守太保・金紫光禄大夫・門下侍郎・平章事・修文殿大学士・監修国史・判礼部事・翰林院事・太子太保を退き、文順公の諡を贈られた方の墓誌銘守大保金紫光祿大夫門下侍郞平章事修文殿大學士監修國史判禮部事翰林院事太子大保致仕。贈諡文順公墓誌銘。
公姓李。諱奎報。字春卿。黃驪縣人也。皇考諱允綏。戶部郞中。母金氏。金壤縣人也。以公故封金蘭郡君。蔚珍縣尉諱施政之女也。公九歲。能屬文。至十五六。洽聞強記。凡著述。不倣古人陳語。平生不自名唐白。時人指之曰。走筆李唐白。歲己酉。於名宰相柳公權座下。中司馬試第一。明年。赴禮部試。於三場試日。貢擧員重其名。令飮宣醞數四杯。稍酣。下筆未精。其科稍劣。欲辭之更擧。以嚴君切責。亦無舊例。辭不得。謂賀客曰。科第雖下。豈不是三四度鑄門生者乎。丁巳。冢宰趙公永仁等文儒四相。聯名上箚子。薦公於闕下。箚子。爲不平者所竊遂寢。登第之十年。出補全州管記。屢抑通判不法。因被訴解職。後館翰等儒官薦人。每以公爲之首。故於丁卯。權補翰林院。明年。卽眞。壬申正月。除千牛衛錄事參軍事出院。六月。以兼直復院。十二月。不踐七品。爲司宰丞。仍兼直院。乙亥。直拜右正言。歷左右司諫。己卯。出爲桂陽府副使。一年。以禮部郞中起居注見召。自後歷大僕少卿寶文閣待制將作國子監祭酒翰林侍講學士判衛尉事。於九年之間。其遷轉如此。庚寅。以無妄流于猬島。其時以同罪被流者三人。皆正直敢言之達官也。辛卯。蒙宥還京師。時達旦來侵。公以散官。凡講和文字。皆任之。壬辰四月。起爲正議大夫判祕書省事寶文閣學士慶成府詹事。自入參至於是職。除補外一年。皆兼典誥。癸巳六月。拜銀靑光祿大夫樞密院副使右散騎常侍寶文閣學士。十二月。入相爲金紫光祿大夫知門下省事戶部尙書集賢殿大學士判禮部事。乙未十二月。爲參知政事修文殿大學士判戶部事太子大保。冬十月。上表乞退。上遣近臣敦諭令復起。公不得已起視事。又乞退固切。上重違其志。以守大保門下侍郞平章事修文殿大學士監修國史判禮部事翰林院事太子大保致仕。嘗一典成均。三闢禮闈。所選多韻士。自解位來。以詩酒自娛。尙讀楞嚴。頌在九卷。亦國有大冊異朝書表等事。無所不爲。越辛丑七月。得微恙。時之當國大臣。連遣名醫問診。取公所著文集。命工彫刻。欲令公眼見。事巨未畢。至九月初二日。卒于私第。享年七十四。上哀悼。勑有司令百官會葬。贈諡曰文順公。噫。公之官爵次序。旣列於前。其瑞應行事之跡。敢闕于後。公之生數月。惡瘡滿身。面目皆爛。乳嫗出置門外。有一老父過視之曰。此兒不啻萬金。宜善護養。嫗走報家君。君疑其神人。數路追之不得。此神物護公於襁褓中也。公之欲赴司馬試。夢見着碪鍊緇布衣人群飮堂上。傍人曰。此二十八宿也。公驚悚再拜。問今年試席捷否。有一人指一人曰。彼乃奎星。宜就問之。公就問。未聞其言而窹。俄復夢。其人來報子必占魁頭。此天機。但勿洩耳。前名仁底。因改今名。赴試果中第一。此靈曜之攝公於名敎中也。壬戌。東京叛。遣三軍討之。軍幕欲以散官及第充修制員。戰者危事。皆以計避之。公獨慨然曰。予雖儒怯。避國難非人也。遂從軍。此公之勇於義也。戊寅。於八關會侍御宴。禮數未半。有一宰相促罷之。公曰。君賜也。不可取次處分。雖因此被流。此公之執法不撓也。所謂達旦者。頑如禽獸。奏之以鈞天廣樂。而不足以開其胸。投之以隋珠和璧。而▣▣▣▣顔。及聞公之文字事意。惻然有感。所諭皆從。此公之至諴能動無情者也。娶大府卿晉昇第二女。生四男二女。長曰灌。先公沒。曰涵。今爲知洪州事副使。曰澄。慶仙店錄事。曰濟。西大悲院錄事。女長適入內侍掖庭內謁者監李惟信。次適內侍慶禧宮錄事高伯梴。於戲。墓銘之作尙矣。其功名顯顯爲世所尙。然後爲之。蓋將使後之人知曠世之上。有雄偉不常者矣。雖其人雄偉不常。而銘不得其人。則不若無之之爲愈也。予拙於爲文。公於平日從容之際。每稱吾之沒也。子其銘乎。其嗣子涵述公之意。書來請銘。不得已銘之曰。
公の姓は李、諱は奎報、字は春卿で、黄驪県の人である。亡き父の諱は允綏で、戸部郎中であった。母は金氏で金壤県の人であるが、公によって金蘭郡君に封じられた、蔚珍県尉の諱施政の娘である。
公は九歳で文を作ることができ、十五、六になると、聞いたことが豊かで記憶が強かった。およそ作るときに、古人の古びた言葉を真似なかった。生涯みずから唐白と名のったことはないのに、当時の人は彼を指して「筆を走らせる李唐白」と言った。
