南夷 — 林邑と扶南南夷
1南夷の林邑国
南夷林邑國,在交州南,海行三千里,北連九德,秦時故林邑縣也。漢末稱王。晉太康五年,始貢獻。
南夷の林邑国は交州の南にあり、海路で三千里である。北は九徳に連なり、秦の時の古い林邑県である。漢の末に王を称した。晋の太康五年にはじめて貢ぎ物を献じた。
2名になった紫磨金
宋永初元年,林邑王范楊邁初產,母夢人以金席藉之,光色奇麗。中國謂紫磨金,夷人謂之「楊邁」,故以為名。楊邁死,子咄立,慕其父,復改名楊邁。
宋の永初元年、林邑王の范陽邁が生まれたとき、母は夢に誰かが金の敷物を敷いてくれるのを見たが、その色つやが珍しく美しかった。中国で紫磨金と呼ぶものを夷人は「陽邁」と言うので、それを名とした。陽邁が死んで子の咄が立つと、父を慕って名を陽邁に改めた。
3檀和之が林邑を討つ
林邑有金山,金汁流出於浦。事尼乾道,鑄金銀人像,大十圍。元嘉二十二年,交州刺史檀和之伐林邑,楊邁欲輸金萬斤,銀十萬斤,銅三十萬斤,還日南地。大臣䓯僧達諫,不聽。和之進兵破其北界犬戎區栗城,獲金寶無笇,毀其金人,得黃金數萬斤,餘物稱是。和之後病死,見胡神為祟。孝建二年,始以林邑長史范龍跋為揚武將軍。
林邑には金の山があって、金の汁が入江に流れ出る。尼乾道を奉じ、金銀で人の像を鋳るが、大きさは十かかえである。
元嘉二十二年、交州刺史の檀和之が林邑を討つと、陽邁は金一万斤・銀十万斤・銅三十万斤を納め、日南の地を返そうと言った。大臣の䓯僧達が諫めたが聞かなかった。和之は兵を進めてその北の境にある犬戎の区栗城を破り、金や宝を数えきれないほど得て、その金人を壊して黄金数万斤を得たが、ほかの物もそれに見合うほどであった。和之は後に病で死んだが、胡神がたたりとなったのを見たという。孝建二年、はじめて林邑長史の范龍跋を揚武将軍とした。
夾注 2
元嘉二十二年交州刺史檀和之伐林邑「二十二年」南史作「二十三年」。按宋書文帝紀繫此事於元嘉二十三年六月。
「元嘉二十二年、交州刺史の檀和之が林邑を討った」の「二十二年」は、『南史』に「二十三年」となっている。『宋書』文帝紀では、この事は元嘉二十三年六月に置かれている。
大臣䓯僧達諫「諫」下南監本、局本有「止之」二字。
「大臣の䓯僧達が諫めた」の「諫」の下に、南監本・局本には「止之」の二字がある。
4范当根純の簒奪
楊邁子孫相傳為王,未有位號。夷人范當根純攻奪其國,篡立為王。永明九年,遣使貢獻金簟等物。詔曰:「林邑(蟲)〔雖〕介在遐外,世服王化。當根純乃誠款到,率其僚職,遠績克宣,良有可嘉。宜沾爵號,以弘休澤。可持節、都督緣海諸軍事、安南將軍、林邑王。」范楊邁子孫范諸農率種人攻當根純,復得本國。十年,以諸農為持節、都督緣海諸軍事、安南將軍、林邑王。建武二年,進號鎮南將軍。永泰元年,諸農入朝,海中遭風溺死,以其子文款為假節、都督緣海軍事、安南將軍、林邑王。
陽邁の子孫が代々伝えて王となったが、位の号はなかった。夷人の范当根純がその国を攻め取り、簒奪して王となった。永明九年、使者を遣わして金の敷物などの品を献じた。詔に「林邑は遠い外にあるとはいえ、代々王の教化に服してきた。当根純は誠が至り、その官僚を率いて遠くから功績をあらわしたので、まことに嘉すべきである。爵号を与えて美しい恵みを広めるのがよいから、持節・都督縁海諸軍事・安南将軍・林邑王としてよい」とあった。
