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敵陣から出て来た書を封じて上げ送る賊中出來書封上送狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 1,565字 · 朗読 13.2分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻10 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

節到付倡義使金千鎰水使丁傑李蘋等本月十四日成貼馳報內守門將李藎忠黃廷彧孽族安鐸一時十三日入送賊中當日午時持書還出來言內與安鐸等自大古介經藥田前路至靑坡石橋下從橋下川邊之路越川過十餘家至一大家乃賊將淸正所在之處見淸正者年可三十與兩。王子共坐堂中盞忠就拜。王子前俯伏而哭。王子亦哭淸正再三回顧有不豫之色王子卽止哭問西關消息淸正使譯者問曰遠來危地無乃爲苦譯者乃前日叛國沙火同之弟云賊將指二。王子曰公見。王子肌膚顏色如何少無羸瘠可知吾厚待也且曰講和之事何以爲之速示可否則欲決行止今欲向關西而以講和一事迄今遲滯何以遷延無黑自乎今者日本關白發諸島之兵朝暮渡海入驅朝鮮直擣中原則悔無所及何不速爲之處藎忠答曰目令天將率百萬之師與本國報讎之兵振旅而來日本能戰則戰非所知也但講和之事我國難擅故禀於天將天將禀於天子往來禀。命之際動以旬月豐能速决賊將笑曰然仍與藎忠等對飯行酒三杯然後乃召黃廷彧父子及李瑛各自異處而來亦行酒三杯曰朝鮮上官今來于此公等相與傅言上官吿于大將前轉報。天將速定和議可也俄而賊將曰我有不得已入京事公等共坐于此以待吾還遂出去諸卒下之倭縵立帳外而守之。王子及三人共坐燈下各道辛苦之狀慘不恐聞。王子身著毛段道袍頭戴毛冠貂皮耳掩曰我常著白衣而今日則倭將逼令改著華服固辭則怒曰君欲著陋服示我薄待之意於來使乎云云故著之矣臨海君擧冠露額指瘡痕曰上來之時中路賊將持棒亂打傷破之處也黃廷彧亦曰路中以我爲知傳國寶所在之處而不爲指示無數歐打幾死得生李瑛則曰吾罵賊不屈再三欲殺而止頑命不死辱國之耻其可忍言云兩。王子欲乘賊將之出還入房中備書私簡云還入所寓處卽是翼廊房也夜深賊將始歸直入其房故三人及藎忠與從倭宿于別處翼日平明賊將使人問訊朝食後因授送。天將之書及兩。王子答書及諺書而皆不復相見因爲出來自京江至賊在之處十里之間處處橫屍人頭散亂臭穢難近而賊倭蹴踏而行云其李藎忠持來賊將送。天將書適沈遊擊來到求見故納于遊擊不得上使又有行在所了無臣字長紙封書開見則三擄臣聯名之書而言多可駭痛憤莫甚所當卽投火中而旣已開見棄置不可幷。王子答書皆爲上使事牒呈云云所謂。王子書一封則上送三擄臣一書則外書。行在所開圻而內外皆無臣字但云長溪君南兵使行護軍各著署而筆畫則似是黃赫所書旣無臣字而言多可駭此則必是賊將脅勒使爲極爲痛心故元書則不敢上送而其間事情則。朝廷不容不知故一依其樣謄書上送諺書則未來故移文推問矣臣等雖在此處而。天將所爲頓未聞知雖問於查將而亦未明言大槪以此擧止觀之則明有講和之意沈惟敬周弘謨旣爲進去十四日臣以看審全羅營出火事往在坡州日暮時唐人四五十騎馳來問之則以爲欲向京城云昨日又有指揮吳宗男者乃與黃應陽前日往來之人自寶山持宋經略牌文回來見從事官辛慶晉語之曰爾國糧草不敷而春耕已迫若過數十日百姓當糜爛俱盡賊若欲和退兵則不可不許其通貢而與之講解云因卽馳去臣自前年以後屢與唐人相接察其言語而得其情事只欲講解退兵以息兵禍爲心雖知我國於此賊有不共戴天之讐痛心切骨而不肯遽言其講解其實用兵之意未爲堅定蓋自碧蹄退軍之後無意於更進臣爲之日夜焦心痛骨而今此事勢又如此我國雖欲竭力呌呼其可得乎尤可悶痛者我國財殫於支給力竭於轉輸非徒京畿爲然忠淸全羅道無復有可支之勢且奉使督運之官多是年少不經事之人一諉於。天兵支待之急竭取公私之儲無復餘力而盡散官軍義兵不復以把守爲心故自漢江以南以及忠州之界一樣空虛而賊兵方四出搶掠遂日不已南方事勢日益危急臣本以庸劣無狀冒此重任徒以文移摧督而軍兵一散之後難可復合且到處倉糓無餘其僅得收聚者亦皆盡入於。天兵之糧。啓聞其數以示唐將不敢他用此外更無可措之䇿若非。朝廷深惟彼此之勢早賜指揮則如臣愚劣雖萬被誅難免誤事之罪至於和戰二策乃是國家存亡所係假使事勢極難實出於不得已之計天將猶當與我國十分商確臨機善處而使我不得與聞端緒尤爲悶欝李藎忠入送事則金千鎰等不禀於臣等而徑自爲之事涉率爾而因此探知賊勢不至於大害故姑未深責