己酉の年に、名高い宰相の柳公権の席の下で司馬試に第一で合格した。翌年、礼部の試に進んだが、三場を見る日に、科挙を掌る者たちがその名を重んじて、王が下された酒を三、四杯飲ませた。ほろ酔いになって筆を下すことが精しくなく、その等級がやや低かった。辞して改めて科挙を受けようとしたが、父が切に責め、また昔の例もなかったので、辞することができなかった。祝いに来た客に言った。「科の等級は低いが、三度四度は門生を鋳て出す者ではないか。」
丁巳の年に、宰相の首である趙永仁ら、文を能くする宰相四人が名を連ねて箚子を上げ、公を宮門に薦めたが、その箚子を不平に思う者が盗んで行き、ついに埋もれてしまった。及第して十年目に、出て全州書記に補されたが、通判の法にかなわぬ事を幾度も抑えたことから訴えを受け、職を解かれた。後に館閣と翰林の儒官たちが人を薦めるたびに、常に公を第一とした。そこで丁卯の年に翰林院に仮に補され、翌年、正式の官となった。
壬申の年の正月に千牛衛録事参軍事に任ぜられて翰林院を出たが、六月に兼職でふたたび入った。十二月に七品を踏まずに司宰丞となり、そのまま翰林院の兼職を持った。乙亥の年に直ちに右正言に任ぜられ、左司諫と右司諫を経た。己卯の年に出て桂陽府副使となり、一年で礼部郎中・起居注として召された。その後、太僕少卿、宝文閣待制、将作監、国子監祭酒、翰林侍講学士、判衛尉事を経たので、九年のあいだにその移り変わりはこのようであった。
庚寅の年に、謂れのないことで猬島に流された。そのとき同じ罪で流された者が三人いたが、みなまっすぐで敢えて言う高い官人であった。辛卯の年に赦を受けて都に帰った。そのとき達旦が侵して来たので、公は散官の身で、およそ和を講ずる文をすべて任された。
壬辰の年の四月に起こされて正議大夫・判秘書省事・宝文閣学士・慶成府詹事となった。はじめ官に入ってからこの職に至るまで、外に出ていた一年を除いては、みな詔を作る職を兼ねた。癸巳の年の六月に銀青光禄大夫・枢密院副使・右散騎常侍・宝文閣学士に任ぜられ、十二月に宰相として入り、金紫光禄大夫・知門下省事・戸部尚書・集賢殿大学士・判礼部事となった。乙未の年の十二月に参知政事・修文殿大学士・判戸部事・太子太保となった。
冬の十月に表を上げて退くことを願ったが、上は近い臣を遣わして篤く諭し、ふたたび起こさせたので、公はやむを得ず起きて事を見た。また退くことを固く切に願ったので、上はその志を違えがたく思われ、守太保・門下侍郎・平章事・修文殿大学士・監修国史・判礼部事・翰林院事・太子太保として官を退かせた。
かつて一度成均の試を掌り、三度礼部の試を開いたが、選んだ者に韻のある士が多かった。官を解いてからは詩と酒でみずから楽しみ、なお楞厳経を読んだので、その頌が九巻にある。また国に大きな冊や他国へ送る書や表などの事があれば、しないことがなかった。
辛丑の年の七月に軽い病を得た。そのとき国を預かる大臣たちが次々に名医を遣わして病を問い診させた。公が作った文集を取って工に命じて彫らせ、公の目に見せようとしたが、事が大きくて終えられなかった。九月の初二日に私邸で亡くなられたので、享けた年は七十四であった。上は悲しまれて有司に命じて百官が集まって葬らせ、文順公という諡を贈られた。
ああ。公の官と位階の次第はすでに前に並べ置いたのであるから、その瑞が応じた事と行いの跡を、どうして後に欠かすことができようか。
公が生まれて数か月のうちに、ひどい瘡が全身に広がり、顔と目がみな爛れた。乳母が門の外に出して置いたところ、一人の老人が通りかかって見て言った。「この子は万金よりなお貴いから、よく守り育てるがよい。」乳母が走って父に知らせると、父は神人ではないかと疑って幾つもの道を追わせたが、見つからなかった。これは神なるものが襁褓の中の公を守ったのである。