范陽邁の子孫である范諸農が同族の者を率いて当根純を討ち、本国を取り戻した。十年、諸農を持節・都督縁海諸軍事・安南将軍・林邑王とした。建武二年、鎮南将軍に号を上げた。永泰元年、諸農が入朝する途中、海で風に遭って溺れ死んだので、その子の文款を仮節・都督縁海軍事・安南将軍・林邑王とした。
夾注 2
夷人范當根純攻奪其國張森楷校勘記云:「梁書、南史並云扶南王子當根純,事在晉末,與此敘於永明元年者不同。」
「夷人の范当根純がその国を攻め取った」 — 張森楷の校勘記に「『梁書』と『南史』はどちらも扶南の王子当根純とし、事は晋の末にあるとしているので、ここで永明元年に編次したのとは同じでない」とある。本文では永明九年となっている。― 訳者
林邑(蟲)〔雖〕介在遐外各本作「林邑蠢爾,介在遐外」,元龜九百六十三作「林邑雖分當作介在遐外」。按詔賜林邑王爵號,不當引用「蠢爾」語,且下詔報扶南國王,亦有「彼雖介在遐陬」語,明「蟲」乃「雖」字之譌,今據元龜改。
「林邑は(蟲)〔たとえ〕遠い外にあっても」 — どの版本も「林邑蠢爾、介在遐外」となっており、『冊府元亀』九百六十三には「林邑は遠い外にあるとはいえ」となっている。林邑王に爵号を与える詔に「うごめく者ども」という語を引いて使うはずがなく、また下の扶南国王に答えた詔にも「彼らは遠い隅にあるとはいえ」という語があるので、「蟲」が「雖」の字の誤りであることは明らかであるから、『冊府元亀』によって改めた。
5林邑の風俗
晉建興中,日南夷帥范稚奴文數商賈,見上國制度,教林邑王范逸起城池樓殿。王服天冠如佛冠,身被香纓絡。國人凶悍,習山川,善鬬。吹海蠡為角。人皆裸露。四時暄暖,無霜雪。貴女賤男,謂師君為婆羅門。羣從相姻通,婦先遣娉求婿。女嫁者,迦藍衣橫幅合縫如井闌,首戴花寶。婆羅門牽婿與婦握手相付,呪願吉利。居喪剪髮,謂之孝。燔尸中野以為葬。遠界有靈鷲鳥,知人將死,集其家食死人肉盡,飛去,乃取骨燒灰投海中水葬。人色以黑為美,南方諸國皆然。區栗城建八尺表,日影度南八寸。
晋の建興の年間、日南の夷の首長である范稚の奴である文が、たびたび商いに出て上国の制度を見、林邑王の范逸に教えて城や堀、楼や殿を造らせた。王は天の冠を仏の冠のようにかぶり、身に香の瓔珞をまとう。国の人は荒く強く、山や川に慣れていて戦いがうまい。海の法螺を吹いて角笛とする。人はみな裸である。四季が暖かく、霜も雪もない。女を貴び男を賤しみ、師君を婆羅門と呼ぶ。同族どうしで婚姻し、嫁の側が先に結納を送って婿を求める。女が嫁ぐときは迦藍衣を着るが、幅を横に当てて井戸の欄のように縫い合わせ、頭に花の宝を載せる。婆羅門が婿を引いて嫁と手を握らせ、互いに託させて、吉く利あれと祈る。喪に遭えば髪を切ることを孝という。屍を野で焼くことを葬りとする。遠い境に霊鷲鳥がいて、人が死にそうなのを知ってその家に集まり、死んだ人の肉をすべて食べて飛び去ると、そこで骨を取って焼き、灰を海に投げて水葬とする。人の色は黒いのを美しいとし、南方の諸国はみなそうである。区栗城に八尺の表を立てると、日の影が南に八寸を越える。
夾注 1
謂師君為婆羅門「師君」南監本、局本作「師巫」。
「師君を婆羅門と呼ぶ」の「師君」は、南監本・局本に「師巫」となっている。
