いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻4 芹曝集

平安道の江の辺を守る節目の便を申し上げる啓陳平安道沿江防守節目便宜。啓

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 1,066字 · 朗読 9.2分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻4 芹曝集 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

臣病勢沉劇精神昏塞思慮所得率多顚錯西邊之事日夜關心伏見接伴使沈喜壽狀啓則義州等處人心亦頗騷擾凡人心先怯則智勇俱竭雖有䇿應之事多失機會未能濟事此可慮之大者也沿江一帶自江界至義州數百里之間水上則有虞候朴名賢水下則有助防將李時言而兵使留鎭昌州兩頭繼援又有別將金應緘金宗得等今將下去朝廷指授則不過如此若其總計一道軍兵之數因其防禦緊歇而或添或减預爲約束先定戰守之計臨機處置則當專責於本道當事之人政不可從中遙制也至於義州則以接連上國之故而意其防歇未免抽出其處之兵分防水上故喜壽目見空虛之狀而有此狀啓此亦遠慮也高麗時西方防守旣有兵馬使又有分道將軍蓋以鴨江一帶上下形勢遼遠賊之所發未知在於何處故設爲分道之將使之各領所屬以爲掎角馳援之䇿今之別將與此相同獨義州無此則當有以處之道內閒散武臣中稍爲可用者有李福男方在寧邊云此人雖在罪廢之中而其才則稍可倚任若稱爲助防將使之馳赴義州協同州官及鎭管所屬龍川鐵山砲手限解氷留守義州似爲無妨義州城子濶遠中隔高阜不能通望守之似難果如喜壽狀啓矣但地勢亦多據險處惟北門外及西門至南門東門頗在平地此處若相其城勢設爲砲樓而多備火砲器械則可以守之矣夫砲樓之制乃守城妙法事急則不必用石又不必起樓只以大木爲柱而三面以板障之似防牌之制中穿孔穴則亦可以制敵而救一時之急矣北虜攻城與南賊有異北虜則每於馬上人持一帒土一時俱進積於城下頃刻與城平而人馬踐踏踰越且兵皆鐵甲馬亦被甲故弓箭不能傷如非火砲則不可制義州所在天地字火砲往年攻平壤時多數輸來今未知還爲輸去此亦急速收拾計其城堞而均分排設預令事知火砲匠習放以壯聲威且使遠近知其有備則亦足以鎭定民心讋服虜情也滿浦僉使柳濂自初固有不稱之議而緣胡人宴享臨迫姑爲仍留近日頗聞老乙可赤二將宴享開諭時有恇怯之容江界府使許頊以爲憂云此言未知信否以人器料之則應或有此僉使可堪人得之甚難以臣意料之則李慶濬似可堪此當此機關緊急之時得人最關故李福男李慶濬雖在罪錮之中而臣不敢不達愚見也大抵軍機之事勿論戰與守皆當以部伍登治爲主我國爲將者於守城一事尤甚疎𤄃其於分配垜堞簡別精壯之規皆不料理頭緒紛亂臨時顚倒有同趨市之人故軍數多而城不能守變後各處陷城之患政坐如此江邊有城處預爲申勅如紀效新書所言每五垜爲一伍五十垜爲一隊隊各有將垜各有預定之軍平時依法操鍊臨急如行熟路衆力合一又必靜暇不撓城中寂無人聲然後可無僨敗之患此等事雖在將帥所自爲而亦不可不爲申勅也臣旣受西方之任所當早爲發行勉竭駑材故欲力疾就途而朝議難之不幸宿疾重發危喘如縷呻吟私室公私憂慮焦煎于心而不知所出昏瞀之中招臣從事口占爲文辭不達意然亦係一時一得之愚下備邊司議處何如

臣は病の勢いが深く重く、精神が暗くふさがって、思って得たところは、おおよそ覆り齟齬ったものが多いのです。しかし西の辺りの事が昼も夜も心に懸かります。伏して接伴使の沈喜寿の状啓を見ますに、義州などの地の人の心もまたかなり騒がしいとのことです。およそ人の心がまず怯えれば、智も勇もみな乾いて、応ずる計があっても機を多く逸して事を成せませんので、これが慮るに足る大きなことです。

江の辺一帯は、江界から義州に至る数百里のあいだですが、水の上の方には虞候の朴名賢がいて、水の下の方には助防将の李時言がおり、兵使は昌州に陣を留めて両の端をつないで助け、また別将の金応緘・金宗得らがいま下ろうとしております。廷から指示して与えたものはこれに過ぎません。その道の兵の数をひととおり量って、防ぎが緊要か緩やかかに従って足したり減らしたりし、あらかじめ約束を立てて戦い守る計をまず定め、機に従って処置することは、まさにその道で事を掌る人に専ら任せるべきで、都から遠く操ることはできません。

