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外儲説 左上外儲說左上

韓非子(韓非の書) 韓非子 · 韓非と後学 · 紀元前3世紀 · 段落 67 · 漢字 6,607字 · 朗読 26.4分

韓非子(韓非の書) 外儲說左上 法家が一堂に集まった書である。商鞅の法と申不害の術と慎到の勢を、韓非が受け継いで一つに編んだ。人は善だから善なのではなく、悪をなしえないから善であると見て、君主が頼るべきは仁ではなく法と術と勢であると説く。 矛盾がここから出た。貫けない盾と貫けないものがない矛を一緒に売る楚の人の話で、堯と舜をともに称えることはできないことを示し、難勢でもう一度、仁と勢をめぐって同じたとえを挙げる。切り株を守って兎を待った宋の人(守株待兎)と、足を二度切られてはじめて玉と認められた和氏の璧も、この書の話である。 語ることの難しさを扱った説難には、龍の喉の下に逆さに生えた鱗の話がある。君主にもそのような鱗があり、触れれば死ぬというのだが、当の韓非自身が秦で獄に捕らわれて死んだ。 存韓には、韓非が秦王に奉った文と、そのすぐ後に李斯が「韓非は韓のために来た者なので、帰してはならない」と奉った文が並べて収められている。一人を死に追いやった文書が、その人の書に一緒に残った。

一。明主之道,如有若之應密子也。人主之聽言也,美其辯;其觀行也,賢其遠。故羣臣士民之道言者迂弘,其行身也離世。其說在田鳩對荊王也。故墨子爲木鳶,謳癸築武宮。夫藥酒忠言,明君聖主之以獨知也。

一。賢明な君主の道は、有若が宓子に答えたようなものである。君主が言葉を聞くときにはその弁舌の巧みさを美しいとし、行いを見るときにはその世を離れた高遠さを賢いとする。だから臣下や士や民のうち、物を言う者は遠回しに大げさに語り、身の行いは世間を離れる。その説明は田鳩が楚王に答えた話にある。だから墨子は木の鳶を作り、謳癸は武宮を築いた。そもそも薬酒と忠言とは、賢明な君主が独り知るところのものである。

二。人主之聽言也,不以功用爲的,則說者多「棘刺」「白馬」之說;不以儀的爲關,則射者皆如羿也。人主於說也,皆如燕王學道也;而長說者,皆如鄭人爭年也。是以言有纎察微難而非務也,故季、惠、宋、墨皆畫策也;論有迂深閎大,非用也,故魏、長、瞻、陳、莊皆鬼魅也;行有拂難堅確,非功也,故務、卞、鮑、介、田仲皆堅瓠也。且虞慶詘匠也而屋壞,范且窮工而弓折。是故求其誠者,非歸餉也不可。

二。君主が言葉を聞くときに功と用とを的としなければ、説く者には「棘の先」や「白馬」のような説が多くなり、基準と的とを関門としなければ、射る者は誰もが羿のようになる。君主は説に対してみな燕王が道を学んだときのようであり、長広舌をふるう者はみな鄭の人が年齢を争ったときのようである。それゆえ言には、細かく微妙で難しいが務めるに足らぬものがあり、季梁・恵施・宋牼・墨翟はみな策を絵に描いた者である。論には、遠回しで深く広大だが用に立たぬものがあり、魏牟・長盧子・瞻何・陳駢・荘周はみな鬼や化け物を描いた者である。行いには、人に逆らい難きを行って堅く確かだが功ではないものがあり、務光・卞随・鮑焦・介子推・田仲はみな固い瓢である。また虞慶が大工を言い負かせば家は壊れ、范且が弓工を言い詰めれば弓は折れた。だからその真実を求める者は、飯を食いに帰るのでなければならない。

三。挾夫相爲則責望,自爲則事行。故父子或怨譙,取庸作者進美羮。說在文公之先宣言與勾踐之稱如皇也。故桓公藏蔡怒而攻楚,吳起懷瘳實而吮傷。且先王之賦頌,鍾鼎之銘,皆播吾之跡,華山之博也。然先王所期者利也,所用者力也。築社之諺,自辭說也。請許學者而行宛曼於先王,或者不宜今乎?如是,不能更也。鄭縣人得車厄也,衞人佐弋也,卜子妻寫弊袴也,而其少者侍長者飲也。先王之言,有其所爲小而世意之大者,有其所爲大而世意之小者,未可必知也。說在宋人之解書與梁人之讀記也。故先王有郢書,而後世多燕說。夫不適國事而謀先王,皆歸取度者也。

三。互いのためにするという心を抱けば責めと期待が生じ、自分のためにすれば事は運ぶ。だから父子でさえ恨み責めることがあり、人を雇う者はうまい汁を出す。説明は、文公があらかじめ言い広めたことと、勾践が如皇を称えたことにある。だから桓公は蔡への怒りを隠して楚を攻め、呉起は膿を吸って傷を治した。また先王の詩や頌、鐘や鼎の銘は、みな播吾の跡であり華山の碁盤である。しかし先王が期したものは利であり、用いたものは力である。社を築く者の諺は、自ら言ったものである。学者を許して先王の遠大な言を行わせれば、あるいは今には適わぬのではないか。そうなれば改めることはできない。鄭県の人が車の軛を手に入れた話、衛の人が射を助けた話、卜子の妻が破れた袴を写して作った話、そして年少の者が年長者に侍して酒を飲んだ話がそれである。先王の言には、小さく言ったものを世が大きく解するものがあり、大きく言ったものを世が小さく解するものがあって、必ず知りうるものではない。説明は宋の人が書を解いた話と梁の人が記を読んだ話にある。だから先王には郢の書があり、後世には燕流の解釈が多い。そもそも国の実情に合わせず先王を謀るのは、みな家に帰って寸法を取ってくる者である。

四。利之所在,民歸之;名之所彰,士死之。是以功外於法而賞加焉,則上不能得所利於下;名外於法而譽加焉,則士勸名而不畜之於君。故中章、胥己仕,而中牟之民弃田圃而隨文斈者邑之半;平公腓痛足痺而不敢壞坐,晉國之辭仕託者國之錘。此三士者,言襲法,則官府之籍也;行中事,則如令之民也,二君之禮太甚。若言離法而行遠功,則繩外民也,二君又何禮之?禮之當亡。且居學之士,國無事不用力,有難不被甲。禮之,則惰脩耕戰之功;不禮,則害主上之法。國安則尊顯,危則爲屈公之威,人主奚得於居學之士哉?故明主論李疵視中山也。

四。利のあるところに民は帰し、名の顕れるところに士は死ぬ。それゆえ功が法の外にあるのに賞が与えられれば、上は下から利を得ることができず、名が法の外にあるのに誉が与えられれば、士は名に励んで君主のもとに蓄えられない。だから中章と胥己が仕えると、中牟の民は田畑や菜園を捨てて学問に従う者が町の半ばに及び、平公がふくらはぎを痛め足がしびれても姿勢を崩さずにいると、晋の国では仕官を辞して身を寄せる者が国の半ばに及んだ。この三人の士は、言が法に従っていたのなら官府の文書にすぎず、行いが職務に合っていたのなら命令どおりに動く民にすぎない。二人の君主の礼遇は度が過ぎている。もし言が法を離れ行いが功から遠いのなら、墨縄の外の民である。二人の君主はまた何を礼遇するのか。礼遇すれば当然滅びる。また学問に身を置く士は、国に事がなくても力を使わず、難があっても甲を着けない。礼遇すれば耕し戦う功を修めるのに怠り、礼遇しなければ君主の法を害する。国が安らかであれば尊ばれ顕れ、危うくなれば屈公の怯えとなる。君主は学問に身を置く士から何を得るのか。だから賢明な君主は、李疵が中山を見てきた話を論じる。

