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解老

韓非子(韓非の書) 韓非子 · 韓非と後学 · 紀元前3世紀 · 段落 35 · 漢字 6,371字 · 朗読 25.5分

韓非子(韓非の書) 法家が一堂に集まった書である。商鞅の法と申不害の術と慎到の勢を、韓非が受け継いで一つに編んだ。人は善だから善なのではなく、悪をなしえないから善であると見て、君主が頼るべきは仁ではなく法と術と勢であると説く。 矛盾がここから出た。貫けない盾と貫けないものがない矛を一緒に売る楚の人の話で、堯と舜をともに称えることはできないことを示し、難勢でもう一度、仁と勢をめぐって同じたとえを挙げる。切り株を守って兎を待った宋の人(守株待兎)と、足を二度切られてはじめて玉と認められた和氏の璧も、この書の話である。 語ることの難しさを扱った説難には、龍の喉の下に逆さに生えた鱗の話がある。君主にもそのような鱗があり、触れれば死ぬというのだが、当の韓非自身が秦で獄に捕らわれて死んだ。 存韓には、韓非が秦王に奉った文と、そのすぐ後に李斯が「韓非は韓のために来た者なので、帰してはならない」と奉った文が並べて収められている。一人を死に追いやった文書が、その人の書に一緒に残った。

德者,内也;得者,外也。「上德不德」,言其神不淫於外也。神不淫於外則身全,身全之謂德。德者,得身也。凡德者,以無爲集,以無欲成,以不思安,以不用固。爲之欲之,則德無舍;德無舍,則不全。用之思之則不固,不固則無功,無功則生於德。德則無德,不得則有德。故曰:「上德不德,是以有德。」

徳は内であり、得るのは外である。「上の徳は徳としない」とは、その神が外へ溢れ出ないことを言う。神が外へ溢れ出なければ身は全きで、身が全きことを徳という。徳とは身を得ることである。徳は、為すことがないことで集まり、欲することがないことで成り、思わないことで安らぎ、用いないことで固まる。為し、欲すれば、徳には宿るところがない。徳に宿るところがなければ全きでない。用い、思えば固まらない。固まらなければ功がなく、功がないのは徳としようとするところから生じる。徳としようとすれば徳はなく、得ようとしなければ徳がある。だから「上の徳は徳としない。だから徳がある」という。

所以貴無爲無思爲虚者,謂其意無所制也。夫無術者,故以無爲無思爲虚也。夫故以無爲無思爲虚者,其意常不忘虚,是制於爲虚也。虚者,謂其意無所制也。今制於爲虚,是不虚也。虚者之無爲也,不以無爲爲有常。不以無爲爲有常則虚,虚則德盛,德盛之謂上德。故曰:「上德無爲而無不爲也。」

為すことがないこと、思うことがないことを虚として貴ぶ理由は、その意に縛られるところがないことを言うのである。術のない者は、ことさらに為すことがないこと、思うことがないことを虚とする。ことさらに為すことがないこと、思うことがないことを虚とする者は、その意が常に虚を忘れられない。これは虚であろうとすることに縛られている。虚とは、その意に縛られるところがないことを言う。いま虚であろうとすることに縛られているのだから、これは虚ではない。虚である者の為すことがないあり方は、為すことがないことを常とはしない。為すことがないことを常としなければ虚であり、虚であれば徳は盛る。徳が盛ることを上の徳という。だから「上の徳は為すことなくして為さないことがない」という。

仁者,謂其中心欣然愛人也;其喜人之有福,而惡人之有禍也;生心之所不能已也,非求其報也。故曰:「上仁爲之而無以爲也。」

仁とは、その胸のうちが心から喜んで人を愛することを言う。人に福があるのを喜び、人に災いがあるのを憎む。生まれてくる心が止めようもないのであって、その報いを求めるのではない。だから「上の仁はこれを為して、為すよりどころがない」という。

義者,君臣上下之事,父子貴賤之差也,知交朋友之接也,親踈内外之分也。臣事君宜,下懷上宜,子事父宜,賤敬貴宜,知交友朋之相助也宜,親者内而踈者外宜。義者,謂其宜也,宜而爲之。故曰:「上義爲之而有以爲也。」

義とは、君と臣、上と下の事であり、父と子、貴と賤の差であり、知り合いや友の交わりであり、親しいと疎い、内と外の分けである。臣が君に仕えるのがふさわしく、下が上を慕うのがふさわしく、子が父に仕えるのがふさわしく、賤しい者が貴い者を敬うのがふさわしく、知り合いや友が互いに助けるのがふさわしく、親しい者を内とし疎い者を外とするのがふさわしい。義とはそのふさわしさを言い、ふさわしいからそれを為す。だから「上の義はこれを為して、為すよりどころがある」という。

禮者,所以貌情也,群義之文章也,君臣父子之交也,貴賤賢不肖之所以別也。中心懷而不諭,故疾趨卑拜而明之;實心愛而不知,故好言繁辝以信之。禮者,外飾之所以諭内也。故曰:禮以貌情也。凡人之爲外物動也,不知其爲身之禮也。衆人之爲禮也,以尊他人也,故時勸時衰。君子之爲禮,以爲其身;以爲其身,故神之爲上禮;上禮神而衆人貳,故不能相應;不能相應,故曰:「上禮爲之而莫之應。」衆人雖貳,聖人之復恭敬盡手足之禮也不衰。故曰:「攘臂而仍之。」

礼とは情にかたちを与えるものであり、多くの義のあやであり、君臣父子の交わりであり、貴賤賢愚を分けるよりどころである。胸のうちに抱いていても伝わらないから、足早に進んで身を低くして拝み、それを明らかにする。まことの心で愛していても分かってもらえないから、よい言葉と細やかな言辞で信じさせる。礼とは、外の飾りによって内を伝えるものである。だから礼によって情にかたちを与えるという。人が外の物に動かされるとき、それが自分の身のための礼だとは気づかない。多くの人が礼を行うのは他人を尊ぶためであるから、あるときは励み、あるときは衰える。君子が礼を行うのは自分の身のためである。自分の身のためだから、それを神妙なものとして上の礼とする。上の礼を神妙とするのに多くの人は二心であるから、互いに応じ合えない。互いに応じ合えないから「上の礼はこれを為しても応ずる者がない」という。多くの人が二心であっても、聖人がくり返し恭敬して手足の礼を尽くすことは衰えない。だから「腕をまくって引き寄せる」という。

道有積而積有功;德者,道之功。功有實而實有光;仁者,德之光。光有澤而澤有事;義者,仁之事也。事有禮而禮有文;禮者,義之文也。故曰:「失道而後失德,失德而後失仁,失仁而後失義,失義而後失禮。」

道には積みがあり、積みには功がある。徳は道の功である。功には実があり、実には光がある。仁は徳の光である。光には潤いがあり、潤いには事がある。義は仁の事である。事には礼があり、礼にはあやがある。礼は義のあやである。だから「道を失ってのちに徳を失い、徳を失ってのちに仁を失い、仁を失ってのちに義を失い、義を失ってのちに礼を失う」という。

