漢漢高豊準又龍顔
1龍の顔の漢の高祖
○漢高 豊準又龍顔, 姓劉名邦字則季.
漢の高祖は豊かな鼻、そして龍の顔であり、 姓は劉、名は邦、字は季である。
夾注 1
益之後, □之子, 史臣曰, “禹薦益於天, 行天子事. 而禹崩, 益喪畢, 讓於啓, 而避于箕山. 啓又賢, 而諸侯歸之, 故啓得嗣焉. 益之後, 至此而昌, 則豈禹之薦不虛, 而益之讓, 綽□然有餘裕哉? 禹之聖, 益之賢, 啓之享, 不可廢而不明也.”
益の後裔で、□(校勘によれば煓)の子である。史臣が言うには、「禹は益を天に薦めて天子の事を行わせた。禹が崩じると、益は喪を終えて啓に譲り、箕山に避けた。啓もまた賢く、諸侯が彼に帰したので、啓が継ぐことになった。益の後裔がこのときに至って栄えたのだから、禹の推薦は無駄ではなく、益の譲りはゆとりがあって余りあるものだったのではないか。禹の聖、益の賢、啓の享けたことは、捨て置いて明らかにしないわけにはいかない」という。
2沛で起こる
胡亥元年起沛中, 蕭張在幄輸謀智.
胡亥の元年に沛で起こり、 蕭何と張良が幕の内で謀と知恵を差し出した。
3五つの星が東井に集まる
五星分度各自殊, 聚於東井良有以.
五つの星の位はそれぞれ異なるのに、 東井に集まったのは、まことに理由があった。
4子嬰の降伏
子嬰素服迎入關, 元以是年當乙未.
子嬰が白い衣で迎え、関中に入ったので、 この乙未の年を元年とした。
夾注 1
下至孺子嬰, 凡帝十一, 幷呂·尼·昌邑王共十四主, 合二百一十四年.
下って孺子嬰まで、全部で皇帝十一人、呂后と二人の少帝、昌邑王を合わせて十四人の君、合わせて二百十四年である。
5韓信と酈食其
設壇拜將寵淮陰, 輟洗趨風迎酈食.
壇を設けて拝し、淮陰侯を将として寵し、 足を洗う手を止め、風のように駆けて酈食其を迎えた。
夾注 1
寵淮陰 — 淮陰侯の韓信をいう。― 訳者
6五年で楚を滅ぼす
群英雜還竟東西, 五年滅楚收遐邇.
群雄が入り混じって東へ西へと動いたが、 五年で楚を滅ぼし、遠近をすべて収めた。
7長安に都する
臨以火德都長安, 久亂餘風猶未粹.
火徳によって臨み長安に都したが、 長い乱の後の風俗は、まだ純ではなかった。
8叔孫通が礼を定める
叔孫 制禮序君臣, 於此乃知天子貴.
叔孫が礼を定めて君と臣の序を立て、 ここではじめて天子の貴さを知った。
夾注 1
名通.
名は通である。
9学校を設ける
旁求儒雅設庠序, 六經諸子還復致.
広く学ある人を求めて学校を設けたので、 六経と諸子がまた戻ってきた。
10太平を慶ぶ
乾坤繞宮日月明, 耕鑿萬方相慶喜.
天と地が宮を取り巻き日と月が明るく、 田を耕し井を掘る万方が互いに慶び喜んだ。
11皇帝がいなかったら
是時儻不我皇興, 不獨喪文民盡捽.
このとき、もしわが皇帝が起こらなかったら、 文を失うだけでなく、民まですべて踏みつけられていたであろう。
12天が年を惜しんだ
痛哉天不與之年, 御十二年何奄棄.
痛ましいことに、天は年を与えず、 十二年を治めただけで、どうして急に捨てて去られたのか。
13呂太后
太后 乘間親臨朝, 其姓是呂其名雉.
太后が隙を突いて自ら朝廷に臨み、 その姓は呂、その名は雉である。
夾注 1
惠帝之母, 元年甲寅, 在位八年.
恵帝の母である。元年は甲寅の年、位にあったのは八年である。
14人豚
鴆殺隱王髡戚姬, 惠帝徒勞哭人豕.
鴆の毒で隠王を殺し、戚姫の髪を剃って閉じこめたので、 恵帝は「人豚」の前でむだに泣くばかりであった。
15陳平と周勃
産祿方專劉氏危, 平勃尙存良可恃.
