いにしえの文 › 東国李相国集(東国の李相国の文集) › 前集 巻33

枢密院副使の朴玄珪が退くことを願ったが許さない教書樞密院副使朴玄珪乞退不允敎書

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 199字 · 朗読 1.9分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻33 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

云云。大夫當七十歲而乞身。雖則禮之常也。人主有一二臣而圖政。尤所寶者賢歟。苟或許以毛皮。譬自翦其羽翮。卿越從先代。逮事寡人。道直行方而趣尙不爲雷同。經明識博而論議皆有根據。累涉班聯之貴。歷司臺諫之權。義有可行。則扼腕申臂而直進無疑。事有堪陳。則明目張膽而極言迺已。故先試樞機之任。將擢升台鉉之司。朕之佇聽嘉謀者。固非一端。卿之進參密地者。猶無幾歲。何自徇身全之計。而遽稱病篤之辭。況今胡羯肆淫。官家多故。是縉紳憂國之日。非宰相求安之時。姑俟大平。方圖退逸。云云。

云云。

大夫が七十に至って身を放つことを願うのは礼の常であるが、君主が一人二人の臣とともに政をはかるうえで、いよいよ宝とするのは賢者である。もしその毛と皮を剝ぐことを許すなら、みずから自分の羽を切るのに比べられよう。

卿は遠く先代から続いて寡人に仕えるに至った。道が直く行いが方正で、志す所が人に合わせて同調することがなく、経に明るく識見が広くて、議論にはみな根拠があった。幾度も貴い班を経て、台諫の権を預かった。義として行うべきことがあれば、腕をまくり肘を伸ばしてまっすぐ進んで疑わず、事として申し上げるべきことがあれば、目を明らかにし胆を張って言い尽くしてからやめた。

それゆえまず機務の任を試させ、やがて宰相の司に抜き上げようとしていた。朕が美しい謀を待ち聞こうとするのは、まことに一つのことではなく、卿が進んで秘密の地に参ってからも、まだ幾年も経っていない。どうしてみずから身を全うする計に従って、ふいに病が重いという言葉を口にするのか。

まして今は胡羯が勝手に猛り、国家に事が多い。これは官人が国を憂える日であって、宰相が安らぎを求める時ではない。まずは太平を待ってから、退いて閑を求めよ。

云云。