倭賊の書を上げ送る状啓倭書上送狀
倭書呈禮曹一封查將留置其處只爲謄示故改書上送又忠淸水使丁傑了倭書一道幷爲上送此乃事機之甚重者。朝廷急速詳議指揮大槪倭奴之爲此者情狀有三平壤見敗之後又敗於幸州精銳幾盡今雖北道原州等賊來聚一城而。天兵在後我國之軍多在南方歸路水使丁傑李蘋及金千鎰等各以舟師橫截江口高彥伯之軍連日血戰於城東我軍無所損失而賊兵多死所謂孤軍深入難善其歸黠虜固已破膽一也經年遠鬪兵疲意沮士卒思歸而兇酋不許故欲藉此而歸報關白得還其國二也欲以講和之言姑緩。天兵而留待其兵之後至者添兵肆毒三也臣竊觀。天將處置言語自前用兵之意未果而雜出於講解退兵之計今因此事其計益行故昨日臣與金命元同進查將之處欲見意思所在查將以傷寒臥病辭謝不見夜間查將密進家丁到臣所接處傳查將之言云病差則吾當親到倭所哄他先爲圖出王子其意欲令臣作答書與倭臣答云倭賊弱則詐和緩兵例也前於臨津及平壤之戰亦皆如此何可信聽而蹈於奸計乎况老爺前於平壤已入城見倭而旋卽用兵倭奴固已懷憤今不可親見凶賊明矣至於作書本國於此賊有竆天極地之讎雖死豈有講和之理以此謝遣而今朝查將更招通事云今日病歇須通于元帥議政與之議事云未知所言如何大槪中國厭於用兵欲許貢退兵以息生靈之禍而在我國則大讎未復而兵力寡弱欲藉他兵以復故有此難處之事而延遷之間糧食匱竭軍民潰散則雖有可乘之機力戰之將勇銳之卒皆無可用之處事勢之急日甚一日極爲痛迫
倭賊の書で礼曹に差し出された一通は、査将がその地に留め置いて写しを見せるだけでありますので、改めて書いて上げ送ります。また忠清水使丁傑が得た倭賊の書一通もあわせて上げ送ります。これは事の機のはなはだ重いものでありますから、朝廷において急ぎ詳しく議して指揮してください。
おおよそ倭奴がこのようにする理由は、その心根に三つあります。平壌で敗れた後また幸州で敗れて、鋭い兵がほとんど尽き、今は北道や原州などの地の敵が来て一つの城に集まったとはいえ、明の軍が後ろにあり、我が国の兵が南の帰り路に多くあり、水使丁傑と京畿水使李蘋、金千鎰らがそれぞれ水軍で川口を横から遮り、高彦伯の兵が日ごとに城の東で血を流して戦って、我が軍は失うところがなく敵兵は多く死にました。いわゆる孤立した軍が深く入り込み、その帰りをうまく終えがたいものでありますから、狡い虜がもとよりすでに胆を破られているのが一つです。年を越して遠く戦って兵が疲れ意が折れ、兵卒が帰ることを思うのに凶悪な首領が許しませんので、これを口実にして関白へ帰り告げ、自分の国へ帰ろうとするのが二つです。和を講ずるという言葉でひとまず明の軍を緩め、後から来る自分の兵を待って兵を加え、思うままに毒を振るおうとするのが三つです。
臣が密かに明の将の処置と言葉を見ますに、以前から兵を用いる意は果たせず、和を講じて兵を退く計策が入り混じって出ておりましたが、今この事によってその計策がいっそう行われます。そこで昨日、臣は金命元とともに査将のいる所へ参って、意のあるところを見ようとしましたが、査将は寒気にあたった病で臥せていると申して辞り、会いませんでした。
夜になって、査将が家丁を密かに遣わして臣の宿る所へ至らせ、その言葉を伝えて、「病が治ったら、わたしがみずから倭の所へ行って彼らを欺き、まず王子を抜き出して来よう」と申しました。その意は、臣に倭へ与える答書を作らせようというものでした。
臣が答えて、「倭賊が弱くなれば偽って和を講じて兵を緩めるのは常のことです。先に臨津や平壌の戦いでもみなこのとおりでしたから、どうして信じて聞き、奸しい計策に陥りましょうか。ましてや老爺は先に平壌ですでに城へ入って倭に会われながら、ただちに兵を用いられたのですから、倭奴はもとよりすでに憤りを懐いているはずで、今みずから凶い敵に会われることはできないのが明らかです。書を作ることについて申せば、我が国はこの敵と天の果て地の果てまで尽きぬ恨みがありますから、死んでもどうして和を講ずる理がございましょうか」と申して、辞って帰しました。
ところが今朝、査将が改めて通事を呼び、「今日は病が軽くなったから、都元帥と議政に通じて、ともに事を議そう」と申したとのことで、何を言うのかわかりません。
おおよそ中国は兵を用いることを厭い、貢を許して兵を退き、民の禍を止めようとしており、我が国としては大きな恨みを報いていないのに兵の力が少なく弱いので、他の兵を借りて報いようとしますから、このように処しがたい事があるのです。引き延ばす間に糧が尽きて兵も民も崩れ散れば、乗ずべき機会と力を尽くして戦う将と鋭く勇ましい兵があっても、みな用いる所がありません。事の勢いの急なことが日に日に増しますので、きわめて痛ましく差し迫っております。
夾注 1
癸巳三月七日在東坡
癸巳の年三月七日、東坡で。