いにしえの文 › 東国李相国集(東国の李相国の文集) › 前集 巻36

銀青光禄大夫・枢密院使・御史大夫の李公の墓誌銘銀靑光祿大夫樞密院使御史大夫李公墓誌銘

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 2 · 漢字 923字 · 朗読 8.4分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻36 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

予嘗論之。勇不必以力。而先以氣爲本。以義爲主者也。何則。生重於義則其氣怯。氣怯則雖鶡冠猛士。有臨陣而股弁者。義重於生則其氣激。氣激則雖緩帶君子。有雄入九軍。略無懼容者。是理之常也。夫所謂義者。有可以濟國難活萬人。則以身當之。奮不顧生者是已。誰其得之。維樞密相國李公一人而已。越貞祐五年丙子。契丹犯境。上命三軍討之。以公爲右軍兵馬判官。及與虜戰於貫花驛之南壤。虜乘勝進擊。我軍皆奔北。無一人反顧者。公獨瞋目直前。手殺數虜。然後遂叱衆俱進。賊衆遂却。是日微公。官軍幾殆矣。明年。轉左軍兵馬副使。復與虜戰於廣灘。公先登大捷。俘獲甚衆。上奇其勇。除左右衛將軍。公固辭不受。尋改將作監。出爲慶尙道按察使。會朝廷勑諸道按廉使。各率管內軍士赴三軍爲羽翼。三軍亦欲待以爲援。屢督促之時。虜兵遮屯要會。元帥密傳以勿由其路。公曰。所以赴戰。固敵是求。避敵非勇也。行由徑路似怯也。遂直衝虜屯而行。虜果出圍之。公與戰大勝。斬䤋不可數。獻俘于元帥府。元帥大加咨賞。未幾。又命公以所部軍士。押轉軍資於順州。虜自殷州。出於不意。公唯與麾下百餘人。與戰却之。元帥自城上望之。嗟嘆至垂涕。己卯三月。以尙書左承被召。是年賊稍平。餘種入江東城自保。朝廷鍊銳兵。以公爲都統。公固辭領兵。以單騎赴之。以其界兵士。悉討平其賊。仍留爲東北面兵馬使。明年。以樞密院右承宣召之。蓋公嘗固辭將軍。故以喉舌貴官寵之也。公諱績。其先砥平縣人也。曾祖諱某。祖諱某。考諱某。監門衛大將軍追贈尙書左僕射。公始屬茶房。出爲猛州倅。及代。凡八年未調。明昌某年。復屬茶房。旋移籍內侍。累歷官至閣門祗候。出爲高州守。入爲尙舍奉御。閱都官兵部二員外。又遷至軍器將作監吏部侍郞尙書右丞樞密院左承宣司宰卿判大僕事左散騎常侍。貞祐十年壬午。擢樞密副使。甲申。遷院使御史大夫。明年卒。享壽六十四。公先娶某官某氏女。無嗣。後娶某官女。又無嗣。公爲人端平簡直。平和恭謹。人未嘗見慍色。雖至貴官。常獨處一室。淡然若書生措大。略不以家事掛意。平時姁婾柔弱。似無膽勇者。及臨戰陣。其勇敢之過人拔群如此。則豈可以常調論之耶。求之古人。不可多得者歟。凡歷官內外。其淸廉礪節與夫興利除害者。不可勝紀。然以公之忠義勇烈功業之卓然者言之。此則公之細也。故於此不具焉。養息某官某。來乞銘勤勤。敢受而銘之云。

私はかつて論じたことがある。勇は必ずしも力によるのではなく、まず気を本とし義を主とするものである。なぜか。生が義より重ければその気は怯む。気が怯めば、鶡冠をかぶった猛々しい兵士でさえ、陣に臨んで足を震わす者がある。義が生より重ければその気は激する。気が激すれば、帯をゆるく締めた書生でさえ、勇ましく九重の軍陣に踏み込んで、少しも恐れた顔のない者がある。これが理の常である。そもそもいわゆる義とは、国の難を救い万人を活かしうることがあれば、我が身をもって当たり、奮い立って生を顧みない、それである。誰がそれを得たか。ただ枢密相国の李公ただ一人である。

貞祐五年の丙子、契丹が国境を侵した。王は三軍に命じて討たせ、公を右軍兵馬判官とした。貫花駅の南の野で虜と戦ったとき、虜が勝ちに乗じて攻め込むと、我が軍はみな逃げ散り、一人として振り返る者がなかった。公は独り目を見開いてまっすぐ進み、手ずから虜数人を殺し、そののち衆を叱って共に進ませたので、賊の群れはついに退いた。この日、公がいなかったなら、官軍は危うく敗れていたであろう。