6西南へ三千里
自林邑西南三千餘里,至扶南。
林邑から西南へ三千余里行くと、扶南に至る。
7扶南国の由来
扶南國,在日南之南大海西(蠻)〔灣〕中,廣袤三千餘里,有大江水西流入海。其先有女人為王,名柳葉。又有激國人混填,夢神賜弓一張,教乘舶入海。混填晨起於神廟樹下得弓,即乘舶向扶南。柳葉見舶,率眾欲禦之。混填舉弓遙射,貫船一面通中人。柳葉怖,遂降。混填娶以為妻。惡其裸露形體,乃疊布貫其首。遂治其國。子孫相傳。
扶南国は日南の南、大海の西の湾の中にあり、広さは三千余里で、大きな川が西に流れて海に入る。その昔、女が王となり、名は柳葉であった。また激国の人である混塡が、夢に神が弓一張を与えて、船に乗って海に出よと教えた。混塡は明け方に起きて神廟の木の下で弓を得、すぐに船に乗って扶南へ向かった。柳葉は船を見て衆を率いて防ごうとしたが、混塡が弓を挙げて遠くから射ると、矢は船の片側を貫いて中の人まで当てた。柳葉は怖れてついに降り、混塡は彼女を迎えて妻とした。体を裸にしているのを嫌って、重ねた布をその頭に通させた。こうしてその国を治め、子孫が代々伝えた。
夾注 4
在日南之南大海西(蠻)〔灣〕中據南監本及御覽七百八十六引改。
「日南の南、大海の西の(蠻)〔湾(灣)〕の中にある」は、南監本と『御覧』七百八十六の引用によって改めた。
夢神賜弓一張「一張」各本並作「二張」。
「夢に神が弓一張を与えた」の「一張」は、どの版本にも「二張」となっている。
混填娶以為妻「娶」殿本作「遂」。
「混塡が迎えて妻とした」の「娶」は、殿本に「遂」となっている。
乃疊布貫其首「乃」下御覽七百八十六引有「穿」字。按通典邊防典亦有「穿」字。
「そこで重ねた布をその頭に通させた」の「乃」の下に、『御覧』七百八十六の引用には「穿」の字がある。『通典』辺防典にも「穿」の字がある。
8范尋までの骨肉の争い
至王槃況死,國人立其大將范師蔓。蔓病,姊子旃(慕)〔篡〕立,殺蔓子金生。十餘年,蔓少子長襲殺旃,以刃鑱旃腹曰:「汝昔殺我兄,今為父兄報汝。」旃大將范尋又殺長,國人立以為王,是吳、晉時也。晉、宋世通職貢。
王の槃況が死ぬと、国の人はその大将である范師蔓を立てた。師蔓が病むと、姉の子の旃が簒奪して立ち、師蔓の子の金生を殺した。十余年の後、師蔓の末の子の長が旃を襲って殺し、刃で旃の腹を刺して「おまえは昔わたしの兄を殺した。いま父と兄のためにおまえに報いる」と言った。旃の大将である范尋がまた長を殺したので、国の人は彼を立てて王とした。これは呉と晋の時のことである。晋と宋の世に職貢を通じた。
夾注 1
姊子旃(慕)〔篡〕立據南史改。按旃名下屢見,不作「旃慕」,明「慕」乃「篡」字之形譌。
「姉の子の旃が(慕)〔簒奪して〕立った」は『南史』によって改めた。旃という名が下に何度も出てくるが「旃慕」とはなっていないので、「慕」が「篡」の字と形が似て生じた誤りであることは明らかである。
9那伽仙が漂流する
宋末,扶南王姓僑陳如,名闍耶跋摩,遣商貨至廣州。天竺道人那伽仙附載欲歸國,遭風至林邑,掠其財物皆盡。那伽仙閒道得達扶南,具說中國有聖主受命。