倡義使金千鎰と水使丁傑・李蘋らが今月十四日に官印を押して急ぎ報せたものが、ただいま届きました。その中に申しますに、守門将李藎忠と黄廷彧の庶族安鐸を十三日に一度に敵陣へ入れ送ったところ、その日の昼に書を持って帰り出て来て申すには、

「安鐸らとともに大古介から薬田の前の路を過ぎ、青坡の石橋の下に至った。橋の下の川辺の路に沿って川を渡り、十数軒の家を過ぎて一つの大きな家に至ると、そこが敵将清正のいる所であった。清正を見ると年は三十ばかりで、二人の王子とともに堂の中に座っていた。わたしが進んで王子の前に拝して伏して泣くと、王子も泣いた。清正が二、三度振り返って不快な色を見せたので、王子はすぐに泣くのをやめ、西関の消息を問うた。

清正が通訳に問わせて、「遠い危うい地へ来たが、苦しくはないか」と言った。通訳は、かつて国に背いた沙火同の弟であるという。

敵将が二人の王子を指して、「公は王子の肌の色と顔色を見てどうか。少しも痩せていないから、わたしが厚く待遇していることがわかるだろう」と言った。また、「和を講ずる事をどうするつもりか。早く可否を示せば、行くか留まるかを決めようと思う。いま関西へ向かおうとしているのに、和を講ずる一事で今まで遅れている。どうして延ばすばかりで白黒がないのか。いま日本の関白が諸島の兵を出し、朝夕に海を渡って来て朝鮮を駆り、まっすぐ中原を撃つなら、悔いても及ぶところがないだろう。どうして早く処さないのか」と言った。

わたしが答えて、「いま明の将が百万の兵を率い、我が国の仇を報いる兵とともに軍勢を振るって来る。日本が戦えるなら戦うだろうが、わたしの知るところではない。ただ和を講ずる事は我が国が勝手にしがたいゆえに明の将に伺い、明の将は天子に伺うので、往き来して命を伺う間に、ともすれば十日ひと月がかかる。どうして早く決められようか」と言った。

敵将は笑って「そうか」と言い、続いてわたしと向かい合って飯を食い、酒を三杯回した後に、黄廷彧父子と李瑛を呼んでそれぞれ別の所から来させ、やはり酒を三杯回した。そして、「朝鮮の上官がいまここへ来たのだから、公らは互いにこの上官へ言葉を伝え、大将の前に申し上げ、明の将へ取り次いで知らせ、早く和議を定めるのがよい」と言った。

やがて敵将が、「わたしにはやむを得ず京城へ入る用がある。公らはここに共に座ってわたしの帰りを待て」と言って、ついに出て行った。諸々の兵の下の倭人たちが帳の外に並び立って守った。

王子と三人が灯の下に共に座り、それぞれ苦しくつらいさまを語ったが、惨くてとても聞くに堪えなかった。王子は身に毛緞の道袍を着け、頭に毛冠と貂の皮の耳覆いをかぶって、「わたしは常に白い衣を着ていたのに、今日は倭将が華やかな服に着替えよと責め立てた。固く辞ると怒って、『そなたは粗末な服を着て、わたしが薄く待遇していると来る使いに見せようとするのか』と言ったので着たのだ」と言った。

臨海君は冠を上げて額を露わし、瘡の跡を指して、「上って来るとき、道の途中で敵将が棒を持って打ちたたき、傷つき破れた所だ」と言った。黄廷彧も、「道中でわたしが伝国の宝のある所を知っていると思われ、指し示さないといって数知れず打たれ、ほとんど死んで生き返った」と言った。李瑛は、「わたしは敵を罵って屈しなかったので、二、三度殺そうとしてやめた。頑なな命が死なずにいるのだから、国を辱めた恥をどうして口にできようか」と言った。

二人の王子は敵将が出た隙に部屋の中へ戻って入り、私かな手紙を書き備えたという。戻って入った寓居は翼廊の部屋である。夜が深くなって敵将がようやく帰り、まっすぐその部屋へ入ったゆえに、三人とわたしは連れの倭人とともに別の所で寝た。翌朝明け方に敵将が人を遣わして安否を問い、朝の食事の後、明の将へ送る書と二人の王子の答書と諺文の手紙を授けて送り、みな再び会うことなくそのまま出て来た。京江から敵のいる所まで十里の間には処々に屍が横たわり、人の首が散り乱れて、臭く汚くて近づきがたいのに、倭賊は足で蹴りながら歩いていた」とのことでございます。