公が司馬試に進もうとするとき、夢に砧でならした黒い布の衣を着た人たちが堂の上で群れて飲んでいるのを見た。傍らの人が言った。「これらは二十八の星宿である。」公は驚き恐れて二度おじぎをし、今年の試の席で合格するかどうかを尋ねた。一人が別の一人を指して言った。「あの人がすなわち奎星だから、進んで尋ねるとよい。」公は進んで尋ねたが、その言葉を聞かぬうちに覚めた。やがてまた夢を見ると、その人が来て告げた。「そなたは必ず首席を占めるであろう。これは天の機密だから、ただ漏らさぬようにせよ。」以前の名は仁底であったが、これによって今の名に改め、試に進んで果たして第一で合格した。これは神なる星が公を儒の教えの中へ導いたのである。
壬戌の年に慶州が叛いたので三軍を遣わして討ったが、軍の幕が散官で及第した者を選んで文を作る役に充てようとした。戦いは危うい事であるから、みな計を用いて避けた。公だけが独り憤然として言った。「私は儒者で臆病だとはいえ、国の難を避けるのは人ではない。」ついに軍に従った。これは公が義に勇ましかったのである。
戊寅の年の八関会のときに王の宴に侍したが、礼の半ばも過ぎないうちに、ある宰相が終えることを急がせた。公は言った。「王が下されたものであるから、みだりに処分することはできない。」これによって流されたとはいえ、これは公が法を執って曲げなかったのである。
いわゆる達旦という者どもは、頑なことが鳥や獣のようである。天の盛んな楽を聞かせてもその胸を開かせるには足らず、隋侯の珠と和氏の璧を投げ与えても▣▣▣▣顔色であった。ところが公の文と文意を聞いてからは、心が動いて感ずるところがあり、諭したことをみな従った。これは公の至った誠が、情のないものまで動かしたのである。
大府卿の晉昇の二番目の娘に娶って、男四人、女二人を生んだ。長男は灌で、公より先に亡くなり、涵は今、知洪州事副使となり、澄は慶仙店録事、濟は西大悲院録事である。長女は入内侍・掖庭・内謁者監の李惟信に嫁ぎ、次は内侍・慶禧宮録事の高伯梴に嫁いだ。
ああ。墓誌銘を作ることは古くからある。その功と名が著しく、世が高く尊んだ後にはじめて作るのであるから、おおよそ後の人に、遥かな世の上に雄々しく偉くて常でない人がいたことを知らせようとするのである。たとえその人が雄々しく偉くて常でないとしても、銘を作る人を得られないのであれば、むしろ無いほうが勝る。私は文を作ることに拙い。それでも公は平生、静かなときごとに常に言われた。「私が死んだら、そなたが銘を作ってくれ。」その嗣子の涵が公の意を伝えて、書で銘を請うたので、やむを得ず銘を作って言う。
夾注 3
幷序○侍郞李需述
序を併せる。侍郎の李需が作った。
底本は「管記」だが、掌書記(書記)と同じ職と見る。
達旦はモンゴルを指す。この文の「蒙古」と同じ者たちである。 ― 訳者
江左汾陽。海東孔子。溫良恭儉。哀榮終始。七十已前。與世爲賢。玉樓作記。於公細事。斡旋元氣。是公之位。七十已後。爲天所有。人望未厭。天取不廉。天奪其眞。地得厥身。焉得爲二。在天在地。其人茫茫。所留文章。亦恐六丁。雷電取將。鳩集工徒。勒之金石。一鏡云亡。天子憫惻。爰命有司。宅名山側。原野畇畇。峯巒翼翼。山旣靈兮。子孫萬億。
江左の汾陽であり 海東の孔子である 温かく良く恭しく倹しくて 哀しみと栄えが初めから終わりまで具わった 七十より前には 世とともに賢となり 玉楼に記を作ることも 公には細かな事であった 元の気を回すことが すなわち公の位であった 七十より後は 天の持つところとなった 人々の望みはまだ飽きていないのに 天が取って行ったのは廉くない 天がその真を奪い 地がその身を得たのだから どうして二つになれよう 天にあり地にある その人は遥かなのに 残ったのは文章である それもまた六丁が 雷と電で取って行くかと恐れて 工の者たちを呼び集めて 金と石に刻んだ 一つの鏡が亡くなったというので 天子が憐れまれて ここに有司に命じて 名高い山の側に定められた 野原は平らかで 峰は翼を張ったようである 山がすでに霊なのだから 子孫は万億に栄えるであろう
夾注 4
江左汾陽 — 江左は江南の地であり、汾陽は唐の汾陽王郭子儀を指す。 ― 訳者
玉樓作記 — 唐の李賀が死ぬとき、天の白玉楼が出来たので記を作りに来るようにという召しを受けたという昔の話である。 ― 訳者
六丁 — 道家で火を司る六つの神霊で、天の文を取り上げて行くという。 ― 訳者
一鏡云亡 — 鏡のように清らかであったこの一人が世を去ったという意味である。 ― 訳者