翌年、左軍兵馬副使に移った。再び広灘で虜と戦ったとき、公は先に乗り込んで大いに勝ち、捕らえた者がきわめて多かった。王はその勇を奇として左右衛将軍に任じたが、公は固く辞退して受けなかった。ついで将作監に改められ、出て慶尚道按察使となった。

折しも朝廷は諸道の按廉使に命じて、それぞれ管内の軍士を率いて三軍に赴き、翼となるようにさせた。三軍のほうも待って援けとしようと、たびたび督促した。そのとき虜兵が要衝を遮って屯していたので、元帥はひそかに伝えて、その路を通るなと言った。公は言った。「戦に赴くのは、もとより敵を求めるためである。敵を避けるのは勇ではなく、近道を行くのは怯んでいるようだ。」 ついに虜の屯をまっすぐ突いて進んだ。虜は果たして出て取り囲んだが、公は戦って大いに勝ち、斬った首は数え切れなかった。捕らえた者を元帥府に献じたので、元帥は大いに感嘆して賞した。

ほどなく、また公に命じて、率いる軍士で軍資を順州へ運び送らせた。虜が殷州から不意に出てきたが、公はただ麾下の百余人とともに戦ってこれを退けた。元帥は城の上から眺めて、嘆じるあまり涙を垂らすに至った。

己卯の年三月、尚書左丞として召された。この年、賊はやや平らぎ、残った一族が江東城に入って自ら守った。朝廷は鋭い兵を練り、公を都統とした。公は兵を率いることを固く辞退し、ただ一騎で赴いた。その境の兵士でその賊をことごとく討ち平らげ、そのまま留まって東北面兵馬使となった。翌年、枢密院右承宣として召した。おそらく公がかつて将軍を固く辞退したので、王命を出し入れする貴い官で寵したのである。

公の名は績、その先は砥平県の人である。曾祖の某、祖父の某、父の某は監門衛大将軍で尚書左僕射を追贈された。

公ははじめ茶房に属し、出て猛州の長官となった。交替のときまで、都合八年、転任しなかった。明昌の某年、再び茶房に属し、まもなく内侍に籍を移した。いくつもの官を経て閣門祗候に至った。出て高州の長官となり、入って尚舎奉御となり、都官と兵部の二つの員外郎を務めた。また移って軍器監・将作監・吏部侍郎・尚書右丞・枢密院左承宣・司宰卿・判太僕事・左散騎常侍に至った。貞祐十年の壬午、枢密副使に抜かれ、甲申に枢密院使・御史大夫に移り、翌年亡くなった。享年六十四である。公ははじめ某官某氏の娘を娶ったが嗣ぐ子がなく、のちに某官の娘を娶ったが、やはり嗣ぐ子がなかった。

公の人となりは、端正で平らかで、簡素でまっすぐであった。和やかで恭しく慎み深く、人は怒った顔色を見たことがなかった。貴い官に至っても、いつも一室に独りいて、淡々としていることは書生の貧しい士のようであり、少しも家の事を心にかけなかった。平生は柔らかで和やかで弱々しく、胆も勇もない者のようであった。それが戦いの陣に臨むと、その勇敢さが人を超え群を抜くことはこのようであったのだから、どうして世の常の物差しで論じられようか。古人に求めても、多くは得られない人ではないか。

内外の官を経て、清廉に節を磨いたことや、利を興し害を除いたことは数え上げられない。けれども公の忠義と烈しい勇、抜きん出た功業から言えば、こうしたことは公には些細である。それゆえここには詳しく記さない。養い子の某官某が来て懇ろに銘を乞うたので、あえて受けて銘を作る。

夾注 1

幷序

序を併せて作る

2銘

君子之勇。必本於義。義生於情。激之者氣。氣以激之。又輔以智。以此當敵。何懼何畏。寧我捐身。活人是貴。活衆故軍完。軍完故身全。捐身得全。是所尤賢。烈烈我公。智勇兼焉。一國之城。三軍之天。云何不淑。奄若逝川。有焯其名。日月同懸。伯道無兒。天意茫然。刻詞貞珉。光于九泉。

君子の勇は必ず義に本づく 義は情から生まれ、それを激するものは気である 気でこれを激し、また智でこれを輔ける これをもって敵に当たる、何を懼れ何を畏れよう いっそ我が身を捨てて、人を活かすことこそ貴い 衆を活かしたから軍が全く 軍が全いから身も全い 身を捨ててなお全きを得た、これがいよいよ賢いところだ 烈々たる我が公よ、智と勇とを兼ねていた 一国の城であり、三軍の天であった どうして善からぬことに、たちまち流れる川のようであるのか その名は輝いて、日と月とともに懸かる 伯道に子がなかったように、天の意は茫々としている 貞らかな石に詞を刻めば、九泉の下に光るであろう