宋の末、扶南王は姓が僑陳如、名が闍耶跋摩で、商いの荷を広州に送った。天竺の道人である那伽仙がその船に便乗して自分の国へ帰ろうとしたが、風に遭って林邑に至り、その財物をすべて奪われた。那伽仙は裏道をたどってやっと扶南に至り、中国に聖主が天命を受けたことを詳しく語った。
10扶南王の表
永明二年,闍耶跋摩遣天竺道人釋那伽仙上表稱扶南國王臣僑陳如闍耶跋摩叩頭啟曰:「天化撫育,感動靈祇,四氣調適。伏願聖主尊體起居康(御)〔豫〕,皇太子萬福,六宮清休,諸王妃主內外朝臣普同和睦,隣境士庶萬國歸心,五穀豐熟,災害不生,土清民泰,一切安穩。臣及人民,國土豐樂,四氣調和,道俗濟濟,竝蒙陛下光化所被,咸荷安泰。」又曰:「臣前遣使齎雜物行廣州貨易,天竺道人釋那伽仙於廣州因附臣舶欲來扶南,海中風漂到林邑,國王奪臣貨易,并那伽仙私財。具陳其從中國來此,仰序陛下聖德仁治,詳議風化,佛法興顯,眾僧殷集,法事日盛,王威嚴整,朝望國軌,慈愍蒼生,八方六合,莫不歸伏。如聽其所說,則化隣諸天,非可為喻。臣聞之,下情踊悅,若蹔奉見尊足,仰慕慈恩,澤流小國,天垂所感,率土之民,竝得皆蒙恩祐。
永明二年、闍耶跋摩は天竺の道人である釈那伽仙を遣わして表を上げた。「扶南国王の臣僑陳如闍耶跋摩は頭を下げて申し上げます。天の教化が撫でて育まれるので、神霊が感じ動き、四季の気がととのっています。伏してお願いいたします、聖主の御体は起き臥しも安らかであり、皇太子は万福であり、六宮は清く安らかであり、諸王や妃や公主、内外の朝臣があまねく和睦し、隣の境の士や民、万国が心を寄せ、五穀が豊かに熟して災害が起こらず、土地が清く民が泰らかで、一切が安穏でありますように。臣も人民も国土も豊かで楽しく、四季の気がととのっていて、道の人も俗の人も数多く、みな陛下の輝く教化に覆われて、ともに安泰にあずかっております。」
また申し上げた。「臣は先に使者を遣わして雑多な品を載せ、広州へ行って交易させましたが、天竺の道人である釈那伽仙が広州で臣の船に便乗して扶南へ来ようとしたところ、海で風に流されて林邑に至り、その国の王が臣の交易の品と、那伽仙の私財までも奪いました。那伽仙は中国からここへ来た次第を詳しく申し述べ、陛下の聖徳と仁の政をあおぎ述べて、風俗と教化を詳しく論じ、仏法が興って輝き、僧たちが盛んに集まって法事が日ごとに盛んであり、王の威厳は厳正で、朝廷の名望と国の法度は蒼生をあわれみ、八方六合に帰服しないものがないと申します。その言うとおりであれば、教化が諸天に隣することはたとえようもありません。臣はこれを聞いて心の内が躍るように喜び、しばしでも尊い御足にお目にかかったようで、慈しみの恵みをあおぎ慕っておりますので、恵みが小さな国に流れ、天が垂れて感応されるならば、国中の民がみな恵みと助けを受けられますようにと願います。
夾注 1
伏願聖主尊體起居康(御)〔豫〕據南監本改。
「伏して願います、聖主の尊体の起き臥しが康(御)〔豫〕でありますように」は、南監本によって改めた。
11林邑を討ってほしい
是以臣今遣此道人釋那伽仙為使,上表問訊奉貢,微獻呈臣等赤心,并別陳下情。但所獻輕陋,愧懼唯深。伏願天慈曲照,鑒其丹款,賜不垂責。」又曰:「臣有奴名鳩酬羅,委臣(免)〔逸〕走,別在餘處,構結兇逆,遂破林邑,仍自立為王。永不恭從,違恩負義,叛主之諐,天不容載。伏尋林邑昔為檀和之所破,久已歸化。天威所被,四海彌伏,而今鳩酬羅守執奴兇,自專很彊。且林邑扶南隣界相接,親又是臣奴,猶尚逆去,朝廷遙遠,豈復遵奉。此國屬陛下,故謹具上啟。伏聞林邑頃年表獻簡絕,便欲永隔朝廷,豈有師子坐而安大鼠。伏願遣軍將伐兇逆,臣亦自効微誠,助朝廷剪撲,使邊海諸國,一時歸伏。陛下若欲別立餘人為彼王者,伏聽勑旨。脫未欲灼然興兵伐林邑者,伏願特賜勑在所,隨宜以少軍助臣,乘天之威,殄滅小賊,伐惡從善。