禮爲情貌者也,文爲質飾者也。夫君子取情而去貌,好質而惡飾。夫恃貌而論情者,其情惡也;須飾而論質者,其質衰也。何以論之?和氏之璧,不飾以五采;隋侯之珠,不飾以銀黄。其質至美,物不足以飾之。夫物之待飾而後行者,其質不美也。是以父子之間,其禮樸而不明,故曰禮薄也。凡物不並盛,陰陽是也;理相奪予,威德是也;實厚者貌薄,父子之禮是也。由是觀之,禮繁者,實心衰也。然則爲禮者,事通人之樸心者也。衆人之爲禮也,人應則輕歡,不應則責怨。今爲禮者事通人之樸心而資之以相責之分,能毋爭乎?有爭則亂,故曰:「夫禮者,忠信之薄也,而亂之首乎。」先物行先理動之謂前識。前識者,無緣而妄意度也。何以論之?詹何坐,弟子侍,牛鳴於門外。弟子曰:「是黑牛也而白題。」詹何曰:「然,是黑牛也,而白在其角。」使人視之,果黑牛而以布裹其角。以詹子之術,嬰衆人之心,華焉殆矣!故曰:「道之華也。」嘗試釋詹子之察,而使五尺之愚童子視之,亦知其黑牛而以布裹其角也。故以詹子之察,苦心傷神,而後與五尺之愚童子同功,是以曰:「愚之首也。」故曰:「前識者,道之華也,而愚之首也。」

礼は情のかたちであり、あやは質の飾りである。君子は情を取ってかたちを捨て、質を好んで飾りを憎む。かたちに頼って情を論ずるのは、その情が悪いからである。飾りを待って質を論ずるのは、その質が衰えているからである。何によって論ずるか。和氏の璧は五色で飾らず、隋侯の珠は銀や金で飾らない。その質が至って美しく、物では飾るに足らないからである。物が飾りを待ってはじめて世に通るのは、その質が美しくないからである。だから父と子のあいだは、その礼が素朴で明らかでない。だから礼が薄いという。物は並び立って盛ることがなく、陰と陽がそれである。理は互いに奪い与え、威と徳がそれである。実の厚いものはかたちが薄く、父と子の礼がそれである。これで見れば、礼が込み合っているのは、まことの心が衰えているのである。とすれば、礼を行う者は、人の素朴な心を通わせる事をしているのである。多くの人が礼を行うとき、相手が応じれば軽々しく喜び、応じなければ責めて恨む。いま礼を行う者が人の素朴な心を通わせる事をしながら、そこに互いを責める分を資としているのだから、争わずにいられようか。争いがあれば乱れる。だから「礼とは忠と信が薄くなったものであり、乱れの始めである」という。物より先に行い、理より先に動くことを前知という。前知とは、よりどころもなくみだりに推し量ることである。何によって論ずるか。詹何が座り、弟子が側に控えていると、門の外で牛が鳴いた。弟子が言った。「これは黒い牛で、額が白いです。」詹何は言った。「そうだ、これは黒い牛で、白いところはその角にある。」人を遣わして見させると、果たして黒い牛で、布でその角を包んであった。詹子の術で多くの人の心を揺らすのは、華やかだが危うい。だから「道の華である」という。試しに詹子の見極めを措いて、五尺の幼い子に見させても、やはりそれが黒い牛で布で角を包んでいることは分かる。つまり詹子の見極めは、心を苦しめ神を傷めたうえで、五尺の幼い子と同じ功にしかならない。だから「愚かさの始めである」という。だから「前知は道の華であり、愚かさの始めである」という。

所謂「大丈夫」者,謂其智之大也。所謂「處其厚不處其薄」者,行情實而去禮貌也。所謂「處其實不處其華」者,必緣理不徑絶也。所謂「去彼取此」者,去貌、徑絶而取緣理、好情實也。故曰:「去彼取此。」

いわゆる「大丈夫」とは、その智が大きいことを言う。いわゆる「その厚いところに居て、その薄いところに居ない」とは、情と実を行って礼とかたちを捨てることである。いわゆる「その実に居て、その華に居ない」とは、必ず理に沿って近道で断ち切らないことである。いわゆる「あれを捨ててこれを取る」とは、かたちと近道で断ち切ることを捨てて、理に沿うことと情と実を好むことを取るのである。だから「あれを捨ててこれを取る」という。

人有禍,則心畏恐;心畏恐,則行端直;行端直,則思慮熟;思慮熟,則得事理。行端直,則無禍害;無禍害,則盡天年。得事理,則必成功。盡天年,則全而壽。必成功,則富與貴。全壽富貴之謂福,而福本於有禍。故曰:「禍兮福之所倚。」以成其功也。

人に災いがあれば心は恐れる。心が恐れれば行いはまっすぐになる。行いがまっすぐになれば思慮は熟す。思慮が熟せば事の理を得る。行いがまっすぐであれば災いと害がない。災いと害がなければ天から与えられた年を全うする。事の理を得れば必ず功を成す。天から与えられた年を全うすれば全きで長く生きる。必ず功を成せば富み貴くなる。全きで長く生き、富み貴いことを福といい、福は災いがあることに根を持つ。だから「災いは福の寄るところである」という。そこから功が成るのである。

人有福,則富貴至;富貴至,則衣食美;衣食美,則驕心生;驕心生,則行邪僻而動弃理。行邪僻,則身死夭;動弃理,則無成功。夫内有死夭之難而外無成功之名者,大禍也,而禍本生於有福。故曰:「福兮禍之所伏。」

人に福があれば富と貴が至る。富と貴が至れば衣と食が美しくなる。衣と食が美しくなれば驕る心が生じる。驕る心が生じれば行いは邪に偏り、動きは理を捨てる。行いが邪に偏れば身は早く死ぬ。動きが理を捨てれば成した功がない。内に早死にの難があり、外に功を成した名がないのは大きな災いであるが、災いは福があることから根づいて生じる。だから「福は災いの伏すところである」という。

夫緣道理以從事者,無不能成。無不能成者,大能成天子之勢尊,而小易得卿相將軍之賞祿。夫弃道理而妄舉動者,雖上有天子諸侯之勢尊,而下有猗頓、陶朱、卜祝之富,猶失其民人而亡其財資也。衆人之輕弃道理而易妄舉動者,不知其禍福之深大而道闊遠若是也,故諭人曰:「孰知其極?」

道と理に沿って事をなす者は、成せないものがない。成せないものがない者は、大きくは天子の尊い勢いを成すことができ、小さくは卿や相や将軍の賞と禄をたやすく得る。道と理を捨ててみだりに動く者は、上には天子や諸侯の尊い勢いがあり、下には猗頓や陶朱や占い師ほどの富があっても、やはりその民を失いその財を失う。多くの人が道と理を軽々しく捨て、たやすくみだりに動くのは、その災いと福の深く大きいこと、道の広く遠いことがこのようであるのを知らないからである。だから人に諭して「誰がその極みを知るだろうか」という。

