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文順公を悼む文誄書

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 2 · 漢字 955字 · 朗読 9.2分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 後集 巻末 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

維歲在辛丑秋九月二日。守大保門下侍郞平章事李公病卒。仍殯于私第。越十一月六日庚寅。葬于鎭江山東麓。禮也。公諱奎報。字春卿。黃驪縣人也。考諱允綏。官至戶部郞中。母金氏。金壤縣人。公之始生。乳嫗一日抱出門。有一老父過曰。此兒。千金之子。宜善護養。嫗走白嚴君。君疑其神人。使人追之不見焉。公幼聰敏穎悟。九歲。能屬文。時號奇童。九經史百子。一覽輒記。以詩捷稱。牛童馬走。無不知名也。己酉。擧司馬試中第一。明年庚戌。擢進士第。俄補全州書記。爲政剛猛。因同寮忌憚被讒。上洛。壬戌。東都叛。朝廷出三軍征之。戎幕以散官及第充修製。歷三人。皆以計避之。公獨曰。爲人臣避國難可乎。遂從軍。丁卯。被儒官所薦。補直翰林院。以文敏累遷。乙亥直除右正言知制誥。己卯。因公事被劾。出爲桂陽都護府副使。不涉一年。以禮部郞中起居注見召。未幾。除寶文閣待制。待制之任。非凡材所當。故時或有缺焉。積官至樞密院副使左散騎常侍翰林學士承旨。嗣子涵爲直翰林。故改爲寶文閣學士。尋拜政堂文學參知政事。公以年耄告老。上不允。丁酉。又表乞退固切。以金紫光祿大夫守大保門下侍郞平章事修文殿大學士監修國史判禮部事翰林院事太子大保致仕。公爲人。寬雅正直大臣也。時人目之曰。人中龍也。不獨窮究經史。至於幽文僻說佛書道帙。無不遍閱。晚年尤信佛法。常誦楞嚴。又嗜讀洗心經。窮大衍之數。公一掌成均。三典禮闈。所得皆當世聞人。玉筍之盛。無若此者。自典誥至于卿相。凡國家王言帝誥高文大冊。皆出一手。雖及懸車。外國交聘表狀徵誥文字。亦公之所製也。由是眷遇益重。每頒月俸。與在官相府同焉。又命有司取公所著前後文集五十三卷。募工彫印傳于世。則名振華夷。寵無前古。哀榮終始。可謂無缺矣。公始諱仁底。將赴司馬試。夢奎星報異瑞。因改焉。果中第一。方未冠時。有吳先生世才者。於人愼許可。一見而奇之曰。子非常人也。必遠到矣。及登第。公嫌其科劣。醉謂賀客曰。科第雖下。豈不是三四度鑄門生者乎。座客大笑。於戲。奎星之報。吳公之知。公之醉語。豈不異哉。解位家居。常以詩酒自娛。及辛丑七月。得微恙。至九月二日。向西着衣。翛然而化。享年七十四。上聞訃震悼。勑有司庀喪事。三日不視朝。贈諡曰文順公。仍命邇臣誄以發之。其詞曰。

辛丑の年の秋、九月二日に、守太保・門下侍郎・平章事の李公が病で亡くなり、そのまま私邸に殯した。十一月六日の庚寅の日に、鎮江山の東の麓に葬ったが、礼にかなったことであった。

公の諱は奎報、字は春卿、黄驪県の人である。父の諱は允綏で、官は戸部郎中に至り、母は金氏で金壤県の人である。

公が生まれたばかりのとき、乳母がある日抱いて門を出たところ、一人の老人が通りかかって言った。「この子は千金のように貴い子だから、よく守り育てるがよい。」乳母が走って父に申し上げると、父は神人ではないかと疑って人を遣わして追わせたが、見えなかった。

公は幼いときから聡く敏く、聡明であった。九歳で文を作ることができたので、当時の人は奇童と呼んだ。九つの経と史と諸子の文を、一度見ればたちまち覚え、詩が速いことで称えられたので、牛を飼う子や馬を駆る僕までその名を知らぬ者がなかった。

己酉の年に司馬試に進んで第一で合格し、翌年の庚戌の年に進士に抜かれた。やがて全州書記に補されたが、政を剛く猛々しく行ったので、同僚が憚り妬んで讒を受け、都に上った。

壬戌の年に慶州が叛いたので、朝廷は三軍を出して征した。軍の幕では、散官で及第した者を選んで文を作る役に充てようとし、三人を経たが、みな計を用いて避けた。公だけが独り言った。「人の臣となって国の難を避けることが正しいだろうか。」ついに軍に従った。

丁卯の年に儒官たちの薦めを受けて直翰林院に補され、文が敏いことで幾度も移った。乙亥の年に直ちに右正言・知制誥に任ぜられ、己卯の年に公務の事で弾劾を受け、出て桂陽都護府副使となった。一年も経たぬうちに礼部郎中・起居注として召され、いくらも経たぬうちに宝文閣待制に任ぜられた。待制の任は並の才で当たれるものではないので、時には空けておくこともあった席である。