そこで臣はいまこの道人である釈那伽仙を使者として、表を上げてご機嫌をうかがい、貢ぎ物を奉り、臣らの赤い心をわずかながらあらわし、あわせて下々の事情を別に申し上げます。ただ献じるものが軽く粗末で、恥ずかしさと恐れが深いばかりです。伏してお願いいたします、天のような慈しみをもって屈んで照らし、その誠をご覧になり、退けずにいてくださいますように。」
また申し上げた。「臣に鳩酬羅という奴がおりましたが、臣を見捨てて逃げ去り、別の所で凶悪な反逆を構え、ついに林邑を破って自ら立って王となりました。いつまでも恭順せず、恩を裏切り義に背きましたので、主に背いた罪は天も容れないところです。伏して考えますに、林邑は昔、檀和之に破られてから、久しく前に帰化しております。天の威の及ぶところ、四海があまねく服しているのに、いま鳩酬羅は奴の凶悪さを自ら守り、ほしいままに強がっております。そのうえ林邑と扶南は境が接しており、縁からいっても臣の奴でありながら、なお背いて去りましたので、朝廷が遥かに遠いからといって、どうして改めて奉じましょうか。この国は陛下に属しますので、謹んで具えて申し上げます。伏して聞きますに、林邑は近年、表と献上が途絶えて、朝廷と永く隔たろうとしているとのこと、どうして獅子の座に座って大きな鼠を安んじておけましょうか。伏してお願いいたします、軍将を遣わして凶悪な逆賊を討ってください。臣も自ら小さな誠を尽くして、朝廷が討ち払うのを助け、海辺の諸国が一度に帰服するようにいたします。陛下がもし別の者を立ててその国の王とされたいのであれば、伏して勅旨に従います。もしまだはっきりと兵を起こして林邑を討つおつもりがないのであれば、伏してお願いいたします、特にその地に勅命を下され、よろしきに従って少しの軍で臣をお助けくだされば、天の威に乗じて小さな賊を滅ぼし、悪を討って善に従わせます。
夾注 2
委臣(免)〔逸〕走據殿本、局本改。按南監本作「逃」。
「臣を見捨てて(免)〔逃げ(逸)〕去り」は、殿本・局本によって改めた。南監本には「逃」となっている。
親又是臣奴「又」各本譌作「人」。
「縁(親)からいっても臣の奴でありながら」の「又」は、どの版本にも「人」と誤っている。
12献じた品々
平蕩之日,上表獻金五婆羅。今輕此使送臣丹誠,表所陳啟,不盡下情。謹附那伽仙并其伴口具啟聞。伏願愍所啟。并獻金鏤龍王坐像一軀,白檀像一軀,牙塔二軀,古貝二雙,瑠璃蘇鉝二口,瑇瑁檳榔柈一枚。」
平定する日には、表を上げて金五婆羅を献じます。いまこの使者に軽々しく臣の丹誠を託しますが、表に申し上げたことでは下々の事情を尽くせません。謹んで那伽仙とその一行の口に託して、具えて申し上げます。伏してお願いいたします、申し上げたことをあわれんでください。あわせて金鏤龍王坐像一軀、白檀像一軀、牙塔二軀、古貝二双、瑠璃の蘇鉝二口、瑇瑁の檳榔盤一枚を献じます。」
