宕昌羌
1宕昌の風俗
宕昌羌者,其先蓋三苗之胤。周時與庸、蜀、微、盧等八國從武王滅商。漢有先零、燒當等,世為邊患。其地,東接中華,西通西域,南北數千里。姓別自為部落,各立酋帥,皆有地分,不相統攝。宕昌即其一也。俗皆土著,居有棟宇。其屋織犛牛尾及羖羊毛覆之。國無法令,又無徭賦。唯征伐之時,乃相屯聚;不然,則各事生業,不相往來。皆衣裘褐,牧養犛牛羊豕,以供其食。父子伯叔兄弟死者,即以其繼母、世叔母、及嫂〔弟婦〕等為妻。俗無文字,但候草木榮落,以記歲時。三年一相聚,殺牛羊以祭天。
宕昌羌は、その先祖がおおむね三苗の末である。周のとき、庸・蜀・微・盧など八つの国とともに武王に従って商を滅ぼした。漢には先零・焼当などがあって、代々辺境の患いとなった。その地は、東は中華に接し、西は西域に通じ、南北は数千里である。姓ごとに別々の部落をなし、それぞれ酋長を立て、みな土地の分けがあって互いを統べることはなく、宕昌はその一つである。
風俗はみな土着で、住まいには屋根と棟がある。その屋根はヤクの尾と黒い羊の毛を織って覆う。国に法令がなく、また労役も租税もない。ただ征伐のときだけ互いに集まり、そうでなければそれぞれ生業に励んで行き来しない。みな毛皮や粗い布の衣を着て、ヤク・羊・豚を飼って食べるものに充てる。父や伯叔や兄弟が死ぬと、すぐにその継母・世叔母や兄嫁・弟の嫁などを妻にする。風俗として文字がなく、ただ草木の茂りと落ちるのを見て年の季節を記す。三年に一度集まって、牛や羊を殺して天を祭る。
夾注 2
(姊妹)
もとの版本の字は「姊妹」である。
父子伯叔兄弟死者即以其繼母世叔母及嫂(姊妹)〔弟婦〕等為妻宋本「姊」作「弟」。魏書卷一0一、北史卷九六宕昌羌傳「姊妹」作「弟婦」。冊府卷九六一一一三0五頁作「即以其繼母、世叔母及兄弟婦、子婦為妻」。今據魏書、北史改。
「父や伯叔や兄弟が死ぬと、継母・世叔母や兄嫁・(姊妹)〔弟の嫁〕などを妻にする」——宋本では「姊」が「弟」となっている。魏書・北史の宕昌羌伝では「姊妹」が「弟婦」となっている。冊府元亀では「すぐにその継母・世叔母と兄弟の妻・子の妻を妻にする」となっている。いま魏書・北史に従って改めた。
2梁勤が王と称する
有梁〔勤〕者,世為酋帥,得羌豪心,乃自稱王焉。其界自仇池以西,東西千里,〔席〕水以南,南北八百里。地多山阜,部眾二萬餘落。勤孫彌忽,始通使於後魏。太武因其所稱而授之。
梁勤という者がいて、代々酋長となり、羌の有力者たちの心を得たので、みずから王と称した。その境は仇池から西へ東西千里、席水から南へ南北八百里である。土地には山や丘が多く、部衆は二万余落であった。勤の孫の弥忽が、はじめて後魏に使いを通わせた。太武帝はその称したとおりに授けた。
夾注 4
(勒)
もとの版本の字は「勒」である。
有梁(勒)〔勤〕者宋本及通典卷一九0「勒」作「勤」。魏書卷一0一、北史卷九六宕昌羌傳作「懃」。「勒」字誤,今據改。
「梁(勒)〔勤〕という者がいて」——宋本と通典では「勒」が「勤」となっており、魏書・北史の宕昌羌伝では「懃」となっている。「勒」の字が誤りなので、いまそれに従って改めた。
(帶)
もとの版本の字は「帶」である。
(帶)〔席〕水以南魏書、北史本傳「帶」作「廗」。通典卷一九0作「席」,注云:「席水在今天水上邽縣。」按魏書卷一0六下地形志下秦州天水郡上封縣即上邽,避魏諱改下云:「有席水。」水經注卷一七渭水流經上邽東,有籍水入渭,當即此水。別有曾席水入藉水,乃是小水,不會在地形志特別注出。「廗」是「席」之訛,又訛作「帶」,今據改。
「(帶)〔席〕水から南へ」——魏書・北史の本伝では「帶」が「廗」となっている。通典では「席」と書き、注に「席水は今の天水の上邽県にある」とある。魏書の地形志の秦州天水郡上封県(すなわち上邽で、魏の避諱によって改めたもの)の条に「席水がある」とあり、水経注に渭水が上邽の東を流れて籍水が入るとあるのが、まさにこの水であろう。「廗」は「席」の誤りで、さらに「帶」と誤ったのであるから、いまそれに従って改めた。
3仚定の背反
