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閑居の気味閑居の氣味

方丈記(方丈の庵の記) 方丈記 · 鴨長明 · 建暦2年(1212年) · 段落 6 · 漢字 2,110字 · 朗読 5.3分

方丈記(方丈の庵の記) 全一巻 「ゆく川の流れは絶えることがありませんが、もとの水ではありません」 — 八百年前の京都で大火・辻風・遷都・飢饉・大地震を次々に経験した人が、方丈の組み立て式の庵に退いて書いた文章。災厄の記録がそのまま無常の記録となり、終わりにはその閑けさを愛する心までも咎ではないかと自らに問う。道徳経・法句経と並べて読む値打ちがある。

1十六の童と六十の私

また麓に、一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく。かれは十六歲、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる。またぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。

また麓に、一つの柴の庵があります。すなわち、この山守が住む所です。そこに小さな童がいて、時々来て互いに訪ね合います。もし所在ないときは、これを友として遊び歩きます。

彼は十六歳、私は六十、その齢は格別に違いますが、心を慰めることはこれが同じです。あるときは茅花を抜き、岩梨を取ります。また零余子を盛り、芹を摘みます。あるいは裾回りの田に至って、落ち穂を拾って穂束を作ります。

もし日がうららかであれば、嶺によじ登って、はるかにふるさとの空を望みます。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見ます。勝地は主がいませんので、心を慰めるのに障りがありません。

夾注 1

りイ

異本では「とる(取る)」が「とり」となっています。

2山路を歩く——夜の月とふくろう

あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蟬丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。

歩みに煩いがなく、志が遠くまで至るときは、ここから峰続きに炭山を越え、笠取を過ぎて岩間寺に参り、あるいは石山寺を拝みます。もしくは粟津の原を分けて、蟬丸翁の跡を訪ね、田上川を渡って猿丸大夫の墓を尋ねます。帰りには、折につけて桜を狩り、紅葉を求め、わらびを折り、木の実を拾って、一方では仏に奉り、一方では家への土産とします。

もし夜が静かであれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖を濡らします。草むらの螢は、遠く真木の島の篝火と見まがい、暁の雨は、おのずから木の葉を吹く嵐に似ています。山鳥がほろほろと鳴くのを聞いても、父か母かと疑い、嶺の鹿が近くに馴れているのにつけても、世から遠ざかる程を知ります。あるいは埋み火をかき起こして、老いの寝覚めの友とします。

恐ろしい山ではありませんが、ふくろうの声をあわれむことにつけても、山中の景色は、折につけて尽きることがありません。まして、深く思い、深く知っているような人のためには、これだけに限るはずもありません。

3やどかりとみさご——自分のために造った家

大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今までに五とせを經たり。假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。おのづから事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子眷屬のために作り、或は親昵朋友のために作る。或は主君、師匠および財寳、馬牛のためにさへこれをつくる。我今、身のためにむすべり、人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべきやつこもなし。たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑむ。

おおよそ、この所に住み始めたときは、かりそめのことと思いましたが、今までに五年を経ました。仮の庵もいつしか古屋となって、軒には朽ち葉が深く、土居に苔が生えています。

おのずから事のついでに都のことを聞きますと、この山に籠もり住んだ後、やんごとない人が亡くなられたことも多く聞こえます。まして、その数に入らないたぐいは、尽くしてこれを知ることができません。たびたびの火事で滅びた家は、また幾ほどでしょうか。

ただ仮の庵だけが、のどかで恐れがありません。広さは狭いといっても、夜臥す床があり、昼いる座があります。一身を宿すのに不足はありません。がうな(やどかり)は小さな貝を好みます。これはよく身を知っているからです。みさごは荒磯にいます。すなわち人を恐れるからです。私もまたこのようです。身を知り世を知っていますので、願わず交わらず、ただ静かなのを望みとし、憂えのないのを楽しみとします。

すべて世の人が住まいを作るならいは、必ずしも自分の身のためにはしません。あるときは妻子や眷属のために作り、あるときは親しい者や朋友のために作ります。あるときは主君、師匠、さらには財宝や馬牛のためにさえ、これを作ります。私は今、自分の身のために結びました。人のために作ってはいません。なぜかといえば、今の世のならい、この身のありさまでは、伴うべき人もなく、頼むべき奴もないからです。たとえ広く作ったとしても、誰を宿し、誰を据えましょうか。

夾注 1

すイ

異本では「今ま(今)」が「今す」となっています。

4手も奴、足も乗り物

それ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつこたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから步む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしかず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとてもたびたび過さず、ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に働くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。

そもそも人の友となる者は、富んでいるのを尊び、懇ろなのを先とします。必ずしも情のあるのと、まっすぐなのとを愛しはしません。ですから、ただ糸竹花月を友とするのには及びません。人の奴となる者は、賞罰の甚だしさを顧み、恩の厚いのを重んじます。さらにはぐくみあわれんだとしても、安らかで閑かなのを願いはしません。ですから、ただ自分の身を奴婢とするのには及びません。

もしなすべきことがあれば、すなわち自分で身を使います。たゆくないわけではありませんが、人を従え、人を顧みるよりは楽です。もし歩くべきことがあれば、自分で歩きます。苦しいといっても、馬や鞍、牛車のことで心を悩ませるのには及びません。

今、一身を分けて二つの用をなします。手という奴、足という乗り物が、よく私の心にかなっています。心もまた身の苦しみを知っていますので、苦しむときは休ませ、まめなときは使います。使うといってもたびたび度を過ごさず、物憂いといっても心を動かすことはありません。

まして、常に歩き、常に働くのは、これが養生でしょう。どうしてむだに休んでいましょうか。人を苦しめ、人を悩ますのは、また罪業です。どうして他人の力を借りられましょうか。

夾注 2

二字似イ

異本では二字が似た形になっています。

動イ

異本では「働く」が「動く」となっています。

5衣食のこと——うたた寝の枕の上の楽しみ

衣食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。

衣食のたぐいもまた同じです。藤の衣、麻の衾で、得るに従って肌を隠し、野辺の茅花、嶺の木の実で、わずかに命をつなぐばかりです。人と交わりませんので、姿を恥じる悔いもありません。糧が乏しいので粗末ですが、それでも味を甘く感じます。

すべてこのようなことは、楽しく富んでいる人に対して言うのではありません。ただ自分の身一つについて、昔と今とを比べるばかりです。

おおよそ世を逃れ、身を捨ててから後は、恨みもなく恐れもありません。命は天運に任せて、惜しまず厭わず、身は浮雲になぞらえて、頼まず、足りないともしません。一生の楽しみは、うたた寝の枕の上に極まり、生涯の望みは、折々の美しい景色に残っています。

6三界はただ心一つ

それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。

そもそも三界は、ただ心一つです。心がもし安らかでなければ、牛馬や七珍もかいがなく、宮殿楼閣も望みになりません。

今、この寂しい住まい、一間の庵を、私は自分でこれを愛しています。おのずから都に出ては、乞食となっていることを恥じるといっても、帰ってここにいるときは、他の人が俗塵に執着することをあわれみます。

もし人がこの言うことを疑うならば、魚と鳥との分野を見なさい。魚は水に飽きません。魚でなければ、その心をどうして知りましょうか。鳥は林を願います。鳥でなければ、その心を知りません。閑居の気味もまたこのようです。住まないで、誰が悟りましょうか。