13摩醯首羅の天神と詔
那伽仙詣京師,言其國俗事摩䤈首羅天神,神常降於摩躭山。土氣恒暖,草木不落。其上書曰:「吉祥利世閒,感攝於羣生。所以其然者,天感化緣明。仙山名摩躭,吉樹敷嘉榮。摩䤈首羅天,依此降尊靈。國土悉蒙祐,人民皆安寧。由斯恩被故,是以臣歸情。菩薩行忍慈,本迹起凡基。一發菩提心,二乘非所期。歷生積功業,六度行大悲。勇猛超劫數,財命捨無遺。生死不為猒,六道化有緣。具脩於十地,遺果度人天。功業既已定,行滿登正覺。萬善智圓備,惠日照塵俗。眾生感緣應,隨機授法藥。佛化遍十方,無不蒙濟擢。皇帝聖弘道,興隆於三寶。垂心覽萬機,威恩振八表。國土及城邑,仁風化清皎。亦如釋提洹,眾天中最超。陛下臨萬民,四海共歸心,聖慈流無疆,被臣小國深。」詔報曰:「具摩䤈降靈,流施彼土,雖殊俗異化,遙深欣讚。知鳩酬羅於彼背叛,竊據林邑,聚兇肆掠,殊宜剪討。彼雖介遐(休)〔陬〕,舊脩蕃貢,自宋季多難,海譯致壅,皇化惟新,習迷未革。
那伽仙は都に至り、その国の風俗は摩醯首羅の天神を奉じていて、神は常に摩躭山に降り、土地の気は常に暖かく草木が落ちないと語った。その書に申し上げるには —
「吉祥が世間を利して、もろもろの生きるものを包み摂られますが、そうであるわけは、天の感化の縁が明らかだからです。仙の山の名は摩躭、吉い木が美しく咲き、摩醯首羅天がここに依って尊い霊を降されるので、国土はみな助けを受け、人民はみな安寧です。この恵みを受けたので、臣は心を寄せます。菩薩は忍と慈を行い、本の跡を凡夫の基から起こしますが、ひとたび菩提心を発せば、二乗は期するところではありません。生を重ねて功業を積み、六度によって大悲を行い、勇猛さは劫数を超えて、財も命も残さず捨てます。生き死にを厭わず、六道の縁あるものを教化し、十地を具えて修め、残した果によって人と天を渡します。功業がすでに定まり、行が満ちて正覚に登れば、万の善と智が円く備わり、智慧の日が塵の俗を照らします。衆生が縁に応じて感ずれば、機に随って法の薬を授けられるので、仏の教化は十方に遍く、救い上げられないものはありません。皇帝は聖らかに道を広め、三宝を興隆され、心を垂れて万機をご覧になるので、威と恩が八方に振るいます。国土と城邑に仁の風が清く明らかなのは、また帝釈天が諸天の中で最も優れているのと同じです。陛下が万民に臨まれるので、四海がともに心を寄せ、聖らかな慈しみが限りなく流れて、臣の小さな国にも深く及んでおります。」
詔して答えた。「摩醯が霊を降し、その土に施しを流していることを具えて聞いた。風俗は違い教化は異なっても、遠くから深く喜び讃える。鳩酬羅がそこで背き、林邑を盗み据えて凶悪な者を集めてほしいままに掠めていることを知ったが、まことに討ち取るのがよい。彼らは遠い隅にあるとはいえ、古くは藩の貢ぎを修めてきたが、宋の末の多難から海の通訳が塞がり、皇の教化が新たになっても、迷いに染まってまだ改めていないのである。
夾注 1
雖介遐(休)〔陬〕據南監本、毛本、殿本、局本改。
「遠い(休)〔隅(陬)〕にあるとはいえ」は、南監本・毛本・殿本・局本によって改めた。
14文徳で来させよう
朕方以文德來遠人,未欲便興干戈。王既欵列忠到,遠請軍威,今詔交部隨宜應接。伐叛柔服,寔惟國典,勉立殊效,以副所期。那伽仙屢銜邊譯,頗悉中土闊狹,令其具宣。」上報以絳紫地黃碧綠紋綾各五匹。
