いにしえの文 › 東国李相国集(東国の李相国の文集) › 前集 巻37

呉徳全先生を哀しむ文吳先生德全哀詞

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 2 · 漢字 880字 · 朗読 8.3分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻37 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

濮陽先生吳世才。字德全。中古名學士諱學麟之孫也。家世以儒顯。兄弟三人。曰世功。曰世文。公其季也。世功世文。皆當世名儒。而公實白眉之良。二兄亦自以爲不及。學士李知深以女妻之。間或負氣偃蹇。李公愛其才。不敢訾焉。尤精力耽六經。盡誦周易。餘經雖不期於誦。其背文而誦者亦幾乎半。蓋熟於口而不覺出吻故耳。嘗手寫六經。謂人曰。百讀不如一寫之存心。爲詩文。得韓杜體。雖牛童走卒。無有不知名者。少疏雋小檢。晚節登科第。始折節刻勵。恂恂然禮法君子也。尙不容於世。蹇躓不振。嘗以書干趙,柳兩公。其辭哀切悲壯。抑揚婉轉。眞有古人風。讀之不覺涕下。然而猶不得被薦。則甚矣世之迫隘之如此也。先生度終不爲世用。於是有長往之志。東京。外祖所出也。意欲歸老。以路遠難於徒步。遂求爲祭告使祝史。乘驛而往。因留之不復京師。東都亦無有力護者。卒以窮困死。前死日。有友人夢見公乘白鶴盤旋者。明日謁之。先生已化矣。嗚呼。昔屈原,賈誼雖被疏斥。其始莫不被君寵遇。頗伸蘊蓄。李太白亦爾。杜甫雖窮。亦得爲員郞。公獨卒不霑一命而死。天耶命耶。果天也。其忍使才賢薄命如此。是何理耶。昔公之未東也。始訪予於城西之莊。留浹辰論懷款密。予年方十八。猶未冠。公已五十三矣。予欲以丈人行事之。公不肯焉。許以忘年曰。古之人論交。但論志之何如耳。不必以齒。吾才雖不及嵇康。以子爲阮籍可矣。自是嘗與遊詩酒間。每於名流廣會中。以得予爲誇。或譏以爲先生老大師儒也。安用此孺子爲友而驕其心耶。公輒曰。非子輩所知也。此公之所以賞予於頭角未露時者也。從遊僅三稔。雖不能盡襲蘭芳。其漬餘膏亦多矣。昔陶潛死。門人私贈諡曰靖節先生。予之以稚齒。被先生斵墁。不啻若門人。以是私贈諡曰玄靜先生。遂爲哀詞曰。

濮陽先生の呉世才は字を徳全といい、中ごろの名高い学士である諱学麟の孫である。家は代々儒者として世に知られた。兄弟は三人で、世功、世文といい、公はその末である。世功と世文はともに当代の名ある儒者であったが、公こそその中で最もすぐれており、二人の兄も自ら及ばないと言った。学士の李知深が娘を与えて妻とさせた。ときおり気を頼んで驕り高ぶることもあったが、李公はその才を愛して、あえてとがめなかった。

いよいよ力を注いで六経に打ち込み、「周易」をすべて暗誦した。その他の経は暗誦しようと期したわけではないが、書を見ずに誦じられるものがやはり半ばに近かった。口に馴染んで、知らぬうちに唇から出たのである。かつて自ら六経を書き写し、人に言った。「百遍読むのは、一遍写して心に留めるのに及ばない。」 詩や文を作っては韓愈と杜甫の体を得たので、牛飼いの子や走り使いの者まで、その名を知らぬ者はなかった。

若いころは闊達で抜きん出ていたが身を慎まなかった。晩年に科挙に上ってはじめて志を折り、刻苦して、慎み深い礼法の君子となった。それでも世に受け入れられず、よろめいて振るわなかった。かつて書を趙公と柳公の二人に奉ったが、その言葉は哀切で悲壮、抑揚して婉曲に転じ、まことに古人の風があって、読めば知らず涙が落ちた。それでもついに推挙されなかったのだから、世の狭く迫ることがこれほどとは甚だしい。

先生はついに世に用いられまいと見極め、そこで遠く去る志を抱いた。東京は母方の祖父の出た土地である。帰って老いようと思ったが、道が遠くて歩いて行くのは難しかった。ついに祭告使の祝史の役を求め、駅馬に乗って行き、そのまま留まって都へ帰らなかった。東都にも力添えして庇う者がなく、ついに窮して困じて亡くなった。亡くなる前の日、ある友が公が白い鶴に乗って巡っている夢を見た。翌日訪ねてみると、先生はすでに世を去ったあとであった。

ああ、昔、屈原と賈誼は遠ざけられ斥けられたとはいえ、はじめはみな君の寵遇を受け、蓄えたものをかなり伸ばした。李太白もそうであり、杜甫は窮していたとはいえ員外郎にはなれた。公だけがついに官の一つも得ずに死んだ。天か、命か。まことに天であるのなら、どうして才ある賢い人の命をこれほど薄くするに忍びようか。これは何の理であるか。

