難を避けるのは男子ではない。」 そしてついに軍に従った。そこで幕府は喜んで、兵馬録事兼修製とするよう奏した。その志をかなえてやったのである。

この月、道すがら清州に至って「幕中にて懐いを書す」という古詩十八韻を作り、同じ陣営の諸公に差し上げた。また尚州に至って「金上人の草書を観る」という古詩十五韻を作った。

癸亥公年三十六

癸亥の年。公の年三十六。

夾注 1

泰和三年

泰和三年である。

公在東京軍幕。二月。作上都統副使書。論葬戰亡人事。作古律詩无慮十餘首。

公は東京の軍幕にいた。二月、「都統副使に差し上げる書」を作って、戦死した人を葬る事を論じた。古詩と律詩を十余首作った。

甲子公年三十七

甲子の年。公の年三十七。

夾注 1

泰和四年

泰和四年である。

三月。兵馬凱還。公隨至京師。詩集有獵罷論功誰第一。至今不記指縱人。軍士多受賞。公獨未尒。故不能无情。有是作。

三月、軍が勝って帰り、公も従って都に至った。詩集に

狩りが終わって功を論ずるとき、誰が第一か 今に至るまで、犬を放って指図した者は覚えてもらえない

という句がある。兵たちは多く褒賞を受けたが、公ひとりはそうでなかったので、思うところがないわけにいかず、この詩を作った。

乙丑公年三十八

乙丑の年。公の年三十八。

夾注 1

泰和五年

泰和五年である。

是年。作上崔相國書求官。

この年、「崔相国に差し上げる書」を作って官を求めた。

夾注 1

詵

崔相国は名を詵という。

丙寅公年三十九

丙寅の年。公の年三十九。

夾注 1

泰和六年

泰和六年である。

丁卯公年四十

丁卯の年。公の年四十。

夾注 1

泰和七年

泰和七年である。

冬十二月。權補直翰林院。公旣陸沈。杜門不出。然每歲史館翰院國學等儒官薦人。常以公爲首。又左右多有揄揚者。晉康侯重違衆志。有用之之意。嫌其無因。時方搆茅亭。命李仁老,李元老,李允甫及公作記。仍使儒官宰相四者科。公爲第一。獨上板釘壁。至十二月。補是官。作初入翰林詩二首。又作止止軒記。

冬の十二月、仮に直翰林院に任じられた。公はすでに世に埋もれて門を閉ざし、外に出なかった。しかし毎年、史館・翰林院・国学などの儒官が人を推挙するときは、いつも公を筆頭に置き、また周りにほめ上げる者が多かった。晋康侯は多くの人の意向に背きがたく、用いる気はあったが、ふさわしいきっかけがないのを嫌った。

ちょうどそのとき茅の亭を建てていたので、李仁老・李元老・李允甫と公に記を作らせた。続いて儒官と宰相にその四編の順を付けさせたところ、公が第一となり、ひとり板に上げて壁に掛けられた。十二月になってこの官に任じられた。「はじめて翰林に入って」という詩二首を作り、また「止止軒記」を作った。

戊辰公年四十一

戊辰の年。公の年四十一。

夾注 1

泰和八年

泰和八年である。

夏六月。翰林除權卽眞。

夏の六月、翰林の仮の肩書きを取って、正式に任じられた。

己巳公年四十二

己巳の年。公の年四十二。

夾注 1

泰和九年

泰和九年である。

庚午公年四十三

庚午の年。公の年四十三。

夾注 1

大安二年

大安二年である。

辛未公年四十四

辛未の年。公の年四十四。

夾注 1

大安三年

大安三年である。

壬申公年四十五

壬申の年。公の年四十五。

夾注 1

大安四年

大安四年である。

正月。除千牛衛錄事參軍事。六月。有翰林兼官闕員。不待頒政。除兼直翰林院。仍本官。作再入玉堂詩二首。

正月、千牛衛録事参軍事に任じられた。六月、翰林の兼官に欠員ができると、人事を待たずに兼任で直翰林院に任じられ、もとの官はそのままであった。「再び玉堂に入って」という詩二首を作った。