義州で言えば、上国に接しているためにその防ぎが緩やかだろうと思って、その所の兵を抜き出して水の上の方に分けて守らせることを免れませんでしたので、それゆえ喜寿が空っぽの様を目で見てこの状啓を上げたのですから、これもまた遠い先を量ったことです。高麗の時に西を守るには兵馬使があり、また分道将軍がありました。おおよそ鴨緑江一帯の上下の勢いが遥かに遠く、賊が起こる所を知れませんので、道を分けた将を置いて、それぞれ属する兵を率いて角のように支え、馳せて助ける計としたのです。いまの別将がこれと同じですが、ひとり義州にだけこれがありませんので、まさに措置があるべきです。

道の内の閑かな武臣のうち、少し用いるに足る者として李福男がいま寧辺にいるといいます。この人は罪によって廃された中にあるとはいえ、その才は少し頼んで任せるに足ります。もし助防将と称して義州へ馳せ行かせ、邑の長や鎮管に属する龍川・鉄山の砲手と力を合わせ、氷が解けるときまで義州に留まって守らせても、害はないようです。

義州の城は広く遠く、中ほどに高い丘がふさがってあまねく望めませんので、守るのが難しいようで、果たして喜寿の状啓のとおりです。ただ地の勢いに険しい所に依る所も多く、ただ北門の外と、西門から南門・東門に至るところがかなり平地にあります。この所は、もしその城の勢いを察して砲楼を作り、火砲と武器と器具を多く備えれば守れるでしょう。およそ砲楼の制はすなわち城を守る妙な法ですので、事が急なら、あえて石を用いる必要もなく、また、あえて楼を立てる必要もありません。ただ大きな木で柱とし、三つの面を板でふさいで防牌の制と同じようにし、中ほどに穴を穿てば、これもまた賊を抑えて一時の急を救えます。

北の胡が城を攻めるのは南の賊と違います。北の胡はいつも馬の上で、人ごとに土を一袋持って一時に進み、城の下に積んで、わずかのあいだに城と並ぶと、人も馬も踏んで越えます。また兵はみな鉄の甲を着て馬も甲を着ているために、弓と矢では傷つけられませんので、火砲でなければ抑えられません。義州にあった天の字・地の字の火砲は、前の年に平壌を攻めるとき多く運んで来ましたが、いま運び戻したかどうか分かりません。これも急ぎ集めてその城の堞を量って平らかに分けて列べ置き、あらかじめ事を知る火砲匠をやって放つことを習わせ、音と威を壮んにし、また遠くも近くも備えがあることを知らせれば、これもまた民の心を静め、胡の心を抑え屈ませるに優かです。

満浦僉使の柳濂は、はじめからまことに当たらないという議がありましたが、胡を宴で待つ事が間近であったために、まずはそのままにしておきました。近ごろかなり聞きますに、老乙可赤の二人の将を宴で待って諭すとき、怯える色があって江界府使の許頊が憂えているとのことですが、この言葉が信じられるかは分かりません。人の器で量れば、当然そうもありえましょう。僉使に堪えられる人は得るのがはなはだ難しいのですが、臣の意で量れば李慶濬がこれに堪えられるようです。この機が緊急な時に当たって人を得ることが最も関わりますので、李福男・李慶濬が罪によって禁固された中にあるとはいえ、臣はあえて愚かな見方を申し上げないわけにはいきません。

およそ軍の機の事は、戦うことも守ることも問わず、みな隊伍を整え治めることを主とすべきです。わが国で将となった人は、城を守る一つの事にいっそうひどく疎かで、城の堞を分け掌らせ、鋭く堅い者を選び出す法をみな量りません。端緒が乱れ、時に当たって覆って市へ押し寄せる人のようであるために、兵の数は多くても城を守れませんので、乱離の後に所々で城を失った憂えは、まさにこのためです。

江の辺に城がある所は、あらかじめ重ねて申し付けて、『紀効新書』に言うとおりに城の堞五つを一つの伍とし、五十を一つの隊として、隊ごとに将を置き、堞ごとにあらかじめ定めた兵を置かせてください。平時に法のとおりに調練すれば、急なときに慣れた路を行くようになって、多くの力が一つに合うでしょう。またかならず静かで優かで揺れず、城の中に人の声がなくなった後にこそ、崩れ敗れる憂えがないでしょう。このような事は、将が自ら行うべきところにあるとはいえ、やはり重ねて申し付けないわけにはいきません。

臣はすでに西の任を受けましたので、まさに早く路に出て鈍い才を注ぎ尽くすべきでした。それゆえ病を押して路に上がろうとしましたが、廷の議が難しいとしました。不幸にも古い病が起こって危うい息が糸筋のようで、私の家で呻きながら、公私の憂えが心を焼きますが、出るべきところを知りません。乱れた中で臣の従事官を呼んで口で呼んで書を作らせましたので、言葉が意を尽くしておりませんが、やはり一時に一つ得た愚かな見方に懸かるものですので、備辺司に下して議って処置させられてはいかがでしょうか。

夾注 3

乙未十一月二十二日

乙未の年の十一月二十二日。

底本は老乙可赤。ヌルハチを指す当時の表記。

底本の𤄃は齟齬った字で、意だけを生かして「疎かで」と訳した。