人莫不欲富貴全壽,而未有能免於貧賤死夭之禍也。心欲富貴全壽,而今貧賤死夭,是不能至於其所欲至也。凡失其所欲之路而妄行者之謂迷,迷則不能至於其所欲至矣。今衆人之不能至於其所欲至,故曰「迷」。衆人之所不能至於其所欲至也,自天地之剖判以至于今。故曰:「人之迷也,其日故以久矣。」

人は富み貴く、全きで長く生きることを望まない者はいないが、貧しく賤しく早く死ぬ災いを免れた者はいない。心は富み貴く全きで長く生きることを望むのに、現に貧しく賤しく早く死ぬ。これは望むところへ至れないのである。望む道を失ってみだりに行くことを迷うという。迷えば望むところへ至れない。いま多くの人が望むところへ至れないので「迷う」という。多くの人が望むところへ至れないのは、天と地が分かれた時から今日に至るまでである。だから「人が迷って、その日はまことに久しい」という。

所謂方者,内外相應也,言行相稱也。所謂廉者,必生死之命也,輕恬資財也。所謂直者,義必公正,公心不偏黨也。所謂光者,官爵尊貴,衣裘壯麗也。今有道之士,雖中外信順,不以誹謗窮墮;雖死節輕財,不以侮罷羞貪;雖義端不黨,不以去邪罪私;雖勢尊衣美,不以夸賤欺貧。其故何也?使失路者而肯聽習問知,即不成迷也。今衆人之所以欲成功而反爲敗者,生於不知道理而不肯問知而聽能。衆人不肯問知聽能,而聖人強以其禍敗適之,則怨。衆人多而聖人寡,寡之不勝衆,數也。今舉動而與天下之爲讎,非全身長生之道也,是以行軌節而舉之也。故曰:「方而不割,廉而不穢,直而不肆,光而不耀。」

いわゆる方正とは、内と外が互いに応じ、言と行いが釣り合うことである。いわゆる清廉とは、死生の命を全うし、財貨を軽く見ることである。いわゆるまっすぐとは、義が必ず公正で、公の心が偏って党を組まないことである。いわゆる光とは、官と爵が尊く貴く、衣と皮衣が立派で美しいことである。いま道ある士は、内と外が信であり順であっても、人をそしって窮させはしない。節に死し財を軽んじても、人の疲れを侮って貪りだと恥じさせはしない。義が正しく党を組まなくても、邪を捨てたからといって人の私を罪しはしない。勢いが尊く衣が美しくても、賤しい者に誇って貧しい者を欺きはしない。その理由は何か。道に迷った者を、進んで聞き習い問うて知るようにさせれば、迷いにならない。いま多くの人が功を成そうとしてかえって破れるのは、道と理を知らないまま、進んで知る者に問い能ある者の言を聞こうとしないことから生じる。多くの人が進んで問い聞こうとしないのに、聖人が無理にその災いと破れを突きつければ恨む。多くの人は多く、聖人は少ない。少ないものが多いものに勝てないのは定まった数である。いま動いて天下と仇になるのは、身を全うし長く生きる道ではない。だから軌道と節度を踏んで事を起こす。だから「方正でも切り裂かず、清廉でもそこなわず、まっすぐでも放埒でなく、光っても眩ませない」という。

聰明睿智,天也;動靜思慮,人也。人也者,乘於天明以視,寄於天聰以聽,託於天智以思慮。故視強,則目不明;聽甚,則耳不聰;思慮過度,則智識亂。目不明,則不能決黑白之分;耳不聰,則不能別清濁之聲;智識亂,則不能審得失之地。目不能決黑白之色則謂之盲,耳不能別清濁之聲則謂之聾,心不能審得失之地則謂之狂。盲則不能避晝日之險,聾則不能知雷霆之害,狂則不能免人間法令之禍。書之所謂「治人」者,適動靜之節,省思慮之費也。所謂「事天」者,不極聰明之力,不盡智識之任。苟極盡,則費神多;費神多,則盲聾悖狂之禍至,是以嗇之。嗇之者,愛其精神,嗇其智識也。故曰:「治人事天莫如嗇。」

聡く明らかで智に深いのは天であり、動きと静けさと思慮は人である。人とは、天の明に乗って見、天の聡に寄って聞き、天の智に託して思慮するものである。だから無理に見ようとすれば目は明らかでなく、無理に聞こうとすれば耳は聡くなく、思慮が度を越せば智と識は乱れる。目が明らかでなければ黒白の分かれを決められず、耳が聡くなければ清い音と濁った音を分けられず、智と識が乱れれば得失の場を審らかにできない。目が黒白の色を決められないのを目が見えないといい、耳が清い音と濁った音を分けられないのを耳が聞こえないといい、心が得失の場を審らかにできないのを狂っているという。目が見えなければ真昼の険しいところを避けられず、耳が聞こえなければ雷の害を知ることができず、狂えば人の世の法令の災いを免れられない。書にいう「人を治める」とは、動きと静けさの節を整え、思慮の費えを省くことである。いう「天に仕える」とは、聡と明の力を極めず、智と識の任を尽くさないことである。極め尽くせば神を費やすことが多い。神を費やすことが多ければ、目が見えず耳が聞こえず乱れ狂う災いが至る。だからこれを惜しむ。惜しむとは、その精神を愛しみ、その智と識を惜しむことである。だから「人を治め天に仕えるには、惜しむに越したことはない」という。

夾注 1

底本は盲・聾であり、今日用いる言葉に移した。― 訳者

衆人之用神也躁,躁則多費,多費之謂侈。聖人之用神也靜,靜則少費,少費之謂嗇。嗇之謂術也,生於道理。夫能嗇也,是從於道而服於理者也。衆人離於患,陷於禍,猶未知退,而不服從道理。聖人雖未見禍患之形,虚無服從於道理,以稱蚤服。故曰:「夫謂嗇,是以蚤服。」

多くの人の神の使い方はせわしい。せわしければ費えが多く、費えが多いことを奢りという。聖人の神の使い方は静かである。静かであれば費えが少なく、費えが少ないことを惜しむという。惜しむことが術となるのは、道と理から生じる。惜しむことができるのは、道に従い理に服している者である。多くの人は患いにかかり災いに落ちても、なお退くことを知らず、道と理に服し従わない。聖人は災いや患いのかたちを見る前でも、虚にして道と理に服し従う。これを早くに服するという。だから「これを惜しむという。だから早くに服する」という。

知治人者,其思慮靜;知事天者,其孔竅虚。思慮靜,故德不去;孔竅虚,則和氣日入。故曰:「重積德。」夫能令故德不去,新和氣日至者,蚤服者也。故曰:「蚤服,是謂重積德。」積德而後神静,神静而後和多,和多而後計得,計得而後能御萬物,能御萬物則戰易勝敵,戰易勝敵而論必蓋世,論必蓋世,故曰:「無不克。」無不克本於重積德,故曰:「重積德,則無不克。」戰易勝敵,則兼有天下;論必蓋世,則民人從。進兼天下而退從民人,其術遠,則衆人莫見其端末。莫見其端末,是以莫知其極。故曰:「無不克,則莫知其極。」