癸酉公年四十六

癸酉の年。公の年四十六。

夾注 1

崇慶二年

崇慶二年である。

十二月。晉康侯嗣子相國。大設夜宴。召搢紳貴介赴座。公獨以八品微官蒙召預焉。及夜半。相國謂曰。聞君走筆。未之見也。今日試之何如。因使李仁老唱韻。多至四十餘韻。以燭爲題。命名歧研墨。及成。相國大嗟賞不已。明日。將其詩詣府。白於侯。請召試其能。侯初不肯之。再三白之。然後召之。及到。相國曰。此子不飮。則不得如意。卽命捷步者往其宅取酒來。未及到。侯已置酒觴之。相國又曰。此子醒醉得中然後可也。乃計盞飮之。至醺乃率詣侯前。侯前有筆匣。筆有十餘事。相國親擇善者授之。時庭中有孔崔遊戱。侯以其崔爲題。使琴相國唱韻。多至四十餘韻。筆不容一瞬。侯嘆息至垂涕。及欲退。侯曰。子若望官。卽言所志。公曰。吾今八品。除七品則足矣。相國屢目之。意欲令直望參官。其日相國還第。召讓曰。子之望官何劣也。何不以參官爲望耶。公曰。予志也。及十二月頒政。越七品除司宰丞。

十二月、晋康侯の跡を継いだ子の相国が夜の宴を大きく開き、官人や高貴な人たちを招いて席に着かせた。公はひとり八品の低い官でありながら招かれて加わった。夜が更けると、相国が言った。 「あなたが筆を走らせると聞いてはいるが、まだ見たことがない。今日試してみてはどうか。」 そして李仁老に韻を呼ばせると、四十余韻にも及んだ。燭を題とし、名のある妓に墨を磨らせた。出来上がると、相国は大いに感嘆してやまなかった。

翌日、その詩を持って府に参り、侯に申し上げて、呼んでその才を試してみるよう請うた。侯ははじめ気が進まなかったが、二度三度申し上げてのち呼んだ。公が来ると、相国が言った。 「この人は飲まなければ思うようになりません。」 そこで足の速い者をやってその家から酒を取りに行かせたが、届かないうちに侯がすでに酒を置いて杯を勧めた。相国がまた言った。 「この人は、醒めているのと酔っているのとがほどよくなければいけません。」 そこで杯を数えながら飲ませ、ほろ酔いになると導いて侯の前に進ませた。

侯の前に筆の箱があり、筆は十余本あった。相国はみずからよいものを選んで渡した。そのとき庭に孔雀が遊んでいたので、侯はその孔雀を題とし、琴相国に韻を呼ばせると、四十余韻に及んだ。筆は一瞬も止まらなかった。侯は嘆息して涙まで流した。退こうとするとき、侯が言った。 「あなたが官を望むなら、望むところを言いなさい。」 公は言った。 「わたしは今八品ですから、七品をいただければ十分です。」 相国は何度も目配せをした。すぐに参官を望ませようという意であった。

その日、相国は家に帰ると公を呼んで咎めた。 「あなたの望んだ官は、どうしてそんなに低いのか。どうして参官を望まなかったのか。」 公は言った。 「わたしの志です。」 十二月の人事になって、七品を飛び越えて司宰丞に任じられた。

甲戌公年四十七

甲戌の年。公の年四十七。

夾注 1

貞祐二年

貞祐二年である。

乙亥公年四十八

乙亥の年。公の年四十八。

夾注 1

貞祐三年

貞祐三年である。

夏六月。公作詩求參職階梯。晉康侯將其詩出示其府典籤宋恂曰。此子志高者也。應不以階梯爲望。權屈而言之耳。若奏上直除參官。則想其志謂何也。恂曰。然則其喜不可言。亦衆望也。及下批。爲右正言知制誥。七月。作初拜正言詩。十月。作朝享大廟頌。