李藎忠が持って来た、敵将が明の将へ送る書は、たまたま沈遊撃が来て見ることを求めましたゆえ、遊撃に差し出して上げ送ることができませんでした。また行在所宛てで、臣の字がまったくない長い紙の封書があり、開いて見ますと、捕らわれた三人の臣が名を連ねて書いた書でしたが、言葉に驚くべきものが多く、痛ましく憤ろしいことがこれより甚しいことはありませんでした。まさにただちに火の中へ投げ入れるべきものですが、すでに開いて見ましたので捨て置くのも正しくなく、王子の答書とあわせてみな上げ送る事として牒呈したとのことです。

いわゆる王子の書一通は上げ送ります。捕らわれた三人の臣の書一通は、外に「行在所において開き見られよ」と書いてありますが、内も外もみな臣と称した所がありません。ただ長溪君・南兵使・行護軍と記してそれぞれ署名しておりますが、筆跡は黄赫が書いたように思われます。すでに臣と称した所がなく、言葉に驚くべきものが多いのは、これは必ず敵将が無理に脅してさせたものでありますから、きわめて心が痛みます。そこで元の書はあえて上げ送らず、その間の事情は朝廷が知らぬわけにはまいりませんゆえ、一様にそのさまのまま写し書いて上げ送ります。諺文の手紙は来ませんでしたので、公文を送って問いました。

臣らはこの地におりますが、明の将のすることをまったく聞き知ることができず、査将に問うてもやはり明らかに言いません。おおよそこの振る舞いから見れば、和を講ずる意があることが明らかです。沈惟敬と周弘謨はすでに行きました。

十四日、臣は全羅の営に火が出た事を見届けようと坡州へ行っておりました。日が暮れるころ、明の人四、五十騎が馳せて来ましたので問いますと、京城へ向かおうとしているとのことでした。昨日はまた指揮呉宗道という者がおりましたが、これは黄応陽とともに先日往き来した人で、宝山から宋経略の牌文を持って帰って来ました。従事官辛慶晋に会って、「お前の国は糧も秣も足りないのに、春耕がすでに迫っている。もし数十日が過ぎれば、民はまさに崩れ果てて尽きるだろう。敵がもし和を講じて兵を退こうとするなら、その貢の路を開くことを許し、ともに和解しないわけにはいかない」と言い、すぐに馳せて去りました。

臣は昨年の後、幾度も明の人と会ってその言葉を察し、事情を知りましたが、ただ和解して兵を退け、兵の禍を止めることに心を置いております。我が国がこの敵と一つの天を戴いて生きられぬ仇であり、骨に徹して痛んでいることを知るゆえに、すぐには和解を口にしようとしませんが、実のところ兵を用いる意が固く定まっておりません。おおよそ碧蹄で兵を退いた後、再び進む意がありません。臣はこのために夜も昼も心を焦がし骨が痛むのに、今、形勢がまたこのようでありますから、我が国が力を尽くして叫んだとしても、そうできましょうか。

いっそう悩ましく痛ましいのは、我が国の財が供給することに尽き、力が運ぶことに尽きて、京畿ばかりがそうではなく、忠清・全羅道も改めて支える勢いがないことです。また命を承って運送を責め立てる官はたいてい年が若く事を経ていない人で、一様に明の軍を賄うのが急だと言い寄せて、官民に積まれたものを底まで取り、改めて残る力がありません。官軍も義兵もみな散って、もう守ることに心を置きません。ですから漢江以南から忠州の境まで一様にがらんと空いているのに、敵兵はまさに四方へ出て掠めることを日ごとにやめませんので、南の形勢は日ごとにいっそう危急です。

臣はもとより愚かで取るに足らぬ身でこの重い任を冒し、ただ公文で責め立てるばかりで、兵がひとたび散った後は改めて集めることが難しいのです。また行く所どこも倉の穀が残っておらず、やっと集め得たものもみな明の軍の糧に入りました。その数を申し上げて明の将に見せましたので、あえて他に用いることができません。このほかに改めて処置する策がありません。もし朝廷があちらこちらの勢いを深く思って早く指揮を賜らないのであれば、臣のような愚かで劣った者は、万度斬られても事を誤った罪を免れがたいのです。

和と戦の二策は、まさに国の存亡がかかるところです。たとえ形勢がきわめて難しく、まことにやむを得ぬ計策から出たとしても、明の将はやはり我が国と十分に計り議し、機に臨んでよく処すべきです。ところが我らに糸口さえ聞かせませんので、いっそうやりきれません。

李藎忠を入れ送った事は、金千鎰らが臣らに伺わずに、勝手に先走って行ったものですから、事は軽率であることに関わります。しかしこれによって敵の形勢を探り知り、大きな害には至りませんでしたゆえ、まだ深く責めてはおりません。

夾注 5

癸巳三月十六日在東坡

癸巳の年三月十六日、東坡で。

底本は吳宗男であるが、吳宗道の誤りと見る

指揮は明の武官の官職

長溪君は黄廷彧の君号

沈遊撃は沈惟敬である。