五。《詩》曰:「不躬不親,庶民不信。」傅說之以「無衣紫」,援之以鄭簡、宋襄,責之以尊厚耕戰。夫不明分,不責誠,而以躬親位下,且爲「下走」「睡臥」,與夫「揜弊」「微服」。孔丘不知,故稱猶盂;鄒君不知,故先自僇。明主之道,如叔向賦獵與昭侯之奚聽也。

五。『詩』に「身をもってせず自らせざれば、庶民は信じない」とある。師傅はこれを「紫の衣を着てはなりません」と説き、鄭の簡公と宋の襄公を引いて証とし、耕戦を尊び厚くすることをもって責めた。そもそも分を明らかにせず誠を責めず、身をもって下の位に立てば、やがて「走り下ること」「眠り臥すこと」、そして「覆い隠すこと」「微服」となる。孔丘はそれを知らなかったので盂に似ていると言い、鄒の君はそれを知らなかったのでまず自らを辱めた。賢明な君主の道は、叔向が狩りの獲物を分けた話と、昭侯が何を聞いたかにある。

六。小信成則大信立,故明主積於信。賞罰不信則禁令不行,說在文公之攻原與箕鄭救餓也。是以吳起須故人而食,文侯會虞人而獵。故明主表信,如曾子殺彘也。患在厲王撃警鼓與李悝謾兩和也。

六。小さな信が成れば大きな信が立つ。だから賢明な君主は信を積む。賞罰が信じられなければ禁令は行われない。説明は文公が原を攻めた話と、箕鄭が飢えを救った話にある。それゆえ呉起は旧友を待って食事をし、文侯は狩場の番人と約して狩りをした。だから賢明な君主が信を示すのは、曾子が豚を殺したようなものである。憂いは、厲王が警めの鼓を打った話と、李悝が左右の陣を欺いた話にある。

一。宓子賤治單父。有若見之曰:「子何臞也?」宓子曰:「君不知賤不肖,使治單父,官事急,心憂之,故臞也。」有若曰:「昔者舜鼓五絃、歌《南風》之詩而天下治。今以單父之細也,治之而憂,治天下將奈何乎?故有術而御之,身坐於廟堂之上,有處女子之色,無害於治;無術而御之,身雖瘁臞,猶未有益。

一。宓子賤が単父を治めていた。有若が会って言った。「あなたはどうしてそんなに痩せたのか。」宓子が言った。「君主が私の不才をご存じなく単父を治めさせられたので、役所の務めが急がしく、心に憂えて痩せたのです。」有若が言った。「昔、舜は五弦の琴を弾き『南風』の詩を歌っただけで天下は治まった。いま単父のような小さなところを治めて憂えているのなら、天下を治めるとなればどうするのか。だから術があって人を使えば、身は廟堂の上に座し処女のような顔色をしていても治めるのに害はなく、術がなくて人を使えば、身がやつれ痩せてもやはり益はない。」

楚王謂田鳩曰:「墨子者,顯斈也。其身體則可,其言多而不辯,何也?」曰:「昔秦伯嫁其女於晉公子,令晉爲之飾裝,從衣文之媵七十人。至晉,晉人愛其妾而賤公女。此可謂善嫁妾,而未可謂善嫁女也。楚人有賣其珠於鄭者,爲木蘭之櫝,薰以桂椒,綴以珠玉,飾以玫瑰,輯以翡翠。鄭人買其櫝而還其珠。此可謂善賣櫝矣,未可謂善鬻珠也。今世之談也,皆道辯說文辭之言,人主覽其丈而忘有用。墨子之說,傳先王之道,論聖人之言,以宣告人。若辯其辭,則恐人懷其文忘其直,以文害用也。此與楚人鬻珠、秦伯嫁女同類,故其言多不辯。」

楚王が田鳩に言った。「墨子は世に顕れた学である。その身をもって行うところはよいが、その言が多くて飾られていないのはなぜか。」答えて言った。「昔、秦の君が娘を晋の公子に嫁がせるとき、晋に支度を飾らせ、紋の衣を着た侍女七十人を付き添わせました。晋に着くと、晋の人はその侍女を愛し、公女を軽んじました。これは侍女をうまく嫁がせたとは言えても、娘をうまく嫁がせたとは言えません。楚の人で鄭に真珠を売る者があり、木蘭の箱を作り、桂と山椒で香を薫きしめ、珠玉を縫い付け、赤い玉で飾り、翡翠で綴じました。鄭の人はその箱を買って真珠は返しました。これは箱をうまく売ったとは言えても、真珠をうまく売ったとは言えません。いま世の談論はみな弁舌と飾った文辞の言を説き、君主はその飾りを見て役に立つことを忘れます。墨子の説は、先王の道を伝え聖人の言を論じて人に広く告げるものです。もしその言葉を飾れば、人が飾りを心に抱いてその率直さを忘れ、飾りで用を害することになりかねません。これは楚の人が真珠を売り、秦の君が娘を嫁がせたのと同類ですから、その言は多く飾られていないのです。」

墨子爲木鳶,三年而成,蜚一日而敗。弟子曰:「先生之巧,至能使木鳶飛。」墨子曰:「不如爲車輗者巧也。用咫尺之木,不費一朝之事,而引三十石之任,致遠力多,久於歲數。今我爲鳶,三年成,蜚一日而敗。」惠子聞之曰:「墨子大巧,巧爲輗,拙爲鳶。」

墨子が木の鳶を作り、三年かかって仕上げたが、一日飛んで壊れた。弟子が言った。「先生の巧みさは、木の鳶を飛ばすまでに至りました。」墨子が言った。「車の軛を作る者の巧みさには及ばない。わずか一尺ばかりの木を使い、一朝の手間もかけずに三十石の荷を引き、遠くまで運んで力は強く、何年も持つ。いま私が鳶を作って三年かかり、一日飛んで壊れた。」恵子がこれを聞いて言った。「墨子は大いに巧みだ。軛を作るのに巧みで、鳶を作るのに拙い。」

宋王與齊仇也,築武宮。謳癸倡,行者止觀,築者不倦。王聞,召而賜之。對曰:「臣師射稽之謳又賢於癸。」王召射稽使之謳,行者不止,築者知倦。王曰:「行者不止,築者知倦,其謳不勝如癸美,何也?」對曰:「王試度其功。」癸四板,射稽八板;擿其堅,癸五寸,射稽二寸。

宋王は斉と仇敵であったので、武宮を築いた。謳癸が歌うと、通りがかりの者は足を止めて見、築く者は怠らなかった。王はそれを聞き、召して褒美を与えた。癸は答えて言った。「臣の師、射稽の歌はさらに私より勝れています。」王は射稽を召して歌わせたが、通りがかりの者は足を止めず、築く者は怠った。王が言った。「通りがかりの者は足を止めず、築く者は怠る。その歌が癸の美しさに及ばないのはなぜか。」答えて言った。「王よ、試しにその仕事を計ってみてください。」癸のときは四板を築き、射稽のときは八板を築いた。その固さを突いてみると、癸のときは五寸、射稽のときは二寸入った。

夫良藥苦於口,而智者勸而飲之,知其入而已己疾也。忠言拂於耳,而明主聽之,知其可以致功也。

そもそも良薬は口に苦いが、知者が努めて飲むのは、それが体に入って自分の病を治すことを知っているからである。忠言は耳に逆らうが、賢明な君主がそれを聞くのは、それによって功を成しうることを知っているからである。

二。宋人有請爲燕王以棘刺之端爲母猴者,必三月齋然後能觀之。燕王因以三乘養之。右御冶工言王曰:「臣聞人主無十日不燕之齋。今知王不能久齋以觀無用之器也,故以三月爲期。凡刻削者,以其所以削必小。今臣冶人也,無以爲之削,此不然物也,王必察之。」王因囚而問之,果妄,乃殺之。冶人謂王曰:「計無度量,言談之士多『棘刺』之說也。」

