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金千鎰の書状を附す附金千鎰書狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 1,364字 · 朗読 11.1分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻10 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

今三月初九日黃廷彧與倭賊出到江邊曲折段已曾馳。啓爲白置其後臨海君奴長世及黃赫孽族安鐸等賊倭一時逐日持書簡出來求和事一一馳報都體察使爲白在果十二日臣與忠淸水使丁傑京畿水使李蘋領率諸船乘潮直上先使一紙書示不戰逍遙之意然後自蚕頭嶺下皷笛振作雜以螺簫過西江抵黑石賊倭五六十列立相望之處爲白如乎巳時長世等又與賊倭十餘名持書簡出來臣等詳問賊中情狀後略書回答付送爲白遣欲探賊情虛實及兩君居處臣麾下守門將李藎忠從自願入送爲有如乎同李藎忠十四日還來進吿內矣身自大古介經藥田前路至靑坡石橋項從橋下川邊之路越邊過十餘家至一有銀杏樹大家乃賊將淸正所在也引入外廊二食頃許方乃召入翼廊之內金屏紅氈羅幃錦帳極其盛飾見倭將淸正者年可三十與兩王子共坐堂中藎忠就拜。王子前王子問。主上寒喧訖淸正以譯者問答而譯者迺叛國賊人沙火同之弟云賊將指。王子曰公見。王子肌膚顏色如何少無羸瘠可知吾厚待也且曰講和之事何以爲之速示可否則欲决行止何以遷延無黑白乎日本關白發諸島之兵朝暮渡海入驅朝鮮直擣中原則悔無所及何不速爲之處乎答曰目今。天將率百萬之衆與本國報讎之兵振旅而來日本能戰則戰可也至於講和之事在於。天將非我國之所敢擅決也又曰冒險入來無廼爲飢聊具薄饌於是童奴進食先賊將次。王子次藎忠相對而飯幷行酒三杯而撒然後廼召黃延彧父子及李瑛皆自異處而來亦行酒三杯曰朝鮮人來此公等相與傳言于此人使之吿其大將轉報江南之將速定和議可也俄而賊將曰我有不得已入城中之事公等共坐于此以待吾還遂出去諸卒下之賊縵立帳外而守之。王子及三人共坐燈下各道辛苦之狀慘不恐聞。王子身著毛段道袍頭戴毛冠具貂皮耳掩曰我常著白衣自欲和以來賊將措備衣冠今日勸令著之固辭則怒曰君欲著陋服示我薄待之意於來使乎强令洗面改著云云且臨海君擧冠露額指瘡痕曰上來時中路持棒亂打傷破處也黃廷彧亦云以我爲知傳國實所在之處而不爲指示於路上無數歐打幾死得生李瑛則曰吾以罵賊不屈再三欲殺而止頑命不死辱國之恥其何忍言兩。王子欲書私簡先入房中夫人亦同在此云夜深賊將始還藎忠與從倭宿于別處翌日食後仍給附呈。天將之書及兩。王子答書幷黃廷彧等。行在所了無臣字長紙書一封仍與安鐸及從倭等還出來同李藎忠持來之書段都體察使處皆爲封送爲白齊十五日巳時前項長世等復持賊將之書及兩。王子書簡出來問答之際。天將沈遊擊周遊擊謝相公三將率其家丁二十三人乘船直來于臣等泊船處賊倭等望見黃傘知。天將之至李藎忠亦答書傳給次下陸時賊倭等藎忠親自人歸面吿。天將來由於其將亦爲白去乙藎忠如其言入歸申時李藎忠持倭書還出來。天將望見藎忠之還促令招見問王子肥瘠何如答曰柴毀骨立又問賊中芻糧何如曰糧之多少未可知但見其衆頗有飢色糧乏可知而馬則只吃腐草瘦骨崢嶸死馬之棄路者無處無之無草可知又問賊兵多少曰未能詳知大槪觀其出入之倭皆疲殘無勇摧挫可知矣。天將曰知悉令通事金善慶傳言于賊曰俺等只聞有平行長不聞有淸正今始知汝實獲得。王子者也然則可速通書于俺等俺等受。天子之命爲大將軍非如前日往安邊之馮淑紘職卑之比也云云開諭入送。天將仍宿舟中當日辰時天將令角行船臣等領率舟師一時隨行至西江賊倭騎步者如前列立觀望爲白如乎午時賊將平行長玄蘇世俊等出來。天將則下陸不冬爲白遣使通事及家丁傳語且以書辭往復其間秘密之意不能詳知爲白齊又有清正所使之倭三十餘名與前項安鐸等出來。天將又書答書附途于淸正而皆以秘密爲之不得參見爲白齊。天將仍泊西江臣與丁傑李蘋領舟師護衛。天將以宿云云

