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赫上人の凌波亭記赫上人凌波亭記

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 742字 · 朗読 6.5分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻24 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

或曰。權豪貴人之有喜爲亭榭游觀之樂。人猶或非之。況浮屠而務爲此者。其無奈幾於夸浮羨侈而戾於道耶。予曰。非也。且人情之皆欲至於靑蓮佛界白玉仙臺者。無他焉。蓋以其地之淸淨無塵故耳。夫地之淸淨。則心亦爾也。未有心淸淨而爲濁惡熱惱之所乘者也。由是觀之。雖在人間世上。苟得値地之淸淨。而有以汰其心慮。則是亦佛界也仙臺也。何羨於彼哉。由是而習焉。其蹈佛仙境界。亦其漸也。三岳山人宗赫者。本曹溪韻士也。嘗放浪方外。浮雲其迹者久矣。越貞祐某年。偶得古院於壽春郡之坤維號德興者。以其山水可愛。故因駐錫焉。其棟宇之欹仄者悉更之。垣墻之頽圮者亦新之。乃至恢拓舊制。以廣其群髡棲集之地。然後意以爲有賓客之經由。吾不可不供其位。廢應接之禮矣。雖然。於佛宇中。亦不可置其放情肆體遊賞宴喜之所矣。於是選寺之傍地有水之泓碧漣漪者。遂植礎波底。跨亭於其上。以茅覆之。遠而望之。若輕舟畫舫浮在滄浪然也。有遊讌其上。則凡坐賓之俯仰屈伸一嚬一笑之態。與夫柸盤几席樽壺棋局之影。瀉在波面。若從明鏡中見人物什器之羅列映澈者。至如春水漫淥。日光涵明。有魚可數百尾遊泳族戲。俯鑑之了了然可數。或涼秋八九月時。木葉半脫。霜落水淸。丹楓夾岸。倒映波上。爛然若濯錦江中。此皆水亭所以爲勝也。雖大略如此。至絶異處又不可得而名言矣。見之者心自知耳。若傳夸於人。則口不能如眼也。畫之者。狀其粗耳。丹靑不能似其眞也。噫。以此餉客。其誰謂浮屠不宜有亭榭游觀之樂乎。自皇華星節。至于行旅之東西者。莫不遊踐。方其逍遙盤薄也。意若控靑彎跨白鶴。出乎八極之表矣。何白玉仙臺之足導哉。遊者尙爾。如吾禪老之常宴坐飽淸景者。想已與靑蓮佛界爲隣矣。何謂戾於道耶。赫公素喜文。憑予友韓鴻傳乞予爲記。欲爲亭之飾而傳之後。予不頷凡二年。韓君不能無慍色。然後粗志其一二。而因署其額曰凌波。蓋以亭之拔水斗起也。嗚戲。僕亦老矣。異日當掛冠高謝。以幅巾藜杖。往遊其中。作風月主人。而於一篇一詠。盡瀉無窮之景。以償予今日之懸懸傾佇也。湖山有靈。姑需焉。貞祐十一年。白雲居士待制典誥李春卿誌。

ある人が言った。「権勢があり豪なる貴い人が、亭や榭の、遊び眺める楽しみを好んで造ることさえ、人はなお誤りだと言う。まして僧としてこうしたことに努める者は、誇り、浮かれ、羨み、贅やかになるのに近くて、道に背くのではないか。」

私は言った。「そうではない。また人の情がみな青い蓮の仏の世界、白い玉の仙人の台に至りたいと思うのは、ほかに理由がない。おおむね、その地が清く浄らかで塵がないからにすぎない。およそ地が清く浄らかであれば、心もまたそうである。心が清く浄らかなのに、濁り悪く熱い悩みに乗じられる者はいない。これから見れば、人の世にあっても、まことに地の清く浄らかであるのに出会って、その心と思いを洗い流せるなら、これもまた仏の世界であり、仙人の台である。どうしてあちらを羨もうか。これによって習えば、仏や仙の境を踏むのも、また次第に進むのである。」

三岳山人の宗赫という人は、もと曹渓の風雅な士である。かつて世の外を放浪して、その跡を浮雲としたことが久しかった。貞祐某年に、たまたま寿春郡の西南の、徳興と呼ぶ古い院を得た。その山水が愛らしかったので、それで杖をとどめた。

その棟と軒の傾いたものをすべて直し、垣の崩れたものもまた新しくした。そこで古い造りを広げて、多くの僧が住み集まる場所を広くした。そのうえで思った。「客が通ることがあれば、私はその席を設けないわけにいかないから、応接の礼を廃することになる。とはいえ、仏堂のなかに、情を放ち体を伸ばして遊び賞し宴し喜ぶ所を置くこともできない。」

そこで寺のかたわらの地で、水が深く青く、小波の立つ所を選び、ついに波の底に礎を据えてその上に亭を架け、茅で覆った。遠くから眺めれば、軽い舟や絵を描いた船が青い波に浮かんでいるようである。

その上で遊び宴すれば、およそ座った客が見下ろし見上げ、屈め伸ばし、一度しかめ一度笑う姿と、杯と盤、机と席、樽と壺、碁盤の影が、波の面に注ぎ込まれる。明るい鏡のなかで人や物や道具が並び立って透き通って映るのを見るようである。春の水が一面に緑で、日の光が沈んで明るいときになると、魚が数百尾、泳ぎ群れて戯れるのを見下ろせば、はっきりと数えられる。あるいは涼しい秋の八、九月に、木の葉が半ば落ち、霜が降りて水が清く、赤い楓が岸を挟んで波の上に逆さに映れば、燦々として錦を川のなかで洗うようである。これはみな水辺の亭がすぐれたものとなるわけである。

大略はこのようであるが、きわめて並でない所に至っては、また名づけて言えない。見る者が心でおのずから知るだけである。もし人に伝えて誇ろうとすれば口が目に及ばず、描く者はその粗いところを描くだけで、丹青がその真らしさには及ばない。

ああ、これで客を養うのだから、誰が僧に亭や榭の、遊び眺める楽しみがふさわしくないと言おうか。王の輝かしい使者から東西に行く旅人に至るまで、遊び歩かない者はない。まさにそぞろ歩き腰を据えるときは、心が青い鸞を引き白い鶴にまたがって、八極の外へ出るようである。どうして白い玉の仙人の台を挙げる必要があろうか。遊ぶ者さえそうなのだから、わが禅師のように常に静かに座って清い景色を飽きるほど味わう人は、思うにすでに青い蓮の仏の世界と隣になっているだろう。どうして道に背くというのか。

赫公はもと文を好んで、わが友の韓鴻伝を頼って私に記を作ってくれと乞うた。亭の飾りとして後に伝えようとしたのである。私がおよそ二年うなずかなかったので、韓君は腹を立てた顔色を隠せなかった。それからようやく、その一つ二つを大まかに書き留め、それでその額に「凌波」と書いて掲げた。おおむね亭が水から抜きん出て、ぬっと立ち上がっているからである。

ああ、私もまた老いた。後の日に、まさに冠を掛けて高く辞し、幅巾と藜の杖でその中に行って遊び、風と月の主人となろう。そして一編の詩、一度の吟に、尽きない景色をすべて注ぎ出して、今日、私が切に思い焦がれたものに報いよう。湖と山に霊があるなら、しばらく待っていてくれ。貞祐十一年、白雲居士待制典誥の李春卿が記す。