二。宋の人で、燕王のために棘の先に母猿を刻もうと願い出た者がおり、必ず三月の斎戒を経てからでなければ見ることができないと言った。燕王はそこで車三乗の禄で彼を養った。右の御者である鍛冶工が王に言った。「臣の聞くところ、君主には十日も宴をせずに斎戒するということはありません。いま王が長く斎戒して役に立たぬ器をご覧になれないことを知っているので、三月を期限としたのです。そもそも刻み削る者は、その削る刃物が必ず小さくなければなりません。いま臣は鍛冶の者ですが、それを作るための彫刻刀はありません。これはありえない品物です。王は必ずお調べください。」王はそこで彼を捕らえて問い詰めたところ、やはり偽りであったので殺した。鍛冶の者が王に言った。「計算に尺度がなければ、弁舌の士には「棘の先」のような説が多くなります。」

一曰:燕王好微巧。衛人曰:「能以棘刺之端爲母猴。」燕王說之,養之以五乘之奉。王曰:「吾試觀客爲棘刺之母猴。」客曰:「人主欲觀之,必半歲不入宮,不飲酒食肉。雨霽日出,視之晏陰之間,而棘刺之母猴乃可見也。」燕王因養衛人,不能觀其母猴。鄭有臺下之冶者謂燕王曰:「臣削者也,諸微物必以削削之,而所削必大於削。今棘刺之端不容削鋒,難以治棘刺之端。王試觀客之削,能與不能可知也。」王曰:「善。」謂衛人曰:「客爲棘刺之母猴也,何以理之?」曰:「以削。」王曰:「吾欲觀見之。」客曰:「臣請之舍取之。」因逃。

一説にこう言う。燕王は細かく巧みなものを好んだ。衛の人が言った。「棘の先に母猿を刻むことができます。」燕王は喜んで、車五乗の禄で彼を養った。王が言った。「試しに客の作った棘の先の母猿を見たい。」客が言った。「君主がご覧になるには、必ず半年のあいだ宮に入らず、酒も肉も口にされてはなりません。雨が上がって日が出たら、薄暗さと明るさの境でご覧になってはじめて、棘の先の母猿が見えるのです。」燕王はそこで衛の人を養ったが、その母猿を見ることはできなかった。鄭の台の下に住む鍛冶の者が燕王に言った。「臣は削る者です。小さな品はみな彫刻刀で削りますが、削られる物は必ず刃物より大きくなければなりません。いま棘の先は刃の先を受け入れられず、棘の先に手を入れるのは難しいのです。王は試しに客の刃物をご覧ください。できるかできないかが分かります。」王は「よし」と言い、衛の人に言った。「客は棘の先の母猿を作るというが、何でそれを扱うのか。」「彫刻刀で扱います。」王が言った。「それを見たい。」客は「臣は宿に取りに行かせてください」と言い、そのまま逃げた。

兒說,宋人,善辯者也,持「白馬非馬也」服齊稷下之辯者。乘白馬而過關,則顧白馬之賦。故籍之虚辭,則能勝一國;考實按形,不能謾於一人。

児説は宋の人で弁の巧みな者であり、「白い馬は馬ではない」という説をもって斉の稷下の弁者たちを屈服させた。しかし白い馬に乗って関所を通るときには、白い馬の税を納めた。だから空言に頼れば一国に勝つこともできるが、実を調べ形を押さえられれば一人も欺けない。

夫新砥礪殺矢,彀弩而射,雖冥而妄發,其端未嘗不中秋毫也,然而莫能復其處,不可謂善射,無常儀的也。設五寸之的,引十步之遠,非羿、逄蒙不能必全者,有常儀的也。有度難而無度易也。有常儀的,則羿、逄蒙以五寸爲巧;無常儀的,則以妄發而中秋毫爲拙。故無度而應之,則辯士繁說;設度而持之,雖知者猶畏失也,不敢妄言。今人主聽說,不應之以度而說其辯;不度以功,譽其行而不入關。此人主所以長欺,而說者所以長養也。

そもそも新しく研ぎ上げた矢を弩に掛けて射れば、たとえ目をつぶって当てもなく放っても、その先が秋の毛に当たらぬことはない。しかしその同じところをもう一度当てることはできないのだから、射が巧いとは言えない。定まった基準と的がないからである。五寸の的を置いて十歩の遠くから引けば、羿か逄蒙でなければ必ず当てることはできない。定まった基準と的があるからである。尺度があれば難しく、尺度がなければ易しい。定まった基準と的があれば、羿や逄蒙でも五寸に当てることを巧みとし、定まった基準と的がなければ、当てもなく放って秋の毛に当てても拙いとされる。だから尺度なしに応ずれば弁舌の士は言葉を繁くし、尺度を立ててそれを持すれば、知者でさえ外すことを恐れて当てもない言を口にしない。いま君主は説を聞くのに、尺度をもって応ぜずその弁舌を喜び、功をもって計らずその行いを誉めて、関門に通さない。これが君主がいつまでも欺かれる理由であり、説く者がいつまでも養われる理由である。

客有教燕王爲不死之道者,王使人學之,所使學者未及學而客死。王大怒,誅之。王不知客之欺己,而誅學者之晩也。夫信不然之物而誅無罪之臣,不察之患也。且人所急無如其身,不能自使其無死,安能使王長生哉?

客のうちに燕王へ不死の道を教えようという者があった。王は人をやって学ばせたが、学びに行った者が学び終える前に客が死んだ。王は大いに怒り、その者を誅した。王は客が自分を欺いたことを知らず、学ぶ者が遅かったとして誅したのである。そもそもありえない品物を信じて罪のない臣を誅するのは、調べなかったことの災いである。また人にとって自分の身ほど急なものはないのに、自ら死なずにいることもできない者が、どうして王を長生きさせられようか。

鄭人有相與爭年者。一人曰:「吾與堯同年。」其一人曰:「我與黃帝之兄同年。」訟此而不決,以後息者爲勝耳。

鄭の人で互いに年齢を争う者があった。一人が言った。「私は堯と同じ年だ。」もう一人が言った。「私は黄帝の兄と同じ年だ。」これを訴え出ても決着せず、後まで黙らずにいた者を勝ちとするだけであった。

客有爲周君畫筴者,三年而成。君觀之,與髹筴者同狀。周君大怒。畫筴者曰:「築十版之墻,鑿八尺之牖,而以日始出時加之其上而觀。」周君爲之,望見其狀,盡成龍蛇禽獸車馬,萬物之狀備具。周君大悅。此筴之功非不微難也,然其用與素髹筴同。

客のうちに周君のために鞭に絵を描いた者があり、三年かかって仕上げた。君が見ると、ただ漆を塗った鞭と同じ姿であった。周君は大いに怒った。鞭に絵を描いた者が言った。「十板の高さの塀を築き、八尺の窓を開けて、日が昇りはじめる時にその上に置いてご覧ください。」周君がそのようにすると、その姿はすべて龍や蛇、鳥や獣、車や馬となって、万物の姿がそろって現れた。周君は大いに喜んだ。この鞭の仕事は細かく難しくないわけではないが、その用はただ漆を塗った鞭と変わらない。

客有爲齊王畫者,齊王問曰:「畫孰最難者?」曰:「犬馬難。」「孰易者?」對曰:「鬼魅最易。」夫犬馬,人所知也,旦暮罄於前,不可類之,故難。鬼魅,無形者,不罄於前,故易之也。

客のうちに斉王のために絵を描く者があった。斉王が問うた。「絵では何が最も難しいか。」「犬と馬が難しいのです。」「何が易しいか。」答えて言った。「鬼や化け物が最も易しいのです。」そもそも犬や馬は人の知るところで、朝夕に目の前にすべて現れていて似せて描けないから難しく、鬼や化け物は形がなく目の前に現れないから易しいのである。

齊有居士田仲者,宋人屈穀見之,曰:「穀聞先王之義,不恃仰人而食。今穀有巨瓠,堅如石,厚而無竅,獻之。」仲曰:「夫瓠所貴者,謂其可以盛也。今厚而無竅,則不可剖以盛物;而任重如堅石,則不可以剖而以斟。吾無以瓠爲也。」曰:「然,穀將弃之。」今田仲不恃仰人而食,亦無益人之國,亦堅瓠之類也。

