いにしえの文 › 桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) › 巻6 唐狀

黄巣の賊徒を殺したことを賀する堂状賀殺黃巢賊徒狀

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 1 · 漢字 293字 · 朗読 1.2分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 巻6 唐狀 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1定難軍と保大軍の捷ち

右得進奏院狀報。定難軍拓跋相公,保大軍東方逵尙書奏。於宜君縣南。殺戮賊徒。並生擒賊將。又鳳翔李相公奏。探知京中賊徒潰散。六月十三日。聖上御宣政殿。排仗受賀者。竊以逆賊黃巢。稔惡旣多。就刑非久。敢驅烏合之衆。屢拒鷹揚之師。拓跋相公。東方尙書。或力微裔孫。或曼倩餘慶。皆申祕略。共彌兇徒。能順天誅。遂陳月捷。軍名定難。雅稱關,張之聲。縣號宜君。克符堯,舜之德。是以。聖上高臨紫極。遠耀皇威。睹百辟之歡呼。雷驚蜀國。想六師之勇戰。電掃秦川。卽當靜滅氛霾。永見均施渥澤。此皆相公調鼎中之味。運堂上之兵。右援枹而得功。左執律而至獻。勳功相繼。稱慶何窮。某久阻淮夷。尙淹海徼。遠聆捷語。但切歡聲。然必願劍拂狼星。旗迎聖日。終繼張飛之拒後。不慙聶叔之致師。限守戎藩。末由陳賀。下情無任踊躍之至。謹奉狀陳賀。謹錄狀上。

右のとおり、進奏院の状報を受け取りますに、定難軍の拓跋相公と保大軍の東方逵尚書が、宜君県の南で賊徒を殺戮し、あわせて賊将を生け捕りにしたと奏し、また鳳翔の李相公が、京中の賊徒が潰れ散ったことを探り知り、六月十三日に聖上が宣政殿に出られて儀仗を排べ、賀を受けられたと奏したとのことです。ひそかに思いますに、逆賊黄巣は悪を稔らせたことがすでに多く、刑に就くのも久しくないはずなのに、あえて烏のように合した衆を駆って、たびたび鷹のように揚がる師を拒みました。拓跋相公と東方尚書は、一方は力微の裔の孫、一方は曼倩の余りの慶びを受けた人であって、ともに祕めた略を述べ、ともに凶い徒を弭め、天の誅に順うことができ、ついに月ごとの捷ちを陳べました。軍の名の定難は関羽・張飛の声に雅く称い、県の名の宜君は堯・舜の徳に克く符います。これによって聖上は紫極に高く臨まれ、遠く皇の威を耀かされますので、百辟の歓び呼ぶさまを覩れば雷が蜀国を驚かし、六師の勇ましく戦うさまを想えば電が秦川を掃いて、ただちに氛と霾を静かに滅ぼし、長く渥い沢を均しく施されるのを見るでしょう。これはみな相公が鼎のなかの味を調え、堂の上の兵を運らされ、右で枹を援けて功を得、左で律を執って献ぜられるに至らせたのです。勲と功が相次ぎますので、慶びを称えることがどうして窮まりましょう。某は長く淮夷に阻まれ、なお海の徼に淹められていますので、遠く捷ちの語を聆いて、ただ歓びの声が切です。しかし必ず剣で狼の星を払い、旗で聖上の日を迎え、ついには張飛が後を拒いだことを継いで、聶叔が師を致したことに慙じないようにと願います。戎の藩を守ることに限られて賀を陳べる由もなく、下の情は踊り躍る至りに堪えません。謹んで状を奉り賀を陳べます。謹んで状を録して上げます。

夾注 1

「力微」は拓跋力微、「曼倩」は東方朔をいいます。― 訳者