黃海道の觀察使に送った文移黃海道巡察使文
江陰一縣以邑殘民少已爲合併亦出於隨時救弊之意但郡邑布置。祖宗朝皆量其形勢道里而爲之且以本道形勢言之則自京城通於西方之路有二絛一條自開城府出於興義由猪灘達於平山一條由兎山新溪谷山達於成川其間雖不無小路傍通之處而大槪則此兩路爲形勢所在也至如江陰則在猪灘下流水路則通於喬桐江華陸路則通於白川延安海州實乃形勢可據之地故倭賊由直路以下之時旣置陣於興義以遏脫彌谷吾助川兩岐之衝又於江陰置陣使白川延安之軍不得出入侵擾直路往來之賊其審察於形勢而知所據守也如此今江陰若廢則平山白川直路之間道里濶遠形勢不接恐非長久之計故本府之意則常欲增重江陰之勢別於臨江斗絕之處設險耕守以接猪灘路脈然後賊兵不敢肆意直向於平山今雖已爲合併不可更置縣監而此意則不可忘之且合併之邑人吏官屬必提挈家産棄其土田就役於所屬之邑故先爲流散且本邑爲主而見屬者爲奴故凡有差役不無侵責於屬邑村民亦受其弊畢竟兩邑同歸於一失此合併之所以難爲也今江陰則當別爲處置縣內人吏官屬使之仍留其處毋得往役於白川仍令其處有識勤幹之人定爲屯長之任備給農牛種子使之招集流亡力於耕墾數年之後人民稍集氣勢稍蘇則其邑可以復設設險遮截之計可以成形但屯長不得其人則事孤條理民之受弊依舊此等曲折急速商量且訪本土民情飛報施行廢縣必有文廟及城隍社稷之壇一朝人神失依處置不可緩忽此亦何以爲之幷爲相考牒報
江陰の一つの縣は、邑が衰え民が少ないのですでに合わせ併せたが、これもまた時に従って弊を救おうとする趣旨から出たものである。ただ郡邑を並べ置いたことは、祖宗の朝がみなその形勢と里数を計って行った事である。
また本道の形勢で言えば、京城から西方へ通ずる路が二つある。一つの路は開城府から興義へ出て猪灘を経て平山に至り、一つの路は兎山・新溪・谷山を経て成川に至る。その間に傍らへ通ずる小さな路がないわけではないが、おおむねこの二つの路に形勢がある。
江陰で言えば猪灘の下流にあって、水路では喬桐・江華に通じ、陸路では白川・延安・海州に通ずるので、まことに形勢が拠るに足る地である。そのため倭賊が直路を下って来る時、すでに興義に陣を置いて脫彌谷と吾助川の二つの岐の要めを塞ぎ、また江陰に陣を置いて白川・延安の軍が出て直路を行き交う賊を侵せないようにした。賊が形勢を調べて守るべき所を知っていたことは、このようであった。
今、江陰を廃せば、平山と白川のあいだの直路が里数が遠くて形勢が繋がらないので、長く続く計ではないのではないかと思う。そのため本府の意は、常に江陰の勢いをさらに重くし、別に江に臨んだ切り立った所に険しい要めを設けて耕しながら守り、猪灘の路の筋に繋ごうとするものである。その後にこそ賊兵が敢えて心のままに直ちに平山へ向かえない。今はすでに合わせ併せたので、ふたたび縣監を置くことはできないが、この趣旨だけは忘れてはならない。
また合わせ併せた邑は、吏と官属が必ず家財を引き連れて自分の田土を棄てたまま、付いた邑へ行って役を負うので、まず散る。また本邑が主となり、付いた側が奴となるので、およそ差役があれば付いた邑へ押しつけないことがなく、村民もその弊を受ける。ついに二つの邑が共に過ちに帰するので、これが合わせ併せることの難しい理由である。
今、江陰はまさに別に処置して、縣の内の吏と官属をその所にそのまま留め、白川へ行って役を負えないようにせよ。引き続きその所で識見があって勤め働く人を屯長の任に定め、農の牛と種を調え与えて、散り逃げた民を呼び集めて耕し墾くことに力を尽くさせよ。数年の後に民が少し集まり、気勢が少し蘇れば、その邑をふたたび置くことができ、険しい要めを設けて遮る計も形を成すことができる。ただ屯長がその人を得られなければ、事に筋道がなく、民が弊を受けることが旧のとおりであろう。
このような曲折を急ぎ計り、またその土地の民情を問うて急ぎ報せ、施行せよ。廃した縣には必ず文廟と城隍・社稷の壇があるので、一朝にして人と神が頼る所を失う。処置を緩めて忽せにできないので、これもどうするか、併せて照らし合わせて報せ。
夾注 2
六月二十九日
底本は「事孤條理」であるが、「事無條理」の誤りと見る。
六月二十九日