斉に田仲という処士があった。宋の人屈穀が会って言った。「私の聞くところ、先王の義は人に頼って食わぬことだといいます。いま私に大きな瓢があり、石のように固く、厚くて穴がありません。これを差し上げます。」田仲が言った。「そもそも瓢が貴ばれるのは、物を入れられるからだ。いま厚くて穴がなければ、割って物を入れることはできず、固い石のように重ければ、割って汲むこともできない。私にはその瓢を使うところがない。」屈穀は言った。「そのとおりです。私は捨てることにします。」いま田仲は人に頼って食わぬとはいえ、人の国に益するところもない。やはり固い瓢の類である。

虞慶爲屋,謂匠人曰:「屋太尊。」匠人對曰:「此新屋也,塗濡而椽生。」虞慶曰:「不然。夫濡塗重而生椽撓,以橈椽任重塗,此宜卑。更日久,則塗乾而椽燥。塗乾則輕,椽燥則直,以直椽任輕塗,此益尊。」匠人詘,爲之而屋壞。

虞慶が家を建てるとき、大工に言った。「家が高すぎる。」大工が答えた。「これは新しい家で、土が湿っており垂木が生木なのです。」虞慶が言った。「そうではない。そもそも湿った土は重く、生木の垂木はたわむ。たわむ垂木で重い土を支えるのだから、これはいずれ低くなるはずだ。日が経てば土も垂木も乾く。土が乾けば軽く、垂木が乾けばまっすぐになる。まっすぐな垂木で軽い土を支えるのだから、これはいっそう高くなる。」大工は言い負けてそのとおりに建てたが、家は壊れた。

一曰:虞慶將爲屋,匠人曰:「材生而塗濡。夫材生則撓,塗濡則重,以撓任重,今雖成,久必壞。」虞慶曰:「材乾則直,塗乾則輕。今誠得乾,日以輕直,雖久,必不壞。」匠人詘,作之成,有間,屋果壞。

一説にこう言う。虞慶が家を建てようとすると、大工が言った。「材が生木で土が湿っています。そもそも材が生木ならたわみ、土が湿れば重く、たわむものに重いものを支えさせるのですから、いまは出来上がっても、久しくすれば必ず壊れます。」虞慶が言った。「材が乾けばまっすぐになり、土が乾けば軽くなる。いま本当に乾くのなら、日ごとに軽くまっすぐになるのだから、久しくなっても必ず壊れはしない。」大工は言い負けて建て上げたが、しばらくして家はやはり壊れた。

范且曰:「弓之折,必於其盡也,不於其始也。夫工人張弓也,伏檠三旬而蹈弦,一日犯機,是節之其始而暴之其盡也,焉得無折?且張弓不然:伏檠一日而蹈弦,三旬而犯機,是暴之其始而節之其盡也。」工人窮也,爲之,弓折。

范且が言った。「弓が折れるのは必ずその終わりにであって、その始めにではない。そもそも職人が弓を張るとき、矯め木に三十日伏せておいてから弦を踏み掛け、一日で引いて試す。これは始めには控え、終わりには荒く扱うのだから、どうして折れずにいられよう。また弓を張るのはそうではあるまい。矯め木に一日伏せて弦を踏み掛け、三十日経ってから引いて試せば、これは始めに荒くして終わりに控えることになる。」職人は言い詰められてそのとおりにしたが、弓は折れた。

范且、虞慶之言,皆文辯辭勝而反事之情。人主說而不禁,此所以敗也。夫不謀治强之功,而艷乎辯說文麗之聲,是却有術之士而任「壞屋」「折弓」也。故人主之於國事也,皆不達乎工匠之搆屋張弓也。然而士窮乎范且、虞慶者,爲虚辭,其無用而勝;實事,其無易而窮也。人主多無用之辯,而少無易之言,此所以亂也。今世之爲范且、虞慶者不輟,而人主說之不止,是貴敗折之類而以知術之人爲工匠也。工匠不得施其技巧,故屋壞弓折;知治之人不得行其方術,故國亂而主危。

范且と虞慶の言は、いずれも飾った弁舌が勝って事の実情に背いている。君主がそれを喜んで禁じないのが、失敗する理由である。そもそも国を治め強くする功を謀らず、弁舌と飾った響きに惑わされるのは、術のある士を退けて「家を壊し弓を折る者」に任せることである。だから君主は国事について、大工が家を建て弓を張る仕事ほどにも通じていない。それなのに士が范且や虞慶に言い負けるのは、空言は役に立たぬのに勝ち、実際の事は変えようがないために行き詰まるからである。君主には役に立たぬ弁舌が多く、変えようのない言が少ない。これが乱れる理由である。いま世に范且や虞慶のような者が絶えず、君主がそれを喜ぶのもやまない。これは失敗し折る類を貴び、治めを知る人を大工扱いにすることである。大工がその技を施せなければ家は壊れ弓は折れる。治めを知る人がその方術を行えなければ、国は乱れ君主は危うくなる。

夫嬰兒相與戲也,以塵爲飯,以塗爲羮,以木爲胾,然至日晩必歸饟者,塵飯塗羮可以戲而不可食也。夫稱上古之傅頌,辯而不慤,道先王仁義而不能正國者,此亦可以戲而不可以爲治也。夫慕仁義而弱亂者,三晉也;不慕而治强者,秦也,然而未帝者,治未畢也。

そもそも幼い子どもが遊ぶときには、土を飯とし泥を汁とし木を肉とするが、日が暮れれば必ず飯を食いに帰る。土の飯と泥の汁は遊びにはなっても食べられないからである。そもそも上古の伝えられた頌を口にして、弁は立つが誠実でなく、先王の仁義を語りながら国を正すことができないのも、これまた遊びにはなっても治めにはならない。そもそも仁義を慕って弱り乱れたのは三晋であり、慕わずに治まり強くなったのは秦である。それでもまだ帝となっていないのは、治めがまだ完うされていないからである。

三。人爲嬰兒也,父母養之簡,子長而怨;子盛壯成人,其供養薄,父母怒而誚之。子、父,至親也,而或譙或怨者,皆挾相爲而不周於爲己也。夫買庸而播耕者,主人費家而美食,調布而求易錢者,非愛庸客也,曰:如是,耕者且深,耨者熟耘也。庸客致力而疾耘耕者,盡巧而正畦陌者,非愛主人也,曰:如是,羮且美,錢布且易云也。此其養功力,有父子之澤矣,而心調於用者,皆挾自爲心也。故人行事施予,以利之爲心,則越人易和;以害之爲心,則父子離且怨。

三。人が幼いときに父母の養いがおろそかであれば、子は育ってから恨む。子が壮年となって大人になり、その養いが薄ければ、父母は怒って責める。子と父とはこの上なく親しい間柄でありながら、責めたり恨んだりするのは、いずれも互いのためにするという心を抱いて、自分のためにすることに行き届かないからである。そもそも人を雇って種を播き耕させる者が、家の蓄えを費やしてうまい飯を食わせ、布を整え銭に換えてやるのは、雇い人をいとおしむからではない。こうすれば耕す者は深く耕し、草を取る者は念入りに取るだろうと思うからである。雇い人が力を尽くして急いで草を取り耕し、技を尽くして畦と畝をまっすぐにするのは、主人をいとおしむからではない。こうすれば汁もうまく、銭や布も換えてもらいやすいだろうと思うからである。このように力を養ってやるところには父子の恵みほどのものがあるのに、心が使いように合うのは、いずれも自分のためにする心を抱いているからである。だから人が事を行い物を与えるとき、利してやることを心とすれば越の人とも容易に和し、害することを心とすれば父子でさえ離れて恨み合う。