自彌忽至仚定九世,每修職貢不絕。後見兩魏分隔,遂懷背誕。永熙末,仚定乃引吐谷渾寇金城。大統初,又率其種人入寇。詔行臺趙貴督儀同侯莫陳順等擊破之。仚定懼,稱藩請罪。太祖捨之,拜撫軍將軍。四年,以仚定為南洮州刺史、要安蕃王。後改洮州為岷州,仍以仚定為刺史。是歲,秦州濁水羌反,州軍討平之。七年,仚定又舉兵入寇。獨孤信時鎮隴右,詔信率眾便討之。軍未至而仚定為其下所殺。信進兵破其餘黨。朝廷方欲招懷殊俗,乃更以其弟彌定為宕昌王。
弥忽から仚定まで九代、つねに職貢を修めて絶えることがなかった。のちに二つの魏(東魏と西魏)が分かれ隔たったのを見て、ついに背く心を抱いた。永熙の末、仚定は吐谷渾を引き入れて金城を侵した。大統の初めにも、またその種族の人々を率いて侵入してきたので、詔して行台の趙貴に、儀同の侯莫陳順らを監督して撃ち破らせた。仚定は恐れて藩国と称し、罪を請うた。太祖はこれを許し、撫軍将軍に任じた。四年、仚定を南洮州刺史・要安蕃王とし、のちに洮州を岷州に改めて、そのまま仚定を刺史とした。この年、秦州の濁水の羌が背いたので、州の軍が討ち平らげた。七年、仚定はまた兵を挙げて侵入した。独孤信はそのとき隴右を鎮めていたので、詔して信にすぐ討たせたが、軍が到らないうちに仚定はその配下に殺された。信は兵を進めてその残党を破った。朝廷はちょうど異なる風俗の者を招き懐かせようとしていたので、あらためてその弟の弥定を宕昌王とした。
夾注 2
以仚定為南洮州刺史要安蕃王周書卷一六、北史卷六一獨孤信傳「要安」作「赤水」。
「仚定を南洮州刺史・要安蕃王とした」の要安は、周書巻十六・北史巻六十一の独孤信伝では「赤水」となっている。
乃更以其弟彌定為宕昌王梁書局本卷五四宕昌傳云:「彌博死,子彌泰立。大同十年,復授以父爵位。」按大同十年即西魏大統十年五四四年,則此彌博即仚定,彌泰即彌定,但名既不同,周書作「弟」,梁書作「子」也不同。通鑑卷一五八四九0七頁亦作「彌定」,考異云:「梁帝紀作『彌泰』,今從典略。」
「あらためてその弟の弥定を宕昌王とした」——梁書の局本の宕昌伝には「弥博が死んで子の弥泰が立ち、大同十年にふたたび父の爵位を授けた」とある。大同十年は西魏の大統十年(五四四年)であるから、この弥博が仚定、弥泰が弥定にあたる。ただ名が同じでなく、周書は「弟」、梁書は「子」とするのも一致しない。通鑑も「弥定」と書き、考異に「梁の帝紀では『弥泰』とするが、いまは典略に従う」とある。
4獠甘が位を奪う
十六年,彌定宗人獠甘襲奪其位,彌定來奔。先是,羌酋傍乞鐵怱等因仚定反叛之際,遂擁眾據渠林川,與渭州民鄭五醜扇動諸羌,阻兵逆命。至是詔大將軍宇文貴、豆盧寧、涼州刺史史寧等率兵討獠甘等,竝擒斬之,納彌定而還。語在貴等傳。其後羌酋東念姐、鞏廉俱和等反,大將軍豆盧寧、王勇等前後討平之。
十六年、弥定の一族の獠甘がその位を襲って奪ったので、弥定は逃れて来た。これより先、羌の酋長の傍乞鉄怱らが、仚定が背いた折に乗じて、ついに兵を抱えて渠林川に拠り、渭州の民の鄭五醜とともにもろもろの羌を煽り、兵を頼んで命に逆らっていた。ここに至って詔し、大将軍の宇文貴・豆盧寧と涼州刺史の史寧らが兵を率いて獠甘らを討ち、ともに捕らえて斬り、弥定を入れて帰った。その話は貴らの伝にある。その後、羌の酋長の東念姐・鞏廉俱和らが背いたので、大将軍の豆盧寧・王勇らが前後して討ち平らげた。
夾注 1
遂擁眾據渠林川卷一九宇文貴傳、冊府卷二九一三四二五頁「林」作「株」。
「ついに兵を抱えて渠林川に拠った」の林は、巻十九の宇文貴伝・冊府元亀では「株」となっている。
5宕州となる
保定初,彌定遣使獻方物。三年,又遣使獻生猛獸。四年,彌定寇洮州,總管李賢擊走之。是歲,彌定又引吐谷渾寇石門戍,賢復破之。高祖怒,詔大將軍田弘討滅之,以其地為宕州。
保定の初め、弥定が使いを遣わして土地の産物を献じた。三年、また使いを遣わして生きた猛獣を献じた。四年、弥定が洮州を侵したので、総管の李賢が撃って退けた。この年、弥定がまた吐谷渾を引き入れて石門の戍を侵したので、賢がふたたび破った。高祖は怒り、詔して大将軍の田弘に討ち滅ぼさせ、その地を宕州とした。
夾注 1
四年彌定寇洮州總管李賢擊走之是歲彌定又引吐谷渾寇石門戍賢復破之按卷二五李賢傳,事在保定五年五六五年。
「四年、弥定が洮州を侵したので、総管の李賢が撃って退けた。この年、弥定がまた吐谷渾を引き入れて石門の戍を侵したので、賢がふたたび破った」——巻二十五の李賢伝によれば、この事は保定五年(五六五年)にある。