人を治めることを知る者は、その思慮が静かである。天に仕えることを知る者は、その孔が虚である。思慮が静かだから徳が去らず、孔が虚であれば和の気が日ごとに入ってくる。だから「徳を重ねて積む」という。もとの徳が去らず、新しい和の気が日ごとに至るようにできる者は、早くに服した者である。だから「早くに服すること、これを徳を重ねて積むという」という。徳を積んでのちに神が静まり、神が静まってのちに和が多く、和が多くてのちに計が当たり、計が当たってのちに万物を御せる。万物を御せれば戦って敵に勝ちやすく、戦って敵に勝ちやすければ議論は必ず世を覆う。議論が必ず世を覆うから「克たないものがない」という。克たないものがないのは徳を重ねて積むことに根を持つから、「徳を重ねて積めば克たないものがない」という。戦って敵に勝ちやすければ天下を併せ持ち、議論が必ず世を覆えば民が従う。進んで天下を併せ、退いて民を従わせる。その術は遠いので、多くの人はその始めと終わりを見られない。その始めと終わりを見られないから、その極みを知る者がない。だから「克たないものがなければ、その極みを知る者がない」という。

凡有國而後亡之,有身而後殃之,不可謂能有其國、能保其身。夫能有其國,必能安其社禝;能保其身,必能終其天年,而後可謂能有其國、能保其身矣。夫能有其國、保其身者,必且體道。體道,則其智深;其智深,則其會遠;其會遠,衆人莫能見其所極。唯夫能令人不見其事極,不見其事極者爲保其身、有其國。故曰:「莫知其極。」「莫知其極,則可以有國。」

国を持っていて後にそれを失い、身を持っていて後に災いをこうむるのでは、その国を持てたとも、その身を保てたともいえない。その国を持てる者は必ずその社稷を安らかにでき、その身を保てる者は必ずその天から与えられた年を終えられる。そうであってはじめて、その国を持てる、その身を保てるといえる。その国を持ち、その身を保つ者は、必ず道を体とする。道を体とすればその智は深く、その智が深ければその及ぶところは遠く、その及ぶところが遠ければ多くの人はその極みを見られない。ただ人にその事の極みを見せずにいられる者、その事の極みを見せない者だけが、その身を保ち、その国を持つ。だから「その極みを知る者がない」といい、「その極みを知る者がなければ、国を持つことができる」という。

所謂「有國之母」:母者,道也;道也者,生於所以有國之術;所以有國之術,故謂之「有國之母」。夫道以與世周旋者,其建生也長,持祿也久。故曰:「有國之母,可以長久。」樹木有曼根,有直根。直根者,書之所謂「柢」也。柢也者,木之所以建生也;曼根者,木之所以持生也。德也者,人之所以建生也;祿也者,人之所以持生也。今建於理者,其持祿也久,故曰:「深其根。」體其道者,其生日長,故曰:「固其柢。」柢固則生長,根深則視久,故曰:「深其根,固其柢,長生久視之道也。」

いわゆる「国を持つ母」の母とは道である。道とは、国を持つゆえんの術から生じる。国を持つゆえんの術だから「国を持つ母」という。道によって世とともに巡り合わせる者は、その生を立てることが長く、禄を保つことが久しい。だから「国を持つ母は、長く久しくありうる」という。木には横に伸びる根があり、まっすぐな根がある。まっすぐな根は、書にいう「柢(もと)」である。柢は木が生を立てるゆえんであり、横に伸びる根は木が生を保つゆえんである。徳は人が生を立てるゆえんであり、禄は人が生を保つゆえんである。いま理に立てた者は、その禄を保つことが久しい。だから「その根を深くする」という。その道を体とした者は、その生が日ごとに長い。だから「その柢を固くする」という。柢が固ければ生は長く、根が深ければ長く見る。だから「その根を深くし、その柢を固くするのが、長く生き久しく見る道である」という。

工人數變業則失其功,作者數揺徙則亡其功。一人之作,日亡半日,十日則亡五人之功矣;萬人之作,日亡半日,十日則亡五萬人之功矣。然則數變業者,其人彌衆,其虧彌大矣。凡法令更則利害易,利害易則民務變,務變之謂變業。故以理觀之:事大衆而數揺之,則少成功;藏大器而數徒之,則多敗傷;烹小鮮而數撓之,則賊其澤;治大國而數變法,則民苦之。是以有道之君貴静,不重變法。故曰:「治大國者若烹小鮮。」

職人がたびたび仕事を変えればその功を失い、働く者がたびたび揺らいで移ればその功を失う。一人の仕事で一日に半日を失えば、十日で五人分の功を失う。万人の仕事で一日に半日を失えば、十日で五万人分の功を失う。とすれば、たびたび仕事を変えさせる者は、その人数が多いほど損が大きい。法令が改まれば利害が変わり、利害が変われば民の努める先が変わる。努める先が変わることを仕事を変えるという。だから理で見れば、大勢を使いながらたびたび揺らせば功を成すことが少なく、大きな器を納めながらたびたび移せば割れ傷むことが多く、小魚を煮ながらたびたびかき回せばその照りをそこない、大国を治めながらたびたび法を変えれば民が苦しむ。だから道ある君は静けさを貴び、法を変えることをくり返さない。だから「大国を治めるのは、小魚を煮るようにする」という。

人處疾則貴醫,有禍則畏鬼。聖人在上,則民少欲;民少欲,則血氣治而舉動理;舉動理,則少禍害。夫内無痤疽癉痔之害,而外無刑罰法誅之禍者,其輕恬鬼也甚。故曰:「以道蒞天下,其鬼不神。」治世之民,不與鬼神相害也。故曰:「非其鬼不神也,其神不傷人也。」鬼祟也疾人之謂鬼傷人,人逐除之之謂人傷鬼也。民犯法令之謂民傷上,上刑戮民之謂上傷民。民不犯法,則上亦不行刑,上不行刑之謂上不傷人。故曰:「聖人亦不傷民。」上不與民相害,而人不與鬼相傷,故曰:「兩不相傷。」民不敢犯法,則上内不用刑罰,而外不事利其産業。上内不用刑罰,而外不事利其産業,則民蕃息。民蕃息而畜積盛。民蕃息而畜積盛之謂有德。凡所謂崇者,魂魄去而精神亂,精神亂則無德。鬼不祟人則魂魄不去,魂魄不去而精神不亂,精神不亂之謂有德。上盛畜積而鬼不亂其精神,則德盡在於民矣。故曰:「兩不相傷,則德交歸焉。」言其德上下交盛而俱歸於民也。