呂産と呂禄がまさに権を専らにして劉氏は危うかったが、 陳平と周勃がまだいて、まことに頼みにできた。
16文・景・武・宣の盛んな世
文·景·虎 ·宣尤聖明, 龍與麟·鳳來呈瑞.
文帝・景帝・武帝・宣帝はいよいよ聖で明らかで、 龍と麒麟と鳳が来て瑞を献じた。
夾注 2
元年辛丑, 始稱年號曰建元.
元年は辛丑の年である。はじめて年号を称し、建元といった。
文・景・虎・宣 — 底本は高麗の恵宗の名である武を避けて虎と書いたので、武帝をいう。― 訳者
17権が臣に帰する
哀平失御權歸臣, 無奈漢道中成否.
哀帝・平帝が手綱を取り落とすと権は臣に帰したが、 漢の道が中ほどで塞がるのを、どうすることもできなかった。
18王莽の摂政
王莽攝相孺子嬰, 殺活專權多作僞.
王莽は孺子嬰をかかえて摂政の相となり、 殺すも生かすも思いのままにし、偽りを多く作った。
19新室を僭称する
遂自簒立號新室, 有識何人不嚼齒.
ついに自ら位を奪って立ち、新室と名づけたので、 見識のある者の誰が歯ぎしりしなかったであろうか。
夾注 1
元年己巳, 在位十五年.
元年は己巳の年、位にあったのは十五年である。
20王莽を斬る
三輔豪傑起誅莽, 臠分肌肉聊相慰.
三輔の豪傑たちが起こって王莽を斬り、 肉を切り分けて、せめてと互いを慰めた。
21更始帝の劉玄
更始元年 立劉玄, 是爲聖公多懦弛.
更始元年に劉玄を立てたが、 これが聖公で、弱く緩んだところが多かった。
夾注 1
王莽末年, 癸未也.
王莽の末の年、癸未である。
22敢えて見下ろせない
時升寶座括茵席, 不敢下向群臣貽.
宝座に登るときは敷物をなでるばかりで、 敢えて臣たちを見下ろすこともできなかった。
夾注 1
丑吏切, 注視也.
丑と吏の反切の音であり、じっと見るという意味である。
23白水から起こった光武
二年六月勸進誰, 東漢虎皇興白水.
二年六月、位に進むよう勧めたのは誰であったか、 東漢の光武皇帝が白水から起こった。
夾注 1
東漢虎皇 — 底本はここでも避諱して武を虎と書いたので、光武皇帝をいう。― 訳者
24軍の中で育った皇帝
虎皇 謹厚又寬仁, 生長兵間多歷試.
光武皇帝は慎み深く篤実で、また寛やかで仁があり、 軍のあいだで育って、多くの試みを経てきた。
夾注 1
都洛陽, 元年乙酉, 高帝九世孫. 至末獻帝, 凡十三帝, 合一百九十六年. 傳之曹魏.
洛陽に都した。元年は乙酉の年、高帝の九世の孫である。末の献帝まで、全部で十三人の皇帝、合わせて一百九十六年である。曹氏の魏に伝えた。
25九つの穂の瑞
當初所居濟陽縣, 佳穀旅生莖九穗, 因名以秀字文叔, 惟簡已在蒼蒼意.
もともと住んでいた済陽県で よい穀が自然に生え、一つの茎に九つの穂がついたので、 それによって名を秀とし、字を文叔とした。 天の選びは、すでに蒼い天の意にあったのである。
26中興の功業
乘龍御天擧神旌, 四方律者投弓矢, 爭持玉帛惟恐後, 中興功業垂如彼, 卯金之統更文明, 要荒賓服如歸市.
龍に乗って天を馭し、神の旗を挙げると、 四方で王を称していた者が弓矢を投げ、 争って玉と絹を手にし、遅れるのを恐れて駆けつけたので、 中興の功業はあのように垂れ示された。 卯金の血統がまた文明となり、 遠い辺りまで客となって、市に帰るようであった。
夾注 2
謂朔寧王隗嚚, 漢梁王劉永, 淮南王李憲, 漢王盧芳, 蜀王公孫述, 燕王彭寵齊王張步等也.
朔寧王の隗嚚、漢の梁王劉永、淮南王の李憲、漢王の盧芳、蜀王の公孫述、燕王の彭寵、斉王の張歩らをいう。
卯金 — 劉の字を卯と金に分けた言い方で、漢の皇室をいう。― 訳者
27桓帝と霊帝
及至桓靈始失臣.
桓帝・霊帝に至ってはじめて臣を失い、