朕はいま文徳によって遠い人を来させようとしているので、まだ干と戈を起こしたくはない。王はすでに忠誠を誠をもって申し述べ、遠くから軍の威を請うたので、いま交部に詔を下して、よろしきに従って応接させる。背いた者を討ち、服する者をいたわるのは、まことに国の法であるから、努めて格別の功を立てて、期するところに副うようにせよ。那伽仙はたびたび辺境の通訳を務めて、中国の事情をかなり知り尽くしているので、彼に詳しく伝えさせる。」絳紫の地と黄・碧緑の紋の綾、それぞれ五匹で返礼した。
15扶南の風俗
扶南人黠惠知巧,攻略傍邑不賓之民為奴婢,貨易金銀綵帛。大家男子截錦為橫幅,女為貫頭,貧者以布自蔽。鍜金鐶鏆銀食器。伐木起屋,國王居重閤,以木柵為城。海邊生大箬葉,長八九尺,編其葉以覆屋。人民亦為閣居。為船八九丈,廣裁六七尺,頭尾似魚。國王行乘象,婦人亦能乘象。鬪鷄及狶為樂。無牢獄,有訟者,則以金指鐶若鷄子投沸湯中,令探之,又燒鎖令赤,著手上捧行七步,有罪者手皆燋爛,無罪者不傷。又令沒水,直者入即不沈,不直者即沈也。有甘蔗、諸蔗、安石榴及橘,多檳榔,鳥獸如中國。人性善,不便戰,常為林邑所侵擊,不得與交州通,故其使罕至。
扶南の人は賢く知恵があって巧みで、傍らの邑の服さない民を攻めて奴婢とし、金銀や彩りの絹を交易する。大きな家の男は錦を裁って横幅の衣とし、女は頭を通す衣を着て、貧しい者は布で身を覆う。金の輪や腕輪、銀の食器を打ち出して作る。木を伐って家を建てるが、国王は重ねた閣に住み、木の柵を城とする。海辺に大きな箬の葉が生え、長さが八、九尺あるので、その葉を編んで屋根を覆う。人民も高い床の閣に住む。船は長さ八、九丈、幅六、七尺に裁ち、頭と尾が魚に似ている。国王は出かけるときに象に乗り、婦人も象に乗ることができる。鶏や豚を闘わせて楽しみとする。
牢獄がなく、訴えのある者があれば、金の指輪か鶏の卵を煮え立つ湯に投げ入れて探らせ、また鎖を焼いて赤くし、手の上に載せて七歩歩かせるので、罪のある者は手がみな焼けただれ、罪のない者は傷つかない。また水に沈めさせるが、正しい者は入っても沈まず、正しくない者はすぐに沈む。
甘蔗やもろもろの蔗、石榴や橘があり、檳榔が多く、鳥や獣は中国と同じである。人の性は善く、戦いに不慣れで、常に林邑に侵し撃たれ、交州と通じることができないので、その使者はまれにしか至らない。
16交州の反乱
交州斗絕海島,控帶外國,故恃險數不賓。宋泰始初,刺史張牧卒,交趾人李長仁殺牧北來部曲,據交州叛,數年病死,從弟叔獻嗣事,號令未行,遣使求刺史。宋朝以南海太守沈煥為交州刺史,以叔獻為煥寧遠司馬、武平新昌二郡太守。叔獻得朝命,人情服從,遂發兵守險不納煥,煥停鬱林病卒。太祖建元元年,仍以叔獻為交州刺史,就安慰之。叔獻受命,既而斷割外國,貢獻寡少。世祖欲討之,永明三年,以司農劉楷為交州刺史,發南康、廬陵、始興郡兵征交州。叔獻聞之,遣使願更申數年,獻十二隊純銀兜鍪及孔雀毦,世祖不許。叔獻懼為楷所襲,間道自湘川還朝。