人は病めば医者を貴び、災いがあれば鬼を恐れる。聖人が上にあれば民は欲が少ない。民の欲が少なければ血と気が整って挙動が理にかなう。挙動が理にかなえば災いと害が少ない。内に腫れものや痔の害がなく、外に刑罰や法の誅の災いがない者は、鬼を軽く見ることがはなはだしい。だから「道によって天下に臨めば、その鬼は神妙でない」という。治まった世の民は、鬼神と互いに害し合わない。だから「その鬼が神妙でないのではなく、その神妙さが人を傷つけないのである」という。鬼がたたって人を病ませることを鬼が人を傷つけるといい、人が追い払うことを人が鬼を傷つけるという。民が法令を犯すことを民が上を傷つけるといい、上が民を刑し殺すことを上が民を傷つけるという。民が法を犯さなければ上も刑を行わない。上が刑を行わないことを上が人を傷つけないという。だから「聖人もまた民を傷つけない」という。上が民と互いに害さず、人が鬼と互いに傷つけ合わない。だから「両者が互いに傷つけない」という。民があえて法を犯さなければ、上は内で刑罰を用いず、外でその産業を利することに骨を折らない。上が内で刑罰を用いず、外でその産業を利することに骨を折らなければ、民は増え栄える。民が増え栄えて蓄えが盛ることを徳があるという。いわゆるたたりとは、魂と魄が去って精神が乱れることであり、精神が乱れれば徳はない。鬼が人にたたらなければ魂と魄は去らず、魂と魄が去らなければ精神は乱れず、精神が乱れないことを徳があるという。上が蓄えを盛らせ、鬼がその精神を乱さなければ、徳はすべて民のところにある。だから「両者が互いに傷つけなければ、徳は互いに帰する」という。その徳が上と下でともに盛って、ともに民に帰することを言っている。

有道之君,外無怨讎於鄰敵,而内有德澤於人民。夫外無怨讎於鄰敵者,其遇諸侯也外有禮義;内有德澤於人民者,其治人事也務本。遇諸侯有禮義,則役希起;治民事務本,則淫奢止。凡馬之所以大用者,外供甲兵而内給淫奢也。今有道之君,外希用甲兵,而内禁淫奢。上不事馬於戰鬬逐北,而民不以馬遠淫通物,所積力唯田疇。積力於田疇,必且糞灌。故曰:「天下有道,却走馬以糞也。」人君無道,則内暴虐其民,而外侵欺其鄰國。内暴虐則民産絶,外侵欺則兵數起。民産絶則畜生少,兵數起則士卒盡。畜生少則戎馬乏,士卒盡則軍危殆。戎馬乏則牸馬出,軍危殆則近臣役。馬者,軍之大用;郊者,言其近也。今所以給軍之具於牸馬近臣。故曰:「天下無道,戎馬生於郊矣。」

道ある君は、外では隣の敵に仇がなく、内では民に徳と恵みがある。外で隣の敵に仇がない者は、諸侯に接するのに外に礼義がある。内で民に徳と恵みがある者は、人の事を治めるのに本に努める。諸侯に接するのに礼義があれば賦役はまれに起こる。民の事を治めるのに本に努めれば度を越した奢りが止まる。馬が大きく用いられるのは、外では鎧と武器に供し、内では度を越した奢りに充てるからである。いま道ある君は、外では鎧と武器をまれに用い、内では度を越した奢りを禁じる。上が戦い追うことに馬を使わず、民が馬で遠くへ出て物をみだりにやりとりしなければ、力を積むところは田だけである。田に力を積めば、必ず肥やしをやり水を引く。だから「天下に道があれば、走る馬を退けて肥やしを運ばせる」という。君に道がなければ、内ではその民に荒々しくふるまい、外ではその隣国を侵し欺く。内で荒々しくふるまえば民の生産が絶え、外で侵し欺けば兵がたびたび起こる。民の生産が絶えれば飼う家畜が少なく、兵がたびたび起これば兵卒が尽きる。飼う家畜が少なければ軍馬が乏しく、兵卒が尽きれば軍は危うい。軍馬が乏しければ子を孕んだ雌馬まで出され、軍が危うければ近臣まで役に就く。馬は軍の大きな用であり、郊とはその近さを言う。いま軍に供する道具を、子を孕んだ雌馬と近臣から出しているのである。だから「天下に道がなければ、軍馬が郊で子を産む」という。

人有欲則計會亂,計會亂而有欲甚,有欲甚則邪心勝,邪心勝則事經絶,事經絶則禍難生。由是觀之,禍難生於邪心,邪心誘於可欲。可欲之類,進則教良民爲姦,退則令善人有禍;姦起則上侵弱君,禍至則民人多傷。然則可欲之類,上侵弱君而下傷人民。夫上侵弱君而下傷人民者,大罪也。故曰:「禍莫大於可欲。」是以聖人不引五色,不淫於聲樂,明君賤玩好而去淫麗。

人に欲があれば計りごとが乱れ、計りごとが乱れたまま欲が甚だしくなる。欲が甚だしければ邪な心が勝ち、邪な心が勝てば事のたていとが絶え、事のたていとが絶えれば災いと難が生じる。これで見れば、災いと難は邪な心から生じ、邪な心は欲しうるものに誘われる。欲しうるものの類は、進んでは良い民を姦にし、退いては善い人に災いをもたらす。姦が起これば上は君を侵して弱め、災いが至れば民が多く傷つく。とすれば欲しうるものの類は、上では君を侵して弱め、下では民を傷つける。上で君を侵して弱め、下で民を傷つけるのは大きな罪である。だから「災いは欲しうるものより大きなものはない」という。だから聖人は五色に引かれず、音と楽に溺れず、明らかな君は玩びものを賤しみ、度を越した美しさを捨てる。

人無毛羽,不衣則不犯寒;上不屬天而下不著地,以腸胃爲根本,不食則不能活。是以不免於欲利之心。欲利之心不除,其身之憂也。故聖人衣足以犯寒,食足以充虚,則不憂矣。衆人則不然,大爲諸侯,小餘千金之資,其欲得之憂不除也。胥靡有免,死罪時活,今不知足者之憂終身不解。故曰:「禍莫大於不知足。」

人には毛も羽もなく、衣を着なければ寒さに耐えられない。上は天につかず下は地につかず、腸と胃を本とするので、食べなければ生きられない。だから利を欲する心を免れられない。利を欲する心を取り除かなければ、それがその身の憂いとなる。だから聖人は、衣が寒さに耐えるに足り、食が空腹を満たすに足れば、憂えない。多くの人はそうではなく、大きくは諸侯となり、小さくは千金の資が余っていても、それを得ようとする憂いが取り除かれない。囚人にも赦免があり、死罪もときに生き延びるのに、いま足ることを知らない者の憂いは一生解けない。だから「災いは足ることを知らないことより大きなものはない」という。

故欲利甚於憂,憂則疾生,疾生而智慧衰;智慧衰,則失度量;失度量,則妄舉動;妄舉動,則禍害至;禍害至而疾嬰内,疾嬰内,則痛禍薄外;痛禍薄外,則苦痛雜於腸胃之間;苦痛雜於腸胃之間,則傷人也憯。憯則退而自咎,退而自咎也生於欲利。故曰:「咎莫憯於欲利。」