文公伐宋,乃先宣言曰:「吾聞宋君無道,蔑侮長老,分財不中,教令不信,余來爲民誅之。」

文公が宋を討つとき、まず言葉を広めて言った。「私の聞くところ、宋君には道がなく、長老を侮り、財を分けるのに公平でなく、教えや命令も信ずるに足らぬという。私は民のためにこれを討ちに来たのだ。」

越伐吳,乃先宣言曰:「我聞吳王築如皇之臺,掘深池,罷苦百姓,煎靡財貨,以盡民力,余來爲民誅之。」

越が呉を討つとき、まず言葉を広めて言った。「私の聞くところ、呉王は如皇の台を築き、深い池を掘り、民を疲れさせ苦しめ、財貨を蕩尽して民の力を使い果たしているという。私は民のためにこれを討ちに来たのだ。」

蔡女爲桓公妻,桓公與之乘舟,夫人蕩舟,桓公大懼,禁之不止,怒而出之。乃且復召之,因復更嫁之。桓公大怒,將伐蔡。仲父諫曰:「夫以寢席之戲,不足以伐人之國,功業不可冀也,請無以此爲稽也。」桓公不聽。仲父曰:「必不得已,楚之菁茅不貢於天子三年矣,君不如舉兵爲天子伐楚。楚伏,因還襲蔡,曰『余爲天子伐楚,而蔡不以兵聽從』,遂滅之。此義於名而利於實,故必有爲天子誅之名,而有報讎之實。」

蔡の女が桓公の妻となったが、桓公がともに舟に乗ったとき、夫人が舟を揺らした。桓公は大いに怖れ、やめさせようとしてもやめないので、怒って送り返した。そのうえで呼び戻そうとしたが、蔡は彼女をほかへ嫁がせてしまった。桓公は大いに怒り、蔡を討とうとした。仲父が諫めて言った。「そもそも寝床の戯れをもって人の国を討つには足らず、功業を望むこともできません。これを口実とされませぬよう。」桓公は聞かなかった。仲父が言った。「どうしてもお止めになれぬのなら、楚が天子に菁茅を貢がぬまま三年になります。君は兵を挙げて天子のために楚を討たれるのが一番です。楚が屈したら、その足で返して蔡を襲い、『私は天子のために楚を討ったのに、蔡は兵を出して従わなかった』と言って、そのまま滅ぼされるのです。これは名において義にかない、実において利があります。必ず天子のために討つという名があり、仇を報じるという実があります。」

吳起爲魏將而攻中山。軍人有病疽者,吳起跪而自吮其膿。傷者之母立泣,人問曰:「將軍於若子如是,尚何爲而泣?」對曰:「吳起吮其父之創而父死,今是子又將死也,今吾是以泣。」

呉起が魏の将となって中山を攻めた。兵のうちに悪瘡を病む者があり、呉起は跪いて自らその膿を吸った。傷ついた者の母は立って泣いた。人が問うた。「将軍があなたの子にこれほどのことをしてくださるのに、どうして泣くのか。」答えて言った。「呉起がその父の傷を吸い、父は死にました。いまこの子もまた死ぬのでしょう。私はそれで泣くのです。」

趙主父令工施鈎梯而緣播吾,刻踈人迹其上,廣三尺,長五尺,而勒之曰:「主父常遊於此。」

趙の主父は職人に鉤梯をかけさせて播吾に登り、人の足跡をあらく刻ませた。幅は三尺、長さは五尺であった。そして刻みつけて言った。「主父がかつてここに遊んだ。」

秦昭王令工施鈎梯而上華山,以松栢之心爲博,箭長八尺,棊長八寸,而勒之曰:「昭王嘗與天神博於此矣。」

秦の昭王は職人に鉤梯をかけさせて華山に登り、松と柏の心材で碁盤を作らせた。矢は八尺、碁石は八寸であった。そして刻みつけて言った。「昭王がかつて天の神とここで碁を打った。」

文公反國,至河,令籩豆捐之,席蓐捐之,手足胼胝、面目黧黑者後之。咎犯聞之而夜哭。公曰:「寡人出亡二十年,乃今得反國。咎犯聞之不喜而哭,意不欲寡人反國耶?」犯對曰:「籩豆,所以食也;席蓐,所以臥也,而君捐之。手足胼胝、面目黧黑,勞有功者也,而君後之。今臣有與在後,中不勝其哀,故哭。且臣爲君行詐僞以反國者衆矣,臣尚自惡也,而況於君?」再拜而辭。文公止之曰:「諺曰:『築社者,㩷撅而置之,端冕而祀之。』今子與我取之,而不與我治之;與我置之,而不與我祀之,焉可?」解左驂而盟于河。

文公が国に帰る途中、河まで来たところで命を下し、竹の器と木の器を捨て、敷物と褥を捨て、手足に厚い皮ができ顔が黒く日焼けした者たちを後ろに並ばせた。咎犯がこれを聞いて夜に泣いた。公が言った。「寡人は亡命して二十年、いまようやく国に帰れる。咎犯はそれを聞いて喜ばずに泣く。寡人が国に帰るのを望まぬという心か。」咎犯が答えた。「竹の器と木の器は食べるためのもの、敷物と褥は臥すためのものですのに、君はそれをお捨てになりました。手足に厚い皮ができ顔が黒く日焼けした者は、労して功のある者ですのに、君はそれを後ろに置かれました。いま臣も後ろに並ぶことになり、心にその悲しみを抑えきれず、それで泣いたのです。また臣が君のために偽りと欺きを行って国に帰らせたことは数多く、臣自身すら自らを憎む思いですのに、まして君におかれてはなおさらでしょう。」そう言って二度拝して去ろうとした。文公はこれを引き止めて言った。「諺に『社を築く者は、裾をたくし上げて土を突き固め、出来上がれば端正な衣と冕とで祀る』という。いまあなたは私とともに手に入れておきながら私とともに治めようとせず、私とともに建てておきながら私とともに祀ろうとしない。それでよいものか。」そして左の添え馬を解いて河に誓った。

鄭縣人卜子使其妻爲袴,其妻問曰:「今袴何如?」夫曰:「象吾故袴。」妻子因毁新,令如故袴。

鄭県の人、卜子が妻に袴を縫わせた。妻が問うた。「この袴はどういたしましょう。」夫が言った。「私の古い袴に似せよ。」妻はそこで新しいものを壊して、古い袴のようにしてしまった。

鄭縣人有得車軛者,而不知其名,問人曰:「此何種也?」對曰:「此車軛也。」俄又復得一,問人曰:「此是何種也?」對曰:「此車軛也。」問者大怒曰:「曩者曰車軛,今又曰車軛,是何衆也?此女欺我也!」遂與之鬬。

鄭県の人で車の軛を手に入れた者があったが、その名を知らず、人に問うた。「これは何という品か。」答えて言った。「これは車の軛だ。」しばらくしてまた一つ手に入れ、人に問うた。「これは何という品か。」答えて言った。「これは車の軛だ。」問うた者は大いに怒って言った。「さっきも車の軛と言い、いままた車の軛と言う。どうしてこんなに多いのか。これはお前が私を欺いているのだ。」そしてとうとうその者と殴り合った。

衛人有佐弋者,鳥至,因先以其裷麾之,鳥驚而不射也。

衛の人で射を助ける者があったが、鳥が来ると、まず自分の頭巾を振り回したので、鳥は驚いて射ることができなかった。

鄭縣人卜子妻之市,買鼈以歸。過潁水,以爲渴也,因縱而飲之,遂亡其鼈。

鄭県の人、卜子の妻が市に行き、鼈を買って帰った。潁水を通りかかったとき、渇いているだろうと思って放して水を飲ませたので、とうとうその鼈をなくしてしまった。

夫少者侍長者飲,長者飲,亦自飲也。

そもそも年少の者が年長者に侍して酒を飲むときは、年長者が飲めば自分も飲むものである。

一曰:魯人有自喜者,見長年飲酒不能釂則唾之,亦效唾之。

一説にこう言う。魯の人で自分を得意に思う者があり、年かさの者が酒を飲みきれずに吐き出すのを見て、自分も真似て吐き出した。

一曰:宋人有少者亦欲效善,見長者飲無餘,非堪酒飲也而欲盡之。

一説にこう言う。宋の人で年少の者がやはり善いことを真似ようとし、年長者が飲んで残さないのを見て、酒に堪えられないのに飲みきろうとした。

書曰:「紳之束之。」宋人有治者,因重帶自紳束也。人曰:「是何也?」對曰:「書言之,固然。」

書に「帯を締め、これを束ねる」とある。宋の人で治めを学ぶ者があり、そこで帯を重ねて自分の身を縛った。人が言った。「これは何だ。」答えて言った。「書がそう言っているのだから、もともとそうなのだ。」