夏の六月、公は詩を作って参職に上がる足がかりを求めた。晋康侯はその詩を持ち出して、府の典籤の宋恂に見せて言った。 「この人は志の高い者だ。足がかりを望むはずはないのに、しばらく身を屈めて言ったまでのことだ。もし奏上してそのまま参官に任じたら、その志はどうであろうか。」 宋恂は言った。 「そうなれば、その喜びは言葉に尽くせないでしょう。それはまた多くの人が望むところです。」

辞令が下りると、右正言知制誥となった。七月に「はじめて正言に任じられて」という詩を作った。十月に「太廟に祭享する頌」を作った。

丙子公年四十九

丙子の年。公の年四十九。

夾注 1

貞祐四年

貞祐四年である。

丁丑公年五十

丁丑の年。公の年五十。

夾注 1

貞祐五年

貞祐五年である。

春二月。除右司諫知制誥。賜紫金魚袋。是年秋。以公事停。公作上晉康侯書。

春の二月、右司諫知制誥に任じられ、紫金魚袋を賜った。この年の秋、公務のために職を停められたので、公は「晋康侯に差し上げる書」を作った。

戊寅公年五十一

戊寅の年。公の年五十一。

夾注 1

貞祐六年

貞祐六年である。

春正月。遷左司諫。餘如故。

春の正月、左司諫に移り、他はもとのままであった。

己卯公年五十二

己卯の年。公の年五十二。

夾注 1

貞祐七年

貞祐七年である。

春。公被劾免官。前年十二月日。外方八關賀表有不及進呈者。公欲彈之。琴相國固止之。至是月。晉康侯考其由。卽劾相國及公。相國見原而公獨免官。四月。出爲桂陽都護府副使兵馬鈐轄。五月。赴桂陽。

春、公は弾劾を受けて官を免じられた。前の年の十二月の某日、外の地方から上がった八関会の賀表のうち、差し出されずに終わったものがあった。公はこれを弾劾しようとしたが、琴相国がしきりに止めた。この月になって晋康侯がそのいきさつを調べ、すぐ相国と公を弾劾したが、相国は許され、公だけが官を免じられた。四月、桂陽都護府副使兵馬鈐轄として出た。五月、桂陽へ赴いた。

庚辰公年五十三

庚辰の年。公の年五十三。

夾注 1

貞祐八年

貞祐八年である。

夏六月。以試禮部郞中起居注知制誥見召。七月。至自桂陽。前年九月。晉康公薨。嗣子相國代秉政權。故有是命。十二月。遷試太僕少卿。仍起居注。作謝表。

夏の六月、試礼部郎中・起居注・知制誥として召された。七月、桂陽から帰った。前の年の九月に晋康公が亡くなり、跡を継いだ子の相国が代わって政権を執ったので、この命があったのである。十二月、試太僕少卿に移り、起居注はそのままであった。礼を述べる表を作った。

辛巳公年五十四

辛巳の年。公の年五十四。

夾注 1

貞祐九年

貞祐九年である。

夏六月。除寶文閣待制知制誥。作讓謝表。

夏の六月、宝文閣待制・知制誥に任じられた。辞退しつつ礼を述べる表を作った。

壬午公年五十五

壬午の年。公の年五十五。

夾注 1

貞祐十年

貞祐十年である。

夏六月。太僕少卿卽眞。

夏の六月、太僕少卿に正式に任じられた。

癸未公年五十六

癸未の年。公の年五十六。

夾注 1

貞祐十一年

貞祐十一年である。

冬十二月。除朝散大夫。試將作監。仍待制。

冬の十二月、朝散大夫に任じられ、試将作監となり、待制はそのままであった。

甲申公年五十七

甲申の年。公の年五十七。

夏六月。將作監卽眞。冬十二月。爲明年司馬試座主。作讓謝表。十二月。拜朝議大夫。試國子祭酒翰林侍講學士。仍知制誥。作讓謝表。

夏の六月、将作監に正式に任じられた。冬の十二月、翌年の司馬試の座主となり、辞退しつつ礼を述べる表を作った。十二月、朝議大夫に任じられ、試国子祭酒・翰林侍講学士となり、知制誥はそのままであった。辞退しつつ礼を述べる表を作った。