昔、公がまだ東へ行かなかったころ、城の西の別荘に私をはじめて訪ね、十二日とどまって懐いを篤く語り合った。私は年わずか十八でまだ冠も加えず、公はすでに五十三であった。私は年長者として仕えようとしたが、公は承知しなかった。年の差を忘れた友として許し、言った。「古の人が交わりを論ずるときは、ただ志がどうであるかを論じただけで、年齢によりはしなかった。私の才は嵇康に及ばないけれども、そなたを阮籍とすればよい。」

これより詩と酒のあいだで共に遊び、名のある人々が多く集まる席ごとに、私を得たことを誇りとした。ある人が「先生は老いた大いなる師儒であるのに、どうしてこの子どもを友として心を驕らせるのか」とそしると、公はそのたびに「そなたたちの知るところではない」と言った。これが、公が私の頭角のまだ現れないころに私を認めてくれた理由である。従って遊んだのはわずか三年であったから、蘭の香をすべて移し受けることはできなかったが、残った膏に潤ったものはやはり多かった。

昔、陶潜が死ぬと、門人たちが私に諡を贈って靖節先生といった。私は幼い年で先生の手斧と鏝を受けたことが、門人に劣らない。それゆえ私に諡を贈って玄静先生とし、ついで哀しみの詞を作ってこう言う。

夾注 1

幷序

序文を併せて載せる。

有猗夫子。器涵涵兮。鳶肩方口。頎而髥兮。文詞游刃。有餘銛兮。六經粹奧。窅搜探兮。人難有一。公獨兼兮。胸中恢廣。混包含兮。文場虎攫。視耽耽兮。李杜爲敵。一接殲兮。抱寶不售。分固甘兮。塊然獨居。守窮閻兮。獵纓正色。貌矜嚴兮。高官豐祿。豈不足擔兮。鰌鱓得水。躍江潭兮。戢鱗泥淖。龍晦潛兮。刻畫自媚。盡無鹽兮。西施布袂。衣不縑兮。朝臣不薦。得無慙兮。有吻莫啓。孰弛鉗兮。才賢蹇躓。其視恬兮。朱門煌煌。勢徒炎兮。屈平賈誼。雖被讒兮。始於國政。無不參兮。嗟若先生。老窮巖兮。才恩滴澤。猶不霑兮。崎嶇世味。備嘗諳兮。奮然獨往。天之南兮。江湖卑濕。不可淹兮。想昇碧落。鶴爲驂兮。不爾逍遙。鼇岫三兮。縹霞紅霧。擁仙龕兮。欲往從遊。予骨凡兮。安得輕擧。挹子衫兮。綴芳薦諡。欲寄緘兮。翩翩靑鳥。倘來銜兮。

ああ麗しいかな夫子よ、その器は満ち溢れていた。 鳶のような肩に四角い口、すらりとして髯が長かった。 文の腕前は刃を遊ばせるようで、鋭さに余りがあった。 六経の純粋で奥深いところを、遥かに探り求めた。 人は一つを備えることさえ難しいのに、公は独りで兼ね備えた。 胸の内は広く大きく、混然とすべてを包み込んだ。 文の場では虎が掴みかかるように眈々と見据えた。 李白と杜甫を敵とし、ひとたび交われば打ち破った。 宝を抱えながら売れなかったが、おのが分として甘んじた。 ぽつねんと独り住み、窮しい路地を守った。 冠の紐を正し顔色を改めると、その姿は厳めしかった。 高い官と厚い禄とて、どうして担えなかったであろうか。 泥鰌や田鰻は水を得て、江や淵で跳ね回る。 龍は鱗を収めて泥に潜み、身を隠す。 刻み描いて自ら媚びるのは、みな無塩のような者である。 西施は布の袂をまとい、絹の衣を着なかった。 朝廷の臣が推挙しなかったのは、恥ずかしくないのか。 口があっても開けず、誰がその轡を外してやろうか。 才ある賢い人がよろめくのを、平然と見ているばかりであった。 朱の門は煌々と輝き、権勢の者だけが熱かった。 屈平と賈誼は讒言を受けたとはいえ はじめは国政に与らなかったことがない。 ああ、先生のような人は、窮しい岩の下で老いた。 才に降る恩沢の一滴さえ、潤すことがなかった。 険しい世の味を、すべて嘗め尽くして知った。 奮い立って独り、天の南へ去った。 江湖は低く湿って、長く留まるべき所ではない。 碧落へ昇って、鶴を添え馬としていよう。 さもなくば、鼇の背に載る三つの峰に遊んでいよう。 薄い霞と紅い霧が、仙の龕を囲んでいよう。 行って従い遊びたいが、私の骨は凡である。 どうすれば軽々と昇って、そなたの衫を取れようか。 芳しい詞を綴って諡を薦め、封じた文を寄せたいと思う。 ひらひらと飛ぶ青い鳥が、もしや来てくわえてくれようか。