書曰:「既雕既琢,還歸其樸。」梁人有治者,動作言學,舉事於文,曰:「難之。」顧失其實。人曰:「是何也?」對曰:「書言之,固然。」

書に「すでに彫り、すでに磨いたなら、もとの素木に帰る」とある。梁の人で治めを学ぶ者があり、立ち居も言葉も学んで事を飾ることに努め、「それは難しい」と言っているうちに、かえってその実を失った。人が言った。「これは何だ。」答えて言った。「書がそう言っているのだから、もともとそうなのだ。」

郢人有遺燕相國書者,夜書,火不明,因謂持燭者曰:「舉燭。」云而過書「舉燭」。舉燭,非書意也。燕相受書而說之,曰:「舉燭者,尚明也;尚明也者,舉賢而任之。」燕相白王,王大說,國以治。治則治矣,非書意也。今世舉學者多似此類。

郢の人で燕の相国に手紙を送った者があった。夜に書いていて灯が明るくないので、燭を持つ者に「燭を挙げよ」と言った。そう言いながら、誤って「燭を挙げよ」と手紙に書き込んでしまった。燭を挙げよというのは手紙の意図ではない。燕の相国は手紙を受け取って喜び、言った。「燭を挙げよとは明を尚ぶことだ。明を尚ぶとは、賢者を挙げてこれに任せることだ。」燕の相国は王に申し上げ、王は大いに喜んで、国はそれで治まった。治まったことは治まったが、手紙の意図ではない。いま世で学問を持ち上げる者は、多くこの類に似ている。

鄭人有且置履者,先自度其足而置之其坐,至之市而忘操之。已得履,乃曰:「吾忘持度。」反歸取之。及反,市罷,遂不得履。人曰:「何不試之以足?」曰:「寧信度,無自信也。」

鄭の人で履を買おうとする者があった。まず自分で足を測ってその寸法を座のところに置いたが、市に着いて持って来るのを忘れていた。すでに履を選んでから、こう言った。「寸法を持ってくるのを忘れた。」そして家に取りに帰ったが、戻ったときには市が終わっていて、とうとう履を手に入れられなかった。人が言った。「どうして足で履いて試さなかったのか。」言った。「寸法を信じるほうがよい。自分を信じたりはしない。」

四。王登爲中牟令,上言於襄主曰:「中牟有士曰中章、胥己者,其身甚修,其學甚博,君何不舉之?」主曰:「子見之,我將爲中大夫。」相室諫曰:「中大夫,晉重列也,今無功而受,非晉臣之意。君其耳而未之目邪!」襄主曰:「我取登,既耳而目之矣;登之所取,又耳而目之。是耳目人絶無已也。」王登一日而見二中大夫,予之田宅。中牟之人弃其田耘、賣宅圃而隨文學者,邑之半。

四。王登が中牟の令となり、襄主に申し上げた。「中牟に中章と胥己という士がおります。その身はよく修まり、その学はすこぶる広い。君はなぜこの者たちを挙げないのですか。」襄主が言った。「そなたが見たのなら、私は中大夫にしよう。」相室が諫めて言った。「中大夫は晋の重い位です。いま功もなしに受けるのは、晋の臣の本意ではありません。君は耳でお聞きになっただけで、目ではご覧になっていないのでしょう。」襄主が言った。「私が王登を取るときには、すでに耳で聞き目で見た。王登が取った者をまた耳で聞き目で見るとなれば、それは人ごとに耳と目で確かめてきりがないことになる。」王登は一日で二人の中大夫を謁見させ、田と宅を与えた。中牟の人で、田の草取りを捨て、宅と菜園を売って学問に従う者が、町の半ばに及んだ。

叔向御坐,平公請事,公腓痛足痺轉筋而不敢壞坐。晉國聞之,皆曰:「叔向賢者,平公禮之,轉筋而不敢壞坐。」晉國之辭仕託慕叔向者,國之錘矣。

叔向が侍して座っていたとき、平公が政事を尋ねるうちに、公はふくらはぎが痛み足がしびれて筋が引きつっても、あえて姿勢を崩さなかった。晋の国がこれを聞き、みなこう言った。「叔向は賢者だ。平公は彼を礼遇して、筋が引きつってもあえて姿勢を崩さなかった。」晋の国で仕官を辞し、叔向を慕って身を寄せる者は、国の半ばに及んだ。

鄭縣人有屈公者,聞敵,恐,因死;恐已,因生。

鄭県の人に屈公という者があり、敵が来ると聞いて怖れのあまり死に、怖れがやむとまた生き返った。

趙主父使李疵視中山可攻不也。還報曰:「中山可伐也。君不亟伐,將後齊、燕。」主父曰:「何故可攻?」李疵對曰:「其君見好巖穴之士,所傾蓋與車以見窮閭隘巷之士以十數,伉禮下布衣之士以百數矣。」君曰:「以子言論,是賢君也,安可攻?」疵曰:「不然。夫好顯巖穴之士而朝之,則戰士怠於行陣;上尊學者,下士居朝,則農夫惰於田。戰士怠於行陳者,則兵弱也;農夫惰於田者,則國貧也。兵弱於敵,國貧於内,而不亡者,未之有也。伐之不亦可乎?」主父曰:「善。」舉兵而伐中山,遂滅也。

趙の主父は李疵をやって、中山を攻められるかどうか見させた。帰って報告した。「中山は討てます。君が急いで討たなければ、斉や燕に先を越されます。」主父が言った。「どういう理由で攻められるのか。」李疵が答えた。「その君は岩穴に住む士を世に出すのを好み、車の覆いを傾けて貧しい村里や狭い路地の士に会ったことが十を数え、礼を低くして布衣の士に会ったことが百を数えます。」君が言った。「そなたの言うところによれば、それは賢君だ。どうして攻められよう。」李疵が言った。「そうではありません。そもそも岩穴の士を世に出すのを好んで朝廷に立たせれば、戦う兵は陣に立つことを怠ります。上が学ぶ者を尊び、士を低く迎えて朝廷に置けば、農夫は田を怠ります。戦う兵が陣を怠れば兵は弱くなり、農夫が田を怠れば国は貧しくなります。兵が敵に対して弱く、国が内で貧しくて滅びなかった例はありません。討つのがよいではありませんか。」主父は「よし」と言い、兵を挙げて中山を討ち、とうとう滅ぼした。

五。齊桓公好服紫,一國盡服紫。當是時也,五素不得一紫。桓公患之,謂管仲曰:「寡人好服紫,紫貴甚,一國百姓好服紫不已,寡人奈何?」管仲曰:「君欲止之,何不試勿衣紫也?謂左右曰:『吾甚惡紫之臭。』於是左右適有衣紫而進者,公必曰:『少却,吾惡紫臭。』」公曰:「諾。」於是日,郎中莫衣紫;其明日,國中莫衣紫;三日,境内莫衣紫也。

五。斉の桓公が紫の衣を好んで着たので、国中がみな紫を着た。このとき、白絹五疋でも紫一疋が手に入らなかった。桓公はこれを憂え、管仲に言った。「寡人が紫の衣を好んだために紫がひどく高くなった。それでも国中の百姓が紫を着たがるのをやめない。寡人はどうすればよいか。」管仲が言った。「君がそれをやめさせたいなら、試しに紫をお召しにならないことです。側近に『私は紫の匂いがひどく嫌いだ』とおっしゃってください。そのうえで、側近にたまたま紫を着て進み出る者があれば、公は必ず『少し退がれ、私は紫の匂いが嫌いだ』とおっしゃるのです。」公は「よし」と言った。その日、郎中には紫を着る者がなくなり、翌日には国中に紫を着る者がなくなり、三日目には領内に紫を着る者がなくなった。