この三月九日に黄廷彧が倭賊とともに川辺へ出て来た曲折は、すでに早くに急ぎ申し上げました。その後、臨海君の奴の長世と黄赫の庶族安鐸らが倭賊とともに日ごとに手紙を持って出て来て和を求める事を、一つ一つ都体察使へ急ぎ報せました。

十二日、臣は忠清水使丁傑、京畿水使李蘋とともに諸船を率いて満ち潮に乗ってまっすぐ上りました。まず紙一枚の書で、戦わずに遊ぶという意を示した後、蚕頭嶺の下から鼓と笛を鳴らし、螺と簫を混ぜて西江を過ぎ、黒石に至りますと、倭賊五、六十が並び立って互いに望む所でございました。

巳の刻に長世らがまた倭賊十数名とともに手紙を持って出て来ました。臣らが敵中の実情を詳しく問うた後、おおよその答えを書いて託して送りました。敵情の虚実と二人の王子のいる所を探り知ろうと、臣の麾下の守門将李藎忠を、みずから願うままに入れ送りました。

その李藎忠が十四日に帰って申し上げたところに、「わたしが大古介から薬田の前の路を過ぎ、青坡の石橋の端に至り、橋の下の川辺の路に沿って向こう岸へ渡り、十数軒の家を過ぎ、銀杏の木のある一つの大きな家に至りますと、そこが敵将清正のいる所でした。外の廊へ引き入れて、飯を二度炊くほどの間置いてから、ようやく翼廊の内へ呼び入れましたが、金の屏風と赤い毛氈、絹の帷と錦の帳で、飾りがきわめて盛んでした。

倭将清正を見ると年は三十ばかりで、二人の王子とともに堂の中に座っておりました。わたしが進んで王子の前に拝しますと、王子が主上の安否を問われ、それから清正が通訳を介して問い答えましたが、通訳は、国に背いた賊人沙火同の弟であるとのことです。

敵将が王子を指して、「公は王子の肌の色と顔色を見てどうか。少しも痩せていないから、わたしが厚く待遇していることがわかるだろう」と申しました。また、「和を講ずる事をどうするつもりか。早く可否を示せば、行くか留まるかを決めようと思う。どうして延ばすばかりで白黒がないのか。日本の関白が諸島の兵を出し、朝夕に海を渡って来て朝鮮を駆り、まっすぐ中原を撃つなら、悔いても及ぶところがないだろう。どうして早く処さないのか」と申しました。

わたしが答えて、「いま明の将が百万の衆を率い、我が国の仇を報いる兵とともに軍勢を振るって来ます。日本が戦えるなら戦えばよいでしょう。和を講ずる事は明の将にかかっておりますから、我が国があえて勝手に決めるところではありません」と申しました。

また、「危険を冒して入って来たのだから、腹が空いていないか」と申して、ともかくも粗末な食事を整えました。そこで童の奴が飯を出しましたが、まず敵将、次に王子、次にわたしへとして、向かい合って食べ、あわせて酒を三杯回した後に下げました。続いて黄廷彧父子と李瑛を呼んで、みな別の所から来させ、やはり酒を三杯回しながら、「朝鮮の人がここへ来たのだから、公らは互いにこの人へ言葉を伝え、その大将に申し上げ、江南の将へ取り次いで知らせ、早く和議を定めさせるのがよい」と申しました。

やがて敵将が、「わたしにはやむを得ず城の中へ入る用がある。公らはここに共に座ってわたしの帰りを待て」と申して、ついに出て行きました。諸々の兵の下の賊が帳の外に並び立って守りました。