乙酉公年五十八

乙酉の年。公の年五十八。

春二月。閱司馬試。詩賦得李惟信等一十六人。十音詩得安謙一等五十人。明經得康得希等三人。奏御放牓。冬十二月。拜左諫議大夫。餘仍舊。作讓謝表。是年。作王輪寺丈六靈驗記。又受勑作太倉泥庫上梁文。

春の二月、司馬試を司った。詩賦で李惟信ら十六人、十韻詩で安謙一ら五十人、明経で康得希ら三人を取り、王に奏して榜を出した。冬の十二月、左諫議大夫に任じられ、他はもとのままであった。辞退しつつ礼を述べる表を作った。この年、「王輪寺丈六霊験記」を作り、また王命を受けて「太倉の泥庫上梁文」を作った。

丙戌公年五十九

丙戌の年。公の年五十九。

冬十二月。祭酒卽眞。

冬の十二月、祭酒に正式に任じられた。

丁亥公年六十

丁亥の年。公の年六十。

戊子公年六十一

戊子の年。公の年六十一。

春正月。除中散大夫判衛尉事。餘仍。夏五月。以同知貢擧閱春場。得李敦等三十一人。明經得鞠受圭等四人。奏御放牓。

春の正月、中散大夫・判衛尉事に任じられ、他はもとのままであった。夏の五月、同知貢挙として春の科場を司り、李敦ら三十一人と、明経で鞠受圭ら四人を取って、王に奏して榜を出した。

己丑公年六十二

己丑の年。公の年六十二。

庚寅公年六十三

庚寅の年。公の年六十三。

冬十一月二十一日。長流于猬島。是年八關會侍宴次事有戾於舊例者。是樞密車公所使也。知御史臺事王猷怒叱執事者不從。車公誤以王猷訶宰相愬之。時公及宋左丞恂夾座。故疑其助揚之。皆流于遠島。是日出宿靑郊驛。十二月。至保安縣。留待順風二十六日。入猬島。

冬の十一月二十一日、猬島へ遠く流された。この年の八関会の宴で王に侍していたとき、古い慣例に背いたことがあった。これは枢密の車公が命じたものであった。知御史台事の王猷が怒って係の者を叱ったが、従わなかった。車公は、王猷が宰相を叱ったのだと取り違えて訴えた。そのとき公と左丞の宋恂が脇の席にいたので、それを助けて煽ったのだと疑われ、みな遠い島へ流された。

この日、都を出て青郊駅に泊まった。十二月、保安県に至り、順風を待って二十六日とどまってから、猬島へ入った。

辛卯公年六十四

辛卯の年。公の年六十四。

春正月十五日。量移桑梓黃驪縣。二十二日。行次竹州。寓宿萬善寺。公曾於辛酉歲。客遊此寺。和板上諸公詩。落句云。好在靑山色。休官欲重尋。今落職重來。是幾於詩讖也。復和二首云。秋七月。自黃驪至京師。九月。仍備胡兵。以白衣守保定門。詩集有猶勝炎州嵐瘴地。折腰甘向海村民是也。公在散官。凡達旦通和書表文牒。皆委之。

春の正月十五日、罪を軽くされて故郷の黄驪県に移された。二十二日、道すがら竹州に至り、万善寺に泊まった。公はかつて辛酉の年に旅人としてこの寺に遊び、板に掛かった諸公の詩に和したことがあるが、その終わりの句は

