いにしえの文 › 東国李相国集(東国の李相国の文集) › 前集 巻33
礼部郎中の宋就が喪中に復職の命を辞退したが許さない批答禮部郞中宋就讓起復不允批答
東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻33 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。
云云。據禮經而欲畢通喪。雖人子愼終之義。迫王事而權從吉制。亦朝臣順變之宜。蓋由古而行之。非自今而始者。汝頃遭憂釁。深軫哀傷。一心猶矢於終天。百日已周於過隙。合循成例。復卽舊官。何遽陳牢讓之辭。而欲避已行之命義。不孤慈母之惠孝。則可謂無虧。業已爲寡人之臣。忠亦似難偏廢。毋堅一執。以遂兩全。云云。
云云。
礼経に拠って三年の喪を終えようとするのは子が終わりを慎む義であり、王事に迫られて権として吉の制に従うのも、また朝臣が変に順う宜しさである。おおよそ古から行われてきたことで、今から始まったことではない。
汝は先に喪に遭って深く悲しみに痛んだ。一心になお天の果てまで尽くすことを誓ったが、百日がもう隙を過ぎるように巡ったのだから、当然できあがった例に従って旧の官に戻るべきである。どうしてふいに固く辞退する言葉を申し出て、すでに下した命の意を避けようとするのか。
慈しみ深い母の恵みに孝を欠かなかったのだから、欠けるところがないと言ってよく、すでに寡人の臣となったのだから、忠もまた一方だけを捨てるのは難しいであろう。一つの執着を固めず、両方を全うせよ。
云云。