一曰:齊王好衣紫,齊人皆好也。齊國五素不得一紫,齊王患紫貴。傅說王曰:「《詩》云:『不躬不親,庶民不信。』今王欲民無衣紫者,王請自解紫衣而朝。羣臣有紫衣進者,曰:『益遠!寡人惡臭。』」是日也,郎中莫衣紫;是月也,國中莫衣紫;是歲也,境内莫衣紫。

一説にこう言う。斉王が紫の衣を好んで着たので、斉の人はみな紫を好んだ。斉では白絹五疋でも紫一疋が手に入らず、斉王は紫が高いことを憂えた。師傅が王に言った。「『詩』に『身をもってせず自らせざれば、庶民は信じない』とあります。いま王が民に紫を着させたくないのなら、王ご自身が紫の衣を脱いで朝廷にお出ましください。臣下のうちに紫の衣を着て進み出る者があれば、『もっと遠ざかれ。寡人は匂いが嫌いだ』とおっしゃるのです。」その日、郎中には紫を着る者がなくなり、その月には国中に紫を着る者がなくなり、その年には領内に紫を着る者がなくなった。

鄭簡公謂子産曰:「國小,迫於荊、晉之間。今城郭不完,兵甲不備,不可以待不虞。」子産曰:「臣閉其外也已遠矣,而守其内也已固矣,雖國小,猶不危之也。君其勿憂。」是以沒簡公身無患。

鄭の簡公が子産に言った。「国は小さく、楚と晋のあいだに押し込められている。いま城郭は完全でなく、兵器も甲も備わっていない。思いがけぬ事態を待ち受けることはできない。」子産が言った。「臣が外を閉ざすことはすでに十分遠くまで及び、内を守ることはすでに十分固めてあります。国が小さくとも、やはり危うくはありません。君はご心配なさいませぬよう。」こうして簡公は生涯を終えるまで患いがなかった。

一曰:子産相鄭,簡公謂子産曰:「飲酒不樂也。俎豆不大,鐘鼓竽瑟不鳴,寡人之事不一,國家不定,百姓不治,耕戰不輯睦,亦子之罪。子有職,寡人亦有職,各守其職。」子産退而爲政五年,國無盜賊,道不拾遺,桃棗蔭於街者莫有援也,錐刀遺道三日可反。三年不變,民無飢也。

一説にこう言う。子産が鄭の相であったとき、簡公が子産に言った。「酒を飲んでも楽しくない。祭りの器は大きくなく、鐘も鼓も竽も瑟も鳴らず、寡人の事は整わず、国家は定まらず、百姓は治まらず、耕戦も和まない。これもそなたの罪だ。そなたには職分があり、寡人にも職分がある。それぞれその職分を守ろう。」子産は退いて政を執り、五年のあいだに国に盗賊はなく、道に落ちた物を拾う者もなく、街に影を落とす桃や棗を取る者もなく、錐や刀を道に落としても三日で戻ってきた。三年のあいだ変わることなく、民に飢えはなかった。

宋襄公與楚人戰於涿谷上。宋人既成列矣,楚人未及濟。右司馬購强趨而諫曰:「楚人衆而宋人寡,請使楚人半涉未成列而撃之,必敗。」襄公曰:「寡人聞君子曰:『不重傷,不擒二毛,不推人於險,不迫人於阨,不鼓不成列。』今楚未濟而撃之,害義。請使楚人畢涉成陣而後鼓士進之。」右司馬曰:「君不愛宋民,腹心不完,特爲義耳。」公曰:「不反列,且行法。」右司馬反列,楚人已成列撰陣矣,公乃鼓之。宋人大敗,公傷股,三日而死。此乃慕自親仁義之禍。夫必恃人主之自躬親而後民聽從,是則將令人主耕以爲食、服戰鴈行也民乃肯耕戰,則人主不泰危乎?而人臣不泰安乎?

宋の襄公が楚の人と涿谷のほとりで戦った。宋の人はすでに陣列を整えたが、楚の人はまだ渡りきっていなかった。右司馬の購強が小走りに進んで諫めた。「楚の人は多く宋の人は少ないのです。楚の人が半ばまで渡ってまだ列を整えないうちに撃つことをお許しください。必ず破れます。」襄公が言った。「寡人は君子にこう聞いている。『傷ついた者を重ねて傷つけず、白髪の混じった者を捕らえず、人を険しいところへ押しやらず、人を狭いところで追い詰めず、列を整えていない者に向けて鼓を打たない。』いま楚がまだ渡りきらぬうちに撃てば、義を害する。楚の人がすべて渡って陣を整えてから鼓を打ち、兵を進めることにしよう。」右司馬が言った。「君は宋の民をいとおしまず、腹と心を無事に保たせようともせず、ただ義を行われるだけです。」公が言った。「列に戻らぬなら法を行うぞ。」右司馬は列に戻り、楚の人がすでに列を整えて陣を構えてから、公は鼓を打った。宋の人は大敗し、公は股を傷つけて三日で死んだ。これこそ自ら仁義を身に行おうと慕ったことの災いである。そもそも必ず君主が自ら身をもって行ってはじめて民が聞き従うというのなら、それは君主に耕して食わせ、甲を着けて雁の列のように並んで戦わせてはじめて民が進んで耕し戦うということになる。君主はあまりに危うくはないか。そして臣下はあまりに安楽ではないか。

齊景公遊少海,傳騎從中來謁曰:「嬰疾甚,且死,恐公後之。」景公遽起,傳騎又至。景公曰:「趨駕煩且之乘,使騶子韓樞御之。」行數百步,以騶爲不疾,奪轡代之御;可數百步,以馬爲不進,盡釋車而走。以煩且之良而騶子韓樞之巧,而以爲不如下走也。

斉の景公が少海に遊んでいたとき、駅伝の騎士が都から来て申し上げた。「嬰の病が重く、死にそうです。公が遅れられるのが心配です。」景公が急いで立ち上がると、駅伝の騎士がまた着いた。景公が言った。「急いで煩且の車を仕立て、馭者の韓枢に御させよ。」数百歩行って、馭者が遅いと思って手綱を奪って代わりに御し、また数百歩ほど行って、馬が進まないと思い、車をすべて捨てて走った。煩且のような良馬と馭者韓枢の巧みさがあっても、自分で走るほうが速いと思ったのである。

魏昭王欲與官事,謂孟嘗君曰:「寡人欲與官事。」君曰:「王欲與官事,則何不試習讀法?」昭王讀法十餘簡而睡臥矣。王曰:「寡人不能讀此法。」夫不躬親其勢柄,而欲爲人臣所宜爲者也,睡不亦宜乎?