だから利を欲することは憂いよりも甚だしい。憂えれば病が生じ、病が生じれば智慧が衰える。智慧が衰えれば度量を失い、度量を失えばみだりに動き、みだりに動けば災いと害が至る。災いと害が至って病が内にからみ、病が内にからめば痛みと災いが外に迫る。痛みと災いが外に迫れば、苦しみと痛みが腸と胃のあいだに入り混じる。苦しみと痛みが腸と胃のあいだに入り混じれば、人を傷つけることが惨い。惨ければ退いてみずからを咎める。退いてみずからを咎めることは、利を欲することから生じる。だから「咎は利を欲することより惨いものはない」という。

道者,萬物之所然也,萬理之所稽也。理者,成物之文也;道者,萬物之所以成也。故曰:道,理之者也。物有理,不可以相薄;物有理不可以相薄,故理之爲物之制。萬物各異理,而道盡稽萬物之理,故不得不化;不得不化,故無常操。無常操,是以死生氣稟焉,萬智斟酌焉,萬事廢興焉。天得之以高,地得之以藏,維斗得之以成其威,日月得之以恆其光,五常得之以常其位,列星得之以端其行,四時得之以御其變氣,軒轅得之以擅四方,赤松得之與天地統,聖人得之以成文章。道,與堯舜俱智,與接輿俱狂,與桀紂俱滅,與湯武俱昌。以爲近乎,遊於四極;以爲遠乎,常在吾側;以爲暗乎,其光昭昭;以爲明乎,其物冥冥。而功成天地,和化雷霆,宇内之物,恃之以成。凡道之情,不制不形,柔弱隨時,與理相應。萬物得之以死,得之以生;萬事得之以敗,得之以成。道譬諸若水,溺者多飲之即死,渴者適飲之即生;譬之若劒戟,愚人以行忿則禍生,聖人以誅暴則福成。故得之以死,得之以生,得之以敗,得之以成。

道とは万物がそうであるゆえんであり、あらゆる理が集まるところである。理とは物を成すあやであり、道とは万物が成るゆえんである。だから、道は理づけるものだという。物に理があれば互いに押し合うことができない。物に理があって互いに押し合えないから、理が物のきまりとなる。万物はそれぞれ理を異にするのに、道は万物の理をすべて集めるから、変化せずにはいられない。変化せずにいられないから、常の握りがない。常の握りがないので、死と生の気がここから授かり、あらゆる智がここで量られ、あらゆる事がここで廃れ興る。天はこれを得て高く、地はこれを得て蔵し、北斗はこれを得てその威を成し、日と月はこれを得てその光を常にし、五つの常はこれを得てその位を常にし、連なる星はこれを得てその運行を正しくし、四季はこれを得てその移る気を御し、軒轅はこれを得て四方を専らにし、赤松子はこれを得て天地と連なり、聖人はこれを得て文章を成す。道は、堯と舜とともに智であり、接輿とともに狂であり、桀と紂とともに滅び、湯と武とともに栄える。近いと思えば四方の果てに遊び、遠いと思えば常にわがかたわらにあり、暗いと思えばその光は明るく明るく、明るいと思えばその物は暗く暗い。それでいて功は天と地を成し、雷と霆を和して変え、宇内の物はこれに寄って成る。道の実相は、制されず、かたちを取らず、柔らかく弱く時に従って理と相応じる。万物はこれを得て死に、これを得て生き、あらゆる事はこれを得て破れ、これを得て成る。道をたとえれば水のようなもので、溺れる者が多く飲めば死に、渇いた者がほどよく飲めば生きる。たとえれば剣や戟のようなもので、愚かな人が怒りを行えば災いが生じ、聖人が荒れる者を誅せば福が成る。だからこれを得て死に、これを得て生き、これを得て破れ、これを得て成る。

人希見生象也,而得死象之骨,案其圖以想其生也,故諸人之所以意想者皆謂之「象」也。今道雖不可得聞見,聖人執其見功以處見其形,故曰:「無狀之狀,無物之象。」

人は生きた象を見ることがまれなので、死んだ象の骨を得ると、その図を照らしてその生きた姿を思い描く。だから人々が思いに描くものをみな「象」という。いま道は聞くことも見ることもできないが、聖人はその現れた功をとらえてそのかたちを現して見る。だから「かたちなきかたち、物なき象」という。

凡理者,方圓、短長、麤靡、堅脆之分也,故理定而後可得道也。故定理有存亡,有死生,有盛衰。夫物之一存一亡,乍死乍生,初盛而後衰者,不可謂常。唯夫與天地之剖判也具生,至天地之消散也不死不衰者謂「常」。而常者無攸易,無定理。無定理,非在於常所,是以不可道也。聖人觀其玄虚,用其周行,强字之曰「道」,然而可論。故曰:「道之可道,非常道也。」

理とは、方と円、短と長、粗と細、堅と脆の分けである。だから理が定まってのちに道を得られる。だから定まった理には存と亡があり、死と生があり、盛と衰がある。物が一たび存え一たび亡び、たちまち死にたちまち生き、初めに盛って後に衰えるものは、常とはいえない。ただ天と地が分かれるのとともに生じ、天と地が消え散るまで死にも衰えもしないものを「常」という。しかし常なるものには移るところがなく、定まった理がない。定まった理がなく、常の場所にいるのでもないから、言い表せない。聖人はその玄く虚なるを観じ、そのあまねく行くのを用いて、しいて字をつけて「道」といった。そうしてはじめて論じられる。だから「道といえる道は、常の道ではない」という。

人始於生而卒於死。始之謂出,卒之謂入。故曰:「出生入死。」人之身三百六十節,四肢、九竅,其大具也。四肢與九竅十有三者,十有三者之動静盡屬於生焉。屬之謂徒也,故曰:生之徒也,十有三者。至死也,十有三具者皆還而屬之於死,死之徒亦有十三。故曰:「生之徒十有三,死之徒十有三。」凡民之生生,而生者固動,動盡則損也;而動不止,是損而不止也。損而不止則生盡,生盡之謂死,則十有三具者皆爲死死地也。故曰:「民之生,生而動,動皆之死地,之十有三。」

人は生まれることから始まって死ぬことで終わる。始まることを出るといい、終わることを入るという。だから「出れば生き、入れば死ぬ」という。人の身には三百六十の節があり、四肢と九つの孔がその大きなものである。四肢と九つの孔の十三は、その動きと静けさがすべて生に属する。属することを徒という。だから、生の徒は十三であるという。死に至っては、十三のすべてが返って死に属するので、死の徒もまた十三である。だから「生の徒は十三、死の徒は十三」という。民が生きてなお生きようとするとき、生きるものはもともと動き、動きが尽きれば減る。それでも動きが止まらないのは、減って止まらないことである。減って止まらなければ生が尽き、生が尽きることを死という。つまり十三のすべてが死の場となる。だから「民の生は、生きて動き、動きはみな死の場へ向かう。それが十三である」という。