王子と三人が灯の下に共に座り、それぞれ苦しくつらいさまを語りましたので、惨くてとても聞くに堪えませんでした。王子は身に毛緞の道袍を着け、頭に毛冠と貂の皮の耳覆いを具えてかぶり、「わたしは常に白い衣を着ていたのに、和を講じようとしてから後、敵将が衣と冠を調えて、今日これを着よと勧めた。固く辞ると怒って、『そなたは粗末な服を着て、わたしが薄く待遇していると来る使いに見せようとするのか』と言い、無理に顔を洗わせて着替えさせた」と申しました。

また臨海君が冠を上げて額を露わし、瘡の跡を指して、「上って来るとき、道の途中で棒を持って打ちたたき、傷つき破れた所だ」と申しました。黄廷彧も、「わたしが伝国の宝のある所を知っていると思われ、指し示さないといって路上で数知れず打たれ、ほとんど死んで生き返った」と申しました。李瑛は、「わたしは敵を罵って屈しなかったので、二、三度殺そうとしてやめた。頑なな命が死なずにいるのだから、国を辱めた恥をどうして口にできようか」と申しました。

二人の王子は私かな手紙を書こうとして先に部屋の中へ入られましたが、夫人もともにここにおられるとのことです。夜が深くなって敵将がようやく帰って来ましたので、わたしは連れの倭人とともに別の所で寝ました。翌日、飯を食べた後、明の将へ託して差し上げる書と二人の王子の答書、あわせて黄廷彧らが行在所宛てに書いた、臣の字がまったくない長い紙の書一通を渡されましたので、安鐸と連れの倭人たちとともに帰り出て来ました」とございました。

その李藎忠が持って来た書は、都体察使へみな封じて送りました。

十五日の巳の刻に、先に申しました長世らが、再び敵将の書と二人の王子の手紙を持って出て来ました。問い答える折に、明の将の沈遊撃・周遊撃・謝相公の三将がその家丁二十三人を率いて船に乗り、まっすぐ臣らが船を着けた所へ来ました。倭賊らは黄色い傘を望み見て、明の将が至ったことを知りました。

李藎忠が答書を伝え渡そうと陸へ下りるとき、倭賊らが、李藎忠がみずから入って明の将が来た理由をその将へ面と向かって告げるようにさせましたので、李藎忠はその言葉のとおり入って行きました。申の刻に李藎忠が倭の書を持って帰り出て来ますと、明の将はその帰るのを望み見て、急がせて呼び、会って問いました。

王子が肥えているか痩せているかを問いますと、「ひどく痩せ衰えて骨ばかりになっておられます」と答えました。また敵中の秣と糧がどうかを問いますと、「糧の多少はわかりませんが、ただその衆を見ますと、かなり飢えた色がありますので、糧が足りないことはわかります。馬はただ腐った草を食べて痩せた骨がそばだち、死んだ馬を路に捨てたものがない所はありませんので、秣がないことはわかります」と申しました。また敵兵がどれほどかを問いますと、「詳しくはわかりませんが、おおよそ出入りする倭人を見ますと、みな疲れ衰えて勇ましくありませんので、挫けていることはわかります」と申しました。

明の将は「すべて承知した」と申し、通事金善慶に敵へ言葉を伝えさせて、「我らはただ平行長がいるとだけ聞いており、清正がいることは聞いていなかった。いま初めて、お前が実に王子を得た者であることを知った。それならば、早く我らへ書を通じてよい。我らは天子の命を受けて大将軍となったのであって、先日安辺へ行った馮淑紘のように官が低い者に比べるものではない」と諭して入れ送りました。明の将はそのまま船の中で寝ました。

その日の辰の刻に明の将が角を吹いて船を進ませましたので、臣らは水軍を率いて一度に従って行き、西江に至りました。倭賊の馬に乗った者と歩く者が前のように並び立って望み見ておりました。午の刻に敵将の平行長と玄蘇・世俊らが出て来ました。明の将は陸へ下りず、通事と家丁に言葉を伝えさせ、また書で遣り取りしましたが、その間の秘めた意は詳しく知ることができませんでした。

また清正が使った倭人三十余名が、先に申しました安鐸らとともに出て来ました。明の将はまた答書を書いて清正へ託して送りましたが、みな秘密にしましたので参り見ることができませんでした。明の将がそのまま西江に船を着けましたので、臣は丁傑・李蘋とともに水軍を率いて明の将を護衛して寝ました。