交州は海の島にぽつりと離れて、外国を引き寄せて囲っているので、険しさを頼んでたびたび服さなかった。宋の泰始の初め、刺史の張牧が死ぬと、交趾の人である李長仁が、張牧が北から連れてきた部曲を殺し、交州を押さえて背いたが、数年で病んで死に、従弟の叔献が事を継いだ。しかし号令が行き渡らないので、使者を遣わして刺史を求めた。宋朝は南海太守の沈煥を交州刺史とし、叔献を沈煥の寧遠司馬・武平新昌二郡太守とした。叔献は朝廷の命を受けて人心が従うようになると、ついに兵を出して険しい所を守り、沈煥を受け入れなかったので、沈煥は鬱林に留まって病で死んだ。
太祖の建元元年、そのまま叔献を交州刺史として安心させた。叔献は命を受けながら、やがて外国との道を断ち、貢ぎ物がまれで少なくなった。世祖が討とうとして、永明三年、司農の劉楷を交州刺史とし、南康・廬陵・始興郡の兵を起こして交州を征討した。叔献はこれを聞いて使者を遣わし、もう数年延ばしてほしいと願い、純銀の兜十二そろいと孔雀の羽飾りを献じたが、世祖は許さなかった。叔献は劉楷に襲われるのを怖れて、裏道から湘川を経て朝廷に帰った。
夾注 1
永明三年以司農劉楷為交州刺史「三」字原闕,今據元龜六百九十八補。「三年」各本並作「元年」。按武帝紀,永明三年春正月,以大司農劉楷為交州刺史,則元龜作「三年」是。
「永明三年、司農の劉楷を交州刺史とした」の「三」の字はもともと欠けていたので、『冊府元亀』六百九十八によって補った。「三年」は、どの版本も「元年」となっている。武帝紀を見ると、永明三年の春正月に大司農の劉楷を交州刺史としているので、『冊府元亀』の「三年」が正しい。
17本ばかり読んでいた刺史
六年,以始興太守房法乘代楷。法乘至鎮,屬疾不理事,專好讀書。長史伏登之因此擅權,改易將吏,不令法乘知。錄事房季文白之,法乘大怒,繫登之於獄。十餘日,登之厚賂法乘妹夫崔景叔得出,將部曲襲州執法乘,謂之曰:「使君既有疾,不宜勞。」囚之別室。法乘無事,復就登之求書讀,登之曰:「使君靜處猶恐動疾,豈可看書。」遂不與。乃啟法乘心疾動,不任視事,世祖仍以登之為交州刺史。法乘還至嶺而卒。法乘,清河人。昇明中,為太祖驃騎中兵,至左中郎將。性方簡,身長八尺三寸,行出人上,常自俯屈。青州刺史明慶符亦長與法乘等,朝廷唯此二人。
六年、始興太守の房法乗が劉楷に代わった。法乗は任地に至ると病で事を執らず、ひたすら本を読むことだけを好んだ。長史の伏登之はこれに乗じて権力をほしいままにし、将や役人を入れ替えながら、法乗に知らせなかった。録事の房季文がこれを申し出ると、法乗は大いに怒って登之を獄につないだ。十余日のち、登之は法乗の妹の夫である崔景叔に厚く賄賂を贈って出ると、部曲を率いて州を襲い、法乗を捕らえてこう言った。「使君はすでに病がおありですから、ご苦労なさってはなりません。」そして別の部屋に閉じ込めた。法乗はすることがなくて、また登之に本をくれと求めたが、登之は「使君は静かにしていらしても病が動くのが心配です。どうして本をご覧になれましょう」と言って、とうとう与えなかった。そこで法乗の心の病が動いて事を執れないと申し上げたので、世祖はそのまま登之を交州刺史とした。法乗は帰る途中、峠に至って死んだ。
法乗は清河の人である。昇明の年間に太祖の驃騎中兵となり、左中郎将に至った。性は方正で簡素であり、身の丈が八尺三寸で、歩けば人の上に出るので、常に自ら身をかがめていた。青州刺史の明慶符も丈が法乗と同じで、朝廷にはただこの二人だけであった。