是以聖人愛精神而貴處靜,不愛精神、不貴處靜,此甚大於兕虎之害。夫兕虎有域,動靜有時。避其域,省其時,則免其兕虎之害矣。民獨知兕虎之有爪角也,而莫知萬物之盡有爪角也,不免於萬物之害。何以論之?時雨降集,曠野閒靜,而以昬晨犯山川,則風露之爪角害之。事上不忠,輕犯禁令,則刑法之爪角害之。處鄉不節,憎愛無度,則爭闘之爪角害之。嗜慾無限,動靜不節,則痤疽之爪角害之。好用其私智而弃道理,則網羅之爪角害之。兕虎有域,而萬害有原,避其域,塞其原,則免於諸害矣。凡兵革者,所以備害也。重生者,雖入軍無忿爭之心;無忿爭之心,則無所用救害之備。此非獨謂野處之軍也,聖人之遊世也,無害人之心,則必無人害;無人害,則不備人。故曰:「陸行不遇兕虎。」入山不恃備以救害,故曰:「入軍不備甲兵。」遠諸害,故曰:「兕無所投其角,虎無所錯其爪,兵無所容其刃。」不設備而必無害,天地之道理也。體天地之道,故曰:「無死地焉。」動無死地,而謂之「善攝生」矣。

だから聖人は精神を愛しみ、静かに居ることを貴ぶ。精神を愛しまず、静かに居ることを貴ばないのは、兕(野牛)や虎の害よりはるかに大きい。兕と虎には棲む域があり、動きと静けさに時がある。その域を避け、その時を見きわめれば、兕と虎の害を免れる。民はただ兕と虎に爪と角があることだけを知って、万物のすべてに爪と角があることを知らないので、万物の害を免れない。何によって論ずるか。ほどよい雨が降り、広い野が静まっているときに、たそがれと明け方に山や川を越えれば、風と露の爪と角が害する。上に仕えるのに忠でなく、軽々しく禁令を犯せば、刑法の爪と角が害する。里に住むのに節度がなく、憎しみと愛しみに度がなければ、争いの爪と角が害する。嗜みと欲に限りがなく、動きと静けさに節度がなければ、腫れものの爪と角が害する。自分の私の智を使うのを好んで道と理を捨てれば、網の爪と角が害する。兕と虎には棲む域があり、あらゆる害には源がある。その域を避け、その源を塞げば、もろもろの害を免れる。武器と鎧は害に備えるものである。生を重んじる者は、軍に入っても怒り争う心がない。怒り争う心がなければ、害を救う備えを用いるところがない。これはただ野に出ている軍のことだけを言うのではない。聖人が世に遊ぶとき、人を害する心がなければ、必ず人に害されない。人に害されなければ、人に備えない。だから「陸を行っても兕や虎に出会わない」という。山に入っても害を救う備えを頼まないから、「軍に入っても鎧と武器を備えない」という。もろもろの害を遠ざけるから、「兕はその角を突き立てるところがなく、虎はその爪をかけるところがなく、武器はその刃を入れるところがない」という。備えを設けずに必ず害がないのは、天と地の道理である。天と地の道を体とするから、「死の場がない」という。動いても死の場がないこと、これを「よく生を保つ」という。

愛子者慈於子,重生者慈於身,貴功者慈於事。慈母之於弱子也,務致其福;務致其福,則事除其禍;事除其禍,則思慮熟;思慮熟,則得事理;得事理,則必成功;必成功,則其行之也不疑,不疑之謂勇。聖人之於萬事也,盡如慈母之爲弱子慮也,故見必行之道。見必行之道則明,其從事亦不疑,不疑之謂勇。不疑生於慈,故曰:「慈,故能勇。」

子を愛する者は子に慈しみ、生を重んじる者は我が身に慈しみ、功を貴ぶ者は事に慈しむ。慈しむ母が弱い子に対して、その福を招くことに努める。その福を招くことに努めれば、その災いを除く事をする。その災いを除く事をすれば思慮が熟す。思慮が熟せば事の理を得る。事の理を得れば必ず功を成す。必ず功を成せば、それを行うのに疑わない。疑わないことを勇という。聖人があらゆる事に向かうのは、すべて慈しむ母が弱い子のために思いめぐらすのと同じであるから、必ず行うべき道を見る。必ず行うべき道を見れば明らかであり、その事に当たるのにやはり疑わない。疑わないことを勇という。疑わないことは慈しみから生じる。だから「慈しむから勇でありうる」という。

周公曰:「冬日之閉凍也不固,則春夏之長草木也不茂。」天地不能常侈常費,而況於人乎?故萬物必有盛衰,萬事必有㢮張,國家必有文武,官治必有賞罰。是以智士儉用其財則家富,聖人愛寶其神則精盛,人君重戰其卒則民衆,民衆則國廣。是以舉之曰:「儉,故能廣。」

周公が言った。「冬の日の凍り固まりが固くなければ、春夏に草木が伸びるのが茂らない。」天と地でさえ常に奢り常に費やすことはできない。まして人ならなおさらである。だから万物には必ず盛と衰があり、あらゆる事には必ずゆるめと張りがあり、国家には必ず文と武があり、官の治めには必ず賞と罰がある。だから智ある士がその財を倹しく使えば家は富み、聖人がその神を愛しみ宝とすれば精は盛り、君主がその兵の戦いを重く扱えば民は多く、民が多ければ国は広い。だからこれを挙げて「倹しいから広くありうる」という。

凡物之有形者易裁也,易割也。何以論之?有形則有短長,有短長則有小大,有小大則有方圓,有方圓則有堅脆,有堅脆則有輕重,有輕重則有白黑。短長、大小、方圓、堅脆、輕重、白黑之謂理。理定而物易割也。故議於大庭而後言則立,權議之士知之矣。故欲成方圓而隨其規矩,則萬事之功形矣。而萬物莫不有規矩,議言之士,計會規矩也。聖人盡隨於萬物之規矩,故曰:「不敢爲天下先。」不敢爲天下先,則事無不事,功無不功,而議必蓋世,欲無處大官,其可得乎?處大官之謂爲成事長。是以故曰:「不敢爲天下先,故能爲成事長。」

かたちのある物は裁ちやすく、割りやすい。何によって論ずるか。かたちがあれば短と長があり、短と長があれば小と大があり、小と大があれば方と円があり、方と円があれば堅と脆があり、堅と脆があれば軽と重があり、軽と重があれば白と黒がある。短と長、大と小、方と円、堅と脆、軽と重、白と黒を理という。理が定まれば物は割りやすい。だから大きな庭で議してから語れば言葉が立つ。はかりごとを議する士はそれを知っている。だから方や円を成そうとするなら、そのぶんまわしと定規に従わなければならない。そうすればあらゆる事の功がかたちを取る。万物にぶんまわしと定規がないものはなく、言を議する士とは、ぶんまわしと定規を計る者である。聖人は万物のぶんまわしと定規にことごとく従うから、「あえて天下の先に立たない」という。あえて天下の先に立たなければ、どの事も事として成らぬことがなく、どの功も功とならぬことがなく、議論は必ず世を覆う。大きな官に就くまいとしても、それができようか。大きな官に就くことを、事を成す長となるという。だから「あえて天下の先に立たないから、事を成す長となれる」という。