青い山の色よ、達者でいてくれ 官を退いて、また訪ねたいと思う

であった。いま官を失って再び来たのだから、詩がさきに言い当てたようなものである。あらためて二首を和して作った。

秋の七月、黄驪から都に至った。九月、胡の兵に備えるため、官のない身で保定門を守った。詩集に

それでも、暑い地の瘴気の立つ土地よりはましだ 腰をかがめて海辺の村の民に向かうのも、よろこんで受けよう

とあるのがこれである。公は官のない身であったが、およそ達旦と和を結ぶ書・表・文牒は、みな公に委ねられた。

壬辰公年六十五

壬辰の年。公の年六十五。

歲己丑。王師薨。至是年。門人等聞于上。命公作碑銘。夏四月。復舊除。拜正議大夫判祕書省事寶文閣學士慶成府右詹事知制誥。六月。移都。公於此京未搆屋。借河陰客舍西廊居之。作詩二首。秋九月。爲留守中軍知兵馬事。

己丑の年に王師が亡くなった。この年になって門人たちが王に申し上げると、公に碑銘を作らせた。夏の四月、もとの官に復して、正議大夫・判秘書省事・宝文閣学士・慶成府右詹事・知制誥に任じられた。六月、都を移した。公はこの都に家を建てられず、河陰の客舎の西の廊を借りて住み、詩二首を作った。秋の九月、留守中軍知兵馬事となった。

癸巳公年六十六

癸巳の年。公の年六十六。

夏六月。拜銀靑光祿大夫樞密院副使左散騎常侍翰林學士承旨。嗣子涵爲直翰林院。故以親嫌改爲寶文閣學士。八月。直樞院。作詩四首。寄內省金相國冬十二月。拜金紫光祿大夫知門下省事戶部尙書集賢殿大學士判禮部事。又作讓謝表。

夏の六月、銀青光禄大夫・枢密院副使・左散騎常侍・翰林学士承旨に任じられた。跡を継ぐ子の涵が直翰林院となったので、近親を避けて宝文閣学士に改めた。八月、枢密院に宿直して詩四首を作り、内省の金相国に寄せた。冬の十二月、金紫光禄大夫・知門下省事・戸部尚書・集賢殿大学士・判礼部事に任じられた。また辞退しつつ礼を述べる表を作った。

夾注 1

仁鏡。

金相国は名を仁鏡という。

甲午公年六十七

甲午の年。公の年六十七。

夏五月。以春場知貢擧閱試。得金諫成等三十一人。明經得李邦秀等二人放牓。冬十二月。拜政堂文學監修國史。受勑作松廣社主法眞覺國師碑銘。

夏の五月、春の科場の知貢挙として試験を司り、金諫成ら三十一人と、明経で李邦秀ら二人を取って榜を出した。冬の十二月、政堂文学・監修国史に任じられた。王命を受けて「松広社主真覚国師碑銘」を作った。

乙未公年六十八

乙未の年。公の年六十八。

春正月。拜太子少傅。冬十二月。拜參知政事修文殿大學士判戶部事太子大保。

春の正月、太子少傅に任じられた。冬の十二月、参知政事・修文殿大学士・判戸部事・太子太保に任じられた。

丙申公年六十九

丙申の年。公の年六十九。

夏五月。以知貢擧閱春場。得朴曦等二十九人。明經李克松等三人放牓。冬十二月。上表乞退。上留其表於內。遣內侍金永貂。敦諭令復起。公稱病篤。晉陽侯亦以戶籍縮歲爲辭。勉留之。公不得已至十一月起視事。然惶恐不自安。屢作詩見其意。公殊不以縮歲爲幸。以實陳之。乞退固切。然猶不得謝常有詩云。有面不敢擡。慙愧已不少是也。十二月。拜守大尉。

夏の五月、知貢挙として春の科場を司り、朴曦ら二十九人と、明経で李克松ら三人を取って榜を出した。冬の十二月、表を上げて退くことを願った。王はその表を内にとどめ、内侍の金永貂を遣わしてねんごろに諭し、また出仕させようとした。公が病が重いと言うと、晋陽侯も戸籍の年が実際より少なく記されていることを持ち出して、しきりに引き止めた。

公はやむをえず十一月になって務めに出た。しかし畏れ多く、みずから落ち着かず、たびたび詩を作ってその心を示した。公は年が少なく記されていることを少しも幸いとは思わず、ありのままを申し上げて、退くことをしきりに切に願った。それでもなお退けず、常に詩を作って

