いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻14 辰巳錄

軍糧を運ぶ有り様と、明軍が蔚山の賊陣を攻めて勝った事を急ぎ申し上げる上申状馳。啓運粮形止及。天兵進攻蔚山賊陣勝捷狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 292字 · 朗読 2.4分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻14 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

臣自永川因接伴使李德馨馳通欲往大丘已爲狀。啓更念大丘運糧已輸到米豆幷時有五千餘石回軍時數日之糧猶可足支而慶州蔚山以下大軍皆集此處軍糧至急故臣沿道催督守令盡發見在人民陸續輸送臣因馳到慶州與尹承勳柳永慶等相見議事以爲接濟之計上道軍糧負戴相續於道盡向蔚山本日五更時京畿左防禦使邊應星軍官柳成吉回自蔚山陣所說稱二十三日。天兵先鋒與倭賊交戰斬首五百餘級倭賊退入其窟。天兵圍之二十四日倭賊於城頭列立紅白旗無數。天兵以火箭大炮攻之諸軍一時踰城而入斬賊首甚多餘賊退入內城時方攻打云云本日曉頭臣軍官金潤得回自戰所所言一般我國之軍亦與。天兵相雜以片箭射殺倭賊亦多合戰形止都元帥權慄必已馳。啓而事係捷音故臣亦以所聞馳。啓

臣は永川で接伴使李德馨が馳せて通じてきたことによって大丘へ行こうと、すでに状をもって申し上げました。しかし改めて考えますに、大丘へ運んですでに到った米と豆が併せて今五千余石あり、軍が帰る時の数日の軍糧はなお足りて支えられるほどで、慶州・蔚山以下には大軍がみな集まってこの地の軍糧がきわめて急です。そのため臣は道に沿って守令たちを催し、残っている民をすべて出して引き続き運び送らせ、臣は慶州へ馳せ到って尹承勳・柳永慶らと相見えて事を議り、継いで供する計としました。上の方の軍糧は、背負い頭に載せて路に相次ぎ、みな蔚山へ向かっています。

本日の五更に、京畿左防禦使邊應星の軍官柳成吉が蔚山の陣所から帰って申しますには、「二十三日に明軍の先鋒が倭賊と戦い、五百余級を斬りましたので、倭賊はその巣へ退き入り、明軍がこれを囲みました。二十四日、倭賊が城頭に紅白の旗を数知れず立て並べますと、明軍が火箭と大砲で攻め、諸軍が一時に城を越えて入り、賊の首を斬ることがはなはだ多くありました。残る賊は内城へ退き入り、今まさに攻め立てています」とのことでした。

本日の明け方、臣の軍官金潤得が戦いの場から帰って申したことも同様でした。我が国の軍も明軍と入り混じって、片箭で倭賊を射殺したものがまた多かったとのことです。

合戦の有り様は、都元帥權慄が必ずすでに馳せて申し上げたでしょうが、事が勝ち報せに係わることですので、臣も聞いたところをもって急ぎ申し上げます。

夾注 1

十二月二十五日在慶州

十二月二十五日、慶州にて