いにしえの文 › 桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) › 巻19 雜書

高祕書が長歌を示してくださったことを謝する書謝高祕書示長歌書

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 1 · 漢字 256字 · 朗読 1.0分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 巻19 雜書 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1一つの言が危うい邦を興す

伏蒙特飛榮誨。寵示長歌。玉海金山。難測高深之本。北方南國。徒觀美麗之姿。贊詠無階。師資有路。但如靑蓮居士唯誇散誕之詞。白石山人只騁荒唐之作。但以風月琴罇爲勝槪。不以君臣禮樂爲宏規。遂使千年萬年所流傳。皆嗟大雅小雅之淪弊。今覩四十三叔行出人表。言成世資弄才子之筆端。寫忠臣之襟抱。在今行古。旣爲儒室之宗。憂國如家。固是德門之事。天有耳而必常悔福。雲無心而亦可銷兵。一言自此興危邦。六義於斯歸正道。則所謂陳平宰社。爾曹何知。鄧艾畫營。其志不小。永言他日。足驗前程。某畏影雖迷。偸光匪懈。旣知閱寶。直若發蒙。唯願將鵬擧篇章。傳於異域。豈獨以伯魚對答。誇向同聲。下情但增感戴欽仰降歎之至。續專祗候陳謝。

伏して、特に栄えある誨えを飛ばし、寵みをもって長い歌を示してくださることを蒙りました。玉の海、金の山で、高さ深さの本を測りがたく、北の方、南の国で、いたずらに美しく麗しい姿を観るばかりです。贊め詠う階はありませんが、師とし資とする路はあります。ただ、青蓮居士はひたすら散り誕らな詞を誇り、白石山人はただ荒く唐な作を騁せて、風と月、琴と罇を勝れた槪とし、君と臣、礼と楽を宏きな規としませんでしたので、ついに千年万年のあいだ流れ伝わるものが、みな大雅・小雅の淪み弊れたことを嗟かせるものになりました。いま四十三叔どのを覩ますに、行いは人の表に出て、言は世の資となり、才子の筆の端を弄んで、忠臣の襟の抱きを写しておられます。今にありながら古を行って、すでに儒の室の宗となり、国を憂えることを家のようにして、まことに徳の門の事です。天に耳があれば必ずつねに禍を悔いて福とし、雲に心がなくてもまた兵を銷すことができます。一つの言がこれより危うい邦を興し、六義がここで正しい道に帰します。いわゆる「陳平が社を宰ったとき、お前たちに何が分かろう」「鄧艾が営を画いたとき、その志は小さくなかった」ということであって、永く他日を言えば、前の程を験すに足ります。某は影を畏れて迷うとはいえ、光を偸むことに懈りませんので、すでに宝を閲することを知って、まさに蒙を発かれたようです。ただ願いますのは、鵬のように挙がる篇章を、異域に伝えることです。どうして独り伯魚の対え答えをもって、同じ声に向かって誇るだけでしょう。下の情はただ感じ戴き、欽み仰ぎ、降り歎ずる至りを増します。続いてもっぱら祗んで候って陳べ謝します。