慈於子者不敢絶衣食,慈於身者不敢離法度,慈於方圓者不敢舍規矩。故臨兵而慈於士吏則戰勝敵,慈於器械則城堅固。故曰:「慈,於戰則勝,以守則固。」夫能自全也而盡隨於萬物之理者,必且有天生。天生也者,生心也,故天下之道盡之生也。若以慈衛之也,事必萬全,而舉無不當,則謂之寶矣。故曰:「吾有三寶,持而寶之。」

子に慈しむ者はあえて衣と食を絶たず、我が身に慈しむ者はあえて法度を離れず、方と円に慈しむ者はあえてぶんまわしと定規を措かない。だから兵に臨んで士と役人に慈しめば戦って敵に勝ち、器械に慈しめば城は堅く固い。だから「慈しめば、戦えば勝ち、守れば固い」という。みずからを全うし、万物の理にことごとく従える者には、必ず天が生んだものがある。天が生むとは、生じる心であり、だから天下の道はすべてこの生じることに尽きる。もし慈しみでこれを守れば、事は必ず万に一つも誤らず、起こすことに当たらないものがない。これを宝という。だから「わたしに三つの宝があり、持ってこれを宝とする」という。

書之所謂「大道」也者,端道也。所謂貌「施」也者,邪道也。所謂「徑」大也者,佳麗也。佳麗也者,邪道之分也。「朝甚除」也者,獄訟繁也。獄訟繁則田荒,田荒則府倉虚,府倉虚則國貧,國貧而民俗淫侈,民俗淫侈則衣食之業絶,衣食之業絶則民不得無飾巧詐,飾巧詐則知采文,知采文之謂「服文采」。獄訟繁,倉廩虚,而有以淫侈爲俗,則國之傷也若以利劒刺之。故曰:「帶利劒。」諸夫飾智故以至於傷國者,其私家必富;私家必富,故曰:「資貨有餘。」國有若是者,則愚民不得無術而效之,效之則小盜生。由是觀之,大姦作則小盜隨,大姦唱則小盜和。竽也者,五聲之長者也,故竽先則鍾瑟皆隨,竽唱則諸樂皆和。今大姦作則俗之民唱,俗之民唱則小盜必和。故「服文采,帶利劒,厭飲食,而貨資有餘者,是之謂盜竽矣」。

書にいう「大道」とは、まっすぐな道である。いう「施(伸び広がり)」のさまとは、邪な道である。いう「径(近道)」の大きさとは、きらびやかな美しさである。きらびやかな美しさとは、邪な道の枝である。「朝廷がはなはだ清められている」とは、獄と訴えが込み合っていることである。獄と訴えが込み合えば田が荒れ、田が荒れれば蔵と倉が空になり、蔵と倉が空になれば国は貧しくなる。国が貧しいのに民の習いが度を越して奢れば、衣と食の生業が絶える。衣と食の生業が絶えれば、民は巧みな偽りを飾らずにいられない。巧みな偽りを飾れば彩りのあやを知る。彩りのあやを知ることを「文彩の衣を着る」という。獄と訴えが込み合い、倉が空であるのに、度を越した奢りを習いとすれば、国の傷つきようは鋭い剣で刺されるのと同じである。だから「鋭い剣を帯びる」という。智を飾りことさらにふるまって国を傷つけるに至る者は、その私の家が必ず富む。私の家が必ず富むから、「財貨が余る」という。国にこういう者がいれば、愚かな民は術を使ってこれを真似ずにいられず、真似れば小さな盗が生じる。これで見れば、大きな姦が起これば小さな盗が続き、大きな姦が唱えれば小さな盗が和する。竽は五声の長であるから、竽が先んじれば鐘も瑟もみな続き、竽が唱えればもろもろの楽がみな和する。いま大きな姦が起これば俗の民が唱え、俗の民が唱えれば小さな盗が必ず和する。だから「文彩の衣を着て鋭い剣を帯び、飲み食いに飽いて財貨が余る者、これを盗の竽という」という。

人無愚智,莫不有趨舍。恬淡平安,莫不知禍福之所由來。得於好惡,怵於淫物,而後變亂。所以然者,引於外物,亂於玩好也。恬淡有趨舍之義,平安知禍福之計。而今也玩好變之,外物引之;引之而往,故曰「拔」。至聖人不然:一建其趨舍,雖見所好之物不能引,不能引之謂「不拔」;一於其情,雖有可欲之類神不爲動,神不爲動之謂「不脫」。爲人子孫者,體此道以守宗廟,宗廟不滅之謂「祭祀不絶」。身以積精爲德,家以資財爲德,鄉國天下皆以民爲德。今治身而外物不能亂其精神,故曰:「脩之身,其德乃真。」真者,慎之固也。治家,無用之物不能動其計,則資有餘,故曰:「脩之家,其德有餘。」治鄉者行此節,則家之有餘者益衆,故曰:「脩之鄉,其德乃長。」治邦者行此節,則鄉之有德者益衆,故曰:「脩之邦,其德乃豐。」蒞天下者行此節,則民之生莫不受其澤,故曰:「脩之天下,其德乃普。」脩身者以此別君子小人,治鄉治邦蒞天下者各以此科適觀息耗,則萬不失一。故曰:「以身觀身,以家觀家,以鄉觀鄉,以邦觀邦,以天下觀天下。吾奚以知天下之然也?以此。」

人は愚かも智もなく、取ると捨てるを持たない者はいない。淡々として平らかに安らかであれば、災いと福のよって来るところを知らない者はいない。好き嫌いに引かれ、度を越した物に揺らされてから、変わり乱れる。そうなる理由は、外の物に引かれ、玩びものに乱されるからである。淡々としていれば取ると捨てるの義があり、平らかに安らかであれば災いと福の計を知る。それをいま玩びものが変え、外の物が引く。引かれて行くから「抜かれる」という。至った聖人はそうではない。その取ると捨てるを一度立てれば、好む物を見ても引かれない。引かれないことを「抜かれない」という。その情に一つであれば、欲しうるものがあっても神は動かされない。神が動かされないことを「脱けない」という。人の子孫である者が、この道を体として宗廟を守れば、宗廟は滅びない。これを「祭祀が絶えない」という。身は精を積むことを徳とし、家は財を徳とし、郷と国と天下はみな民を徳とする。いま身を治めて外の物がその精神を乱せないから、「これを身に修めれば、その徳は真となる」という。真とは、慎みが固いことである。家を治めて、無用の物がその計を動かせなければ、資は余る。だから「これを家に修めれば、その徳は余る」という。郷を治める者がこの節を行えば、家に余りのある者がいよいよ多くなる。だから「これを郷に修めれば、その徳は長くなる」という。国を治める者がこの節を行えば、郷に徳ある者がいよいよ多くなる。だから「これを国に修めれば、その徳は豊かになる」という。天下に臨む者がこの節を行えば、民の生はその恵みを受けないものがない。だから「これを天下に修めれば、その徳はあまねく及ぶ」という。身を修める者はこれによって君子と小人を分け、郷を治め国を治め天下に臨む者はそれぞれこの条目で増えと減りを見れば、万に一つも誤らない。だから「身で身を観、家で家を観、郷で郷を観、国で国を観、天下で天下を観る。わたしは何によって天下がそうであると知るのか。これによってである」という。