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前の太原の鄭従讜尚書へ前太原鄭從讜尙書

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 1 · 漢字 223字 · 朗読 0.9分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 巻7 別紙 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1京師にお召しになったことを賀して

得河中王相國書報。伏承相公榮膺寵命。將赴京國。伏惟感慰。伏以宸遊旣遠。居守是難。須倚元臣。方安聖慮。是故。昔漢帝曰吾與僕射何異。則知重寄。別表顯恩。而況相公岳立儒宗。川流相業。頃辭鳳閣。遠耀龍旌。郭伋示信之鄕。廣沾恩化。周擧移書之地。遍活疲羸。肅軍令於貔貅。振兵威於玁狁。求安邊境。胡雛不敢南侵。遽値妖氛。周馭久勞西狩。今以玉京雖復。鑾輅未廻。輟戎略於藩垣。託繁機於宮闕。必計中和樂職。已繼雅音。司隷舊章。卽興盛禮。然後重調梅鼎。永對蓂階。贊成天下之春。固是彀中之事。凡云品彙。莫不欣歡。某早忝恩知。倍增抃慰。末由陳賀。但切依攀云云。

河中の王相国の書の報せを得て、相公が栄えある寵の命を膺けられ、まさに京の国に赴かれると伏して承りました。伏して思いますに、感激し慰められます。伏して思いますに、宸の遊びがすでに遠ければ居て守ることは難しく、元たる臣に倚らなければ聖上の慮りは安らぎません。ですから昔、漢の帝が「私と僕射とどこが異なろう」と言ったのですから、重い寄せごとは別して顕れた恩を表すものと知られます。しかも相公は岳のように立つ儒の宗であり、川のように流れる相の業であって、さきに鳳の閣を辞して遠く龍の旌を耀かせ、郭伋が信を示した郷に恩と化を広く沾し、周挙が書を移した地に疲れ羸えた者をあまねく活かし、軍の令を貔と貅に肅め、兵の威を玁と狁に振るって、辺境の安きを求められましたので、胡の雛はあえて南を侵しませんでした。それがにわかに妖しい気に値って、周の馭が長く西に狩られる労をとられました。いま玉の京は復されたとはいえ、鑾の輅はまだお帰りにならないので、戎の略を藩の垣から輟めて、繁い機を宮の闕に託されましたから、必ず中和・楽職がすでに雅かな音を継ぎ、司隷の旧い章がただちに盛んな礼を興すと料ります。そののちふたたび梅の鼎を調え、長く蓂の階に対して、天下の春を贊け成されることは、まことに彀のなかの事ですので、およそ品と彙のあるものは欣び歓ばないものはありません。某は早くから忝なくも恩と知るところを受けていますので、倍して手を打ち慰められることを増し、賀を陳べる由もなく、ただ依り攀じることが切です。云々。