顔はあっても、あえて上げることができない 恥ずかしさは、すでに少なくない

と言ったのがこれである。十二月、守太尉に任じられた。

丁酉公年七十

丁酉の年。公の年七十。

秋七月。奉勑作東宮妃主謚哀冊。公又上表乞退甚懇。冬十二月。以金紫光祿大夫守大保門下侍郞平章事修文殿大學士監修國史判禮部事翰林院事太子大保致仕。是年。又承勑作大藏經刻板君臣祈告文。

秋の七月、王命を奉じて「東宮妃主の諡の哀冊」を作った。公はまた表を上げて、退くことをたいそう懇ろに願った。冬の十二月、金紫光禄大夫・守太保・門下侍郎平章事・修文殿大学士・監修国史・判礼部事・判翰林院事・太子太保をもって官を辞した。この年、また王命を受けて「大蔵経の板を刻むにあたり君臣が祈り告げる文」を作った。

戊戌公年七十一

戊戌の年。公の年七十一。

冬十二月。承勑作上蒙古皇帝表狀及送晉卿唐古官人書。

冬の十二月、王命を受けて「蒙古皇帝に差し上げる表状」と「晋卿と唐古の官人に送る書」を作った。

己亥公年七十二

己亥の年。公の年七十二。

承勑作蒙古皇帝上表狀。冬十二月。又作同前表狀及送晉卿書。

王命を受けて「蒙古皇帝に差し上げる表状」を作った。冬の十二月、また前と同じ表状と「晋卿に送る書」を作った。

庚子公年七十三

庚子の年。公の年七十三。

辛丑公年七十四

辛丑の年。公の年七十四。

公雖解位家居。於國朝有高文大冊及異朝往來書表等事。無所不爲。秋七月。寢疾。晉陽公聞之。遣名醫等問診不絶。乃取公平生所著前後文集凡五十三卷。募工雕印。其督役甚急。欲及公之眼見。以慰其情也。然以役巨未能告畢。越九月初二日。忽離常寢。向西而臥。以右脅著於席。至夜翛然而化。上聞訃震悼。命有司庀喪事。又令邇臣作誄書以美終。仍贈謚曰文順公。十二月初六日庚寅。葬于鎭江山東麓。公於平生。不營產業。常以詩酒自娛。雖在蟻床。猶不絶於諷詠。又嗜讀楞嚴。至背經輒誦。及臨大期。屛妻息等勿令喧擾。自然拋世。可謂豁達眞人君子也歟。噫。涵時出守於洪州。未及見其終也。其平生傷悼。曷可容言。

公は官を退いて家にいたが、国の高い文章や大きな文書、また他国と取り交わす書や表のような仕事は、しないものがなかった。秋の七月、病に臥した。晋陽公はこれを聞いて、名高い医者たちを遣わして絶えず病を問い診させた。そして公が生涯に著した前後の文集五十三巻を取り寄せ、職人を集めて板に刻み刷らせた。その仕事をひどく急かしたのは、公の目に触れるのに間に合わせて、その心を慰めようとしたからである。しかし仕事が大きくて終えることができなかった。

九月の二日になって、公はふと常に臥していた床を離れ、西に向かって臥し、右の脇を敷物につけた。夜になって静かに世を去った。王は訃を聞いて深く悼み、有司に喪の事を整えさせた。また近臣に誄の辞を作らせて、その終わりを美しく讃えさせた。続いて諡を賜って文順公といった。十二月の六日庚寅の日、鎮江山の東の麓に葬った。

公は生涯、家業を営まず、常に詩と酒でみずから楽しんだ。床に臥していても、なお口ずさむことをやめなかった。また「楞厳経」を読むことを好み、経に背を向けてもすぐ誦んじた。臨終にあたっては妻や子たちを遠ざけて騒がせないようにし、おのずから世を手放した。闊達な真人であり君子であったというべきであろう。

ああ、わたし涵はそのとき洪州の守として出ていて、その最期を見ることができなかった。生涯の悲しみを、どうして言葉に尽くせよう。