魏の昭王が役所の仕事に自ら関わろうとして、孟嘗君に言った。「寡人は役所の仕事に関わりたい。」孟嘗君が言った。「王が役所の仕事に関わられたいなら、試しに法を読んで習われてはいかがですか。」昭王は法を十余枚読んだところで眠り込んでしまった。王が言った。「寡人にはこの法は読めない。」そもそも自ら勢と権柄を握らないまま、臣下がなすべきことをしようとしたのだから、眠ってしまうのも当然ではないか。

孔子曰:「爲人君者猶盂也,民猶水也。盂方水方,盂圜水圜。」

孔子が言った。「君主たる者は盂のようなもので、民は水のようなものだ。盂が四角ければ水も四角く、盂が丸ければ水も丸い。」

鄒君好服長纓,左右皆服長纓,纓甚貴。鄒君患之,問左右,左右曰:「君好服,百姓亦多服,是以貴。」君因先自斷其纓而出,國中皆不服長纓。君不能下令爲百姓服度以禁之,斷纓出以示先民,是先戮以蒞民也。

鄒の君が長い冠の紐を好んだので、側近もみな長い紐をつけ、紐はひどく高くなった。鄒の君はこれを憂えて側近に尋ねると、側近が言った。「君がお好みですから百姓も多くつけます。それで高いのです。」君はそこで自ら先にその紐を切って外に出たので、国中が長い紐をつけなくなった。君は令を下して百姓のために衣服の規を定めて禁ずることができず、紐を切って出て民に先んじて示した。これは先に自らを辱めて民に臨んだのである。

叔向賦獵,功多者受多,功少者受少。

叔向が狩りの獲物を分けるとき、功の多い者は多く受け、功の少ない者は少なく受けた。

韓昭侯謂申子曰:「法度甚不易行也。」申子曰:「法者,見功而與賞,因能而受官。今君設法度而聽左右之請,此所以難行也。」昭侯曰:「吾自今以來知行法矣,寡人奚聽矣。」一日,申子請仕其從兄官。昭侯曰:「非所斈於子也。聽子之謁,敗子之道乎,亡其用子之謁?」申子辟舍請罪。

韓の昭侯が申子に言った。「法度はまことに行いにくいものだ。」申子が言った。「法とは、功を見て賞を与え、能に応じて官を授けるものです。いま君は法度を立てておきながら側近の願いをお聞きになる。これが行いにくい理由です。」昭侯が言った。「私は今から法を行うということが分かった。寡人はもう何も聞かぬ。」ある日、申子が自分の従兄の官職を願い出た。昭侯が言った。「それはそなたから学んだことではない。そなたの願いを聞いてそなたの道を破るべきか、それともそなたの願いを捨てるべきか。」申子は家を空けて罪を願った。

六。晉文公攻原,裹十日糧,遂與大夫期十日。至原十日而原不下,撃金而退,罷兵而去。士有從原中出者,曰:「原三日即下矣。」羣臣左右諫曰:「夫原之食竭力盡矣,君姑待之。」公曰:「吾與士期十日,不去,是亡吾信也。得原失信,吾不爲也。」遂罷兵而去。原人聞曰:「有君如彼其信也,可無歸乎?」乃降公。衛人聞曰:「有君如彼其信也,可無從乎?」乃降公。孔子聞而記之曰:「攻原得衛者,信也。」

六。晋の文公が原を攻めるにあたり、十日分の糧を包み、大夫たちと十日を期限と約した。原に着いて十日経っても原は降らなかったので、鐘を打って退き、兵を解いて去ろうとした。兵のうちに原の中から出てきた者があって言った。「原は三日もあれば降ります。」臣下や側近が諫めた。「原は食が尽き力も尽きています。君はしばらくお待ちください。」公が言った。「私は兵と十日を約した。去らなければ私の信を失うことになる。原を得て信を失うことは、私はしない。」そしてとうとう兵を解いて去った。原の人がこれを聞いて言った。「君主があれほど信のある人なら、帰服せずにいられようか。」そして公に降った。衛の人がこれを聞いて言った。「君主があれほど信のある人なら、従わずにいられようか。」そして公に降った。孔子がこれを聞いて書き留めた。「原を攻めて衛を得たのは、信である。」

文公問箕鄭曰:「救餓奈何?」對曰:「信。」公曰:「安信?」曰:「信名,信事,信義。信名,則羣臣守職,善惡不踰,百事不怠;信事,則不失天時,百姓不踰;信義,則近親觀勉而遠者歸之矣。」

文公が箕鄭に問うた。「飢えを救うにはどうすればよいか。」答えて言った。「信です。」公が言った。「どこに信を置くのか。」言った。「名に信があり、事に信があり、義に信があることです。名に信があれば臣下は職分を守り、善悪が踰えることなく、万事に怠りがありません。事に信があれば天の時を失わず、百姓が踰えません。義に信があれば、近い親族は見て励み、遠い者は帰服します。」

吳起出,遇故人而止之食。故人曰:「諾,今返而御。」吳子曰:「待公而食。」故人至暮不來,起不食待之。明日早,令人求故人。故人來,方與之食。

呉起が外出して旧友に出会い、引き止めて食事をしようとした。旧友が言った。「承知した。いちど帰ってから来よう。」呉子が言った。「あなたを待って食べることにする。」旧友は日が暮れても来なかったが、呉起は食べずに待った。翌朝、人をやって旧友を探させた。旧友が来てから、はじめて共に食事をした。

魏文侯與虞人期獵。明日,會天疾風,左右止文侯,不聽,曰:「不可以風疾之故而失信,吾不爲也。」遂自驅車往,犯風而罷虞人。

魏の文侯が狩場の番人と狩りを約した。翌日、たまたま激しい風が吹き、側近が文侯を止めたが、聞かずに言った。「風が強いからといって信を失うことはできない。私はそんなことはしない。」そしてとうとう自ら車を駆って行き、風をおして番人に狩りの解散を告げた。

曾子之妻之市,其子隨之而泣。其母曰:「女還,顧反爲女殺彘。」適市來,曾子欲捕彘殺之。妻止之曰:「特與嬰兒戲耳。」曾子曰:「嬰兒非與戲也。嬰兒非有知也,待父母而學者也,聽父母之教。今子欺之,是教子欺也。母欺子,子而不信其母,非以成教也。」遂烹彘也。

曾子の妻が市に行こうとすると、その子がついて来て泣いた。母が言った。「お前は帰っていなさい。戻ったらお前のために豚を殺してあげよう。」市から帰ってくると、曾子は豚を捕らえて殺そうとした。妻が止めて言った。「ただ子どもと戯れただけです。」曾子が言った。「子どもと戯れてよいものではない。子どもには分別がなく、父母に頼って学び、父母の教えを聞くのだ。いまあなたがこれを欺けば、それは子に欺くことを教えることになる。母が子を欺けば、子はその母を信じなくなる。教えを成す道ではない。」そしてとうとう豚を煮た。

楚厲王有警,爲鼓以與百姓爲戍。飲酒醉,過而撃之也,民大驚。使人止之,曰:「吾醉而與左右戲,過撃之也。」民皆罷。居數月,有警,撃鼓而民不赴。乃更令明號而民信之。

楚の厲王は、警報があれば鼓を打って百姓とともに守ることにしていた。あるとき酒を飲んで酔い、誤ってこれを打ったので、民は大いに驚いた。人をやってやめさせ、こう言った。「私は酔って側近と戯れ、誤って打ってしまった。」民はみな引き下がった。数か月して警報があり、鼓を打ったが民は駆けつけなかった。そこで令を改め、合図を明らかにしてはじめて民はそれを信じた。

李悝警其兩和,曰:「謹警敵人,旦暮且至撃汝。」如是者再三而敵不至。兩和懈怠,不信李悝。居數月,秦人求襲之,至幾奪其軍。此不信患也。

李悝が左右の二つの陣を警めて言った。「よく敵を警戒せよ。朝か暮れにも来てお前たちを撃つだろう。」こうしたことが二度三度あったが、敵は来なかった。二つの陣は怠り、李悝を信じなくなった。数か月して秦の人が襲おうとして来たとき、あやうくその軍を奪われるところであった。これが信のないことの災いである。

一曰:李悝與秦人戰,謂左和曰:「速上!右和已上矣。」又馳而至右和曰:「左和已上矣。」左右和曰:「上矣。」於是皆爭上。其明年,與秦人戰。秦人襲之,至幾奪其車。此不信之患。

一説にこう言う。李悝が秦の人と戦ったとき、左の陣に言った。「早く上がれ。右の陣はもう上がったぞ。」また馬を駆って右の陣に至り、「左の陣はもう上がったぞ」と言った。左右の陣は「上がったのか」と言い、そこで競って上がった。その翌年、秦の人と戦った。秦の人が襲ってきて、あやうくその車を奪われるところであった。これが信のないことの災いである。