官が積み重なって枢密院副使・左散騎常侍・翰林学士承旨に至った。嗣子の涵が直翰林となったので、宝文閣学士に改め、ついで政堂文学・参知政事に任ぜられた。公は年が老いたと言って退くことを申し上げたが、上は許されなかった。丁酉の年にまた表を上げて退くことを固く切に願ったので、金紫光禄大夫・守太保・門下侍郎・平章事・修文殿大学士・監修国史・判礼部事・翰林院事・太子太保として官を退いた。

公の人柄は、寛やかで雅やかで、まっすぐな大臣であった。当時の人は彼を指して「人の中の龍である」と言った。経と史を深く究めただけでなく、奥深い文や辺りの説、仏の書や道家の書に至るまで、遍く見ないものがなかった。晩年にはいよいよ仏法を信じ、常に楞厳経を誦え、また洗心経を読むことを好んで、大衍の数を究めた。

公は一度成均の試を掌り、三度礼部の試を掌ったが、得た者はみなその時代の名ある人であったから、筍のように連なる才の盛んなことは、これほどの時はなかった。詔を作る職を掌ったときから宰相に至るまで、およそ国の王の言と詔、高い文と大きな冊が、みな一つの手から出た。官を下りて退いた後でも、他国と行き交う表や状、召す詔の文も、また公が作ったものであった。これによって御目をかけられることがいよいよ重く、月ごとに禄を下すときには、官にある宰相の府と同じにした。また有司に命じて、公が作った前後の文集五十三巻を取り、工を募って彫り刷って世に伝えさせた。名は中華と夷にまで振るい、寵は昔にもなかったものであるから、哀しみと栄えが初めから終わりまで欠けた所がないと言える。

公のはじめの諱は仁底であったが、司馬試に進もうとするとき、夢で奎星が異なる瑞を告げたので名を改めたところ、果たして第一で合格した。まだ冠しない時に、呉世才先生という人があって、人を認めることを慎んだが、一度見て奇として言った。「そなたは常の人ではない。必ず遠くに至るであろう。」及第すると、公はその科の等級が低いことを不快に思い、酔って祝いに来た客に言った。「科の等級は低いが、三度四度は門生を鋳て出す者ではないか。」座にいた客は大いに笑った。ああ。奎星が告げたことと、呉公が見抜いたことと、公が酔って言ったことは、どうして異ならないであろうか。

官を解いて家にいて、常に詩と酒でみずから楽しんだ。辛丑の年の七月になって軽い病を得、九月二日に西を向いて衣を着け、さらりと世を去った。享けた年は七十四であった。上は訃を聞いて激しく悼み、有司に命じて喪の事を整えさせ、三日のあいだ朝を見ず、文順公という諡を贈られた。ついで近い臣に命じて誄を作ってその徳を現させた。その詞に言う。

夾注 2

右司諫鄭芝奉宣述。

右司諫の鄭芝が王命を奉じて作った。

底本は東都とし、墓誌銘は東京としているが、どちらも今の慶州である。「東京」は音が今の東京と紛れるので「慶州」と記した。 ― 訳者

英英我公。一代儒宗。賦形殊特。曰人中龍。神人報英。奎宿標祥。稟靈毓粹。不類於常。幼而力學。時號奇童。三敎奧旨。無不該通。首登上板。一中賢科。詩名籍籍。聞于中華。出佩州符。政績無倫。驟登翰苑。雄筆如神。諫垣叫闔。誥院演綸。藥言醫國。繡句驚人。修書敍事。信服強戎。潭潭相府。穆穆淸風。一掌成均。鸞鵠繽紛。三典禮闈。桃李芳芬。如何一旦。天喪斯文。縉紳庶士。涕泣瀾潸。鳳翼何附。龍鱗何攀。泰山其頹。士林凄然。上心悲悼。寵葬無前。命臣作誄。光于九泉。嗚呼哀哉。

秀でられた我が公は 一代の儒の宗であった 授かった姿が人並みでなく 人の中の龍といわれた 神人が秀でたことを告げ 奎の星が瑞を現した 霊なるものを受け純なるものを育て 常の人とは似なかった 幼くして力を尽くして学び 当時は奇童と呼ばれた 三つの教えの奥深い旨を 遍く通じないものはなかった 最も上の板にはじめて上り 一度で賢科に合格した 詩の名が高く立って 中華にまで聞こえた 出て州の符を帯びると 政の跡は比べるものがなかった 翰林院に急に上って 雄々しい筆は神のようであった 諫めの垣で宮門に向かって叫び 詔を作る院で王の言を述べた 薬のような言で国を医し 錦のような句で人を驚かせた 文を修めて事を述べると 強い戎も信じて服した 深々とした宰相の府に 睦やかで清らかな風が吹いた 一度成均の試を掌ると 鸞と鵠が入り乱れて集まり 三度礼部の試を掌ると 桃と李が香しく咲いた どうして一朝のうちに 天はこの文を喪ったのか 縉紳と多くの士が 涙をとめどなく流す 鳳の翼にどこで寄り 龍の鱗をどこで攀ろう 泰山が崩れたので 士林はうら寂しい 上の御心が悲しみ悼まれて 葬りの寵は前になかった 臣に命じて誄を作らせられたので 九泉にまで輝きたまえ ああ、悲しいことだ。